11. 言えないこと、言いたいこと。
気を取り直して、俺たちは本来の目的である美術館に向かって歩み出した。
月鐘ヶ丘美術館。その場所も春野が知っているから、俺は彼女の案内に同行した。
閑散とした新興住宅地を進む。
しばらく歩いて、街の外れの方に着いてようやく目的の建物が見えてきた。純白の外壁、コンサートホールのようにも見える美術館。住宅街を外れた森の中に強い存在感を放って建っている。
正面の自動ドアから一組の老夫婦が出てきた。久しぶりに人を目撃した気がした。観光客もいるようで、近くの広い駐車場には何台かの観光バスが止まっている。
田舎の有り余る土地をふんだんに使った駐車場と美術館前の広場。広場は芝生で、至る所にいかにも美術館らしいモニュメントが奇抜な自己主張をしている。
俺と春野は広間を横断して美術館の中に足を踏み入れた。
自動ドアをくぐり中に入ると、目の前には駅の改札のような装置があった。ゲートが閉じていて先に進めない。
改札をよく見ると、現金を入れる穴や、スマートフォンをかざす場所らしきものがある。ここで先に入館料を支払えと言うことだろう。
無人の受付。最新設備を用いた入館口だ。
春野は改札に近づき、お札と小銭を入金口に入れた。ちょうどぴったり1200円。幽霊なのに律儀にお金を払う春野。人から見えないからゲートなんて飛び越えてしまえばいいのに。
俺は春野の後に続き、千円札を二枚入れた。ゲートを抜け、改札後部でお釣りを拾う。
さあ、やっと俺たちの修学旅行本来の目的が叶う。ここから先は芸術鑑賞の時間だ。
館内を見渡すと1階と2階があり、1階は過去の古い芸術作品、2階は近代美術や現代美術の展示をしているようだ。正面にある幅の広い階段から2階に行ける。
「春野、どこに行――」
「こっち」
言い切る前に足を踏み出す春野。駆け足気味で階段の方に向かっていく。
「早く来て」
振り返って春野は言う。いつもの無愛想な顔は、わずかに興奮で躍っているように見えた。
それから俺たちは美術館を巡った。春野は近代美術が好きなようで、ずっと2階を見て回っていた。
見ればなんとなくメッセージ性を理解できそうな絵画や、全く理解できない針金の塊のような作品。色彩鮮やかなのにどこか不気味な女の子の絵や、自分の腹を裂いて飛び散った臓物を乾いた街に浴びせる男の絵。積み木の生えたロバや、痩せ細った貴族を喰らう肥えた奴隷の模型など、あらゆるものがあった。作品の意味は自分で解釈しろ、というスタンスのものが多いように感じる。
春野はそれらの作品をひとつずつじっくりと眺める。決してはしゃいだり騒いだりはしないが、翡翠色の瞳をこれ以上ないくらいにキラキラと輝かせて眺める春野。態度には出さないが相当興奮していることが窺える。
そんな春野につられて、俺も鑑賞するのが楽しくなっていた。アートの面白さが少しわかった気がした。
長い間2階を隅々まで見て回った後、次は1階に下りる。
1階は中世ヨーロッパやルネサンス期の絵画、東洋のものでは水墨画や江戸時代の浮世絵などが展示されている。近代美術と違い、絵画が大半を占める。素人の俺でも一度は聞いたことがあるような有名画家の作品も多数展示されていた。
壁に飾られた絵画をひとつずつじっくりと眺めた。時の流れなんて全く気にせず。
途中、顔を綻ばせた春野が呟く。
「絵画やアートはその内容や本当の価値より、誰が作ったかで評価されてしまうことが多い」
作品のメッセージ性を差し置いて、名のある芸術家の作品ばかり優先して評価されてしまうということだ。その言葉はあまり好ましくない事実のように思えたが、それでも彼女は楽しそうに語った。
結局、2階と同じくらいの時間をかけて1階も巡る。
やがて、春野は一点の絵画の前で足を止めた。顔に黒く虚ろな穴が空いた群衆が街を行き交う中、その中でうずくまった年老いた男が幼気な子犬を抱いている絵。春野が再び口を開く。
「私、実はね、画家になりたいの。…………あんまり他の人には言わないでね」
春野は少し頬を紅潮させていた。初めて見る彼女の照れ顔。俺に共有してくれた春野の本音。
そんな彼女に俺は興味を惹かれた。もっと春野のことを知りたい。
画家になりたい、か。と言っても幽霊がどうやって画家になろうというのか。
俺は春野に尋ねた。
「さっきの話を踏まえると、春野は絵で有名になりたいのか? ほら、有名な人じゃないと作品を評価されないって」
「うん、そうかも…………有名に……」
断定しない言い方ではあったが、即答した春野。
――有名になりたい、か
「俺も……俺もそうかもしれない…………」
「え?」
春野が俺の顔を見た。
有名になりたい。自分の存在を世間に知ってほしい。
この田舎で育って、人からの賞賛や脚光を浴びない地味で退屈な職について、このまま一生をこの田舎で過ごすことになるかもしれない自分の人生が怖い。その味気ない人生になるのが恐ろしい。何もない人生になるのが怖い。
何者かになりたい。何者かになれば、自分の中にある漠然とした劣等感を埋められるような気がするから。
ふと、そんなことを思い出したが、この思いが声になることはなかった。