だから、言ったのに
「花田さん、今日の広告を確認したら弁当コーナーのカツ丼が安くなるみたいですよ?」
「あー、はいはいはい、そうなんだ。」
とあるスーパーの弁当、惣菜を作る仕事をしている私、石井 末子はチーフである中年の男性、花田さんに声を掛けた。お店の開店は10時、現在の時刻は9時30分であった。
――どうせ、聞き流しているんだろうな…。
開店に向けて商品の陳列をしている花田さんは、私の方に顔を向ける事はなかった。調理場に戻り、何時もと同じ作業であるコロッケを揚げ始めた。
「石井さん、悪いんだけどこれを運んで貰えるかしら? ちょっと腰が痛くてね。」
同じ調理場にいた中年女性、美河さんに、床に置かれた冷凍食品の段ボールを指差された。
「分かりました、すみませんがコロッケをお願いできますか?」
「勿論よ、助かるわ。あと何分かしら?」
「あと7ふ(ガラガラッ)「美河さん! 家の子供この間の試験合格したわよ!!」」
時間を伝えようとした時、調理場の扉を開けて鮮魚部門で働く中年女性が美河さんに話かけてきた。
「え、本当に?! おめでとう、やったじゃない!!」
美河さんは嬉しそうに笑いながら女性と話し始めた。
――…このままだと、冷凍食品溶けてしまうわよね。
話をしている邪魔をしたくはなかったが、時間が掛かってしまいそうであった為、段ボールを持ち上げた。
「…お話し中すみません、冷凍食品運んでいきます。コロッケはあと6分程で揚がりますのでよろしくお願いします。」
「あっ、分かったわ、よろしくね。」
美河さんはそう言うと、また話に夢中になっていた。楽しそうに会話をする二人を通り過ぎて、調理場を離れた。
――プライベートな話は休憩時間にやって欲しいわ。
ため息を吐きながら歩き続けた――。
私、末子は人間としての価値が薄いと感じていた。友人がいない、美人ではない、頭も良くない、自分に取り柄がなかった。でも、何よりも自分が惨めに感じてしまうのは、自分の言葉を聞き流されてしまう時であった。それは家族、職場に置いても同じであった。
この事に気がついたのは、母との会話であった。ある日、テレビを見ていると見たことのない料理名が出ていた。
「末子、これは何?」
母は昔から視力があまり良くなくて、テレビの細かな文字が読めなかったので教えてあげていた。しかし、その数日後にも同じ料理が紹介されたが、同じように質問された。答えてあげると反応も同じで「ふーん…。」と言うのであった。
「…お母さん、これ少し前に見たやつだよ?」
「そうだっけ?」
この時は母が忘れっぽいのだと思っていた。
ある日、観光名所を巡る番組を見ていた時に、トイレに行きたくなり立ち上がろうとした。
「この場所、何ていうの?」
母に言われて、いつも通りに教えてあげた。
「○○だよ、年中寒いところなんだってさ。」
そう言いながら立ち上がり、トイレに行こうと振り返ると母が視界に入った。母はテレビを見ておらず、小説を読んでいた。
「ふーん…。」
小説を読みながら返事をする母を見て、何とも言えない気持ちになった。その時から、母や周りの反応が気になるようになってしまった。
職場では、商品に対する意見を言っても「はいはいはい。」と花田さんに適当な返事を返されてしまった。客の対応で席を外すと伝えても、戻ってくると「何処に行っていた、行くなら行き先を言え」と言われて怒られてしまった。
――偶々忙しかったり、私がオドオドとしたり、的はずれな事を言っているから怒られるんだと思っていたけれど…。
何とも言えない気持ちを抱えながら、家に帰り、テレビを見て、母から質問されて、答える。同じ事の繰り返しの最後に母を見た。
「…お母さん、私の話聞いてないよね?」
「うん。」
いつも通り小説を読みながら、此方を見ずに母が言った。
――なに、それ……。
この日から、母に質問されても聞こえないフリをするようになった。興味がないのに質問される事に苛立ちを覚えたからだった。母はふとテレビを見た時に、少し気になって聞いただけだったのだろう。でも私は、その程度の興味ならば、聞く気がないならばやめて欲しかったのだった。
――質問したから態々答えてあげたのに…。
苛立ち、態と答えなかったが母は気にした様子がなかった。やはり、その程度の事だったのだ。
それから数年が経ち、ある日の事だった。
「お母さん、私今日は用事があるって言ったよね? 一週間前からずっと言ってたでしょう!」
大事な用事があった日に、母が一緒に買い物に行こうと誘ってきたのだった。別に誘われるのは悪くなかったのだが、一週間前と昨日の夜に言っていたにも関わらず、忘れられていた事に苛立っていた。
「あー、ごめんごめん。そうだった…け?」
少し驚きながらも、反省する様子もなく普段通りの様子の母。言葉からしても、思い出していない事が分かった。
そして私は、何か嫌な事があった訳ではなかったし、数分前までは何時もと変わらなかったけれど、この母の様子に何かが切れる音がした。
「…ねぇ、お母さん。前から思ってたけど私の言葉聞き流しているよね? 忘れてるんじゃなくてさ、そもそも聞いてないよね?」
「…何言ってるのよ、ちゃんと聞いてるわよ。」
「前に私が、「私の話聞いてないよね?」て聞いた時、頷いてたじゃない。」
「えっ、……そんな事あったっけ?」
少し驚いた様子の母を見て、怒りというよりも失望感が湧いてきた。
――あぁ…それも聞き流していたのか…。
「…その程度なんだね。お父さんの話は忘れないくせに。」
母は父の言葉を忘れた事はなかった。1か月前に言われた事も覚えていて、私が知らない事も知っていたのだった。母は顔を顰める。
「…あのね、末子。あんたももう大人なんだから分かるでしょ。人間は完璧じゃないのよ、誰だってミスしたり、忘れる事はあるわよ。そんな事で一々怒っていたら、社会で通用しないわよ!!」
母は私を叱るように言う。私は何も言わずにその場から離れた。
――だから、言ったじゃない…「「忘れてる」じゃなくて聞き流してるよね?」てさ。やっぱり聞いてないのね…。
悔しさと怒りを胸に秘めながら、自分は蔑ろにされる人間なんだと認識したのであった。勿論、何とかしようと努力もした。会話が上達する本を読んだり、ネットを参考にしたり……けれど、どれも上手くいく事はなく、どんどん惨めになっていった。そして、私は諦めたのだった――。
段ボールを運び終えて、調理場に戻ると焦げたコロッケが網の上に置かれていた。
「…あ、石井さんごめんなさい!」
美河さんは私に気が付くと謝罪してきた。
「話に夢中になってしまっていて……これ、花田さんに内緒にしてくれないかしら? 今からゴミ捨て場に行けばバレないわよね?」
隠蔽なんていけない事だ。けれど、美河さんとの関係を悪化させたくなかった。
「仕方ないですもんね、分かりました。」
「ありがとう、石井さん!」
美河さんは安心したように微笑むと、ゴミ袋に焦げたコロッケを入れて、ゴミ捨て場に向かって行った。
その後、扉が開く音がすると花田さんが居た。
「…まだコロッケは出来てないのか?」
「あ…すみません、冷凍食品を運んでいてまだ揚げてないです…。」
「早くしろ。」
つっけんどんにそう言うと、花田さんは餃子を焼き始めた。少し嫌な気持ちになりながらも、ふと思った。
――もし、コロッケの事を伝えたのが花田さんだったら、美河さんも忘れなかったわよね…そもそも、花田さん相手に頼み事とか、プライベートな会話なんてしないのよね。
よくネットで見る、「もし、虐められているのが〇〇さんだったなら〜」という項目を目にする。日常でも「もし私だったら〜」という言葉を聞くが、正直参考になった事がなかった。そもそも、例えられる人というのは、そんな状況にはならないからだ。
何時も友達に囲まれているような人は、虐めなんかには遭わないだろうし、強面の人に初対面で喧嘩を売ったりはしないだろう。
――…羨ましいなぁ。
コロッケを揚げながら、そう思った――。
「何故確認しなかったんだ!!」
しかし、今日は今までとは違う出来事があった。商品を並べ終えて、裏に戻ると、店長の怒鳴り声が聞こえてきた。様子を見に行くと、花田さんが怒られていた。
「す、すみません…忙しくて広告を見ていなかったです。」
「言い訳をするな! 広告を見るのは仕事の1つだろう、お前は忙しければコロッケを揚げずにそのまま出すのか? そういう事だぞ!
お客様から「カツ丼の値段が高い、広告詐欺だ!」と怒られたぞ、それにもう購入されたお客様も居るんだ!!」
話からして、今日安くなったカツ丼についての内容であった。店長はすぐに値段の張り替えと、安い値段のポップを置くように伝えると、その場を小走りに去って行った。
「…くそ、だったら何故朝礼で言わなかったんだ! 何も聞いてないぞこっちは!」
花田さんは吐き捨てるように言う。確かにカツ丼の件は、朝礼で報告がなかった。元々店長が忘れたのか、急遽決まった事だったのかは分からない…でも店長に言い返す事は出来なかったのだろう。
――でも、私は気が付いたから教えてあげたのに…。
値段の張り替えと、ポップ作りはチーフの仕事だった。だから伝えてあげたのに…そして、私が伝えた事も認識すらしていなかったのだと花田さんの様子を見てよく分かった。
「だから、言ったのに…。」
何時もと同じ事を思った…でも今までと違い私は、喜んでいたのだった――。
それから、私の中で何かが変わった。自分の話を聞き流される事に不満をあまり感じなくなった。
「え? 今日は魚の特売日だったの!? …だったら昨日我慢したのに。」
――だから、言ったのに。
「痛っ…!? こんな所に荷物置くなよな、気が付かなかったぞ。」
――だから、言ったのに。
私が教えてあげた事を聞き流して、損をしている人に心の中で言ってやった。そう、私は私の言葉を聞き流した人が、痛い目を見たり、不幸になるのが嬉しくなったのだった。
――ざまぁみろ、人の言葉に耳を傾けないからよ!
「おい、今の客の前に待っている客が居たぞ、どうして言わなかったんだ!」
「す、すみません。気が付かなかったです…。」
花田さんの言葉に、美河さんは申し訳無さそうな顔をしていた。
「石井、お前は何で言わなかったんだ?」
花田さんは私に言ってきたので、私は冷静に言い返した。
「えっ…私は言いましたよ? 花田さんに、返事も聞いてますし…。」
嫌味に聞こえないように、けれど自信満々でそう言うと、バツが悪そうに花田さんは顔を背けた。
「…一度だけじゃなくて、何度でも声をかけろ。」
そう言うと、作業に戻っていった。私は真面目に仕事をしてきたので、何も疑われなかったのだろう。蔑ろにされる人間は、役に立たない人間ではなくて、内気で真面目な人間であると言われている…本当に迷惑な話だわ。
――でも、今までの苦労が報われたわ…だって、さっきのは嘘だもの。
そう、客が待っている事はわざと言わなかったのだ。花田さんと美河さんに嫌な想いをして貰う為だった。露骨な嫌がらせをされた訳でも、虐められたわけでもないけれど、少しずつ積もっていた不満があった。
――ふふ、そうとは知らずに…ざまぁみろ!!
私は心の底から嬉しかった。私の言葉を聞き流して、蔑ろにする人達には報いが訪れる事を心の底から願った。あの日、店長に怒られる花田さんを見て、自分の今までが報われた気がしたのだ。
――だから、言ったのに。
この言葉を喜びながら思う日が来るなんて思わなかったのだった――。
「末子、明日は特に予定は無かったわよね?」
母から話しかけられる。恐らく買い物を頼むつもりなのだろう。
――明日は家でゴロゴロしたいからなぁ…。
「お母さん、明日は用事があるから無理だよ。前にも言ったんだけどさ。」
あの日、口喧嘩した翌日から、何事もないように過ごして来た。母は何も変わらなかったが、私は変わった。私が言った事を聞き流して、聞かなかった母が損をするのが他の人達と同様に嬉しかった。けれど他人とは違い、身内であった為、母が損をした後に「だから、言ったのに」と一言返していたのであった。
「何を言っているの…そんな話聞いてないわよ?」
しかし、この日は違って母は反論してきたので、私は少し固まってしまった。
「…どうせまた聞いてなかったんでしょ? 今までだってそうだったじゃない。」
「…メモを取るようにしたの。」
誤魔化す事なんて簡単だと思っていたのに、母の言葉に驚いてしまった。
「末子に色々と言われてから、用事があると言われた日付をメモするようにしたの…だから、自信があるわよ。」
母は真剣な顔で私を見てきた。
「…末子、アンタは神経質すぎるわよ。聞き流される事なんて誰にでもあるわ、私も良くあるもの。でも一々怒ってても仕方がないのよ、アンタはみんなの話を忘れずに覚えているの?」
「…誰にでも? 私は一般的な人達の平均よりも聞き流される事が多い気がするけれど? それに、私は聞き流したりなんかしない、ちゃんと話は聞いてるもの。」
私は言い返した。どう考えても、こんな悩みを持っているのは周りに私しかいないと思った。そして「自分がされて嫌な事は、相手にしてはいけない」という言葉を胸に秘めて、相手の話の内容はともかく、しっかりと話を聞くようにしていた。
「…そう、でもね、最近はどうなの? アンタ…もしかして自分を嫌な目に遭わせた人に嫌がらせをしてないかしら?」
母の言葉に心臓が嫌な音をたてた。
「…何が言いたいの?」
「…アンタ、この前私が魚の特売日の前に魚を買った話をした時、嬉しそうに笑っていたもの…アンタの話を覚えていなかった私に対して喜んでいるんじゃないか、てね。」
沈黙が訪れ、冷や汗が流れる。母が、私を見ていたなんて思わなかった。
「…アンタの話を忘れてしまった事は謝るわ。せめて用事のある日くらいは覚えておかなきゃと思って、すぐに書くようにしたのよ。だから今回は私が正しい筈よ。
末子、どんなに辛くても嫌がらせも、嘘もいけないわ……何時か自分に返ってくるわよ。」
母は私を諭すように言い聞かせてくる。言っている事は全て正しかったけれど、今の私には耳障りだった。
「…何を言ってるの、私はちゃんと言ったわ、お母さんが間違ってるのよ。それに、お母さんは忘れたのではなくて、聞き流しているのよ。そもそも頭に入ってないの、やっぱり私の話を聞いてないんだから。」
「…っ末子!」
「それにね、お母さんも知ってるでしょ? 「過去と他人は変えられない、自分が変わるしかない」て言葉を。私は、自分が幸せになる方法として、少しだけ考え方を変えただけなのよ、何か文句ある?」
そう行って、自分の部屋に戻った――。
――本当に五月蠅い、何も分かってないんだから!
翌日、苛立ちを抑えきれないまま仕事をしていた。
「石井さん、後でこっちのコロッケも揚げておいてくれる? 置いておくから。」
「はい。」
――本当にムカつく、なんなのよ。
自分が嘘を吐いていた事を見抜かれて、正しいけれど言われたくない綺麗事を言われたからか、腹の中が収まらなかった。
「おい、このコロッケ出しっぱなしだぞ。」
コロッケを並べ終えて、他の業務をしていると、花田さんの声が聞こえてきた。
「それは、私が石井さんに頼んでおいたものです。」
「…は?」
美河さんが私の顔を見て言った。何の事だか分からなかった私は固まってしまった。
「私がさっき言ったでしょ? 忘れちゃったのかしら?」
「す、すみません、此処にあるなんて気が付かなくて…」
「それも言ったわよ、全く…。」
美河さんが呆れたように言ってきた。
――、嘘を吐いてるんじゃ…私が聞き逃す筈がないもの!!
「…本当に、教えてくれたんですか?」
「…はぁ?」
美河さんが驚いたような顔をしてきた。
「だって、私が知らないはずが…」
「何でもいいから、早く揚げろ。」
花田さんは苛立ったように私に言うと、調理場を出て行った。美河さんは私を睨みつけると自分の作業に戻った。
――あ…わたし、やってしまった。
職場で不仲にならないように気を付けていたのに、美河さんからの不興を買ってしまった――。
帰宅後、今後の事を考えてしまう。あの後謝罪する事もできず険悪のまま終わってしまった。
――どうしよう、どうしよう、謝罪しないと…で、でも私が聞き流す筈がないのに!! もしかして…態と陥れてきたんじゃあ…!
何時も助けてあげたのに、なんでこんな嫌がらせをされるのか分からず、私は怒り、焦り、悩みながら明日が来る事を恐れていた――。
テレビを見ながら、末子の元気なさそうな様子を思い出し、末子の母は溜息を吐いた。
「だから、言ったのに…。」