2. 邂逅
昨日出会った黒髪の幽霊。タケトにはその幽霊について調べてみるように言われたが、俺はそれを振り払った。調べるにしろ調べないにしろ、その時は既に夕刻を回っていた。何かをするにしても翌日に持ち越す時間だ。
そして今日。今日も学校に遅刻した。これで4回連続だ。登校中に立ち寄ったドラッグストアにて新商品を見つけ、それに気を取られて店内を物色していたらいつの間にかありえないくらい時間が過ぎていた。その時点で遅刻確定だったが、それでも学校に行く決断をした自分を褒めたい。学校に着いたのは9時過ぎだった。
そして、今日もまた、あの黒髪の幽霊はいた。昨日と同じ教室の廊下側の席に。
彼女は昨日と同じようにぼーっと授業を眺め、休み時間には席を立つこともなくずっと机に俯いていた。左手を動かして何かを書いているようだが、それが何なのかはここからは見えない。近くに行けば見えるはずだが、無闇に霊に近づきたくはない。
そんな感じで彼女は昨日と同様の行動をとっていた。だが昨日とは違い、彼女が俺と目を合わせることは一度もなかった。
6時間の授業が終わり、放課後。彼女は最後の授業が終わると終礼も待たずに鞄を持って教室を出ていった。足早に。一刻も早くこの場を立ち去りたいような様子で。
終礼が終わって閑散とした放課後の教室。遠くからは生徒たちが部活動に勤しむ声がする。教室内にはまだ数人の女子生徒が残って談笑していた。
「ねえ知ってる? この学校に出る幽霊の話」
「えー、なにそれ?」
「あたし聞いたことあるかも!」
2人の女子生徒が話に食い付く。
「なんかね。昔、20年くらい前のことらしいんだけど…………。この巳函沢市の外れの方に月鐘ヶ丘とかいう場所あるでしょ?」
「うん! 蕪山とかね!」
「そう、その辺りでね。雪の積もる寒い冬の日、私たちと同じくらいの歳の高校生が事故に遭ったらしくて…………。詳しくは知らないんだけど車にはねられたみたいで、救急車とかの救助も来ないまま雪の積もった山の中を彷徨い続けて……………………最後は冷たい雪の中で凍死しちゃったんだって」
「……………………」
最初は陽気に話を聞いていた2人の女子生徒はしんみりと、食い入るように語り部の女子の話に耳を澄ませていた。
「でね。その亡くなった子は幽霊になって、独り寂しく雪山で命を落とした孤独を埋めるために………………この学校に訪れて生徒を攫って行っちゃうんだ」
「…………さ、攫われたら、どうなるの……?」
最初は快活だった女子生徒が尋ねる。
「攫われたら最後、深い山の奥に引きずり込まれて殺される……………………実際、数年に一度、この学校の生徒が行方不明になったり、蕪山の奥で変死体になって見つかったりするらしいよ」
「こわっ!! 怖すぎるんですがっ!!」
「…………ふーん、でも、その幽霊になっちゃった子もちょっと可哀想」
「え、いいの? そんなこと言って? 幽霊に気に入られて連れ去られちゃうかもよ?」
語り部の女子の冗談を皮切りに再び騒がしさを取り戻す女子生徒たち。やがて幽霊の話は他の話題に早々に掻き消される。無意識のうちに記憶からも追い出すかのように。当たり前だが、幽霊のことなんてまるで他人事だ。
――幽霊のうわさ話、か………………。
俺にとっては他人事で済まされないかもしれない。
女子生徒たちから意識を逸らすように、俺は窓の外に目を向けた。
「…………ん、あれは……」
学校の外、夏の暑さに茹だる住宅街の一角、民家の石垣の前。そこで今日も一人、立ち尽くして泣いている10歳くらいの女の子の幽霊がいる。
その女の子の正面。あいつがいた――――長い黒髪の彼女が。
彼女はこっちに背を向けているから何をしているのかわからないが、おそらく涙を流す女の子と話をしている。幽霊同士の対話だ。一体幽霊同士で何を話しているのか。
俺は衝動的に席を立った。あの2人の幽霊が何を話しているのか知りたいという好奇心に突き動かされた。最早、知らなければならないという使命感さえ覚えた。
幽霊に自ら接触したくないという俺の中にあったある種の恐怖心は掻き消されていた。
教室を飛び出し、廊下を走り、階段を駆け降りた。
校舎の正面玄関を出る。放課後の時間を過ごす生徒たちがたくさんいる屋外を駆け抜ける。
校門を出て右、2人がいる住宅街の一角まで急いだ。
泣いている女の子の姿が目に留まる。校門を出た頃には既に息が上がり、全身から汗が噴き出していた。
俺が着いた時、長い黒髪の彼女がちょうど立ち去るところだった。女の子は先程よりも余計に激しく泣きじゃくってしまっている。しゃがみ込んで両手で顔を覆い隠して。その様子を尻目に黒髪の彼女は立ち去る。
何か酷いことでも言ったのだろうか。俺はしゃがみ込んだ女の子の横を通り過ぎ、黒髪の彼女を追いかけた。
「おーい! 待てよ!!」
俺が呼びかけると、それに応えて彼女は立ち止まった。そして振り返る。再び、あの翡翠色の目が俺の目を見据える。
翡翠色の瞳は、驚きの感情によってわずかに見開かれているようだった。
会話ができる距離まで近づく。が、呼び止めたはいいが、何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
泣きじゃくる女の子と何を話したのか。昨日の放課後、何故プール裏にいる俺とタケトを見つめていたのか。さっき女子生徒が話していた幽霊のうわさ話について。聞きたいことはいろいろあるが、まずはこれだ。
「君は…………ユーレイだよな?」
わかりきっていることだが、初対面での幽霊との会話ならまず最初はこれだろう。英語でいう「今日の調子はどう?」みたいなものだ。
「…………………………」
彼女は感情の読めない無表情で俺を見つめ返す。鋭くて、まるで温度を感じられない気配。何故なにも答えないんだ。整った顔立ちとガラスのような瞳が魂のこもっていない人形のようだ。
やがて、彼女は小さく口を開いた。
「私には、見えないものは見えない」
は? どういうことだ?
俺の質問に対する答えになっていない。意味がわからない。見えないものは見えないって、当たり前だろ。この幽霊、話が通じないのか?
それでも俺はめげずに会話を試みる。
「今の女の子と何を話してたんだ? あの子、君と話し終えてから余計に激しく泣き出しちゃったみたいだけど」
「………………あの子に直接聞いてみれば?」
ありがたいことに今度は会話として成立する返答。しかしその声色は極めて素っ気ない。言うが早いか、彼女はすぐに前に向き直って歩いて行ってしまう。もうこれ以上話すことはないという意思表示だ。
一人取り残された。しょうがない。彼女に言われたとおり、泣きじゃくるあの子に話を聞いてみよう。彼女と何を話していたのか。
俺は踵を返して数メートル、女の子の元へ戻る。
「君、何で泣いてるの?」
俺はしゃがんで少女と視線の高さを合わせ、なるべく柔らかい口調で尋ねた。
「家に帰れなくなっちゃったんです…………。私の家はどこ…………?」
そう言って顔を上げる。涙で腫れた目蓋と吊り下がった太い眉が露わになる。この子は家に帰れなくなった迷子の幽霊のようだ。
縋るような目で俺を見つめる。あまり幽霊に深入りしたくはないが、さすがにこんな幼気な迷子を放っておくわけにもいかない。
「よし、じゃあ一緒に家を探してやるよ!」
すると少女は目を見開き、表情が明るくなる。
「――ほ、ほんとですか!? あっ、ありがとうございます!!」
満面の笑みで元気になる少女。今まで泣いていたのが嘘みたいに。現実に希望を見出したキラキラした顔だ。
家を見つけてあげられたらこの子は成仏でもするのだろうか。幽霊助けなんて今まで一度もしたことがないからわからない。ただ、この女の子が成仏してこの世から消えてしまうことを考えるとそこはかとない淋しさを感じる。
それから俺は迷子の少女を連れて彼女の家探しを始めた。彼女に家の特徴を尋ねると、黒い瓦屋根で古い木造の建物らしく、そこでは100円未満の値段でチョコやガムなどの個包装のお菓子がたくさん売られているという。いわゆる駄菓子屋だ。その駄菓子屋はこの近辺にあるようだが、彼女は何日も歩き回って探しても見当たらないらしい。
じりじりと夏の暑い日差しに焼かれる住宅街。この辺りは平日の日中は人の気配をほとんど感じない。社会人や学生は昼間は都市部の方に出ているということもあるが、そもそもこの辺りは居住者が減っていて空き家が増えている。そういう理由で時代に取り残されたこの住宅街は日夜を問わず、あまり活気のある様子は見られない。
少女の家を探し回る道中、彼女に名前を訊いた。
「君、名前は何ていうの?」
「私、コマルです」
にこやかな笑顔で答える。
コマル…………本名なのかあだ名なのか。まあどちらにせよこれで呼び名に困ることはない。コマルだけに。
「俺は六隈遊。コマルちゃん、さっき黒髪の女の子と、何を話してたの?」
「六隈さん………………えっと、まずはあのお姉さんから話しかけてきて、六隈さんと同じように『何で泣いてるの』って聞いてきたんです。それで、家に帰れないってことを話したら、また六隈さんと同じように家の特徴を聞いてきたんです」
「ってことは、あの子もコマルちゃんの家を探してあげようとしたのか?」
コマルは首を横に振る。表情を曇らせながら。
「それが、私も最初はそう思ったんだけど、違ったんです。お姉さんは家のことと、あと家でおばあちゃんが待ってるってことを教えました。でも、お姉さんは無表情のままで。それで一言、『おばあちゃんはあなたの帰りなんて待っていないかも』って言って、歩いて行ってしまったんです…………」
「そんなこと言われたのか…………」
あの幽霊、相手が同じ幽霊と言えど、泣いている女の子に普通そんなこと言うか?
「おばあちゃんはそんなふうに思う人じゃないんですけど、もしかしたら本当にそう思ってるのかもしれないと思うと、悲しくなってしまって…………」
「そんなことは…………」
迷子になって数日のコマル。幼い少女がずっと独りでいて精神的に弱り、他人のネガティブな言葉を真に受けてしまうのは避けようがない。コマルの口調や雰囲気からは、普段は明るく快活な少女であることは想像に難くない。
俺は慰めの意を込めてコマルを鼓舞する言葉を送った。
「コマルちゃん! 俺が絶対に家、見つけてやるからな!」
「――ッ! はい!!」
そんな会話をしながら俺たちは街中を歩き回った。
――――――だが、目的のコマルの家は見つからない。空は赤みを帯び始め、やがてすぐに暗くなる。かなり長い時間歩き回っていたようだ。
正直なところ、付近にある駄菓子屋なんてすぐに見つかると思っていた。昼間でも見つからないものを暗くなってからでは余計に見つからない。幽霊と言えど幼い女の子を一人置いていくのは居た堪れないが、俺は苦渋の決断をした。
「コマルちゃん、暗くなってきたし、今日のところはもう諦めよう。俺も家に帰らないといけないし………………明日また一緒に探すから、ここで待っててくれるか?」
家に幽霊をお持ち帰りするわけにもいかないから外で待っていてもらうしかない。だが、一緒に家を探すという約束は絶対に守る。
「………………いいよ」
ぼそっと呟いた。顔は俯いて不本意のようだが、俺の事情を汲んでくれたようだ………………ただ、その後にこう付け加えた。
「いいよ。だってお兄さん。いつも私を無視して、私の前を素通りしてたしね」
顔を上げたコマルの大きな丸い瞳の中に、固まった俺の表情が薄らと映っていた。