27. 意地悪な世界
「捕まえた」
背後で声がした。氷のように冷たい、ユウの声だ。
振り返ると、ユウが両手を伸ばして私の首を掴んだ。そのまま押し倒され、雪の絨毯の上に背中から倒れた。
状況が呑み込めないままユウの両手に力がこもる。首の動脈が、気道が締め上げられる。
苦しい、頭に血が上らなくて真っ白になる。
鼓動がうるさくなる、鼓膜の奥で激しく脈打つ音が死ぬ恐怖を掻き立てる。
――私、しぬのかな
朦朧とした頭で考えた。
「こんなの間違ってる……」
脈拍の音しか聞こえない世界で、遠くで小さく声がした。
首を絞める手の力が急に緩んだ。その瞬間、首の中で滞っていた血液と空気が流れ込んだ。
急激な気道の広がりに激しく咳き込む。それと同時に視力、聴力、意識が少しずつ戻ってきた。
呼吸を整えて、冷静になってから辺りを見回す。宙に浮いていた無数の目玉も、切り裂かれたふくらはぎの裂傷も綺麗さっぱり無くなっていた。
雪の上に倒れる私と、その上に馬乗りになって私の首に両手をあてがうユウ。ユウの体重は感じないけど、今まで私の首を絞めていた手の、人肌の温度に満たない温もりだけは感じられる。
雪がジーンズに染みて脚が冷たい。
「…………殺すんだ。人を殺すんだ。それが俺の生きる理由だ。俺の存在価値だ………………」
か細くユウが呟いた。自分の思いを弱々しく復唱する。心に刻み込むように。何度も、何度も。
未だに両手は私の首を掴んでいる。目は前髪に隠れていて見えない。多分私から目を背けている。
「放して。私はまだ死ぬわけにはいかないの」
静かに訴えてみてもユウの行動に変化はない。
「もう少しなんだ……もう少しで俺の夢は叶う……」
微力ながら、またユウの手に力がこもったのを感じた。
「やめて、おねがい………………」
「…………………………」
ユウは何も言わずに固まったまま。そして、前髪の隙間からユウの目が見えた――――――私を凝視する深く暗い瞳と目が合った。
――――怖い
ただ、そう感じた。今までユウに対して一度たりともそんな風に感じたことはないのに。今日、ユウが私を襲い始めた時も、窒息して殺されかけた時でさえもそう思わなかった。今更になって、ユウに対する恐怖が生じた。
「し、しにたくなぃ…………」
震える唇でなんとか言葉を発した。全身から血の気が引き、胸が苦しくなる。自ずと目の端に涙が浮かんでくる。自分では抑えられない………………
「俺はこんなことをするために、マナと過ごしてきたのかな………………」
しばらく硬直状態が続いた後、ユウが口を開いた。声色からは殺気が消えた。芯が折れたみたいにユウが脱力する。首を絞める手も緩んだ。
「俺は何なんだ……なにやってるんだ……」
その声は震えていた。自分自身に絶望している。
「手、どけてくれる?」
私はユウがもう人に危害を加える気力も残っていないことを察して、冷静にお願いした。
私の言葉にユウは素直に従った。手を放して、後ろに下がって雪の上に腰を下ろす。
それからうずくまって両手で顔を抑えた。人に触れられない体は小刻みに震えている。
「大事なこと全部忘れてたし、こんな体になって…………親友なんか、幻だったし…………」
私はゆっくり体を起こして、ユウの首元に手を近づけた。当然、私の手の平はユウの体をすり抜ける。
「しかもただの幻じゃない。俺が見ていたのは実際のタケトと違って、完璧で理想の親友像のタケトだった。自分に都合のいい妄想だったんだよ」
私は頭に思い浮かんだことをそのまま口にした。
「本で読んだことがある。幻覚は自分の精神を守るための防衛手段だって。それで幻覚が消える時は、その人が自立して成長しようとしている証拠だと……………………ユウも多分、自覚はないかもしれないけど、このままじゃだめだって思ったんだ………………と、思う」
ユウはわずかに顔を上げた。
「友達は、タケトしかいなかった」
さらに続けた。
「幽霊になってからなんて、人から奪うことしかしてない」
「そんなことない………………」
ユウは私と出会って、大切なことを教えてくれた。
「私はユウの生前のことを少し知ってるから、私も自分のことを話す」
一呼吸置いて、言いたいことを頭の中で整理する。
「私は、生まれてからずっと友達も、心を開ける大人もいなくて独りだった。でも幽霊とか、普通の人には見えないはずの存在をはっきりと見ることはできた。それでユウと出会って、幽霊の友達ができて、私は孤独ではなくなったの。ユウが私に声をかけてくれたから。だから、人から奪うことしかしてないなんてことは絶対にない――――私は幽霊のあなたに救われたから」
いつの間にかユウは顔を覆っていた両手を地面に降ろしていた。頬を冷たい雫がポロポロと伝っている。
「俺は、これからどうすればいいのかな」
「………………諦めて。ここで私を殺せないのなら、あなたが目指しているものと、自分の精神が壊れないようにすることは両立できない。夢を諦めて、この世界から消滅する日をただ待つしかない。私を殺したら、あなたも、私も、ひとりぼっちになってしまう」
ユウは静かに口角を上げた。
「…………消滅するのを待つって、怖いな」
「大丈夫、最後の時まで、私がずっと傍にいるから。だから…………ユウもその時までずっと一緒に居て」
私は触れられないユウの体に手を回した。ユウもそれに応じて、私の体に手を伸ばす。
穏やかな声色になったユウが囁く。
「俺みたいなクズで最低な奴がそんな幸せな最期を迎えられるなんて、案外この世界も悪くないな」
「ユウは悪くない。ただ、この世界が意地悪すぎただけ」
気づけば強風と吹雪は止んでいて、曇り空の隙間から射してきた穏やかな光が世界を祝福した。




