その一
寒い冬に家のお風呂に入っていて、この物語を思い付きました。深刻な話ではありません。素直に書きました。
なお生姜うどんは我が家の冬の御馳走です。みなさんも是非一度やってみて下さい。
もう生きていけないと思い、預金を全額引き出して私は借りていた部屋を逃げ出した。
部屋に金目の物は何も無い。働いていた、詰まりバイトしていた職場には良い人も良い仕事も無かった。それでも堪えてはいたが、遂に我慢がならなくなった。
「生きては、いる。けれど生きていくのは屈辱的過ぎる」
もう一つ言うなら、両親も私が若いうちに他界した。だから何の心残りも無い。今は一刻も早くこの住みにくい地上から左様ならしたいだけだ。
子供の頃優しい父母がまだ生きていてくれた時に私に与えられた一冊の雑誌、そこに写真が載っていた北の国の小さな軌道。
「御前は新幹線とか寝台特急とかじゃなくてこんなのに乗りたいのか」
「うん。多分僕の他に誰も行きたいとは思わないと思うんだ。だから僕が行ってあげたい」
父は私に優しく笑ってくれた。今でも父のその優しい表情は私の瞼に焼き付いている。昨日の事の様だ。しかしそんな軌道は疾うの昔に無くなっている。でもせめてその跡でも見てから私は死のうと思った。この世の名残だ。だから遠くこんな場所にまでやって来たのだった。
ところが季節を考えなかった私は無茶だった。と謂うよりも馬鹿だった。真冬なのだから。降りた鉄道の駅前は豪雪ながら、また猛烈に空気は冷たいながら綺麗に晴れていた。風は身を切る様に冷たいのだが露出している顔に陽射しが温かい。
「死ねるだろうか」
私は本気でそう思った。しかし除雪されて割合に歩き易い道路を進んで行くと、見る間に空が曇り辺りは昼間なのに薄暗くなってきた。しかしまだ私は思っていた。
「どうせ死ぬのだ。だったらこれでちょうど良いではないか」
しかし私の斯かる遊び半分の決意は、雪がそれを隠していた道路に沿う溝に私が片足を踏み抜いて、氷の様な冷たさに浸されただけで吹っ飛んでいった。
「痛っ! 痛いっ!」
そうだ。痛いのだ。冷たいのではなくそれは激痛だった。火傷したのを熱いと感じるよりも痛いと思うのと全く同じ様に。人間の皮膚とその内側の肉体が堪えられない冷温をそんな風に伝えてくるのだった。私は我慢出来ない冷たさ痛さを最初の五分は堪えて歩いた。しかし直ぐに最早堪えられないものである事が明白になった。私は零下の空気の中氷水に濡れた靴を脱いで素足を出し、タオルでそれを拭いた。そしてタオルを長靴に突っ込んだ後、その上から足を入れ再度長靴を履いた。その時私はつい先刻の自分、片足が溝に嵌まって堪え難い冷たさを感じたまま歩き出した時の自分を意識したのだった。私は、
「暫く歩いていたら温まってくるだろう」
と思っていたのである。しかし現実は違った。ここまで冷たいと全然体温がその低い温度を回復させない。私が堪えられないと思って長靴を脱いで足をタオルで拭いたのは、実はその『軈て温まってくる』という希望が潰えた事を自覚したからなのだ。それが私に、我慢をそこで投げ捨てさせた。
この事を意識した時、私は言葉に出来ない程惨めな気持ちになった。しかしそれでもまだこの時私は『どうせ世の中では生きては行けないのだから』と思っていた。だからそんな自分を虐める様に歩を先に進ませた。
「そうだ。戻って何うする。戻って、其処に何が待っているんだ。最早こんな世の中におさらばする為に、私は此処に来たんじゃないか」
しかし、タオルを突っ込んでから少しの間だけは温かかった長靴が、また次第に冷たくなってきた。それに四囲は既にかなり暗く、気温が急降下しているのがはっきりと分かった。辺りは次第に家々が少なくなり、人里離れた山間の様な感じになってきた。しかも此処に来て漸く、雪が降り出した。
「これは死ぬな。望み通り、私は死ぬ」
雪と風は忽ち吹雪と呼ぶに相応しい程度になった。それにこの場所に来るまでに除雪されている道路は既に終わっていて、私の膝上までの積雪になっている。其処を歩くというなら、一歩一歩行く度に長靴の両足に雪が入り込むだろう。これは最早動けない。しかし吹雪は容赦無く強まる。体温はどんどん奪われ、視界はゼロ。
「どうせ死ぬのなら、もっと楽な死に方があっただろうに」
完全に立往生だった。
「最期まで運の無い人生だった」
しかしこれは運が無いというよりも私が馬鹿だった事の方にずっと多く起因する事態だろう。私自身もそう思う。私は最後の力で積雪に穴を掘って簡易なかまくらを作り、せめて其処で少しでも楽をしながら凍死しようと、絶望的で悲しい努力を続けていた。こんな一生をしか送る事の出来なかった事を優しかった両親に詫びながら。両手両足の指先は既に感覚が無くなっていた。両手の手袋の中に在る指ももう駄目だ。リュックを握ろうとしたが、最早握る事も出来ない。動かないのだ。凍傷、そんな言葉が浮かんだ。
ところが、この段階で私は不思議な気持ちになった。もう凍死は確実だし、全ての指は凍傷になっているだろうし、凡る状況が私に死を宣告している状態なのに、私の心は不思議と落ち着いていったのである。そして暫くして気付いたが、それはかまくらを掘ってその中に避難した所為で思ったより、否、かなりその中が暖かかったからだろう。遉に座っている尻は冷たく、両脚も最早動かなかった。しかしあの吹雪に吹かれているのと比べたら雲泥の差である事は間違い無い。それに静かで心地良いのだった。
「死ぬ前には眠くなるというが、これがそうだろうか」
私はそんな事を思っていた。しかし私はその時になって、或る一つの事に気が付いた。これは本当にかまくらが私の心を静かにし、落ち着かせ、私を救ってくれたのかも知れない。
私は何かの匂いを感じたのである。それは芳香ではなかった。何かが焦げる様な、焼ける様な匂いだった。私は死ぬ直前になると人間は嗅覚まで変になるのかとちらと思ったが、その匂いは段々強くなってくる。これは錯覚や思い込みでは絶対に無い。私は無意識に吹雪かれて殆ど雪で蓋がなされているかまくらの天井を向いた。すると、明らかにその焦げ臭い匂いは強く感じられた。
「さて、何うする?」
私は考えた。若しかしたらこれが私の人生で最後の『思考』になったかも知れないものだった。このままこのかまくらで膝を抱えて凍死するのが一番楽である事は分かり切っていた。それで私のこの死出の旅の所期の目的も達成される。しかし何かが私がそのまま座して死ぬ事を阻んだ。私はいきなり立ち上がり、頭上に出来た雪の蓋を突き破って外に頭を出した。『くたばれっ!』とばかりに私の顔面に吹き付ける死の吹雪。しかし殆ど明るさの無い闇の中で私は自分が林の直ぐ横にまで来ていた事を知った。そしてその林の中は明らかに吹雪の程度がましである事も見て分かった。しかし何よりも重要な事として、何も見えない筈の暗い林の中に不思議とはっきり湯気が立ち昇っているのが見えたのである。それはほわほわとこの生死を分かつ峻厳な運命の時をまるで馬鹿にする様に、恰も別の世界から来たものの様に私の頭よりも少しだけ高い場所を漂って消えて行った。そして次には、例の何かが焦げる様な匂いが運ばれて来た。そうして私が、
「この吹雪の中、何かが燃えているんだ」
という意識を起こす直前、今度は吹雪の風の音に混じって、しかし聞き違う事など出来ない程に判然と、
「じゅわーっっ」
という何の音か判らない、しかし動物の鳴声でない事だけは確かな奇妙な音が聞こえてきた。そして次の瞬間林の中に小さな灯りが点っているのを発見したのだった。
この時なのだ。この時、この自殺旅行の間に私が見出した一つの真理が露出した。私は最早死ぬ事を覚悟、否、望んでいたのだった。かまくらの中で自分の生み出す事の出来る最後の熱を三角座りをして雪に接している尻から奪われながら死ぬ心算で居たのに、自分が助かる可能性を具体的に発見するや否や私の安住の地であるかまくらから飛び出して、一目散にその灯りの方向へと走り寄ったのである。よく脚も腰も両腕も動いたものだ。それに走ったと記憶しているのは実は意識だけで、最早走ってはいなかったのかも知れない。現実には何度も転んで、匍匐前進して這いずってその灯りに辿り着いたのかも知れない。しかしそんな事は如何でも可い。重要な事は、死ぬ事を望んで現実にここまでやった人間であっても、自分が死ぬ事の根拠を心の底から納得出来ていない者はそれを完遂する事が出来ないという事だ。生きる希望が僅かでも見えたら、それに向かって飛び付いて仕舞う。再び生きても、やっぱり同じ様に行き詰まる事は『分かり切っている』のに。ところがぎりぎりの、最早真実に危ない崖っ縁に来ると、それは突然分かり切ってはいない話になるのだった。私は今でも恐ろしい程明白に憶えている。その時私は思ったのだ。
「いや、分かり切ってはいない。そうはならないかも知れないじゃないか!」
その小屋の煙突ではないが、屋根の少し下に作られた穴、其処から水蒸気が外に出て来ているのだった。無理も無い事だが私には既に自己制御の力が残されていなかった。私は自然に小屋に近付き、その周囲を歩いた。ドアがあった。私は取っ手に手をかけ、声も掛けずにそのドアを押した。中は薄暗かった。しかし暖かかった。私は死ぬ気で此処に来たのだ。しかし私は呟いていた。
「助かった……」
そして私の口が勝手にそう喋った後で、私は私が微笑んでいる事に気が付いた。見ればとても小さなストーブが部屋の真中で赫々と燃えているだけだった。既に手足の感覚が麻痺している私には他の事を考える余裕は無かった。ジャンパーを脱ぎ、長靴を脱ぎ、びとびとに濡れて凍ったズボンを脱ぎ、ストーブに歩み寄った。小さなストーブの熱は私の身体に付着して凍り付いた雪を勢い良く融かし、私の全身から湯気を立ち昇らせた。私は全身から湯気を上げながら、
「あーーーっ、おううっ、はあうーっ」
と動物的な声を出し、知りもしない他人の小屋に上がり込んで命を繋いでいたのだ。すると突然、小屋の中に声が響いた。
「ああ、いらっしゃい」
(その二に続く)
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