「火と温度」
「俺の恩師のドニは、鬼軍曹みたいな人でね。名門料理学校に入学して浮かれるガキどもを、まずは最初に山に放り出すんです。人里離れた山奥に、鉈1本持たせてね」
「……なぜ、そんなことを?」
料理人のものとは思えぬ授業内容に、訝しげな顔をするエマさん。
「俺も最初はそう思いました。こんなことにいったい何の意味がある? 調理器具も食材も無い場所で鉈を振り回して、いったい何の成長に繋がる? でもね、2日、3日とサバイバル生活を送るうちに、見えてくるものがあるんですよ」
「……それはいったい?」
「川を探して水を確保し、草や木の実、蛇やら何やらの食材を確保し、木を擦り合わせて火を起こし……。極限の中でわかったんです。料理の基本であり、最も大事なこと」
「だから、それはいったい?」
「──火の扱い」
焦れたような声を出すエマさんに、俺はその言葉をそっと告げた。
「古代、人類は石器を使って狩りをしていた。自生する植物や果実を食べて生活していた。火を扱うことを覚えてから、全てが変わった。獲物を直火にさらして炙り、熱した石で焼き、熱い灰の中に入れて熱し……時代が進むにつれ手段は増え、洗練されていった。食材に効率的に火が通り、どんどんと美味みが増していった。けれどね、俺が見るかぎり、この時代の焼きの技術はまだまだ途上なんです」
「わたくしの腕が未熟だと仰ってるのですか?」
聞き捨てならない侮辱だと、顔を真っ赤にするエマさん。
「いえ、あなたの腕は一流でした。少なくともこの文明レベルにおいては。実際、公爵家の厨房であれば問題にならなかったことでしょう」
「……っ」
そこでようやく気がついたのだろう、エマさんはハッとした顔になった。
その視線の先にあるのは──フライパンだ。
「包丁、食材を持ってくるまでは良かった。だけどさすがの長旅で、フライパンを運ぶことまでは出来なかったんでしょうね。料理人にとっては命といっていいほど重要なものなのに、修道院の物を借りることになった」
「……借りちゃダメなの? ただのふらいぱんでしょ?」
ぽかんとした顔で言うのはセラだ。
「ダメじゃないさ。普通に料理する分にはな。だが、より隙の無い美味さを求められる決闘においてはどうだろうな」
厳密にはこれは、エマさんの落ち度ではない。
なぜなら彼女は、ここへ来てから初めて決闘のことを知らされたからだ。
「さて、焼きにおいて最も重要なのは温度です。必要な時に必要な温度を食材に加えられるか。そのために必要なのが料理用の温度計。俺のいた世界において、温度計を発明したのはガリレオ・ガリレイという大昔の発明家でした。そこから発達と洗練を重ね、料理に取り入れられるようになるまでにさらに何百年もの時間が必要となった。こちらの世界でも温度計はあるようですが、まだガリレオ・ガリレイレベルのものにすぎない。つまりは料理人は皆、勘と経験によって焼きの温度を測っている状態なんです」
もちろん、昔の料理人は皆そうして料理を作っていた。
オーブンに手を突っ込んで適温を計るパン職人の話なんかは有名なとこだろう。
「別に、それできちんと測れればいいんですよ? 最適の温度、最適のタイミングがわかればいい。実際、愛用のフライパンであれば、愛用のオーブンであればという料理人は多いでしょう。調理器具は料理人にとって手足のようなものだから。だが……」
「……あっ!?」
そこでようやく気がついたのだろう、セラは口に手を当てた。
「そう。エマさんは自分のフライパンを使っていない。だから表面上は綺麗に見えるが、実際には……」
作業台の上に残っているエマさん作のアンドレットに、俺は容赦なくペティナイフを突き刺した。
底面を支えるパイ生地が真っ二つに割れ、断面が明らかになったが……。
「……あ、焦げてるっ!?」
セラの指摘通り、わずかにだが焦げ付きが見られる。
全体としての調和が取れているだけに惜しい結果だ。
「一回こっきりの勝負ですからね、生焼けを恐れたんでしょう。パイ生地作りではよくある失敗なんでね。しかしこれでは焼きすぎだ」
「くっ……!」
自分の失敗を指摘されたエマさんは、自らの腕を掴みながら悔しげに叫んだ。
「だったらあなたになら出来るんですか! 一回きりの勝負で! ただでさえ難しい焼きを完璧にこなすことが!」
「出来る、と申し上げているでしょう。ここにある調理器具はすべて、俺の手足も同然。食材もね、無いなら無いなりに工夫すればいい。ドニはいつも言ってましたよ」
──自分に出来ることを把握すること。
──出来ないことを把握すること。
──足りないならどうすべきかを考えること。
──それをひたすら繰り返せば、いつどんな状況でも、最高の料理が出来る。
──わかるか? ジロー。
「セ……」
「『それが料理だ』! そうでしょ!? ジロー!」
俺の言わんとしていることがわかったのだろう、脇からセラに口を挟まれて、俺は思わず肩をコケさせた。