その二
湯気の幸せは実に嬉しいです。何というのか、その、何も考えられなくなりますね。思考は悩みも含めて完全に一時停止するのです。
風呂を幸いと、楽しみだと思える生活を続けるべきです。
私は全然驚かなかった。どきっともしなかった。私がこの声を耳にした途端思った事というのは、
「何でも可い、一秒でも長くこの場所に居る事だけを考えたら良いんだ。出てってくれと言われたら嫌ですと返事すれば可い。こんな生きるか死ぬかみたいな思い切って異常な状況に在る時には、何だって許される筈だ」
というものだった。如何に私が正気から遠ざかっていたのかが分かる。私は状況を把握する事よりも言い訳を優先して考えていたのである。私に命の熱が届くこの場所を私は『死んでも』離れない心算だったのだ。しかし薄暗い小屋の中に響いたその声はそれっきりで、続く言葉が何も無かった。その声の主も現れない。私は安堵した。
「ああ、暫くはこの場所に居る事が出来る」
だが人間らしい心地が私に戻ってくるにつれて、私の頭は何とか状況を把握し始めた。そして改めて先刻の声の事を考え始めたのだった。その声は穏やかで優しく、そしてこの小屋の主からすれば強盗とも泥棒とも見做されて然るべき私という侵入者を全く責める事をしないものだった。あまりに気さくな男の口調に、私は初め男が私を男の知り合いの誰かと勘違いしているのかと思った。しかし直ぐにそれは誤りである事を知った。軈て男は小屋の中に姿を現したのだった。
「吹雪かれて大変だったでしょう? まだ手足の感覚はありますか?」
壮年、いや、初老の優しそうな顔をした男だった。昔の人間らしくそんなに身長は無い。そして無精髭を生やしていて少し曲がった背をしている。何だか、
「私はあなたを責める気はありません。どうか気の済むまで此処で緩っくりしていって下さい」
とでもいった感じを漂わせている。既に正気を取り戻しつつあった私は男に返答した。
「はい、大丈夫です。あの……、勝手にお家に入り込んで済みません」
「構いませんよ。別に何も私は損をしませんのでね」
男はストーブの上に置かれている薬缶から湯呑に湯を注いで、私に差し出してくれた。それを飲んだ私は、命が私の身体に注がれて行くのを物理的な実感として感得した。これが蘇るという事なのか。私は、
「はああああーーー」
と息を吐いた。男は私の様子を全く見ていない。薬缶を元に戻し、ストーブに『じゃっ』と何かをくべた後直ぐに、
「じゃあこの後、お風呂に入って下さい」
と言った。これには私の方が動顛した。
「お風呂っ? 風呂と仰ったのですか? 何処の誰とも判らない私に、風呂に入れと言ってくれるんですか?」
そう言った後で、私は男の返事を聞くまでにもう一つの妥当な質問をした。
「この小屋には風呂が在るのですかっ?」
男は落ち着いた顔をして事も無げに答えた。
「ええ、余りに寒い日など、入ると幸せですからね。だから設置してあるのです。そこのドアです。それを開けて、暖かい部屋ですから其処で服を脱いで、そしてもう一つ中のドアを開けて風呂場に入って下さい」
この時になって私は気付いた。この小屋は床暖房だ。私の命を足の裏から奪う程に濡れて冷え切った靴下を脱いでいた私に、それが分かった。これはあの小さなストーブの温かさが床に伝わって温められたものではない。直接に床が温かい。そしてそんな事を思った後で風呂で身体全部を温める事が出来る喜びを思い、身を捩る程に喜んだ。私は言われた様にドアを開け、そしてその温かい部屋で脱いだ衣服を籠に入れ、もう一つのドアを開けた。すると、其処は濛々たる湯気ばかりの部屋だった。
「いきますよー」
男の声が何処からか響いた。返事のしようも無い。黙って待っていると、いきなり天井から何かが『どさどさどさーっ』と落ちて来た。直ぐに分かったが、それは大量の雪だった。そして次の瞬間『じゅわわーっっ』という雪が融ける、いや蒸発する音がした。僅かの灯りで見えたが、天井から落ちて来た雪が凄い勢いで湯気を上げ、融けているのだ。多分この下に鉄板か何かの金属板を敷いていて、それを十分に熱してから天井を開いて屋根に溜まった豪雪をその上に落とし、一瞬で蒸発させ尚且つ湯にもしているのだろう。私は何回か嚏をした。風呂の中が寒いのではない。あまりに水蒸気が濃いので鼻腔を擽るのである。
「其処に在る下駄を履かないと足の裏を火傷して大変な事になりますよー」
案内が親切だ。どうやらこの風呂は私の想像した通りの構造らしい。私は下駄を履き、湯舟の縁と思しき低い木枠を跨ぎ、猛烈な湯気とまだ雪として残っているその上を踏んだ。既に鉄板の上には湯に変わった雪が感じられ、これがこのまま本当の温泉になる事が予想された。
「も一回、行きますよー。湯舟の場所から退避して下さいー」
私は言われた通りにした。すると再び大量の雪が頭上から落下して来た。
「うおおおーーっ」
思わず私は歓声をあげた。またもや嚏が出る程の湯気、そしてこの雪塊で完全に湯舟に湯量が満たされるのが私にも分かった。
「後は其処に在る簀子を鉄板の上に敷いて、ゆっくり湯に浸かって下さい。時々湯舟から出て、身体を冷やして下さいね。それから左手に小さな窓が在るでしょう? 其処を開けると雪が在りますから、その雪を食べて水分補給して下さいー」
命の湯が其処に在る。そしてその湯に身を浸すのも自由だが、息が苦しい程の濃く大量の湯気の中に居るだけでも幸福の極みなのだ。全然寒くない。南国の様に暖かい。
湯に浸した私の両足は勢い良く神経感覚を回復した。指が動く。私は湯舟の縁に腰を下ろし、湯に両手を浸けた。これも天国の様な気持ちだった。暫くして両手全ての指が動いた。足も手も、死んではいなかったのだ。私は静かに静かに、極めてゆっくりと身体を湯に沈めて行った。この喜びと快感を何に例えたら良いのか。外はあの通り、一切の生き物の活動も存在も許さない氷の地獄。しかし此処はそうではなかった。壁、板一枚隔てたこの場所には命が許される、いやそれどころではない、生きる事の喜びを最大限に謳歌する事の出来る場所なのだ。私は全身を湯に横たえた。命だ、命の回復だ。私は他に何も欲しいとは思わなかった。大体が極度の空腹の筈なのに、それは決定的にそうである筈なのに、全然それを感じない。腹が減っているなどという呑気な欲求などではない、熱が、温度が欲しいというのは、もっと切羽詰まったぎりぎりで緊急の願いなのだ。
「ううっ……」
私は泣き出した。人の親切に触れたからではない。また生きる事に絶望して自殺を志願してこんなところにまでやって来たその悲劇性を改めて味わいなおして泣いてしまったのではない。そんな、論理を手繰らねばならない理路整然とした理由でではない。実に動物的に、まことに馬鹿馬鹿しくも直感的に、温かさに夢中になったのである。
「それでも、焼け死ぬよりは凍えて死ぬ方が良いだろうな」
などと、死地を脱して気楽になった私は阿呆の様な事を考え始めた。後になってから、私は私のこの一連の遭難劇と助け出された後の風呂の事を思うと、真実に自分の事を救い難い阿呆であるとしか思えなかった。死の氷、吹雪、あと少しで凍死というあの死線を越えて来た私が、この風呂の入浴後十数分でもうきっぱりとこの世の人になっていたのである。私の感覚からすると、死を間近に経験した人間はもっと賢くなるものだ。思慮深くなる筈だ。人間としての深味が出るに違い無い。それは私には自明の事である様に思われた。しかし現実には私は十分かそこいらでもう元の私、他の人間と何も変わる事のないそこら辺の俗物になり遂せていたのだった。死は私から遠ざけられた。しかしそれと同時に馬鹿さ加減が避けようもなく私を取り巻き始めた。まるでそれが私の影ででもあるかの様に。
初めは気が付かなかったが、外の吹雪の風の音がごうごうと風呂の中にまで聞こえている。そしてその恐ろしい、猛烈に冷たく痛い死の世界の音が聞こえれば聞こえる程この風呂は魅力を増し、私の快感は高められていくのだった。今や湯は少しだが熱過ぎるくらいだった。ところが屋外の恐るべき吹雪の咆哮を耳にするとその熱い湯に入りたくなるのである。私は、謂わば心理的に冷えていたのだ。それも徹底的に。それは現実の肉体が欲するだけの熱が満たされても猶、満たされる事が無かった。
「もっと、湯に入っていたい。もっと熱くても可い」
風呂に入って三十分も経っただろうか。私は少し眩暈がしてきた。そして不図この小屋の主人が言ってくれた事を思い出し、雪を食べようと小窓を開けた。この時になって漸く、私は自分の喉がからからになっている事を自覚したのだった。小窓を開けると其処からは冷気が入っては来たが直接外部に向かって開いているのではないらしい。しかし其処には若干の雪が積もっており、私は手掴みで雪を食べ、火照った身体の中に勢い良く嚥下した。
「ぐぐー、うむむっ」
私の両目は勝手に開いた。これは本当に唯の雪か。空から降って来ただけの水の凍ったものなのか。異様に美味い。僅かだが甘いのだ。勿論砂糖程のはっきり分かる甘味がある訳ではない。しかし実に上品に甘いのである。私は連続して雪を呑み込み、喉が潤され冷やされして行く快感に吾を忘れた。
「ちゃんと雪、飲んでますかー」
と優し気な声が風呂に響く。私は暫くしてから、
「はいー。今、頂いていますー」
と同じ様に優しい口調で返答した。
「甘いでしょー。此処等辺の雪は綺麗ですからねー、美味しい上に安心して飲めるんですー」
ああ、私は今一体何を体験しているのだろう。今私の身の上に起こっている事柄というのは一体何なのだろう。私は何か、今までにこんな幸福を得るに相当する努力を払っただろうか。それだけ立派に働き、他人に喜ばれる人生を送ってきただろうか。
また湯に浸かって、今度は安心した所為か異様に眠くなって来た。すると、
「そろそろ眠くなると思いますから、脱衣室に出て来て下さいー。動けるうちにー」
と案内の声がする。私は言われた通りに立ち上がり、風呂場を出て脱衣室に用意されたバスタオルで身体を拭き始めた。そしてこれも用意された乾いて温められたズボン、シャツ、セーターを着用して居間に出た。其処には小屋の主人が椅子に座って私を見詰めている姿があった。
「ささ、どうぞ。此方のソファに横になって下さい」
主人の前に在る綺麗とは言えない、しかしストーブに近いソファに私は座った。そして礼を言いまた多少とも自分の素性を説明しようと思った矢先に、
「今日は最早眠って下さい。大丈夫、ストーブは一晩中付けておきますから安心です。私はこの椅子で座ったまま眠りますから」
「あの……、助けて頂いて本当に有難うございます」
「いえいえ、お話はまた明日朝になってから伺います。多分今、あまりお腹が空いているとは感じておられんでしょう?」
「はい。腹は空いていません」
「身体が先ず睡眠に拠って体温を確保し、その上で休息を求めているのです。多分明日の朝には猛烈に腹が空きますよ。でも食べ物もあるので安心して下さい」
そういう対話を交わしている間に、私は目を開けている事も出来なくなって来た。睡魔、そう、つい先刻吹雪を避けるかまくらの中で感じたのと同じ眠気だった。しかし今度は間違っても死ぬ事は無い。私は直ぐに横に置かれていた分厚い毛布を被り、ソファの上でぬくぬくと眠って仕舞った。薄れゆく意識の中で私が最後に思った事は、
「この主人は、若しかしたら医者かも知れない……」
という事だった。で、そのまま私は意識を失った。
(その三に続く)
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