竹束(1575年、長篠の戦い)
天正三年(1575年)五月二十〇日(7月8日)。奥三河の山中。
平三郎は、竹を見て手にした鉈を握りなおす。
高さからみて二才ほど。若い竹だ。目分量する。四回。いや、五回か。
鉈を大きく振り上げ、鋭く振り下ろす。五回目に竹を裂く感触が拳に届いた。
平三郎は内心でよし、とつぶやき顔にはださず作業を続けた。
足元に竹が並ぶ。主人の四郎二郎に目で問う。
「あと一本」
「うっす」
平三郎は、数えで十五才。
四郎二郎も、数えで十五才だ。
牧野家の鉄砲足軽である四郎二郎はふだんは猟師をして生活している。平三郎は牧野家の家人だ。いつもは四郎二郎について勢子を鳴らし獲物を担いで運ぶ。身分差はあるが幼馴染でもある。ふたりきりでの互いのやり取りは気安い。
「鉄砲一丁につき、竹束ひとつ。頼むぞ、平三郎」
「うっす」
平三郎は切った竹束を縛り、肩に担ぐ。
長い竹束は痩身の平三郎にとっては邪魔っけだが猪を担いで歩くのに比べればどうということはない。
山を降りたところで四郎二郎が後ろを振り返り、顔をしかめた。平三郎も後ろを振り返った。竹林はさんざんに荒らされ、ひどいことになっていた。
「丸坊主じゃないか」
「やべえっす」
山と竹林は寺社が管理している。平時であれば禁制が出ているので荒らされることはない。だがその禁制は大戦でまとめて刈り取るためのものでもある。
「南無阿弥陀仏」と四郎二郎。
「なんまんだ」と平三郎。
ふたりは手を合わせて念仏を唱える。
牧野家は伊勢の出だ。鉄砲と玉薬を求められたので、織田軍に鉄砲足軽を出している。鉄砲足軽は三十人で備えをひとつ作る。三十人の鉄砲足軽には供人がそれぞれひとりつく。
「いよいよ、戦が近いな」
「あっちにも鉄砲、あるんすか」
「竹束を用意しろってことは、あるだろうなぁ」
「うっす」
鉄砲足軽は戦場における要だ。
鉄砲は威力が大きく。音も大きい。馬が怯えて逃げるほどだ。それゆえ敵の鉄砲は味方の鉄砲の優先目標となる。
鉄砲足軽とて人間である。鉄砲の音が聞こえ、自分が狙われてると思えば動きがぎこちなくなる。鉄砲は弾込めから何から作業が多い。
だから竹束は安心をもたらすためのものでもある。鉄砲足軽が弾込めをしている間、竹束を前に出して身を隠し狙われないようにするのだ。
鉄砲足軽の陣は斜面の中腹にある。堀の代わりに小川が流れており、向こう岸に武田の旗が見え隠れしている。
陣に上がると奥に筵を敷いた寝床があり手前に大きな鍋があった。
火にくべられた鍋がぐつぐつと煮立っている。
「おう、牧野んところの四郎二郎と平三郎も戻ってきたか。これで全員だな」
足軽小頭が鍋を注視したまま、ふたりに声をかけた。
たいしたもので足軽小頭は備えにいる六十人全員の名前を覚えている。
「もうすぐ飯が炊きあがる。準備しろ」
平三郎は竹束を地面に置いた。炊きたての飯は二日か三日に一回だけ。その合間は冷えた搗き米を握り飯にして食べる。
「やったな、平三郎。炊きたてが食えるぞ」
主の四郎二郎はにこにこ顔だ。炊きたての握り飯を素直に喜んでいる。
「そっすね」
平三郎はますます戦が近いのだと思う。本当なら冷えた搗き米の握り飯がもう一日分あったはずだ。それを後にまわし炊きたてを食わせる理由は合戦の準備とみて間違いない。うまい飯を食わせて士気をあげるのだ。
うまいうまいと、ボリボリと搗き米の握り飯をかじる四郎二郎。平三郎は自分も握り飯をかじりながら、竹束の位置を目で確認した。
五月二十一日(7月9日)。黎明。
平三郎は薄暗がりの中で目覚めると這うようにして進み竹束を掴んだ。
「平三郎か。早いな」
背中に聞こえる足軽小頭の声に平三郎はぞっとした。
輪郭も曖昧なこの暗闇の中で平三郎が見分けられた理由はひとつだけ。足軽小頭は三十人の鉄砲足軽と三十人の中間がどこで寝ているかを記憶しているのだ。
「……うす」
平三郎は小声でいい頭をわずかに下げた。
「その竹束。お前が昨日、取ってきたやつか。同じやつを選んだな」
「うす」
「竹束に違いはあるまい。呪いでもかけてあるのか?」
「竹じゃないっす。縄っす」
「縄?」
隠す必要もないので平三郎は素直に答えた。
一ヶ月前のこと。陣触れがあり四郎二郎について出征することになった平三郎は出発直前に幼馴染のひらに呼び止められた。ひらは数えで十一才になる。
ひらが腰をくねくねしながら平三郎に渡したのが縄だった。
「無事に戻ってこられるよう社で願をかけてくれたそうで」
「ほほう。願かけしてくれたのか。母ちゃんじゃなくて、幼馴染が。ほうほう」
足軽小頭の声が笑みを含んでゆらぐ。
「ならその竹束を選ぶしかあるまい。お前らもそう思うだろ?」
足軽小頭が声をかけたのは、三人の従者だった。
「うす」「へい」馬の口取りが二人。
「……」荷物持ちが一人。
三人とも警戒を隠そうとしていない。
平三郎は内心で、むぅと唸る。牧野家が急ぎの陣触れを受け熱田神宮で合流してから半月。あちこちをうろつく間に少しずつ三人の警戒は下がっていった。ところが今は出会ったばかりに近い警戒ぶりだ。
「今日ってことっすか」
「そうだ」
平三郎はひとりごとのつもりだったが足軽小頭はまじめな声で同意した。
従者の三人と違い足軽小頭の態度はこの半月、まったく変わっていない。表面上は親しみやすい兄貴の顔をしている。つまり嘘の顔だ。三人の手下をのぞく全員を信用しておらず、それを表に出すこともない。
「わかるんすか」
「炊事の煙でな」
足軽小頭は鍋を叩いた。臨時の備えだからか日々の飯は足軽小頭が配る。
「昨日は武田の陣からも炊事の煙があがってた」
「まじっすか」
平三郎は東をみた。山の端が白くなりつつある。旗が動いている様子はない。
「お前は主をしっかり守れよ」
「そりゃ守りますが……こっちから、いくんすか。武田から、くるんすか」
「おれにわかるものかよ」
足軽小頭はケラケラと笑った。
「どっちでもやれるよう心構えだけはしとけ、ってことだ」
「うっす」
太陽の下が地平線から離れる。
登る日を背に武田の旗をつけた徒歩武者が走る。物見だ。
走りながら武士は周囲に目を配る。起伏があればすぐに駆け込む。西の様子を伺い、また走り出す。
伏兵はいない。矢も鉄砲も飛んでこない。
地に伏せたまま徒歩武者は背負った旗を地面に立てた。少し前なら堂々と立ったまま背の旗をみせる剛の者もいた。だが鉄砲が普及するようになると物見の死傷率が跳ね上がった。動いている間は狙われない距離であっても動きを止めたとたん集中砲火をくらうのだ。
後方から隊列を整えた武田軍が動きだす。旗の位置まで安全が確保されているから集団であっても動きは早い。
「まだだ。まだだぞ」
足軽小頭は鉄砲隊の後ろをゆっくり歩きながら繰り返す。
ここにいるのは各地から集められた臨時編成の鉄砲放ちだ。鉄砲を狩猟に使うことについては巧みでも戦争のやり方は素人だ。
「お前ら。こんな戦さっさと終わらせて帰りたいだろ。なら最初の一発は全員だ。まとめて撃つんだ。山猿の度肝を抜いてやれ」
何度も口にした言葉だ。抑揚のきいた節で歌うように繰り返す。
実際には足軽小頭は隊の誰が怯えているかということだけ注意を払っている。ひとり逃げだせば、残りの皆が動揺する。自分の隊が崩れれば、他の隊も逃げ支度だ。
後ろから呼びかけを続けるのは監視を意識させ、敵を待つ恐怖を軽減するためだ。
じゃーん、じゃん、じゃん。
銅鑼の音が聞こえてきた。武田の足軽隊からだ。前の兵が背負った銅鑼を後ろの兵が鳴らす。士気を鼓舞させ音の節に合わせて前に進ませようというのだ。
織田も武田も足軽小頭は兵を前に歩ませるため全力を尽くす。ぶつかった後のことなどしったことではない。ひとたび衝突すれば、兵は勝手に互いを貪り合う。
「まだだー、まだだぞー。まだ早いぞー」
足軽小頭は陣の後ろから全員の様子をみる。
三十人の鉄砲放ち。三十人の竹束もち。
男たちは陣の中にまちまちに散っている。
全員が足軽小頭の号令を待っている。
武田軍の先頭が渡河のため川岸をこえて降りはじめた。足場が悪い。隊列が乱れ動きが淀む。頃合いはよし。
「火蓋、切れぇっ!」
大音声の号令を聞き、四郎二郎が火蓋を開く。
流れるように滑らかな動きで鉄砲を構える。狙う。
「南無阿弥陀仏」
念仏を唱える。引き金を引く。衝撃。轟音。熱い滓が顔に散る。
竹束をかまえた平三郎が前に出る。
四郎二郎は平三郎と背中合わせになって鉄砲を装填する。
「当たったか?」
「倒れたっす。でも四郎二郎様の玉かまでは、わかんねえっす」
「みんな、同時に撃ったからなあ」
四郎二郎は火縄をはずして腰に挟む。銃口から上薬を入れ、玉を詰め、朔杖で突き固める。
背中を預けた平三郎に問いかける。
「どんな塩梅だ?」
「混乱して、後ろに引いてます」
「そうか」
火皿に口薬を入れ、火蓋を閉める。
火縄を振って色と匂いを確認し、火挟に差し込む。
何度が鋭く破裂する音が聞こえてくるのは武田側の鉄砲か。このあたりに織田の鉄砲がいると警戒し牽制しているのだ。
四郎二郎は懐をおさえた。鉛玉は残り八発。
四郎二郎はふう、と大きく息を吐いた。後ろを見ずとも平三郎と竹束が自分を守ってくれていると信じられる。
瞼を閉じ頭を巡らせる。伊勢を出て尾張で合流し三河に入った。この山中に陣を敷いて二日は何もなく四郎二郎は平三郎と一緒にあちらこちらをみて回った。物見遊山ではなく、地形を読むためだ。
味方の鉄砲の音が聞こえてくる。二発。三発。四発。ばらついた音の具合からどこを狙っているか想像できる。武田勢はまだ混乱状態だ。混乱している獲物は動きが読めないし撃っても当たらない。意識を研ぎ澄まし、しばし待つ。
再び味方の鉄砲の音。発射音が重なってくる。武田勢が近づいている。
音が。
調和した。
四郎二郎は瞼を開いた。
「平三郎」
「っす」
平三郎が竹束を持ったまま姿勢を低くし、邪魔にならぬようにする。
鉄砲を構えて立ち上がる。そこに来る、と考えた場所に銃口を向ける。
いた。
引き金を引く。衝撃と轟音。火皿から飛び散る口薬の滓が頬につく。
「南無阿弥陀仏」
念仏を唱え、しゃがむ。竹束を構えた平三郎が身体を起こす。
「どうだ?」
「当たったっす。ひっくり返って……あ、這って逃げてるっす」
「念仏が遅れたか」
竹束をもつ平三郎は背中で次の玉を装填する四郎二郎にかわって戦場全体の様子を伺う。設楽原の北からも南からも鉄砲の音が木霊する。
どちらが優勢か平三郎にわかるはずもない。平三郎が気にしてるのは逃げることになったら、どこをどう逃げるかだけだ。
武田に恨みはなく織田にも徳川にも恩はない。同じ陣にいる他の連中にはこの半月でそれなりの絆を感じているがそれでも自分と四郎二郎の命が最優先だ。足軽小頭と三人の手下がみなを警戒するのも当然のことだ。
四郎二郎がさらに一発を撃ったところで武田勢の動きが止まった。波が退いていくように足軽の姿が消える。入れ替わりに武田の鉄砲の音が大きくなる。こちらの射撃で陣の位置がばれたのだ。
「武田の鉄砲、どんな感じだ?」
「位置はわかりましたが竹束が多いっす」
「当たらんか」
「っす」
足軽小頭もまた戦場の様子を伺っている。
平三郎と同じくどちらが優勢かは足軽小頭にもわからない。だが、足軽小頭には味方が劣勢になった時のために握り飯という武器があった。
昨日、まとめて炊いた飯の残りは握りにしてある。これをいつ配るかは足軽小頭の裁量だ。予備の玉薬より、予備の握り飯こそが兵の脱走を防ぐ切り札となる。
足軽小頭のみたところ戦況は膠着状態だ。武田は仕寄りつつも手強いとみれば即座に退いた。
決着がつくのはまだ数日は先かと足軽小頭が踏んだところで、異変が起きた。
東の方角に、煙があがったのだ。
──長篠城が落ちたか?
なれば武田は引く。織田と徳川は兵を送って長篠城を奪い返す。
足軽小頭が率いる鉄砲隊は長篠城まで出向いて城攻めだ。一ヶ月はみておく必要がある。鉛と硝石は足りるが米が足りない。どこかで調達する必要があった。
足軽小頭の頭の中に他の諸隊との貸し借りの表が出てくる。すべてを持ち運べる牛馬を用意できない以上事前に貸し借りの形で恩を売ったり買ったりしておかねばこういう時に詰む。
──今日の戦で被害が大きかった足軽隊は後方に下がるはず。そいつらに声をかけ余った米俵を借り受けるしかあるまい。
足軽小頭が考えているうちに武田に動きがあった。いよいよ撤退するかと思っていたら、向かってきた。
理由はわからないまま足軽小頭は迎撃を指示する。こちらから攻めるのではなく待って戦うだけなら面倒は少ない。寄せ集めの鉄砲衆を率い竹束を構えて戦場を右往左往するとか想像するだけで胃が痛くなる。
武田軍の攻撃は散発的ながら執拗なものだった。
足軽小頭は昼過ぎには今日の前進はもうあるまいと踏み握り飯を配った。
その頃になると長篠城が落ちたのではなく武田が残した鳶ヶ巣山の砦が奇襲され火付けにあったのだとわかった。長篠城を支援する目的で数日前から山中に伏せていた二十人ほどの徳川方の忍者が、手薄になった武田側の警戒線を突破したのだ。
前日まで長篠城は武田軍の重囲下にあった。潜り込んで警備の隙を伺おうとした忍者のひとりが捕まって磔刑にあったほどである。何日も現地に伏せていた忍者たちは織田の援軍も設楽原の戦いのことも知るよしもなかったが武田勢が薄くなった気配は敏感に察し奇襲を成功させたのだ。
磔刑にあった忍者の名を、鳥居強右衛門という。
幾度目かの武田の仕寄りが終わった。
鉄砲の音が遠ざかり、聞こえなくなる。
夏の日が傾いて影が伸びていく。空はまだ白い。
「どうやら、勝ったらしいぞ」
「ほんとっすか」
「たぶん、な」
諸手抜で集められた臨時編成の鉄砲足軽に、味方の伝令が来るのはよほどの場合だ。
日が落ちる頃合いになっても伝令も敵もどっちもこないならこれは勝ったとみなしていいだろう。
四郎二郎も平三郎も、安堵の息をつく。
「残った玉は、一発だけだ」
「じゃあ暗くなる前に作っとくっす」
「頼む。わたしは銃の掃除をして火薬を調合しておく」
今日が無事に終わったとしても何もかもが終わったわけではない。
武器の手入れ。玉と火薬の調合。明日もまた今日と同じように戦があるかもしれないのだ。
平三郎は一日でぼろぼろになった竹束を結んだ縄をほどいた。竹束に命中した玉のうち残っているのは二発。どちらも竹を割って中まで食い込んでいる。
「うわっ……よく耐えてくれたなあ」
「ひらの願掛けのおかげっす」
「自分の髪の毛を縄に織り込んだと聞いたぞ」
「ありがたいっす」
平三郎は、縄を拝む。
願掛けというより呪いに近いだろと四郎二郎は思ったが口には出さないでおく。ひらが時おり自分に向ける泥のような目玉が怖かったせいもあるが、ひらが家人の平三郎と仲良くなってくれるのはよいことだからだ。
平三郎は割れた竹をより分け、残った竹で少し小さな竹束を作る。
「ちょっと細くなったな」
「体を斜めにすりゃ、大丈夫っす」
竹束をどう運びどう構えどう体を隠すか。あれこれと試行錯誤する。
四郎二郎は狙う側の視点で、竹束をもつ平三郎にあれこれと口出しする。
ふたりの顔に浮かぶのは笑顔だ。負け戦なら最初に捨てる心の余裕がふたりを笑顔にしていた。
奥三河に、夜の帳がおりてくる。