29. 狭い現実
翌日、4月11日。今日も学校に登校する。
朝食は少量だけどお母さんが毎朝作ってくれる。通学の途中、コンビニで一番安いおにぎりを2つ買って学校に着く。いつも一番安い、同じおにぎりしか買わない。安いからという理由もあるけどそれ以上にいつもと同じものを買うことに安心感を覚えるという理由が大きい。
遅刻間際の5分前に教室の前に着いた。教室ではほとんどの生徒が既に席に座って読書や自習、あるいはお喋りをしている。4月になってクラス替えをして新しくなったクラスメイトだ。
4月になってからは入学式や始業式などの行事しかなかったけど、今日から授業が始まる。新しい授業の先生の挨拶や、生徒一人一人の自己紹介もすることになるかもしれない。そう考えると本当に気が重い。
私は居心地の悪い環境に身を引き締めて、教室内に一歩を踏み入れた。
自分の席に静かに腰を下ろす。するとさっそく、隣にいた新しいクラスメイトの女子に話しかけられた。
「春野さん、今日から本格的に授業始まるね~」
低めの声で話しかけられた。
………………ど、どういうこと? そんなこと知ってるけど。な、なんて返せばいいの……?
「………………知ってるよ」
咄嗟に出た返答はこれだった。
「? ぁ、あのー……………………」
女子が顔をしかめた。私を訝しげに見つめる。返答を、間違えたかもしれない。
「サトミ、話しかけなくていいから……」
近くにいた他の女子がその子にひそひそと声をかけた。その女子はたしか、2年生の時に同じクラスの生徒だった。私に話しかけた女子はそれ以降口を開くこともなく、私の傍を離れた。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう………………
私は今の返答を間違えたんだ。失敗した。どうしよう。今のことがきっかけで馬鹿にされて、いじめられたらどうしよう。私は元から話が通じない人としてうわさが広まっているみたいだから、今のことがきっかけでいじめのターゲットになるかもしれない。
頭がぼーっとする。体が動かせない。心臓がドクドクしている。頭の中で今の間違えた会話がずっと繰り返される。頭の中がぐちゃぐちゃして、正しい返答が何だったのかをずっと模索し続ける。
傍から見たら今の私は完全にフリーズしている。周りの雑音がうるさい。ノートのページをめくる音、椅子を引く音、誰かのため息、ひそひそ声。全てが耳元で響いているみたいに頭蓋の中に響く。教室の中の明かりすら眩しく思えてきて視界がぼやける。終いには気分が悪くなって吐き気すら湧いてくる。
朝のホームルームが終わって一限の授業が始まる。起立と着席と教科書を出すことは辛うじてできるけど、それ以外は頭が回らない。ずっと脳内で反省会と自問自答を繰り返す。なんでこんな人間になってしまったのか。何が悪かったのか。私の生きてる理由は。授業の内容なんて全く頭に入らない。
一限が終わった。何の授業だったかも覚えていない。
休み時間は一瞬で終わって二限。世界史の授業。先生が挨拶をして授業が始まった。幸いにも生徒の自己紹介の時間はなかった。
時間経過で少し調子を取り戻して、授業を聞きながらノートを取った。先生の話を聞きながら黒板に書かれた内容をノートに写す。
授業が終わった。自分ではかなり気合いを入れてノートを取ったつもりだ。自分の書いた一時間の努力を見返してみる……………………だが、なにが書いてあるのか全然わからない。
たしかに黒板に書かれたことを正しく写したけど先生の話した内容を全く覚えていないから、断片的にしか書かれていない黒板の内容だけ見ても全く理解できないんだ。先生の話を聞いて記憶しながら板書を写す器用なことができればこんなことにはならないのだろう。まあ、これもいつものことだ。もう諦めている。
私は一文字ずつ正確に丁寧に書き写し、緑のボールペンのみで書き写したノートを閉じて机にしまった。
三限目は国語の授業。若くて美人の女の先生だった。先生の澄んだ声が教室に響く。
「――――そんな感じで、私の挨拶はこのくらいで。では、次は皆さん一人一人に自己紹介をしていってもらいます」
全身の血流が止まったみたいな悪寒に包まれた。
最悪の事態が起きた。国語の授業ということで薄々悪い予感はしていたんだ。
「名前と好きな教科と趣味を言ってもらおうかな――――じゃあ、まずは君から」
出席番号1番の男子生徒が指名された。立ち上がって簡潔に、易々と自己紹介を終える。続いて2番、3番と出席番号順に進んで行く。
次第に胸の鼓動がどんどん激しくなる。何を言えばいいか、滑舌よく噛まずに言えるか、話すスピードは、席を立つタイミングは。いろんな考慮が頭の中を猛スピードで駆け巡る。緊張が過度になってきて体が震え始める。お腹が痛い。頭が痛い。
あっという間に私の番が巡ってきた。
「次の子、お願いします」
先生の指示で私は立ち上がった。
――ガタンッ
あ、マズい。勢い余って音を立てすぎたかもしれない。
立ち上がると頭がすっきりした。
「ぁ、えっと。わ、私の名前は…………」
速く喋り過ぎないように、滑舌よく言えるように、それだけを考える。
「春野……ま、学です…………」
言い終えると教室の中がより一層静かになった。さっきまでの他の生徒の自己紹介では紙をめくる音やペンをいじる音がしていたのに、今はまったく聞こえない。
「教科は…………ぇと、え、絵を…………」
「――せんせー……」
前の方にいた生徒が先生に小さく声をかけた。先生と生徒が私に聞こえない声量で何度か言葉を交わす。そして、先生が顔を上げて私を見た。
「はい、春野さんですね。わかりました、もういいですよ。1年間よろしくお願いします――――それでは次、樋口さん」
「はい」
後ろの席の生徒が返事と共に立ち上がった。私は周囲から姿を隠すように席に着いた。
全身の冷や汗が止まらない。世界が青白く見えた。
それからいつの間にか4限目の授業も終わって昼休みに。朝にコンビニで買ったおにぎり2つを机の上に置いた。
さっきの国語の授業の自己紹介のことがずっと気がかりで気分が悪い。私だけ配慮されたんだ。私は普通じゃないから。情けない自分が何度もフラッシュバックする。
胃が萎んだような感覚で食欲がない。結局おにぎりは1個残して、自分の席で昼食を終えた。
5限は体育の授業があり、6限もあり、掃除と終礼の時間が過ぎて放課後となった。
なにがあったかも半ば忘れている。
他の生徒が部活動に勤しむ中、私は身支度を済ませて学校の校門を出た。
数十分ほど歩いて自宅に帰ってくる。
家には誰もいなかった。疲れ果てた両脚で2階の自室に上がる。
鞄を床に放り捨て、制服のままベッドの上に転がった。仰向けになって目を閉じる。もう何もする気になれない。絵を描くことすらも。
傷心して、胸の奥が痛い。
本当に、毎日毎日疲れる。私は人の営む社会に順応できない人間だ。そんなこと、とうの昔から理解していた。
でも、もういいんだ。もう、まともに社会で生きていくことは諦めてる。常識の道を外れても生き抜いてやるんだ。それしかないんだ。それが私の選べる唯一の選択肢。
自分の心を奮い立たせた。全身の力を捻り出して起き上がる。絵の続きを描こう。
――ガタガタッ
「――――ッ!?!?」
ふいにクローゼットの中から物音がした。驚いて心臓が飛び跳ねる。
…………中になにかいるの?
怖いけど放っておくわけにもいかない。何がいるのか確かめるべく仕方なく、恐る恐るクローゼットに近づいた。




