「そこにあなたはいなかった」
その晩、俺は厨房の椅子に座り酒を呑んでいた。
修道院産のアニス(消化不良に効き、胃の働きを強める)を効かせた、甘めの薬草酒だ。
普段は呑まない俺だが、頭の中のモヤモヤが晴れなくて、寝酒でも口にしなきゃ眠れそうになかったから。
「あら、珍しい」
ほどなくして、カーラさんがやって来た。
夜の見回りの途中とのことだったが、なぜか椅子を引き寄せてきて俺の対面に座った。
手にしていたカンテラはテーブルの上に、薄暗がりで呑んでいた俺に、その明かりはちと眩しすぎたが。
「なんですか、別にいいでしょう勤務外の時間に酒を呑んだって」
「ダメとは言ってませんよ。ただ少し、心配になっただけです。あなたはいつも、ひとりで抱え込むから」
シスターたちのまとめ役らしい落ち着いた目で、カーラさんは俺を見つめた。
「またどうせ、何かを思い悩んでいるんでしょう? 作業の後、様子がおかしかったですから」
「……気づいてたんですか」
さすがは聖職者。
その上で俺を心配して様子を見に来てくれるとか、気配りがよすぎる。
「司祭でないわたしには、懺悔を聞くことも赦しを与えることもできません。でも、話を聞くことであなたの気持ちを楽にしてさしあげることならできるかもしれません。どうですかジロー、ここで話してみては」
どうですかと言いつつも、言を左右にして逃げられるような気配ではない。
しかたねえなとため息をつくと、俺はカーラさんの言葉に甘えることにした。
「ええと、かいつまんで言うとですねえ……」
以前カーラさんには聞かせたことがあるが、俺の両親はいわゆる毒親だった。
親父の浮気で家庭崩壊、お袋の育児放棄で妹が餓死。
ホントに救いようのない最低の両親で、愛情なんかこれっぽっちも感じたことがない。
「正直セラも同じような気持ちなのかと思ってたんです。口減らしで家を出され、こんな極寒の地の修道院に入れられて。おかーさんがこう言ったおかーさんがああ言ったって、あいつは事あるごとにお袋さんの話を持ち出しはするけれど、内心では恨んでるんじゃないかって思ってたんです」
でも違った。
セラは家族のことを笑顔で話し、今もなお故郷に戻りたいと思っている。
正シスターになったことを褒めてもらいたいし、バレンタインには自分が作ったチョコを食べて欲しいとすら思っている。
「そこがどうしても、割り切れないんです。おまえホントにそれでいいのかよって、一言の不平も漏らさず愚痴をこぼさず、自分を捨てた両親を簡単に許していいのかよって」
カーラさんはすっと居ずまいを正すと、真面目な顔で言った。
「ジロー、ひとつ言っておきます。こちらの世界は、あなたが元いた世界ほど優しくないのです。戦争があり、貧困があり、差別がある。それ自体はそちらの世界も変わらないのかもしれませんが、そもそもの文明レベルが違うんです。こちらの世界では、産まれた子供が十歳にもならないうちに死ぬ。そんなことはまったく珍しくもないことなんです」
カーラさんは困ったように眉を歪めながら、けれどこれ以上ない真摯さでこちらの世界の状況を説明してくれる。
「あなたの妹さんが飢えで亡くなった。それはたしかに悲しく、辛いことだと思います。同情できる部分は大いにある。ですが、それすらもこちらの世界ではままあることで……」
「……だから、セラみたいな扱いを受ける子供も珍しくないって言うんですか? だからしょうがないって?」
「ごめんなさい……どうか怒らないで……」
怯えたような表情でカーラさんに言われて、初めて俺は、自分が怒っていることに気がついた。
ぎゅうと拳を握りしめ、歯を食いしばっていることに。
「や、こっちこそすいません。せっかく話を聞いてもらってるのに」
俺は自らの頭を拳でゴツゴツ叩き、猛省した。
「……ジロー、あなたは本当に優しい人なのですね。そして、だからこそ苦しんでいる」
カーラさんは俺の目を見ると、ゆっくりと教え諭すように続けた。
「ジロー、わたしたちは神ではありません。この世は天界ではありません。不公平で、不平等に出来ています。そして多くの場合、無力です」
「……」
「セラの家もそうだったんです。長く続いた吹雪のせいで不猟となり、このままでは家族全員が飢えて死ぬ。そういう事態に陥った。そこで目に入ったのがセラです。セラと、セラの持つ癒やしの力です。ねえ、ジロー。あなただったらどうしますか? 家族全員飢えて死ぬか、ひとりを神の御許に差し出して、残り全員で生き残るか」
「……俺だったら、そうなる前に手を打ちます。飢えて死ぬなんてこと、絶対させない」
今回の厳寒期がそうだったように、サバイバルの知識をフル活用して生き残る。
木の根を掘ってだって、生きのびてやる。
「セラだけをなんてことは、絶対に……」
言えば言うほど、虚しさだけが胸をよぎる。
「たしかに、あなたになら出来たでしょうね」
カーラさんは俺の力を十分に認めた上で、しかし悲しげに首を横に振った。
「でも、ジロー。わかるでしょう? そこにあなたはいなかったんです」
ぐうの音も出ない正論だった。
そうだ、セラが口減らしされたのは当時の判断としては常識的で、こちらの世界でもままあることで、こうしてぐだぐだ騒いでる俺が甘っちょろいだけなんだ。
でも──
だからといって──
「……」
俺はセラのことを思った。
あの日、俺につまみ喰いを見つかって、厨房の片隅で働いていた女の子。
いじめられて泣いて、空腹で泣いて、寂しさで泣いて、神様なんかいないよと死んだ目で語っていた女の子。
そんなセラを捨てた両親を許せって?
もう過ぎたことだからと、それが常識だからと、笑って水に流せって?
「……理解は出来るけど、納得はいかないです」
俺はぶすっとして答えた。
ガキだなと思いはするが、それでも、納得だけはしたくなかった。