32. 桜の世界
トンネルに入って暗闇の中、闇雲にただまっすぐ前に進む。隣にユウの気配を感じながら。
程なくして、急に真っ白な眩い光に襲われた。
「――うッ!………………」
目を焼く光に目を閉ざす。
徐々に明るさに目が慣れていき、私は薄目を開いた。
「――――ッ!?」
思わず息を呑んだ。視界に飛び込んできたのは満開の桃色だった。
薄いピンクや濃いピンクの花弁を満開に咲かせた桜の木が周囲を取り囲む。昼の日差しに照らされて、程よく暖かい空気に包まれている。穏やかな明るい世界。
隣には私と同じく桜に見惚れているユウが。振り返ると私たちが入ったトンネルが暗い大口を開けていた。変わらず草木やツタに覆われている。
「おかしい。蕪山に生えてるのは桜の木じゃない。秋に紅葉してたし」
「一応桜の木も紅葉するらしいけどな。桜紅葉とか言って。でもまぁ、こっちの世界だし何でもありなんだろ」
ユウはいつの間に私より博識になったんだ。私が本ばっか読ませてたから?
こんな時なのに、なんだか悔しくなった。
「ねぇ、ユウ。コマルちゃんたちも近くにいるのかな?」
おそらく何でも知っているであろう博識のユウに尋ねてみた。
「いや、多分もういない。俺たちがいる今よりだいぶ前にここに着いてると思う。現世よりここの方が時間の流れが早い、というか時間の幅が広い」
「そっか、そうなんだ…………」
「…………でも、多分みんなも、俺たちと同じようにこの桜の景色を眺めたはず」
ユウがもう一度周囲の桜に目を移した。
みんなもこの景色を見た。その言葉に、私の心は温まった。
「マナ。じゃあさっそく、夕蛇様のとこに行こう。あの寺にいるから。ついて来て」
「うん」
「あ、あと、これが今から夕蛇様に貰いに行く『許蛇の短刀』。これは俺の分ね」
ユウは振り返って、いつの間にか背中に背負っていた刀を見せてくれた。脇差しくらいの短めの刀だ。
それから私たちは夕蛇様のいる寺、御這光寺に向かった。桜の中の山道を進んで、すぐに人工物の地下通路に着いた。山の斜面に掘った穴に石レンガを積んで造られている。御這光寺の境内に直接出られる地下通路だ。以前、皆で紅葉を見に来た時、黒い影に追われて一度通った。
地下通路は相変わらず落ち葉が大量に堆積していて、上の方には蜘蛛の巣が張っている。そして昼でも薄暗い。
通路を抜け、階段を上がった。再び包むような日差しに照らされる。
綺麗な真新しい境内に着いた。迷わず本堂の方を見ると障子が開いており――――本堂の中には夕蛇様がいた。
白く長い髪の着物。以前と同じように座布団の上に座り、膝を崩して肘掛けに体を預けている。以前と違うのは周りに大勢いた白い幽霊が誰一人としていないということと、暗闇の真夜中ではなく明るい昼間ということだけだ。
私はユウと顔を見合わせ、覚悟を決めて夕蛇様の前に進み出た。
夕蛇様は黙って私たちを見ている。表情は硬い。睨みつけているように見えるし、冷ややかな怒気を内に隠しているようにも見える。いつもの余裕のある笑みの夕蛇様とは違う。こんな顔は初めて見た。
私は内側からじわじわと溢れてくる恐怖を抑えて口を開いた。
「あの、夕蛇様…………。お願いがあります」
「どうした? 我と誓約を結ぶ気になったか?」
誓約とは、夕蛇様が私の人生を支援してくれるものだ。その代わり、私は一生他人と関わらずに独りで生きていくことになる。
当然私は誓約を結びに来たわけではない。それは多分、夕蛇様も理解してる。
「違います。その…………許蛇の短刀をいただきたくて、ここに来ました」
夕蛇様は首を捻った。
「おかしいのう。許蛇の短刀はこれから死にゆく幽霊にしか必要ないはずじゃ。其方にはいらないものじゃ」
「私、死にますから」
夕蛇様の表情が変わった。明らかに、誰にでもわかるように。隠すつもりもない不愉快と憤怒の顔だ。
表情以外は体勢すら変えずに、冷静な口調のまま続ける。
「たしかに、トンネルを通って着いたこの空間で死んだ人間は幽霊に、我が生み出した幽霊として世界に留まることになる。そして消滅の日である今日。其方が持っているものと短刀を用いれば消滅を迎える。それが目的なのじゃろう――――――何故じゃ? 何故自ら命を断とうとする」
「ユウと一緒に消えたいから」
「――ッ……………………」
夕蛇様は言葉に詰まった。
「其方は、生きていくのに行き辛さを感じることも多かろう。じゃが、我が、其方の人生を豊かにしてやれると言っているんだ。我の力を信じていないわけではないじゃろう?」
徐々に夕蛇様の声色に熱がこもってくる。焦りと怒り、それと理解できないことへの不安の色。私自身がよく知っている感情だ。
「夕蛇様の力は信じてます。でも私、気づいたんです。実は私が追っていた夢っていうのは、無理にでも生きていくための人生の枷みたいな、呪いみたいなものだったって。だから夢を叶えても、私の心は満たされるはずもありません。本当はもう、死にたいって思ってました」
「…………夢が枷でも呪いでも構わないじゃろう。生きていることに価値がある。生きていれば楽しいことも、幸せなこともある。どんな形であれ、夢を追うことは尊いことじゃ」
「私が尊いと思うことは、ユウと一緒に世界から消えることです。私が画家になったとしても、それからずっと独りで生きていって楽しいと思いますか? 幸せだと思いますか?」
「寂しくなったら我に会いに来い。それに他に心を許せる幽霊が現れるかもしれない」
「私はユウと一緒がいいんです。ここで死ぬのを逃したらずっと後悔します。仮に未来で幸せになれる可能性があったとしても、今日死んでしまえばそんな未来はないのと同じだから後悔はありません。今の願いの方が大事なんです」
夕蛇様が肘掛けから体を離して胡座になった。
「ユウ、其方が唆したのか?」
夕蛇様の赤い眼の標的がユウに変わった。
「俺は何も。全てマナの判断です。俺はマナには生きていてほしいと思ってたけどこれがマナの出した答えなら、俺はマナの想いを尊重します。それに、マナが俺に向けてくれる感情が、素直に嬉しいから。こんなに人に想われたのは初めてだし、今までの人生で今が一番、気持ちが満たされてる」
「……………………」
再び言葉を詰まらせる夕蛇様。
「生きることから逃げるというのかッ?」
もう声にも冷静さを保つ余裕はない。
「我は認めぬ。今すぐトンネルに戻れ。我が現世に帰してやる…………さあ、帰れッ!!」
断固として私の主張を拒否する夕蛇様。
「私の命なのに、私の人生の終わりは私が決めては駄目なんですか?」
「………………」
夕蛇様は目蓋を閉じた。これ以上話をする気もないみたいだ。完全に私の意思を拒絶している。
もう、どうすることもできないのか………………
――杏おばあちゃんの言葉を思い出した。理屈よりも、感情で訴えてみよう。
「生きることから逃げるというのは違います。私は今、自分の信念のために死を選んでいるんです。私に必要だったのは生きるための理由じゃなくて、自分の大切なことのために死ぬ理由でした」
夕蛇様は眉一つ動かさない。
「ただ生きていたいんじゃない。それよりも、私は大切な人と一緒に最期を迎えたい。人生の終わり方は自分で決めたい」
夕蛇様が小さくため息をこぼした。私の声はたしかに届いている。
「私が自殺を選んだのは……………………。夕蛇様は生きていることが素晴らしいと仰っていたけど、私は今日死んだほうが――――――私の人生は美しいと思ったから――――」
夕蛇様が反応した。目を開き、顔を上げ、私を見つめる。
「…………そんな理由か?」
「突き詰めれば案外そんな理由かもしれません。生きる理由も死ぬ理由も」
私は思わず苦笑を漏らした。命というものがあまりにも大したことのないものに思えて。今までの人生の苦痛も、あまりにも安いもののような気がして。
「私の主張は多分、あなたの想いや信念を踏みにじるものだけど、というか今も踏みにじっているんだろうけど………………どうか、赦してください」
夕蛇様の姿勢は変わらない。
「…………其方、他人の感情を理解できるようになったか」
「人間のはわからないですけど、幽霊とかなら。最近は」
再び俯いて思考する素振りを見せる夕蛇様。私とユウは長らく待ち続け、やがて夕蛇様が口を開く。
「駄目だ。其方に許蛇の短刀は渡せぬ。其方に信念があるように、我にも曲げられぬ信念がある。其方に短刀を授けたら、今日までの我の存在意義を否定することになるからのう」
「そう、ですか………………」
言葉が出なかった。ここまで訴えかけて無理ならもう何を言っても無駄だ。でも、それが当然だろう。意思ある者の信念が、他人の言葉で容易く変えられるはずもない。
「マナ」
隣のユウが私を呼んだ。
「マナ、短刀は俺が持ってる一本を2人で使おう。当然2本あった方がいいけど、最悪それでもいいって考えたんだ」
「え、でも、それで成立するの?」
私の疑問に今度は夕蛇様が答えた。
「理論上可能じゃ。我は許さぬが、止めもせぬ。どんな手を使ってでもやめさせようと思っておったが、もうどうでもよい。勝手にするがいい」
完全に諦め宣言の夕蛇様。体が重く具合が悪そうで、顔色も優れない。彼女は再び肘掛けに体を預けた。
「話は終わりじゃ」
彼女が言い放つと同時に、本堂の障子がピシャリと勢いよく閉まった。これ以上の立ち入りを一切禁止する結界の如く。
一瞬、一切の音がしない静寂に包まれた。
「ユウ」
「ああ、行こうか」
ユウは春の日差しの下、穏やかに微笑んだ。
2人で蕪山の山道を下った。桜の木に覆われた山を下り、麓に着く。何度も見た慰霊碑の横を通り過ぎた。
景色が開けて見晴らしがよくなったところで足を止める。
快晴の青空が広がる。空気は穏やかで暖かい、ちょうど過ごしやすい気温。
慰霊碑の先に広がる廃れた集落は草木に包まれていた。屋根からも壁のヒビからも雑草が茂る。人が住まなくなった住居は新たな命の拠り所に変わっていた。
青い緑の匂いが鼻腔をくすぐる。辺りの静寂が、取り返しのつかない死の匂いを漂わせる。
ユウが短刀の柄の先端に空いた穴に、紫のひもで繋がれた小さい鈴を括り付けた。
「マナのやつも結んで」
柄を私に向けるユウ。私はポケットから鈴を取り出し、ユウを真似して取りつけた。
ユウは空を見上げている。
「見晴らしのいいところで見る空って、こんなに広かったんだなぁ」
私も上を見た。ここは現世とは違う別の世界だけど、多分現世と同じくらい広い空だ。
「窮屈な世界じゃ、空を見上げる場所も余裕もなかったからね」
私が言うと、ユウは静かに微笑んだ。
「マナ、覚悟は決まった?」
「とっくに。私はいつでもいいよ」
「怖くない?」
「ぜんぜん」
「そう。じゃあ、終わりにしよう」
ユウは舟旅の稲穂が入った麻袋を取り出すと、紐を解いて中身を口の中に流した。私も同様に、袋の中身を口の中に流し込む。2人で一緒に、喉の奥に飲み込んだ。
ユウが短刀を鞘から抜く。鋭い銀色の光沢が露わになった。
ユウの体は私を抱き包む姿勢を取り、短刀の刃の先端を私の背中に這わせた。触れ合うことのできない体で、極限まで肌を寄せ合う。
至近距離で、ユウの瞳と目が合った。世界に愛されなくて、愛情に飢えている目。その瞳の奥にはユウと似た者同士な私の目が映った。
言葉は交わさない。言葉が無くても、見つめ合うだけで互いの想いが伝わる。私たちに会話はもう必要なかった。
ユウはさらに私に近づいて、頭を私の肩の位置に置く。短刀の刃が私の背中、ちょうど胸の裏の位置に垂直に突き立てられる。そして――――――――
――――雷撃が貫いたようだった。
人体を通り抜けるにはあまりにも太すぎるそれが、私の心臓を背中側から貫いた。背中から胸にかけて貫かれた部分が酷く熱い。体全体がひとつの心臓になったみたいに、大きく脈打った。痛くて息苦しいけど、そのどちらの感覚もぼんやりと麻痺している。視界の端も靄がかかる。私に空いた穴から、ドクドクと液体が溢れ出る。
私の胸から飛び出した刃物は、そのまま目の前にいたユウの胸を貫いていた。幽霊なのに胸から血を流している。ユウの血液が刃を伝って、私の胸の傷穴に垂れてくる。それでもユウの呼吸は穏やかだった。
ユウは私から少し体を離した。
自身の心音が小さくなっていく。視覚が、痛覚が、すべての感覚がぼやける。徐々に意識が暗くなっていって、消える――――――その瞬間、急にリセットをかけられたみたいに意識が戻る。そして、
ユウの肌を、ユウの体温を全身で感じた。ユウに抱きしめられている感触がたしかに分かる。触れ合えている。私の体より少したくましくて、硬くて、包容力のある体が、私を優しく抱きしめてくれている。あらゆる感情を慰めてくれる温もりだった。
私はその感覚に応えたくて、両手をユウの背中に回す。強く、ユウの体を抱きしめる。私も、ユウの体にたしかに触れていた。
もう一度、ユウと目が合った。今度はユウの瞳には、強い愛情が映っていた。すべてを包み込んでくれるような、大人の愛情の目だ。そしてその目の奥には、そんな愛情に縋る私の瞳が映っていた。
ユウの顔が近づいてきて、唇に、柔らかいなにかが触れる。その瞬間、意図せず涙がこぼれた。感情が極まった末の雫が止めどなく頬を伝う。
――これでよかった。私の選択は間違えてなかった。
自信を持ってそう思える。
頭の中が飽和している。幸せという養分で。限界まで満たされている。
私はユウも今、同じ感覚を味わっていることを確信して、安心する。
もう何も見えない。目の前が真っ白で。
最後に残った幸福だけを胸に、安堵して、静かに意識を手放した。




