24. 深い雪の中で
結局、俺は精神科に行っても発達障害や精神疾患と診断されることはなかった。そして、高校生になる。
決して偏差値は高くない地元の公立高校に入学できた。タケトも同じ高校で、関係は継続していた。この頃には俺の友達はタケトしかいないし、タケトの友達も俺しかいない。
母さんは俺を病院に通わせるのを止め、その代わり、地元の新興宗教の施設に連れていかれるようになった。出来の悪い俺を病院で矯正するのは諦めて、宗教を頼るようになった。各月31日の深夜に蕪山の寺を参拝する新興宗教、名前を「時の禊」という。この宗教で崇拝されている夕蛇様はあらゆる『時』に関与できると言われている。母さんは俺が物忘れが多かったり時間を守れなかったり、同級生と比べて劣っているのは俺の精神年齢が低いからだと言い張り、時に関与できる夕蛇様にお願いして俺の精神年齢の成長を早めてもらおうと考えていた。
よくわからない宗教に依存する母さんと、俺にはもはや無関心で出来のいい弟のことしか眼中にない父さん。母さんが宗教に熱中するのは出来損ないの俺を直すこと以外にも何か理由があるような気がしていた。母さんはパートで稼いだ金を全部その宗教に貢いでいるようで、父さんはそれに呆れて母さんとあまり関わらないようになった。元からあまり仲が良いとは言えない2人で喧嘩も多かったが、今ではお互いに干渉し合わない、家庭内別居に近い状態だ。俺と母さん、弟と父さんに分断された状態。
家庭内の居心地は年々悪くなっていた。
それも全部俺のせいなのだろうか。俺の頭がおかしいから神経質な母さんが必死に俺を直そうとして、そのせいで徐々に家族が壊れていって。俺が悪いのか。
なのに俺は病院に通っても「異常者」だと診断されなかった。じゃあ俺は、何者なんだ。明らかに同級生よりも劣っている俺は。
誰か俺を定義付けてほしい。俺がどういう存在なのかを。そうすれば、胸の奥にある歪な劣等感も少しは薄まる気がするから。
今日も母さんに車で連れられて蕪山の寺に行く。高校2年生、寒い冬の日だった。30日から31日に変わった深夜。
蕪山の麓の駐車場に車を停め、そこから歩いて山を登る。雪の積もった山道を北国用で厚底のブーツで突き進む。俺は前を進む母さんの後を追った。
やがて『蕪山慄命宗御這光寺』と書かれた巨大な山門に辿り着く。暗い山の中で白い照明に照らされて明るい山門。こんな山奥でも電気は通っているらしい。
山門を抜ける。境内も照明がついていて仄かに明るい。その明るさは不覚にも穏やかな温かみを感じてしまう。孤立した暗闇の山奥の中で唯一の安全地帯みたいで。
境内中央には何人かの大人が集まっていた。皆、時の禊の信徒たちだ。その中には大人に連れてこられた幼い子供もいる。真夜中だというのに。
俺と母さんもその集団の中に加わる。しばらく待つと、白い和服を着た『代表』みたいな人が現れて、参拝が始まった。
白い和服の人が呪文めいた言葉を読み上げる。その間に他の大勢の大人たちは本堂前に用意された台に、小袋に入った供え物を置いていく。各々の願い事を口にしながら。
供え物の中身は知らない。ただ、この供え物は時の禊の上層部の人から購入するものであり、一袋の値段だけでも異様なほどの高額だということは知っている。
順番が巡って俺と母さんの番になる。母さんは俺が前に出るのを拒んで「後ろの方で待ってなさい」と指示した。いつものことだ。
俺は言われたとおりに大人たちの後ろの方から母さんを見守る。この位置では母さんが夕蛇様に何をお願いしているのか聞き取れない。俺は母さんが何を祈っているのかを一度も聞いたことがない。
でも、後ろからでもわかることはある。それは、本堂の障子の奥にいる者の存在感だ。障子は閉まっているが、その奥から人を凌駕した存在の気配をひしひしと肌で感じる。
間違いなく夕蛇様だ。俺はこの時も幽霊が薄らと見える人間だったから、夕蛇様の存在も感じ取ることができた。まあ、夕蛇様がいるのがわかったからといって話したり関わったりしようとは思わなかった。というか怖くて、恐れ多くてできなかった。
参拝が終わり、駐車場に戻って母さんの運転で峠を下った。その道中、俺の一言がきっかけで悲劇が起こった。
深夜3時に近い頃。車のヘッドライトにのみ照らされる暗い夜道の両脇には高く積まれた雪の丘が連なっている。雪かきで弾かれた、道路上にあった雪だ。
冬の峠だというのにそこそこのスピードを出した車の中。母さんは不満を一切隠さない声で愚痴をこぼす。
「ほんとに、何であんたってそんな人間になっちゃったんだろうね。私のせいなの? …………でも大丈夫。こうやって夕蛇様にお願いしてればあなたもまともになれるから」
「………………参拝なんて意味ないって……」
得体の知れない宗教と神に縋ったところで状況はよくならない。
俺の心から漏れたこの一言が、母さんを豹変させた。車内の空気が冷たい怒気に包まれる。
「――ッ!? 意味ないって………………アンタのためにやってるんでしょうが! 落ちこぼれのアンタがクラスの子に追いつけるようになるために! こんな夜遅くに時間割いてあげてるのにッ!!」
感情剥き出しの甲高い怒号が胃に響く。この感覚は全身の血の気が引いて嫌いだ。黙って耐えることしかできなくなる。
「……………………」
「こっちがどれだけ子供のことを考えてるかわかってんのか! 少しは親の気持ちも考えろ!!」
母さんの視線は完全に横にいる俺に向いている。正面は全く見ていない。
「ちょ、前見て――」
――その時、車が何かを突き破る衝撃と、車体が浮く浮遊感を味わった。
車が道端のガードレールを突き破って、崖の下に飛び込んだ。
……気が付くと、俺は冷たい雪の上に放り出されていた。
頭が痛い。体のあちこちも痛い。額に触れるとドロドロした液体が指先を濡らした。
月明かりも届かない森の中、周囲を明るく照らすのは――――――遠くの方で燃えている廃車の上げる炎のみだ。
あの車は母さんが運転していた車。岩に衝突していてフロント部分は大破。ボンネットから火と煙が上がっていて、フロントガラスは助手席の方だけ割れている。多分車が岩にぶつかって急停止し、衝撃で俺はフロントガラスを突き破ってここまで飛ばされたんだ。
母さんは無事なのか。重く動かしづらい足で車に近づく。
少し近づくと母さんと目が合った。ぼさぼさの髪に血走った目。俺の気配に気づいて車の陰からこっちを覗き込んだようだ。
「来るなッ!」
俺を見るや否や、また甲高い怒号を上げた。
「お前のせいでこうなったんだ!! キエロ!! お前なんかシんじまえ!!」
耳障りな声で取り乱す母さん。半狂乱で、もはや泣き喚く獣だった。
俺は茫然と立っていると、頭に鋭い激痛が走った。
「――ッ!? 痛ッた………………」
母さんが、壊れた車の鉄片を投げつけてきた。1つ目は頭に当たり、2つ目3つ目は俺には当たらず雪に埋もれた。
「私の育て方は間違ってない! お前が障害者なんだ!! このバカッ!」
もうここにはいられない。母さんの拒絶を無視できる余裕はもうない。俺は背を向けてその場を離れた。全身痛くてうまく動かせない体で。なるべく遠くへ。
車には非常用の食料も積んであったはずだが、俺は車から、母から遠ざかった。
歩きにくい積雪の中。とにかく、ひたすら歩き続けた。動くのを止めたら体温が冷え切って動けなくなる気がしたから。
真夜中から時が進む。明け方になるにつれてますます空気が冷たくなっていく。体の震えがずっと止まらない。
朝が近づき、空が明るさを帯び始めた。太陽が昇って気温が上がればまだどうにかなるかもしれない。
こんなところで終わりたくない。まだやりたいことがある。俺にだって将来とか、叶えたい夢がある。
心は折れてない。だが、体の方はもう限界だった。寒さで痛みも麻痺した全身は急に動かなくなった。電池切れのおもちゃのように。
雪の上に倒れた。高熱にうなされるみたいに意識は朦朧とする。俺は、自分の人生の結末を察した。
意識が遠退いていく。
幸いなことに苦痛も恐怖もない。振り始めた粉雪が体に積もっていく。その感触だけを感じながら、意識は徐々に薄らいでいった。
§
目を開けると俺は御這光寺の本堂前に倒れていた。本堂の障子は開いていて奥には、白い長髪の夕蛇、2人の側近、その他大勢の幽霊がいた。皆一様に俺を見つめている。
辺りは薄く雪が積もっている。されど寒さは感じない。
そこで夕蛇と会話をし、命を落とした俺の魂は、夕蛇によって幽霊にされたことを知った。意識の寿命を延ばす、と言っていた。
夕蛇の力によって俺は幽霊となってこの世に繋ぎ留められたんだ。俺は夕蛇に生み出された幽霊だ。
さらに夕蛇の話を聞き、夕蛇によって作られた幽霊は他の幽霊と違い、延命処置はできずに決められたある日までしか現世に存在できないと知った。その決められた日に自ら消滅しないと精神が崩壊したまま永久に現世を彷徨い続けることになる。自分の意思で消滅するには必要なものがいくつかあるようだ。
夕蛇は俺にしたこと、俺を幽霊にしたことを嬉々として、誇らしげに語る。幽霊として意識を持って現世に存在していることや、夢を追うことの尊さを説いた。
…………でも、そんな夕蛇の言葉は耳に届かず、俺は上の空だった。死の絶望しかなかった。夢を追うとか言って、死んで幽霊になんてなったら夢なんて叶えられない。
俺には夢があった。それは、とにかく有名になることだ。抽象的な夢だが、なんでもいいから何かを成し遂げて、名声を得て、みんなに俺のことを周知させたい。家族に、クラスメイトに、そして顔も知らない数えきれない数の人々に、俺の存在を知らしめたい。見返してやりたい。そうすれば、心の奥が満たされるような気がしていたから。みんなが俺のことを認めてくれる気がしていたから。
でも、夢は折れた。
――幽霊なんかになったら俺の傲慢な欲望は叶えられない。
…………………………待て、本当にそうか?
幽霊になっても自分の存在を世間に知らしめる方法はあるんじゃないか? 最も幽霊らしい、幽霊にしかできない方法が。
それは、恐怖による周知だ。人を呪う幽霊、人を連れ去る幽霊、人の命を奪う幽霊。そんな悪霊がいたら、瞬く間にそのうわさは広まるんじゃないか。その悪霊が俺だったら。
それから俺は悪霊へと身を落とし、人間を脅かす亡霊となった。俺の通っていた高校の生徒を度々山奥におびき寄せ、連れ去り、命を奪っていった。具体的には、生前の自分の姿で生徒の前に現れる。その人と親睦を深め、頃合いを見て「山に遊びに行こう」と誘う。そうして山奥に誘い込まれた生徒を、なるべく苦痛のない手段で殺めた。この一連の誘拐殺人の流れの間に、俺という幽霊の存在を臭わせる情報を残すようにする。
幾度か繰り返し、次第に「人をさらって命を奪う幽霊」のうわさは学校中に広まった。
知名度を上げ、少しだけ満たされた気分になった。でもまだ足りない。自分が消滅する日がいつかもわからず時間がない。俺は奮起して、もっと有名になってやろうと躍起になった。どこからともなく湧く憎悪と怨嗟に身を任せて。
我ながら夢を叶えるとはいえ、自己中で最悪なやり方だと思っていた。
人の命を奪い続けているうちに、幽霊としての質が上がっていった。人間の生気を奪い、吸収することで、人に幻を見せたり、想像を具現化する力を得た。こんな人智を超えた力を得るなんて、まるで夕蛇のような存在に自分が近づいている気分だった。
そんなことを繰り返して、あっという間に20年の歳月が流れた。
ある日の学校の教室で、自分で具現化した机と椅子に座って何気なく授業を聞いていた。幽霊の俺は当然、他の人間の目には見えない。
次は誰をさらってやろうか。そんなことを考えながら教室を見回していた。その時、目が合った。長い黒髪で翡翠色の瞳の女の子と。
その瞬間、理由はわからないが、ふいに親友のタケトの姿が頭に浮かんだ。かつての親友のタケト。俺が死んでからあいつはどうなったんだろうか。きっと、あいつを、独り残してしまった。
それから、今まで自分が幽霊になってからやってきたことの記憶のすべてが走馬灯みたいに頭の中を駆け巡る。記憶の濁流に脳内が乱される。
最後には耐えきれずに脳味噌が弾けて、今までのすべての記憶が消し飛んだ。幽霊になって人を殺めたことも。自分が死んだことも。人生の不安や夢、家族のことすらも消えた。
残ったのはわずかな最低限の自我だけ。そこに親友のタケトの幻が見えるようになり、俺は自分が生きている人間だと錯覚した。感じないはずの気温を肌で感じる錯覚を覚えた。自分は今を生きる学生だと思い込み、他の生徒と同じように授業を受け始めた。クラスメイトと会話なんて一言もしていないのに、自分はクラスの一員だと思い込んでいた。20年の時の流れにも気づかなかった。
自分は人間だと思い込み、マナやコマルたちと過ごす日常が始まった。
だが、それは昼間だけのことだ。定期的に、特に夜の間は今までの記憶がよみがえることがあり、そういう時は生徒を連れ去って、深い山の奥でその命を奪った。クラスの女子が話していた人さらいの幽霊のうわさは俺のことだったんだ。
夜間に行動した記憶がないのもそのせいだ。
人を殺める時にだけ、人の首を絞める時だけ、幽霊の俺は人間に触れることができた。そういう人の感触が心地よかったりもした。
そうして昼と夜で豹変する歪ながらも充実した日常が続き、そして今、すべてのことを完全に思い出した。
自分はとうの昔に死んでいたということ。自分は、人殺しの幽霊だということ。




