「そば粉のタルト・タタン」
火の温度を理解し、操ることで、料理人には様々な恩恵が与えらえる。
たとえば何度になれば脂肪が融け始めるか、タンパク質やコラーゲンが変性し始めるか、でんぷんの分解が起こり始めるか。
これらは料理を行う上でとても重要な目安になる。
だが、最も大事なのはメイラード反応の発生する温度だろう。
メイラード反応とは、1912年にフランス人化学者ルイ・カミーユ・メラールによって報告された成分間反応だ。
食品の分野に絞ってものすごく噛み砕いて言うならば、アミノ酸と還元糖を熱した結果として生じる物質が、料理にアロマを付加し、コクを加える。
また褐色の色素を産むことで、食欲を増進させる効果がある。肉やパンを焼いた時に生じる好ましい焦げ目などがそれだ。
このメイラード反応が顕著に現れる温度帯が、160~180度と言われている。
今日多くのレシピにおいて、「180度に予熱」といったような記述が頻出するのもそのためだ。
昔の料理人だって、当然この温度帯のことは知っていただろう。
だが、それはあくまで勘と経験によるものであり、100%の精度で操れるものではなかった。
──ここは、あなたの住んでいた世界ではないんですよ。北の最果ての、調理器具はもちろん食材すら満足に揃わないようなど田舎なんですよ。その上でなお、あなたはその天国の味を再現出来るというんですか?
そんな風にエマさんが言うのも、無理からぬ話だと言える。
「料理用の温度計が無くても正確に温度を測れる方法ってのがありましてね。例えば小麦、砂糖……まあその辺はもったいないので今回は水、ということにしておきましょうか」
エマさんにも見えるようにわかりやすく、熱したフライパンに水を数滴ずつ垂らしていく。
「例えば100度ではなかなか気泡が出来ない。150度ではすぐに小さい気泡が出来る。そして180度ではすぐに大きな気泡が出来る。そして……」
「わわっ? 水が踊り出したよっ?」
フライパンの上で水滴が滑り始めたことに、セラが驚きの声を上げる。
「これはライデンフロスト効果と言ってな。水滴がフライパンと接する部分が瞬時に気化され、水蒸気となって薄い膜を作り、水滴がフライパンと直接接しない状態が出来上がるんだ。その結果こうしてホバークラフトのように……ええとなんだ、こっちの言葉だとスケートみたいに? 違うか……まあとにかく、このようになるわけなんだ」
「ほわー、なんかすごいんだ?」
「もちろん、これだけでは正確とは言えない。この効果自体はもっと低い温度帯から発生するからな。ただ、気泡の出来る速度、滑る勢いに差がある。そこで料理人は、この行為を何度も繰り返すことによって火の温度を掴んでいくんだ。自分のフライパンであることが大事ってのはそういう意味だ」
「すごい、すごい、すごいねえーっ? ジロー、偉ーいっ」
絶対本質的な部分は理解してないのだろうが、セラは無邪気に拍手をして寄越した。
いつの間にか集まって来ていたシスターたちもつられたように拍手を送り、エマさんは悔しげに握り拳を震わせていた。
「ま、理論はともかく実践だな」
ひとりごちると、俺は作業に移った。
リンゴの皮を剥いて薄切りにし、フライパンにバター、塩、蜂蜜を入れ、160度でとろみがつくまでことこと煮詰める。
「うおおお……とろっとろだあーっ」
とろっとろを表現しているのだろうか、セラがぐにゃぐにゃと左右に揺れている……のは無視しつつ、甘く香り立ったリンゴにさらにシナモンを乗せ、リンゴが薄く色づいてきたらバターを塗ったケーキ型に綺麗に並べていく。
「セラはもうこれでいいと思うのっ。このまま食べたいっ」
調理台をパチパチ叩いて力説するセラ氏。
「気持ちはわからんでもないが、今は待て。そうすればさらに美味くなる」
「ううー……うううー……? 美味く……もっと美味くなる……?」
「当ったり前だろ。いちいち素材の力に負けてたら、料理人なんぞ名乗れやしねえよ」
「ううううー……?」
よだれだらっだらのセラに摘まみ食いしないよう厳命しつつ、俺は次の行程、生地作りに移った。
そば粉に卵、牛乳、蜂蜜、バター、オリーブオイルを混ぜ、乾燥を防ぐために濡らした布巾でボウルを包んで休ませて……。
「……さあて、大きなことを言っちまった以上、頑張らねえとな」
休ませた生地を麺棒で伸ばす。
持ち上げ、引っ張り。持ち上げ、引っ張り。
硬くなりがちなそば粉の生地を、細心の注意を持って柔らかくしていく。
綺麗に滑らかに整ったら、あとは仕上げだ。
ケーキ型の上にかぶせ、180度に予熱しておいたオーブンで30分ほど焼いて……。
「オーブンから出して、適度に冷めたところに皿をかぶせ、一気にドン! とひっくり返す!」
「うおおおおおー!? どどどどおおおおおーんっ!?」
思ってもみなかったパフォーマンスに仰天して飛び上がるセラ。
セラのリアクションにつられてか、審査員席、そしてシスターたちの間からも歓声が上がる。
「蜂蜜でキャラメリゼしたリンゴのタルト。『そば粉のタルト・タタン』です。さあ召し上がれ」
出来上がりを審査員席に差し出すと、どっとシスターたちが沸いた。
──……何これ、この香りっ? ただのリンゴがこんな香りを放つものなのっ?
──見た目も最高じゃないっ? まるで琥珀みたいな深い飴色っ。
皆の羨望のまなざしを浴びたカーラさんとハインケスは、緊張した様子でスプーンをタルト・タタンに差し入れた。
リンゴをコーティングしている蜂蜜が裂ける、パリッという音が辺りに響いた。
中に閉じ込められていたリンゴの香りがさらに噴出し、食堂中に広がった。
──…………わたし、もうダメっ。
──ああっ!? ステラ!? ステラが倒れたあーっ!?
衝撃のあまりだろう、3人のシスターが倒れた。
審査員ふたりがリンゴを口に入れ、シャクッとした音が響くと、さらに数人が崩れ落ちた。
「こっ……これは……っ?」
カーラさんは、思わずといったように片手で頬を押さえた。
「なんということでしょう……。表面はパリッとしていながら食感はシャクシャクで、噛んでいるうちにじゅわりと溶けていく……。酸味と甘味が混じり合いつつホカホカ絶妙に温かい幸せの液体が、喉を滑り降りていく……」
蕩けそうな表情で語ったかと思うとすぐにハッと表情を引き締め、胸の前で聖印を切った。
「主よ。皆を差し置いて幸せを享受した罪をお許しください」
うん、これは最大限の評価と思っていいだろう。
さて、残るひとりは……と。
「……ふん、シスター長のコメントがすべてだよ。俺から言うことは何も無い」
ハインケスは顔の前で手を振ると、恥ずかしそうに席を立った。
皿は綺麗に空になっていて、欠片のひとつも残っていない。
よっぽど俺の料理を褒めるのが嫌なんだろうな、めんどくさい奴。
「あああああー!? ずるいっ! ずるいずるいずるーいっ! 大人なのにいぃぃぃーっ!」
セラが何かを騒いでいるなと思ったら、エマさんがカーラさんの食べかけのタルト・タタンを奪い取ったところだった。
「バカな……どこにでもあるアップルパイが、そんなに美味しいわけが……っ」
よっぽど悔しかったのだろう、手づかみで口に運んだが……。
「う……っ? これは……っ?」
次の瞬間には、驚きに目を丸くしていた。
「これは……これが天国の味……?」
呆然としているところに、俺は声をかけた。
「特別なものは入っていませんし、特別なこともしていませんよ。ただ、すべての行程を正確に行っただけです。切るべき時に切り、こねるべき時にこね、焼くべき時に適温で焼く。そうすることで食材の持つ旨味を最大限に引き出したんです」
実際には砂糖や小麦粉が欲しかったし、生地は一晩寝かせるべきだし、出来上がり後も冷やす時間がもっと欲しかった。
だがまあ、限られた時間内でベストなものが作れたと思う。
「ちなみにこれはただのアップルパイじゃないですよ。俺の世界ではタルト・タタンと言うんですがね。リンゴを下にして焼くことで焼き面がカラメル状になり、香りと旨味を閉じ込め逃がさないのが特徴です。これはフランスという国の田舎地方の姉妹がタルトを作っている時に失敗して……」
タルト・タタン成立の逸話を話そうとしていると、わっという声が上がった。
またぞろシスターでも倒れたのかと思って声の方を見ると、そこにいたのはフレデリカだった。
「そんなの……そんなの認められない! 絶対、認めないわ!」
誰の目にも明らかだろう勝負の結果を、しかしフレデリカは受け入れられなかった。
顔を真っ青にし、わなわなと体を震わせたかと思うと、マリオンとルイーズの制止を振り切りどこかへ走り出した。
きっと夜には帰って来る。
誰もがそう思っていたが、しかし彼女は戻って来なかった。
夜が明けても戻っては来ず、捜索隊が編成された。