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30. 本音の奥の本音

 ――ガタガタッ


 クローゼットの中から物音がした。何がいるのか確かめるべく、私は恐る恐るクローゼットに近づいた。


 慎重に近づいて、扉の取っ手に手をかけたのと同時に、勢いよく開け放った。


 ――バタンッ!


其方(そなた)、急に開けるな。仰天したぞ」


 クローゼットの中、上段と下段に分ける真ん中の仕切り棚の上に夕蛇様が座していた。上段に置いてあった物は左右に押し退けられ、そこにちょうど座れるスペースが設けられている。


 あまりにも長い白い着物と白髪が窮屈そうに棚の上で盛られ、溢れて棚から垂れ下がっている。「仰天した」などと言っておきながら余裕綽々(しゃくしゃく)の嘲笑的な笑みを(たた)えている。黒い歯と赤い瞳は相変わらず不気味だ。


「………………なんでクローゼットの中にいるんですか? ドラえもんなんですか?」

「其方、なかなか肝が据わっておるのう」


 この光景にどこか既視感を覚えた。


「私に何か用ですか?」

「そうじゃ。其方、生きるのになかなか苦労しておるようじゃのう」

「…………余計なお世話です……」


 このヘビ様、冷やかしにでも来たのだろうか。


「そうツンツンするな。我は其方を支援するために来たのじゃ。夢に情熱を持って生きる若い人間を支えるは我の存在意義じゃからのう」

「…………若干エゴを感じますけど。具体的にどうやって支援してくれるんですか?」


 夕蛇様は天秤(てんびん)のように両手を掲げてみせると、楽しそうに口を開いた。


「我は時に関与できる存在じゃ。故に其方に、ひたすら夢を追いかけるだけで今後一生この世で生きていける『時』を授ける。その対価として、其方が今後他者と関わり他者と親密になる『時』をすべて奪う。ということが可能じゃ。この対価の方は良く言い換えれば、其方は一生他者と関わらずに生きていけるようになるということじゃ。さあ、どう思う?」


 そんな、そんなの…………


「あまりにも、私に都合が良すぎじゃないですか?」


 夕蛇様が黒い歯で不敵に笑う。


「そうじゃろう? だが、我は運命に対して平等なわけではない。『時』に対して平等なのじゃ。だから時に、都合のいい物事同士を天秤にかけられることもある」


 私にとっては、これは夢のような支援だ。しかもおそらく、夕蛇様にはこの支援は実現可能だ。


「さぁどうする? 我の申し出を受け入れるか否か。決めるのは其方自身だ」

「……………………」


 受け入れます、と即答できなかった。何か裏があるような気がして。夕蛇様の悪徳勧誘業者張りの整っていてなおかつ胡散臭い微笑みを見ていると特に。


 いや、それは言い訳かもしれない。本当の理由は…………


「すぐに答えを出さなくてもよい。我はいつでも待っておるぞ。其方が夢を愚直に追っている間はな――――誓約を結ぶ気になったら来い。我はいつでも御這光寺(おんしゃこうじ)にいる」


 言いたいことだけ一方的に言い捨てると、夕蛇様の体を白い(もや)が覆い始めた。それから程なくして靄と一緒にその姿を消した。


 誰もいなくなって妙にスペースの空いたクローゼット。静かに扉を閉めた。


 イーゼルスタンドに立てかけた描き途中の絵に向かう。椅子に座り、筆とパレットを手に取る。昨日の続きだ。


 いつもは無気力気味な私だが、今は違う。身体の内から沸々とやる気と情熱が湧き立っていた。


 夕蛇様が私に与えてくれたチャンス。夢を追い続け、叶えられる可能性。夕蛇様にはそのつもりはなかったかもしれないが、まるで私の才能に期待してくれているような気がして、そして私の信念を肯定してくれて、心に火が灯った。


 着々と筆が進む。いつもより集中力が切れずに作業が進む。余計なことが頭に浮かぶこともない。未来への不安も今の不安も、もう存在しない。




 そして、ついに完成した。ユウに見せられる最後の一枚だ。


 外はすっかり日が沈んでいて真っ暗になっている。間接照明の小さな灯りだけが室内を仄かに照らす。


 描き上げた絵を改めて眺める。私が今まで描いてきた絵の中で、間違いなく最高傑作だと言える。色合い、筆使い、構図、明暗比、テーマ。どれをとっても私の追い求めた理想形だ。


 今まで感じたこともないような達成感と悦びに恍惚とした。今の私にはこれ以上のものは描けないと確信が持てる。それどころか、もしかしたら今後もこれ以上に満足できる作品は生み出せないかもしれない。完璧だ。









 …………………………でも、何か違う。


 何かが足りない。心がなぜか満たされない。こんなに素晴らしい作品を生み出したというのに。


 この作品を世の中に公表すれば世間から絶賛される。夥しい量の評価を受けることになる。私は社会に認められる。有望な天才画家だと――――――いや、それはさすがに夢を見すぎかもしれないが、少なくとも世間の一部の層からそれなりの評価を得られると確信している。


 そこまで思っていてもなぜか満たされない。決定的に何かが違うんだ。



 私はよろめきながら立ち上がった。覚束(おぼつか)ない足取りで部屋の扉に手をかけた。階段を降り、鍵もスマホも持たずに玄関を飛び出す。


 暗い夜の住宅街。最初は小走りで、次第に全力疾走で駆け抜けた。


 そして気づいてしまった。自分の出せる最高傑作を生み出してしまったことで、自分でも薄々気づいていたかもしれない恐ろしい事実を知ってしまった。


 ――根底から間違えていた。


 私は画家になりたかったわけではない。ただ、『すごい人』になりたかっただけだ。誰かに認めてもらいたかった。誰にも自分を否定させたくなかった。できれば、尊敬されたかった。


 そして、生きるのが辛いから、『夢』という生きる理由を必死になって作り上げて、死を遠ざけていた。生きるのは辛いけど死ぬのも怖いから、必死に叶うわけもない夢にしがみついて、死ぬという選択肢を視界から追い出して見えないようにしていた。そうやって死ぬことを考えないようにしてきた。


 それが私という人間だということにたった今、気づいてしまった。


 画家になりたいというのは目指す目的ではなく、すごい人になりたいという夢のための手段。そしてすごい人になりたいという夢は、生きる苦しみと死ぬ恐怖を遠ざけるための手段でしかなかった。


 もし私が世界に名を馳せる有名画家になれたとしても、私の中だけにある生きていくことの苦痛と恐怖が払拭されることは絶対にない。


 絵を描いても満たされない。当然のことだ。画家になりたいという夢は私の本心を二重に覆った分厚い殻の一番外側。他人に見せられる私という人間性の表向きの部分でしかなく、自分の願いであることには違いないけど本心からは一番遠いところにある。


 画家になりたいと思ったのは元を辿れば、なんとなく私に出来そうだったから、実力以上にその肩書が尊敬されそうだと思ったから、その程度でしかない。


 夢に生きることは表向きには努力しているように見えるが、実際は何の取り柄もなく()えない劣った自分の人生を小綺麗に脚色して、本当に社会で生きていくために必要な能力を(つちか)うための努力を有耶無耶(うやむや)にしているだけだったのかもしれない。


 自分の本心に気づいてしまった今、私に残された選択肢はひとつしかない。


 ずっと、私はこうしたかったんだ。怖くてできなかったんだ。すべて終わりにしよう。


 走っているだけで次々と脳内を思考が奔走する。頭の中がかき回されて頭痛が湧いてくる。


 やがて県道沿いの、蕎麦屋の隣の廃墟に辿り着いた。敷地内に入って玄関扉を3度叩く。すぐに扉を開けて中に入った。


「――ユウ、いる?」


 夜だから控えめな声量で叫んだ。返答はない。自分の乱れた呼吸の音だけが聞こえる。


 数秒経って、背後で声がした。


「待ってたよ」


 その声に振り返る。敷地の外の歩道に彼が立っていた。全てを悟った目をしている。


「連れて行ってもいいの?」


 ユウの髪が春のそよ風に揺れた。


「…………うん、お願い。でも、そのために必要なものが揃ってない」

「大丈夫、とりあえず蕪山に行こう」


 ユウは振り向いて背中を見せた。


「行こうって、どうやって?」


 私が尋ねると、彼は顔だけ振り返って私を見た。その横顔は不敵な笑みを浮かべる。


「これで」


 ユウが横に手を振り払う。と、何もなかった道路の上に薄らと半透明のバスの姿が音もなく顕在(けんざい)した。半透明だった車体は次第に色味を帯び、実在の物となる。車体のデザインを見るに、私たちが蕪山に出かけた時に乗ったバスとは別のものに見える。


「これもユウの力?」


 ユウは振り返らず、バスの方に歩みながら応えた。


「行こう」


 ユウが歩み寄ると、バスの自動ドアがひとりでに開いた。


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