その三
このお話の中にも書いていますが、何かを心底愉しむ為には、他の事を一切忘れる必要があるのです。しかし生活上の悩みはそんなに都合良く完全に忘れ去る事が出来ません。
その対立について、どう思いますか。私なら、忘れる事の出来ないそんな深刻な悩みを作らない生活をする事だと思います。生活をそんな風に根本的なところから『改変』する事だと思うのです。
私は激しい痛みを覚えて目を覚ました。室内は矢張薄暗く、ストーブは赤々と燃えていた。そして直ぐに室内に、多分これは野菜を煮ているのだろうという感じの匂いが充満しているのを感じた。その途端だった。嘘の様な話だが、私は自分が涎を垂らしているのに気付いた。そしてその次の瞬間、私が感じた痛みというのが実は痛みではなく腹痛に極めてよく似た空腹感、激しい空腹の感じである事を理解したのである。
「ああ、お早うございます。お目覚めですか?」
主人の声がする。私が見回すと、主人は奥のドアを開けて此方に近付いてくるところだった。
「私の言った通り、お腹空いてるでしょう?」
「仰る通りです。大変恐縮なのですが、何か温かいものを食べさせて頂けないでしょうか?」
主人は頷き、テーブルの上に湯気の立つ中位の大きさの鍋を置いた。私が引き摺られる様にテーブルに向かうと、それは人参やキャベツ、白菜を茹でたものである事が分かった。特に出汁の匂いはしない。しかし私は到底堪えられなかった。
「さ、塩茹でしただけのものですが、美味しいですよー、どうぞどうぞ」
私は自分でも信じられない様に、正しく餓鬼の如く食べた。熱いのに、そのまま呑み込んだら咽喉を火傷して仕舞うというのに、これが我慢できない。
「空腹感というのは、実は自分が死ぬ危険のある時には感じないものなんです。さしあたり暫くは死なない、それを頭が理解すると途端猛烈に来るんです喃」
主人は半分面白がって私を笑顔で見詰めている。そして直ぐに湯呑に湯を入れて、私の前に差し出してくれた。
「この湯はそんなに熱くありませんから。咽喉詰めそうになったら、ごっくんとやって下さいねー」
私は非礼にももぐもぐと野菜を食べる口を動かしながら視線だけ主人の方にやり、うんうんと頷いた。これではまるで子供ではないか。しかし食べるのを止められなかった。二十分程の間に私は鍋の中の全ての野菜を食い尽くして仕舞った。主人は全然食べてはいない。穏やかに湯呑を時々口に運びながら私を見詰めているだけだった。私は腹の底から温まって両手を合わせ、
「御馳走様でした」
と言った。そして今度こそ一切を話そうと思って主人に向き直った瞬間、また眠気を催して来た。初めはそれを隠そうとしていたが、またもや抵抗出来ない程の強い眠気である。
「さて、睡眠第二段ですな。おやすみなさい」
主人の声を聞くか聞かぬうちに私はふらふらとまたソファに縋り寄り、毛布を被って眠って仕舞った。今度の私の意識の限界は主人が鍋を片付ける音だった。
今度私が目を覚ました時、小屋の中の様子は少し違っていた。相変わらずストーブは燃えていて室内は温かいのだが、人の気配がしない。それに私の意識が実にはっきりとしているのだ。朦朧としていない。それに何だか物の輪郭が今までよりもはっきりと見える。多分私の身体が漸く常の平静を取り戻してきたのだ。咽喉も乾いていないし、今度は空腹感も無い。いや多少はあるが痛み程には感じない。
「あのー、目が覚めました。御主人、いらっしゃいますかー」
私は遠慮がちにそう声を出した。しかし何の返事も無い。私は立ち上がり、再び周囲を見回した。すると私が野菜の煮物を食べたテーブルの上に紙が一枚とビスケットの箱が一つ置いてあり、其処には斯く書かれていた。
『私は一寸出掛けて来ます。夕方からまた吹雪くでしょうが、私は慣れているので心配要りません。遅くならない間に帰ります。それまでこれでも食べて待ってて下さい。なお、吹雪いてきても私を助けようなどという気を起こして外に出るのは絶対にやめて下さい。必ず死にますからね』
私はこの軽妙洒脱な表現が気に入った。何処となく事態を高所から俯瞰して余裕をもって取り扱っているという感じがする。若しかしたら此処の主人は医者であるだけでなく。文筆家でもあるのかも知れない。私はストーブの上でしゅんしゅんと暖かそうな音を立てている薬缶から湯呑に湯を注ぎ、ビスケットを頂きながら大人しく主人を待つ事にした。ところが私は一箱二十枚からあった、それも一枚が結構大きなビスケットを五分でまたもや食い尽くして仕舞った。食べる手が止まらないのだ。食い尽くした後で私は一体何うしようかと困ったが、一方であの主人であれば何であろうと優しく微笑んで許してくれるだろうという気もした。私は此処の主人に助けられ、本当の阿呆になって仕舞ったのか。
徒然なるままに私は室内を歩き回った。特段珍しいものが在る訳ではない。というか、この小屋には殆ど物が無かった。生活する為というよりは、本当に猟師が一時滞在する山小屋の様な感じである。ベッドも無い。私が眠った古いソファが寝具代用なのだろう。そして不図風の音に気付き、私は玄関のドアを少しだけ開けた。すると私は即座に昨晩私が死の淵に瀕したあの吹雪がまたやって来ている事を知った。それに暗くてよく判らない上私は時計を持っていなかったので知らないが、この感じは最早夕暮ではないのか。私はそんなに寝倒していたのか。
「この吹雪の中、あの主人は他所から此処に帰って来るのか……」
私は不安を感じ始めた。あの主人であってもこれは死ぬのではなかろうか。こんな吹雪の中を普通の生身の人間が生きて戻って来る事など出来ようか。しかし信じて待つしかない。主人が帰って来なければ、今度は私がこの小屋で凍死するかも知れない……。すると直ぐに、
「やあやあ、吹雪かれました喃。ただ今」
と大きな袋を抱えた主人が普通の雨の中を帰って来た様に気楽に言うので、私は問うた。
「心配しました。こんな吹雪の中を、どうして道も見失わずに歩けるのですか?」
「ああ、そんなに遠くまで行ってた訳ではありませんし、まあ、慣れた道ですからね。大丈夫です」
と笑顔で私に答え、続けて直ぐに、
「では、今晩はうどんといきましょう。美味いですよぉー」
と言った。私はビスケットを箱ごと食い尽くしたとんでもない非礼も忘れて、喜びに酔い痴れた。うどん、熱いうどん。ああ、此処は私に喜びをくれる。筆舌に尽くし難い喜びをくれる。主人は斯うも言った。
「それから、今日も風呂、入りますか?」
「本当ですか? それはもう、願ってもない事ですが……、よろしいのでしょうか?」
「そうですか。じゃあやりましょう。今日はまだ時間も早いので、食事をしながらお話を伺いましょうかねぇ。風呂はその後」
私は頷き、そのまままたテーブルに座り客人よろしくうどんの出来上がるのを待った。そして昨晩と同じ鍋に入って出てきたうどんを前にして、また悪鬼の如くに食べた。これは生姜うどんだった。鍋にうどんを茹でたものと小さな布製の袋が入っていて、強い生姜の匂いを振り撒いていた。すりおろしたものを入れてあるのに違い無い。それを蕎麦の様につゆに浸けて食べるのだが、このつゆの椀の方にも多く生姜のすったものが浮いていて香りが強かった。
「ささっ、どうぞどうぞ」
私は主人の言葉を聞いてはいなかった。もう勝手に箸を手にしていた。『頂きます』も何もあったものではない。そして口に入れるとこれが生姜が喉に沁みる沁みる、豪快に熱いうどんを飲み込む快感もそうだが、刺激のある生姜が喉に作用して言葉にも出来ない。
「うんっ、うんっ、美味いです、これは……、並大抵では……」
主人はまたしても自分は食べず、湯呑から湯気を立ち昇らせながら穏やかに私を見て笑っている。
「うーーーん」
私は唸って箸を置いた。無論その時点で鍋の中には一本のうどんも残存してはいなかった。そして私は食べ終わった後で思わず、
「あー、食べた、食べた」
と口にして仕舞った。それでも主人は何も言わず、優しく私を見て笑うだけだった。
一生を顧みても、この時の生姜うどんに勝る味を思い出す事は出来ない。私は満足、いや幸せを感じた。感じていた。そしてこの後にはまたあの湯気の魔人の如き風呂が待ち構えている。この幸福は……もうこの世のものではなかった。
しかし後日、ずっと後になってから思った事だが私はこの時重要な事を教えられていたのだ。それは私がこの瞬間、他の一切の事を『考えてはいなかった』事だった。私は凍って死にかけ、湯の熱に幸せを感じた。次に空腹に対して熱く美味いものを食べさせてもらった。しかしそういう事、詰まり何も死に瀕する程ではないが凍える程の寒さを経験した時に風呂で温まった事も、また空腹に堪え兼ねた時に矢張この生姜うどんを自分で作って存分に食べた事だって、その後何度もあったのだ。しかし私はこの時程の満足幸福を感じはしなかった。それは私が最初にあの風呂に入り、この生姜うどんで満腹になった時だけだった。私はいきなり人の家に押しかけ、主人の好意善意に甘え倒して自分のこれから先の事も一切心に思わなかった。それなのだ。今私は思う。それが私に最大の幸福を感じさせたのだ。そしてその事は此処の主人が毎日を喜んで暮らしている事と密接に関わっていた。が兎に角、今は話を先に進めよう。
絶大な美味さの生姜うどんの食事の後、私はストーブの前で主人に私の全てを話した。町で働いて生きていたがまともな職が無くいつも収入が少なかった事、また様々経験してきた仕事は誇りがもてる様なものではなかった事、優しかった両親も早くに亡くなって仕舞った事、最早生きているのが嫌になり死のうと思ってこの場所にやって来た事。主人は最初は穏やかな微笑みを浮かべて私を見詰めながら聞いてくれていたが、そのうち両目を閉じたと思ったら段々に真面目な顔付きになっていった。何一つ喋ろうとはしない。終いにはまるで人形の様に動かなくなって仕舞った。話が終わり私が口を噤んでも主人は一向に動こうとはしない。微動だにしないのでこれは若しや眠って仕舞ったのではないかと思ったが、私がそれを疑い始めるや否や、
「そうですか。まあ、大体判りました。しかし斯うして死なずに済んだのだから、良かったです、はい」
と両目を閉じたままそう言った。私が次の言葉を口にする事が出来ずに黙っていると、今度は主人が喋り出した。
「要するにあなたは、無理も無い事ではありますが、あなたの生きている今の環境に於いては生きていけないと仰るんですね?」
「まあ……、言ってみればそうです」
「しかしだとすると、どうしてそこで死ぬ、自殺という考えが出てくるのかが解らんのです。あなたの居た町なり何処でなり、その環境で生きていけないというのなら、別の場所で生きていったら良いだけの話ではありませんか? そういう考えは頭に浮かばなかったのですか?」
「…………」
「そこが私には解らない。普通の人間の頭ならそういう事は直ぐに思い付くと思うのですが……」
要するに此方が胸襟を開き、何一つ隠し事無く話さないと、こういう話題では会話が噛み合わないのだ。勢い、私は何も彼も喋らなければならなくなった。
「何処に行ったって同じですよ。そうじゃありませんか? 私が生きて行く為にはお金を稼がなければならない。すると私は何処かに勤めなければならない。何処に行ったって生きている、働いている喜びなんか無いに決まってると思いませんか? 今まで十以上の会社に私は勤めましたが何処も同じでした。私の働く労力を吸い取ろうとするばかりで、もう疲れたんです」
小屋の主人は少しの間黙ったが、直ぐにまた話し出した。
(その四に続く)
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