後編
目覚まし時計のアラームで川島は目を覚ました。時刻は毎日設定してある時間。今日は日曜日。週に一日だけ与えられた仕事から解放される曜日だ。だが、心も体も鉛のように重くて何かに対して意欲的な気分とは到底言えない。
そんな違和感を抱いたのは、自分が受け持つクラスで不協和音が生じ始めた頃からだ。
キッカケは近所の住人から学校に入った一本の電話からだった。
『店で万引きをしていた児童を捕まえたが、呼び出した保護者から凄い剣幕で逆ギレされて挙げ句の果てには開き直られた』
電話の主は校区内でコンビニを営む店長からで、その児童というのが今の自分が担当する教室の生徒だった。時期は忘れたが、昨年だったのは確かだ。
当時の自分は担任じゃなかったけれど、外部から見ていても担当するクラスの中で歯車が狂いだした感覚は持っていた。歪んだ状態は解消されることなく、クラスの面子も変わらず学年だけが上がり、自分がそのクラスを受け持つこととなった。
新学期になって暫くの間は問題が無いように映ったが、クラスの雰囲気が次第に落ち着いてくると授業中に好き勝手な行動をしたり他の生徒を困らせるような態度を取ることが出てきた。その度に注意して一旦は鎮まるものの、時を置いて再び似たような事例が起きるといったことが繰り返された。
問題行動を起こすのは大体決まった子ども達で、おまけに悪い者同士でグループを組んでいた。複数になると大人に対して怖いとか恐れるといった感覚が薄れるようで、徐々に行動がエスカレートしていった。
それに対して出来る限りの対処は講じた。保護者に連絡して学校内外の問題行動を逐一伝えた上で、家庭で注意するように促した。
しかし、返ってきた反応は想像の域を遥かに逸脱していたものだった。
『何かの間違いじゃないか』
『証拠はあるのか!?』
『そもそもアンタ達の教え方が悪いんじゃないか』
あまりに現実から乖離した発言に言葉を失った。我が子の言葉だけ鵜呑みにして真実を捻じ曲げるとは考えてもいなかった。
自分一人で解決するには大きすぎると判断して、校長や教頭に事情を説明した上で指示を仰いだ。すると返ってきたのは『とりあえず様子を見る』という、消極的な意見だった。
校長も教頭も、自分の学校から問題行動が起きた事実を是が非でも認めたくなかったのだろう。そうなれば責任問題となり、自分達の査定に大きく影響する。追及されるのを極度に恐れていた。
事態打開を図るべく教育委員会に働きかけてみた。これまでの経緯や背景を簡潔にまとめて意見書という形で何度か提出した。しかし、待っても待っても回答は無かった。
そうしている間にも状況は少しずつ悪化の一途を辿っていく。対策を打てないまま時間だけが過ぎて、やがてイジメの兆候が見られるようになった。
イジメは先が全く見えない霧みたいなものだ。払っても、吹き飛ばしても、完璧に消し去ることは不可能だ。
被害者が何を望んでいるか。それによって着地点も変わってくる。謝罪、賠償、贖罪、復讐。被害者が望んでいる形へ向けてどのようにアプローチしていくか。
加害者に対してどのように関与していくか。イジメそのものを認識していたか否か。保護者の責任は。被害者の意思も踏まえて着地点をどこにするか。
無限に湧き出る選択肢を、教師は一つ一つ正しいか間違っているか分からないままに選ぶことを強制される。それは模範解答の存在しない問題用紙を生徒と共に探るようなもので、どの教科を教えるよりも困難で、解決までどれだけの時間と労力を消費するか分からない中で折れない強靭な精神力を要求され、葛藤と困惑と苦悩の渦中に身を投じるも同然だ。
ならば“イジメが存在する”事実から目を背けるのか。それは絶対に間違っている。被害者に原因も責任もない。悪いのは、歪んだ状況を生み出した者だ。
それに子どもは様々な経験をしてきた大人の教師よりも未熟で不完全な存在だ。心身共に成長途中の段階である子どもは自分に対するマイナス要因への耐性は備わっていない為に大人が考える以上に苦痛を感じていることになる。
一刻も早く、この悪い流れを断ち切らないといけない。その思いばかり先走って事態は思うように進んでいかないことに苛立ちを隠せなかった。
そして―――最悪の展開を迎えることとなる。
イジメを受けていた生徒が飛び降り自殺。その一報を耳にした瞬間、全身の血が一気に失われるような感覚に陥った。衝撃の大きさのあまり、一報を受けてから次に覚えている場面まで数十時間の空白が生まれるであった。その間は思考回路も殆ど機能していなかったに違いない。
次に思い出したのは、学校の外部出入り口で帰っていく刑事二人を見送る場面であった。遠ざかる背中を見つめながら、自分の教え子を死なせた今の状況で出来ることを必死で考えた。
自分の心の中を占めていたのは自殺を選んだ生徒への悲しみではなく、救えなかった命に対する自責の念だった。懲罰覚悟でもっと大々的に動いていたら結果は違っていたかも知れないと思うと、本当に胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
だからこそ、名刺に書かれていた電話番号に連絡した。事実を告白することで、少しはあの子の意志を繋げたらいい、という一心であった。
刑事さんは一生懸命に真相へ迫ろうと努力した、らしい。しかし願いは届かず、捜査は打ち切りになったと警察から発表があった。
……私はこれからどうすればいいのだろうか。
未だ手付かずの深刻な状況の中、淡々と授業をやっていけるだけの自信は無い。暫くは問題児達も大人しくしているだろうが、いつ元に戻るか今から不安で仕方がない。
月曜日の朝一番に辞表を提出して全てを投げ出す事が出来れば、どれだけ楽になることか。逃げることすら許されない立場を思うと、溜息が自然と漏れる。
やる気の出ないまま布団に包まっていると、携帯電話が振動する音が入った。自堕落ながら寝転んだまま手を伸ばして電話を取り、画面を見る。そこには番号だけ羅列された、見知らぬ相手からの着信。
もう考えるだけの気力も湧かずにそのまま誰とも分からない番号に応じる。
「もしもし……」
弱々しい声で電話に出ると、相手が身分を明かした途端に川島の思考回路は一瞬で覚醒した。何故私の番号を知っているの?と疑念を抱いたが、そんな些細なことはどうでも良い。
切れたはずの糸が繋がる予感がヒシヒシと伝わってきて、胸がドキドキしてきた。相手の話にじっくりと耳を傾けながら、事態打開に向けて縋る思いで必死に携帯電話を握り締めていた。
シトシトと降る雨は気持ちが凹む。地面を勢いよく叩く豪雨は瞬く間に全てを濡らしてしまうが、いつ止むか見当もつかない長雨は人を憂鬱にさせる。空には灰色の雲が隙間なく詰まっていて、青空を望める兆しは全く期待出来ない。高層階の窓から手を伸ばせば届きそうだが、忌々しい雨雲は遥かずっと上にあって取り払えそうにない。
あれから何もやる気が起きない。強烈な虚無感が体も頭も覆っていて、指一本動かすのも億劫に感じて一日中ボーっと空を眺めていることが多くなった。記憶も曖昧で、葬儀のこともあまりよく覚えていない。報道であの子の死が伝わるとマスコミが押し寄せてきて電話も暫くは鳴りっ放しになったが、応対する気力も出ないまま放置していると自然と電話は鳴らなくなった。ただ、まだ耳の奥で呼び出し音が響いている感覚は抜けていない。もう、全てがどうでも良くなった。
愛する夫と我が子の三人、これから仲良く過ごすと信じて疑っていなかった未来が突如として手の中から消えてしまった。あの子が屋上から飛び降りたと聞いた瞬間、普通に生活してきた日常から奈落の底に突き落とされた感覚に陥った。
嘘でしょ?何かの悪い冗談でしょ?そうだと誰か早く言って。
受け入れがたい事実も、警察の手にとって現実のことだと突き付けられた。何故、どうして、私の子が。死ななければいけない理由なんて全く無いのに。しかし、訪ねてきた刑事によって私の知らないあの子の姿が次々と明るみにされていった。預金残高が限りなくゼロに近い預金通帳、汚され傷つけられた衣服、中傷や心ない言葉が刻み込まれた教科書類。それらが出てくる度に『母親失格』といわれているようで、証拠として出てくる品々一つ一つが胸に深く突き刺さった。
気付けなかった自分が悪い、とひたすら責めた。生まれてからずっと一番近くで接してきて、家族として同じ時間を共有してきたのに、あの子のことを上っ面だけしか見てなくてこんなに苦しい思いをしていたなんて夢にも思わなかった。
口数が少なくなってきたことも、学校や友達のことを自分から話さなくなったことも、自分の部屋に入れたがらなくなったことも、全部大したことではないと捉えていた。年頃の子どもは大人になるに従って変わっていくと周囲からも聞いていたし、自分も子どもと同じ世代の頃はそうだった。特に悪いことをしている訳ではないので温かく見守っていたし、心配する夫にもそう伝えて安心させた。仕事が忙しい為に接する機会が少ない夫も私の言葉に納得してくれた。それが、まさかこんなことになるなんて……。あの時、しっかり確かめておけば、あの子が自殺するなんて悲劇は起きなかったかも知れない。抱えている悩みを話してくれれば、遠慮なく気持ちを家族に打ち明けられる雰囲気にしていれば、もっと声をかけてあげていれば、もっとあの子のことを見ていてあげていれば。後悔は心の底から際限なく湧き上がってきて、心は容量を超えて破裂しそうな勢いで膨らんでいく。
テレビのニュースや新聞記事で我が子の報道も知っていたが、起こったことを述べるのみで『どうしてこうなったか』は触れられない。誰に責任があるのか、悪いのは誰かと騒ぎ立てるが、もう放っておいて欲しかった。どれだけ騒いでも、あの子は戻ってこない。それなら静かに冥福を祈っていたい。
先日、警察から電話で『事件性は見られないので捜査は終了します』と連絡があった。以前訪ねてきた壮年の男性の声でも、連れ立った若い女性の子とも、後から遅れてやってきた若い男の人の声とも違った。ただ、電話の向こうの人の声が事務的で冷たかった、という印象だけが脳裏に強く残った。それがどれだけ前のことだったか、それとも昨日のことだったか、思い出せない。
怒涛の勢いで目の前を過ぎていった時間も、私には関係ないことのように思えた。愛する我が子を失った悲しみや痛みは想像以上に私の心を蝕んだ。魂を抜かれて毎日マネキン人形のように空を眺める日々を過ごす。もう、このまま朽ち果てても構わないとさえ思う。
ピンポーンと呼び鈴の音色が室内に響いた。最近は事件のことを察して訪ねて来る人は少ない。誰だろうか。いつもなら体のダルさが勝って居留守を決め込んだのだが、今日は不思議と力を込めなくても自然と立つことが出来た。フラフラと覚束ない足取りで扉まで歩み寄り、シリンダーをカチリと横に廻してから僅かに扉を開ける。
隙間から伺えたのは、先日訪ねてきた壮年の男性の顔だった。確か、五十嵐と名乗っていたような。
「お忙しい所すみません。少し、お時間よろしいでしょうか?」
そう言った五十嵐は穏やかに微笑んだ。陽に灼けた褐色の肌に白い歯がキラリと光り、その好印象につい惹き込まれる。
「えぇ、構いませんよ。どうぞ……」
ふと自分がどのような顔をしているのか、無性に気になった。乱れた髪、手入れが行き届いていない肌、何日も着続けて襟回りがくたびれたシャツ。しまったと思った時には五十嵐が玄関に足を踏み入れた後であった。
「散らかっていて申し訳ないですが……」
快く招き入れてくれた幸恵は恥ずかしそうに言ったものの、以前来た時と比べてもそれ程に散らかっているとは思わなかった。むしろ生活感が薄れているように感じた。部屋に隅に埃が溜まっていたりゴミ箱が山盛りになっているくらいで、他は整然としている。ただ、ゴミ箱の中はプラスチック容器が多くを占めていて、分別もキチッとされてないことから、気力が失われているものだと推測された。
先日会った時と比べて、頬が痩せているのがすぐに分かった。目の下に隈も出ていて、声にも張りが感じられない。悲しみが身も心も侵食しているのが手に取るように伝わってくる。
茶菓の用意をしようとしていた幸恵に対して固辞する意志をそれとなく伝えると、以前と同じ場所に座る。向かい合わせとなる位置に腰を下ろすが、体つきも一回り細くなったように感じる。
「今回はどのような用件でしょうか?警察の方からは先日捜査は終了したと連絡を頂きましたが……」
幸恵は何の前触れもなく刑事が再訪してきた目的が分からず探るような口調になる。捜査は終結したのだから今更事情聴取を行うとは考えにくい。恐らく事件の概要を遺族に伝えられてないと五十嵐は見た。
どうしてこうなったのか。失われた命が戻ってこない以上、遺族としては真実を知りたいという気持ちが一番強い。殺人事件でも同様だが、せめて経緯だけでも知りたいと願う人も少なくない。心身衰弱の状態にあるので追求する意欲が削がれているけど、いつか心が満ちれば亡くなった理由や背景を求める気持ちが湧いてくるだろう。
「実は、今回の痛ましい一件について分かったことをお伝えしようと思いまして、本日突然の訪問ということになりました」
刹那―――それまで虚空を彷徨っていた瞳に光が帯びた。刻が経つにつれて全身に温かい血が満遍なく行き届くのがはっきりと見てとれる。魂が、元のあるべき場所に吹き込まれた。
止まっていた時が、今ようやく動き出した。
それを見届けると隣に座る成宮へ目配せをする。幸恵へ一礼してから徐々に喋り始めた。
「屋上の実況見分や集合住宅の住人から得た目撃情報、その他遺留品や状況から総合的に判断した結果から第三者が関与した可能性は限りなくゼロに近いと断定されました。屋上の扉は内側からなら誰でも解錠させられること、防犯カメラに不審な人物が確認されないこと、転落防止用に設けられた柵に付着した指紋等から、事件性は見られず自殺と警察は判断しました」
成宮の報告はあくまで触りの部分であり、報道などでも伝えられている事実に過ぎない。それでも幸恵は目を見開き、息を呑んで報告に耳を傾けていた。分かっているけれど未だに信じられない、という心境か。
まだ人の親になったことのない成宮には察するに余りある。僅かに間を置いて再び口を開く。
「自殺に至った要因は、被害児童の周囲を取り巻く外的要因が非常に大部分を占めると見ています」
端的にまとめたが、学校生活における一部の同級生と隠蔽体質のある学校の二点が主である。
「一部生徒による校内秩序を乱す行為が常態化しており、その影響が他の生徒へ矛先が向くようになりました。いつからかは詳しく特定されていませんが、昨年度からこのような状況になったと調べの中で分かりました。最初は大人しく内気な生徒に対して『気に食わない』『目障りだ』という理由で言葉による攻撃、並びに叩いたりちょっかいを出すからかい行為がエスカレートして仲間で囲んで殴る・蹴るといった暴行行為に発展。さらに学校外に呼び出して金銭や物品を要求するまでエスカレートしていきました。その様子を目撃した生徒が密かに当時の担任に知らせて、後日当該生徒数人を職員室に呼び出してイジメの事実を確認、口頭で注意した上で全生徒の前で謝罪させました。数日後に改めて当該生徒と面談した際には対象生徒に謝って仲直りしたと報告がありました。ですが、この話は加害生徒達による嘘でした。教室で一応謝ったものの、被害児童に直接謝罪した形跡はなく、仲直りした事実も存在しませんでした。校外で行われたイジメがどこから担任に洩れたか、執拗な追求がその日から始まりました。結果、一人の同級生が現場を偶然目撃したこと、翌日に一人で担任の元へ駆け込んだことが判明しました。生徒達は通報した生徒を逆恨みによる報復の為に、事実を知った当日から行動を開始しました。それが―――」
正しい正義感を持ち、強い責任感を持っていて、他人の痛みや気持ちを察することの出来る優しさを持っていた被害児童。そのことを改めて口にしなくても、すぐに理解した。
「ここからは推測の域になりますが……恐らく人目のつかない場所に被害児童を呼び出して『あの子の代わりになれ』とでも囁いたのでしょう。告げ口をしたことで叱責すれば手痛い反撃に遭うのは想定済みだったでしょうし、逆に強い意志を持つことを逆手に取って善意を弱味につけ込んだものだと。若年ながら手口が巧妙ですし卑劣極まりない。被害児童は同級生の身代わりとしてイジメを一身に受けるようになり、やがてエスカレートして金品や物品を強請るようになりました。多分ですが……『今度も大人に言ったら他の子を同じ目に遭わせてやる』と脅したものと考えます。他人に危害が及ぶと釘を刺す点では常軌を逸しているとしか言えません。誰にも相談出来ず、その小さな体で理不尽な要求を延々と甘んじて受けていた、と考えられます」
神妙な面持ちで口を挟むことなく黙って話を聞いていたが、遂に堪えきれず幸恵の右の瞳から大粒の涙が雫となって零れ落ちた。涙の通り道を次々と零れた涙が頬を静かに濡らす。込み上げてくる感情を抑えられず、嗚咽が漏れる。それまで塞ぎ込んでいた思いが涙となって全て吐き出そうと泣く姿に、成宮がハンカチを差し出す以外は言葉もかけず差し控えた。今は泣きたいだけ泣かせた方が良い、余所者が邪魔するのは野暮ってもんだ。
暫くして「取り乱して申し訳ないです」と幸恵は頭を下げた。嗚咽は止まったが泣き腫らした瞼は赤く染まり、渡されたハンカチは涙で濡れていた。
「誰が自殺するまで追い詰めたか現在のところ見当はついていますが、物証は無く全て状況証拠と我々の推測を結び付けた推察に過ぎません。例え仮に立証したとしても未成年ですので刑事責任を問えません。今回の件に関わっていると思われる生徒名については個人情報保護の観点と未成年者保護の観点から開示することは差し控えさせて頂きます」
また、と成宮はさらに言葉を継ぐ。
「事態が深刻化した背景には学校が積極的に解決に向けて動かなかったことも大きな要因だと考えられます。担任は望ましい姿へ導こうと奮闘されていましたが、生徒の保護者が担任や学校、教育委員会に対して圧力をかけ、問題を揉み消そうと画策しました。校長や教頭など学校責任者は自らの評価に関わると捉え、深刻なイジメがあったにも関わらずイジメ自体が存在しなかったように教育委員会に報告し、実際に書類や意見書を握り潰していました。保護者の中には教育委員会やPTA、その他行政に関わる人々との繋がりが確認され、それらの縁故を利用してあらゆる手段を尽くしてイジメの存在が明るみにならないように工作を続けていたのが伺えます。……単に加害児童だけでなく、その子どもを取り巻く保護者や学校なども被害児童を自殺にまで追い込んだ責任があると考えます」
淀みなく説明する成宮の口元が一瞬歪んだ。何の罪もない子どもを死に追い詰めた大人に対して純粋な憤りを感じているのだろう。我が子可愛さのあまりに行き過ぎた行動が結果として一人の児童を自殺にまで至らしめた事実は、過保護という言葉で済まされる問題ではない。それが許されるなら子どもを自殺で失った親が加害者に対して復讐することも成立してしまう。自己保身のために今目の前で起きている問題を隠蔽するなど言語道断だ。
「……以上が、今回発生した事件に関する一連の経緯になります」
全てを明らかにした後、沈黙が三人の間を包んだ。時が止まったような、息をするのも躊躇してしまう程の静寂。ただ、時を刻む時計の針の音だけが部屋に響いていた。
「―――そう、ですか」
幸恵は小さく息を吐いて、窓の外の世界へと目をやった。
あれだけ知りたかった真実を耳にしたのに、どうしてすっきりとしないのか。大切な我が子の最期まで結ばれたのに。寧ろ、絡んだ糸はそのまま放置しておいた方が幸せだったのかも知れない、とさえ感じた。
浮かばれない気持ちはこの空模様のせい?……答えはすぐに分かった。苛立ちをぶつける対象が、見えないのだ。相手は分かる、でも追求したくても責任の所在があやふやで、該当する人々はみんな火の粉を被るまいと必死になって逃げている。靄のような存在で、目で見えるけど手につかめず、風が少し吹いただけで姿も消えてしまう。我が子を失ったエネルギーをぶつけられない自分に、失望しているのだ。
『泣き寝入り』という言葉が頭に浮かぶ。これ程にこの言葉が当てはまる状況はない、と考えた自分自身に苦笑する。が、とんでもない。誰も罪に問われなくて放置していたら必ず次の犠牲が生まれてしまう。我が子は救えなかったが、これ以上自分の手で命を絶つ子が出ないで欲しいと切実に願う。
「これから、どうされるおつもりですか?」
電話では捜査が終了した旨を伝えられた。お節介なことだと気付いた時には言葉が口から発せられた後だった。
どんな形で処理されていくのかはテレビドラマやニュースとかで大まかに知っているが、それはあくまで小さな箱の中の世界という印象が強い。そもそも普通に生活していれば刑事さんのお世話になることなど無縁なのだ。非日常だからこそ成立するエンターテイメントとして楽しめる。
事件は既に集結した。ここからどう覆して被害者遺族が望んでいる解決まで導いてくれるのか。恐らく可能性としては限りなくゼロに近い。そして、罰せられる加害者は我が子と同じ年齢の子どもだ。逮捕することも、賠償を求めることも、名前も顔も交付応されることも未成年という厚い壁で守られて叶わない。ならば代わりに責任を追及したいが、保護者も学校も自らの過ちを認めようとしないばかりか証拠を隠そうとしている有様だ。
「―――このまま事件を野放しにしておくつもりはありません」
重苦しい雰囲気を打ち破ったのは、五十嵐の低くはっきりと通る声だった。
「一人の同級生が自殺するまで追い込んだ、忌まわしき状況は払拭されず今も残されています。何らかの対処を行わなければ第二・第三の犠牲が生まれる可能性が極めて高い状態です。そして時が経てば加害者の心から反省や思いやりの心が薄れ、イジメもさらにエスカレートしていくことでしょう。そうなれば、全ての子どもがさらに傷つく事態を招くことになります。負の連鎖を断ち切るには、今しか無いのです」
決して声を荒げることなく、それでいて力強い口調。その声の中に強い意志が含まれていることが、ヒシヒシと伝わってくる。
その言葉は同じ時間を共にしてきた成宮の心にも響いた。だが側にいる者だからこそ分かることもある。自己保身に走る大人達への怒りが、その瞳に宿っていた。
「誤った道を正す方法は様々あります。ですから、未成年ということで細心の配慮をしながら自ら犯した罪の大きさや重さを認識させ、悔い改めるのが最善の策だと私は思います。子どもだからこそ、本来あるべき姿に戻ると信じたいからです」
信念。その二文字が幸恵の頭に浮かんだ。
目の前に座っている二人は自分の信念を曲げずに貫く人だと、今日で会って二回目の人間ではあったがそう思った。例え高い壁があっても数千人が行く手を立ち塞いでも、それを形振り構わず突破して真っ直ぐに歩いていく人だと察した。その道がどんなに困難で険しいと分かっていても、遠回りすることなく突き進むのだ。
……もし、叶うのなら、あの子の思いをこの人達に託したい。あの子もきっとそう思っているに違いない。
「よろしくお願いします」
深々と体を折って二人に頭を下げる。理由はない。この問題を全て明るみにしても大切な我が子はこの家に帰って来ない。ただ、また同じように苦しむ子が出るかも知れないならあの子はきっと悲しむはず。そう考えると、他人事のように思えなかった。
そして想いを託された二人も目の前の母親から込められた気持ちを理解し、表情を引き締めて頷いた。
数日後。痛ましい事件の余韻は徐々に薄れ、以前のような日常が戻りつつある。日数が経過したことに加えて警察の捜査が打ち切られたこともあり、校舎周辺に姿を見せていたマスコミの影もいつしか消えてしまっていた。
命を絶った生徒のクラスも再開直後はその衝撃からひっそりと静まり返っていたが、日数が経過するに従って徐々に以前のような日常の光景が蘇りつつあった。休み時間の間に気の合うクラスメイトと談笑したり、教室内を駆け回ったり。何処にでもある小学校のクラスの休み時間の光景が戻ってきたのは良い兆候であった。
「しっかし、アイツのせいで大変だったよなー」
教室の片隅で何人かの生徒が固まって集まり、ヒソヒソと声を潜めて何か喋っていた。
「ホントホント。マジでウザいよね」
「何で勝手に死んじゃうの。訳分からねーよ」
「分かる分かる」
「そうそう」
「……で、次どうする?」
「うーん、誰にしようか考え中。お前、誰か面白いヤツいる?」
「アレはー?死んだアイツが庇ったヤツ」
「お、いいじゃん!!」
「だってアレのせいでアイツが死んだようなもんだもんね。オレらがしばらく遊べなかったのも、アイツが自殺したのが原因だし、今度はアレに償ってもらおうぜ」
「アレもオドオドしてオレらの言う通りに動いてくれたし、あとはチクらないように脅せば暫くは楽しめるね」
「いいねー」
「さんせー」
「じゃあ、次のターゲットはアレにけってーい」
直後、次の授業を知らせるチャイムが鳴る。騒がしい雰囲気をまだ少し残した中でも生徒達は自分の席へ戻っていく。その流れに合わせて教室の隅に固まっていた集まりも解散して、各々の席に座る。
次の授業は道徳。国語や算数といった主要科目と比べると幾分か堅苦しさが和らぐ授業なので、休み時間の雰囲気がまだ教室内に残り香のように漂っている。予鈴が鳴ったにも関わらず立ち歩いている生徒も何人か見られ、周りの子と喋っている子も少なくない。先生が来るまでは許されるかも知れないが、筆記用具すら机の上に出していない子が大半を占めるのも些か問題があるような。
少し経ってから担任の川島が教室に入ってきた。ようやくお喋りも収まり始め、授業をする空気が徐々に出来上がっていく。
「さて、今日の道徳の授業ですが、特別講師の方がいらっしゃいます」
特別講師?誰なんだろう?思わぬ発言に教室内がざわつく中、扉を開けて二人の大人が入ってきた。
一人は眼鏡をかけたスラリとした高身長の若い女性、もう一人はそこそこ年を重ねたごつい男の人。どちらもスーツ姿である。思わぬ来客の登場に教室は一転して静まり返る。
「では当番の方、号令を」
川島に促される形で今日の当番の子が「起立」と号令をかける。一斉に椅子が引かれて教室内は喧しくなるが、やがてさざ波が引くように静寂となり「礼」と当番の子のよく通る声が教室に響く。全員が登壇している二人に向かって「よろしくお願いします」と言うと同時に頭を下げた。中には声も出さずちょこっと頭を動かしただけで頭も下げない態度の悪い子も何人か居たが、真面目な大勢の声に紛れてか不真面目な態度を示す子に注意したり指摘する子は居なかった。
再び床を鳴らして着席すると、静かになるのを待って男の人が口を開いた。
「今日は命について少し考えてみましょう」
唐突に切り出されたテーマに困惑顔の生徒を置き去りにして、男の人は白のチョークを手にして黒板に“いのち”と書いた。事の成り行きを皆が黙って見守る。
男の人は振り返って教室の中を一通り見渡した後、話を続ける。
「君達の中で、死んだ人が生き返ったって話を聞いたことがある人は居ますか?」
いきなり投げかけられた質問に隣同士で目と目を合わせる子が何組か見られた。少しだけ沈黙が続いた後に一人の子がおずおずと手を上げた。
「はい、そちらの子」
男の人は手を上げた子の方に向かって静かに手で指して発言するように促す。
「テレビでそういう事があると聞いたことがあります」
その回答に一旦頷くと、男の人はその答えを聞いた上で答えを返した。
「うん、確かに“死んだ”と思っていた人が蘇るという話は時々あるね。でも、それは仮死状態……まだ本当に死んでなかったから目を覚ました、ということなんだ。つまり、漫画やアニメなど空想の世界は別にして、現実の世界では一度亡くなった人間が生き返るってことは絶対に有り得ない話なんだ」
頭ごなしに否定する訳でもなく、あくまで穏やかな語り口で話していく。発言した子も納得した表情を見せて席に座る。
「右手で胸の辺りを触ってもらうと分かると思うけど、微かにトクントクンと動いていると思います。その動いている場所にあるのが心臓です」
男の右手が胸の中央からやや左の部分に触れる。教室内の生徒も同じように触ると、心臓が動いているのを自分の手で確認していた。
「みんな一人一つ、命を持って生きています。『私だけ二つあります』なんて事は心臓と一緒で、絶対にありません。そう考えると、自分の命って大切にしなきゃいけないなー、って思いませんか?」
問いかけられて何人かの生徒が頷き返す。しかし、中には退屈そうな表情を浮かべて『何言ってるのこの人』と顔に書いてある生徒も何人か居るのも、男の人の目は見逃さなかった。
「君達の命は君達だけのものじゃないんだよ。お父さんとお母さんが居たからこそ、この世に君達は生まれてきたんだ。そして、赤ちゃんの頃から育ててくれたから今日ここまで立派に成長することが出来たんだよ。今だとお父さんかお母さんが居ない、あまり大切に育てられた記憶がない、という子も少なからず居るかも知れないけど、誰かが支えてくれたから大きくなれたし、顔も声も分からない親が居たから命を授かった。この事だけは忘れず覚えておいて欲しい」
真剣な眼差しで話す男の人に引き込まれるように、多くの子が固唾を呑んで話の行方に耳を傾けている。いい表情だ、と壇の上で話す男の人は手応えを感じていた。
ここで話し手が脇で控えていた女の人に移る。眼鏡の真ん中をクイと押し上げて、一歩前に出る。
「ただ、悲しい事に一つしかない命を自分から捨ててしまう人が少なからず存在します」
落ち着いた口調で、教室内の生徒一人一人の顔を確かめるように眺めてから話を続ける。
「ここ数年、およそ三万人の人が自らの手で命を絶っています。一番多いのは君達のお父さん・お母さんの年代ですが……実は君達と同じような年齢の子ども達も三万人の中に含まれています。その数は病気や事故で命を落とす子どもの数よりも多く、この傾向は世界中にある他の国と比べても異常に高い数値で推移しているのは残念ながら日本しかありません」
ここまで黙って聞いていた子の一人がいきなり立ち上がった。
「すみません、こんな分かりきった話ばかり続けて何の意味があるんですか?」
明らかに敵意を剥き出しに突っかかってくる態度の生徒に二人は大人の余裕でさらりと受け流す。
「えぇ。これはみんな十分に知っている話だよね。じゃあ、ちょっと話を変えてみようか」
不満そうな表情を浮かべながら渋々椅子に腰かける。その生徒がこれまで極一部の微妙に聞く姿勢が異なる集団の一人であることに気付いていた。
「君達の中で『あー、自分の命なんか要らないやー』って思っている子はいますか?」
男の人が挙手を促すが首を横に振ったりじっと壇上の男の人の顔を見つめるばかりで、誰も手を上げようとする素振りを見せる子は一人として出てこなかった。
「そりゃそうだよねー、普通だったら死にたいって考えもしないよね」
努めて明るい声で同意を求める。だが、仮面を被っていたのはそこまでだった。
「……じゃあ、どうして一人一つしかない大切な命を捨ててまで生きることを諦めたのかな?」
単刀直入に切り出した問いに何人の子の表情が途端に険しくなる。一瞬にして教室内の空気が張り詰めるのが分かった。
男の人も女の人もこれまでと一転して一言も喋らなくなった。誰かが答えてくれるのを静かに待っていた。恐らく誰も何も言わなければ延々に待ち続けて放課後まで粘り続けるだろう。
これだけは譲れなかった。この答えは自分達の口からじゃなく、子ども達の中から出て欲しかったから。
凍りついた雰囲気の中、一人の生徒が恐る恐る手を上げた。
「えーと……生きてるのが嫌になったから、ですか?」
勇気を持って答えてくれた生徒に賛同を示す二人。でもまだ納得している様子ではない。
「うん、確かに“生きるのが嫌になった”のは間違いじゃない。じゃあ、どうしてそう考えてしまったのかな?」
生徒の答えのさらに奥へ踏み込むことを促す。すると間を置かず別の子から手が上がる。
「……死んでしまった方がいい、と思ったから、です」
求めていた答えが出てきたことに手応えを覚えた男の人は力強く「そう」と応える。
「“生きていたい”という気持ちと“死んでしまいたい”という気持ち。普通だったら天秤にかかることはありません。何故なら、“死んでしまいたい”なんて誰も考えないからです」
ここで男の人は振り返って白のチョークを握ると、黒板の左側に“生きたい”、右に“死にたい”と書いて、その言葉を器に載せた天秤の絵を簡潔に描く。黒板に絵として明示してあげることにより、イメージしやすくなるよう配慮したのだ。
「でも、苦しんでいる人や悩みを抱えている人は自分の命をこの天秤の片方に載せてしまいます。『このまま生きていくべきか、それとも死んでしまった方がいいか』と。一生懸命悩んで考えて、死にたい方にバランスが傾いて何かの拍子でストッパーがかからず、一つしかない命を自分の手で終わらせる選択を下してしまいます」
チョークで右側の秤に大きく丸を描いて黒板を叩くと、その音に反応して何人かの生徒がビクッと肩を震わせた。仏頂面のまま不満を露にしている生徒も若干名。
「そこまで追い詰めてしまうのはどうしてか?そんな簡単に命を捨てたいなんて思う人は滅多にいません。特に子どもの場合はそうです。本人には殆ど死にたくなるくらいに追い詰められる原因はありません。多くの場合は、自分以外の誰かによって追い詰められた末に生きることを諦めて自殺してしまう道を選んでしまいます」
「自殺する子どもの多くは周囲に対してSOSのサインを出しません。我慢して、堪えて、耐えて、誰にも自分が悩み苦しんでいる様子を大っぴらに見せることはありません。それはどうしてか?理由は、知られたくないから。自分が悩み苦しんでいることを誰かに気付かれて、他の人に余計な心配をかけたくないのです。だから一生懸命に隠し続けます。そして、その子が死んでから初めて周りの人々はあの子が悩み苦しんでいたことに気付くのです。『嗚呼、どうして分からなかったのか』と思うのです。でも、その時にはもう遅いのです。後悔しても、反省しても、失われた命が戻ってくることは二度とありません」
「いい加減にして下さい!!一体何が言いたいんですか!?」
静寂を切り裂いて一人の子が叫んだ。教壇に立つ二人も遂に来たか、と内心で身構えた。先程から不満そうな視線をこちらに向かってずっと投げつけてきた集団の中に居た一人であることを見逃さなかった。
興奮した面持ちの生徒に対して冷静な口調を保ったまま、静かに反論する。
「最初にも言った通り、命について考えてみようということです。だから、こうして話を進めてきた訳で……」
感情的な発言もさらりと受け流す大人の余裕を見せつけ、淡々と答える。だが、苛立ちを表に出したまま先程の子は続けた。
「“命は一人一つのものだから大切にしてね”ってのは分かったよ!一々言われなくてもみんな知っていることじゃないか!こんなくだらない事を延々と続けるくらいなら他の事をやった方がずっと効率的だと思います!!」
そうだよね、と周囲に目で同意を促す。その子と親しい間柄の周りを囲む集団は揃って頷いて賛意を示し、他の子もその一部の勢いに押される形で戸惑いながらも賛同していく。
これでどうだ、と言わんばかりにこちらを睨みつける。その瞳には明らかな敵意が滲んでいた。
「……“ごめんで済むなら警察は要らない”。確かにその通りだ。それで全てが円く収まるならオッサン達の仕事は必要ない」
唐突に切り出された展開に若干困惑する生徒達。そこへ追い討ちをかけるように女の人が畳み掛ける。
「申し遅れました。私達は東京の警視庁で刑事をやっている、分かりやすく言えば警察の人です。私は成宮、隣に居るオッサンが五十嵐と言います」
(おい、いくら上司の紹介でオッサンはないだろ)と成宮に目で抗議するが(ご自分で仰ったじゃないですか)と涼しげに受け流す。
“警察”という単語はやはり相当効果的だったみたいで、一様にざわつく生徒達。一方で気色ばんだのは先程まで反抗的な態度を見せていた子どもだった。
「何で警察の人が学校に来るんだよ!!だって捜査は終わったじゃないか!死んだ人は生き返らないって自分で言っていたじゃん!」
目に見えて動揺しているのが丸分かりだが、本人達は気づいていない。一方で取り巻きの面々は顔面を蒼白にして黙り込んでいる。
「捜査は確かに終了しました。我々が学校に来る理由もありません」
五十嵐が素直に受け入れると苛立っていた生徒が少しだけ満足したような表情を浮かべた。若干勝ち誇ったような雰囲気すら滲ませているのが少し腹立たしいが。
しかし、それも一瞬の出来事であった。
「ですが、事件はまだ終わっていません」
凄みを利かせた表情でジロリと睨むと、それまで噛み付いていた生徒が怯んで一気に押し黙ってしまった。
「君達と同じ教室で一緒に学校生活を送っていたクラスメイトが自殺した。何故そうなったのかを調べて、ある程度『こういう形だった』と分かったから捜査は終了しました。でも、人が一人死んでいるのに『こういう形だった』で済ませて全ては解決した訳ではありません。自殺した根本的な原因を取り除かない限り、次の犠牲者が出ると思ったからこそ、我々はここに立っているのです」
その発言で一部の生徒の表情が途端に固まった。先程の休み時間の間に、クラスの片隅で何かを相談していたグループだ。
自分達のやってきたことが責められるのではないか。これからやろうとしていることも全部この今来た警察の人は分かっているのだ。
これまで我が儘でやりたい放題やってきたけれど、この人達には通用しない。逆に今までやってきたことに対して何らかの罰を与えられるんじゃないか。そう考えると、二人の大人が急に怖くて恐ろしい存在のように感じた。
少々強引かも知れないが、今ここで止めないと加害児童だけでなく関与しなかった生徒も含めて全員の未来が明るくない。歪んだ環境で育った子はどこかしら屈折した大人へ成長してしまう可能性が非常に高く、それを阻止する為には不幸の連鎖を断ち切る必要がある。処罰覚悟で学校に乗り込んだのは、荒療治を施しに来たのだ。
「そもそも、どうしてイジメはいけないことだと思いますか?」
五十嵐が質問を投げかける。だが、萎縮させたことが尾を引いているのか、言葉を発しようとする生徒は少ない。机に俯いたり、目を逸らしている生徒が壇上から窺える。
迷った末に、川島が予め壇上に用意してくれた生徒名が記された座席表に目を落とす。問題行動を起こすグループは前後に二つある扉の後ろ側の扉の付近に固まって座席を構えている。恐らく席替えなどがあっても意図的にその位置を確保しているのだろう。その扱いすら異常であることが透けて見える。
ふと目に飛び込んだ名前の生徒を読み上げる。呼ばれた生徒はビクッと体を震わせ、オドオドと周囲を見回した後に席を立つ。
「えーっと……イジメられた相手が嫌だと感じる、から?」
その答えに五十嵐は大きく頷く。答えた生徒はその態度に心の底から安堵した表情を浮かべ、静かに着席する。まるで教師と生徒の関係だ。
「人はみんな違うから、嫌だと感じるポイントもそれぞれ異なります。自分は『これくらいなら大丈夫だろう』と思ってやった事も、実は相手からすると物凄く嫌だと感じているかも知れません。それを分かった上で続けていればイジメになります。人が嫌がっている様子を見て楽しむのもイジメです。単純なようですが実は複雑で、遊びとからかいとイジメの境目は人によって違いますし線引きが非常に難しいです」
例えば、と言って五十嵐が隣に居る成宮の肩を叩く。静かな教室内にパシンと乾いた音が響いた。
「隣に居る成宮さんが自分の目から見て『元気がないな』と見えて、元気づける意味を込めて軽く叩きました。私はそう思っています。ですので、私はこれをイジメとは考えていません。……では、成宮さんはどう感じましたか?」
「痛いです。何で叩かれたのか理由が分かりません」
問われて間髪入れずに成宮は即答した。
「別に普通通りで特に元気がないと思ってもいません。それなのにいきなり五十嵐さんは何も言わずに肩を叩きました。五十嵐さんはスキンシップの一環としてやったのかも知れませんが、私にはそう感じていません。不快です」
「……と、このように二人の間で感じ方に違いがあったのは分かったよね?」
うんうん、と頷く子ども達。そこへ五十嵐が畳み掛ける。
「君達から見て、今の行為についてどう思いましたか?」
生徒に向けて水を向ける。考えるだけの時間を少しだけ取り、再び座席表を見て目に付いた名前の子を指名する。
「何も言わずに叩いたのでイジメかな?と思いました」
続けてもう一人の生徒にも同じ質問を問いかける。
「何と言えばいいかな……仲が良い関係ならイジメじゃなくてスキンシップかな?と思いました。ちょっと強く叩いたかも知れないけれど、すれ違い様にポンと肩を叩くということは私達でもやることですし」
二人の答えは分かれた。
「今、二人が言ってくれたように、人それぞれ捉え方が違うことが分かりましたね。私が加害者、つまりイジメている側の人間。成宮さんは被害者、イジメられている側の人間。今は一回叩いただけ、じゃあこういう状態が長く続いていたとします。どうしたら問題は解決すると思いますか?」
次のステージに入った、と感じた。しかし五十嵐も成宮もこの先の展開を読めなかった。こういう風に持っていきたいというビジョンは一応固まっていた。しかし、自分達の本職は警察官であって子どもの教育分野のプロではない。年頃の子どもを相手にして自分達が伝えたいことを完全とは言わないまでも言い分を理解させることは難しいと今この場で改めて痛感させられた。
数学の公式みたいに一つの設問に対して一つ明確な答えが存在している問題ではない。自分達が考えている答えに近づけるよう、出来る限り導くことくらいしか出来ないのが実にもどかしい。
教室内が静まり返る。生徒達の表情も厳しくなっていく。まずい流れだ。出口が見えない状態で停滞していても解決への糸口はなかなか見つけられない。どうすれば打開出来るのだろうか?
そこへ川島が横から口を挟む。
「近くの人と相談しても良いですよ」
ナイスアシストだ。やはり毎日教壇に立つ現職の教師は違う。難問に直面して固まっている現状を察して、答えを導きやすい方向へ転換してくれた。お陰で空気が少し変わった。
川島の提案を呼び水にしてザワザワと近くの生徒同士で相談する光景が多く見られるようになった。先程までは自分一人だけで考えて答えを探していたが、互いに意見を出し合って相談することで議論が活発になったのが目に見えて分かる。
暫く成り行きを見守っていると、一人の生徒が手を上げた。
「大人の人に相談するのが良いと思います。子ども同士だと解決しないと思うからです」
悪くない答えだ。五十嵐は発言した子の方に向かって一つ頷く。
しかし、残念ながら正しいけれど間違っている。
「確かに大人の力を頼るのは一番良い方法です。担任の先生やお父さん・お母さん、近所の人でも構わないでしょう。相談することで、話すことで、解決に少しでも近づけるでしょう。でも……どうして歩さんはそうしなかったのでしょうか?」
“歩さん”というワードで先程解された空気が一気に凍り付いてしまった。無意識の内に目を背けていた現実と直視させることは避けて通れないことではあるが、ここまで反応が出るとは予想していなかった。皆が一様に暗い表情をして目線が下に落ちている。
いつかは出さなければいけない言葉だと思っていた。つい先月までこのクラスに居た同級生の存在が、今では前から居なかったように扱っている状況に違和感を覚えていた。腫れ物に触る扱いはおかしいじゃないか。そう考えている五十嵐だからこそ、今このタイミングで口にしたのだ。しかし劇薬は少し効き過ぎたみたいだ。明らかにバツの悪そうな顔をして黙り込んでしまった。
カチカチと壁に掛けられている時計が一秒を刻む音が教室内に響く。その沈黙こそ今この場の重苦しさを象徴しているのだが、みんな息を潜めているばかりで誰も声を発しようとしない。アプローチがやや強引だったか。五十嵐が再び声をかけようとした時、スッと手が上がるのが目に入った。先程発言した子だった。勇気を出して手を上げてくれた生徒に敬意を表して、丁重に指名する。
「えっと、心配させたくなかったから、誰にも言わなかったのだと思います」
素晴らしい子だ。こちらが伝えたかった事に、自力で気付いてくれた。五十嵐は教壇の下で小さく拳を握った。
「その通りです。親御さんに学校でイジメられている事を伝えれば確実に学校か担任の先生に伝わるでしょう。しかし、それは親御さんに余計な心配や負担をかけてしまうのでは?と考えて躊躇することも十分に考えられます。そして担任の先生に相談しても解決に近付くどころか悪化した経験があったら、どう思いますか?『いくら言っても一緒』と諦めることも考えられませんか?」
後ろに付け加えたのは川島からの証言を元に推察される事案だ。川島から聞いた証言には被害児童から嫌がらせの相談を受けたとあり、その旨も業務日誌や川島個人が保有するノートに記載されていた。実際に加害児童と面談したが事実関係を認めず、『保護者に言うよ』と言っても『ウチの親、忙しいから会えないよ?』と悪態をつく始末。結局、口頭注意で終わらせたが、それ以降被害児童からイジメに関する相談は無かった。ちなみにその日の日報には相談内容や加害児童の発言や反応を詳細に記していたが、被害児童が自殺してから検めて日報を確認するとその記載が全て削除された上に内容が改変されていた。恐らく自殺との因果関係を追及されたくない責任者による隠蔽工作だろうが、その件については今後じっくりと調べさせて頂くとして。
「誰かに迷惑をかけたくない、心配させたくない、と思って嫌なことや苦しいことを自分の中に抱え込む人が世の中には大勢居ます。それは決して悪いことではありませんが、自分で解決出来ないくらいに溜め込んでしまう人も中には少なからず存在します。それは年齢に関係ありません。それぞれがそれぞれに悩みを背負って、毎日辛い思いをして過ごしています。さて、自分一人で悲しいことや辛い思いをしている人に対して、どうしれば良いと思いますか?……自分がそういう立場にあると想像して考えてみると分かりやすいかも知れませんよ?」
さり気なくヒントを出して自分達で考えさせる。五十嵐も成宮も確信していた。大丈夫、この子達ならきっと自分達の力で答えを導いてくれる。そこへ川島が生徒達に向けて呼びかける。
「みんなー、席を移動して机をくっつけて友達同士で話し合ってもいいですよ」
努めて明るい声で提案すると早速子ども達が思い思いに移動して気の合う友達同士で固まり始める。机を寄せ合うことでグループが鮮明になり、互いに意見を出して話し合いが活発になった。やはり現役の教師、子ども達の扱いでは川島の方が一枚上手だ。
「好きな事ことをして気分転換したら気持ちが明るくなると思います」
友達同士で話し合うことで流れが良い方向に傾いた。だが、その答えは悪い線ではないが求めている答えではない。
「うん、自分の好きなことをしていると嫌な気分を忘れて気持ちが少し軽くなるよね。……でもね、物凄く深刻な人はね“何かしよう”というエネルギーすら空っぽになっている人も少なくないんだ。好きなことがお金の必要なことだってあるでしょ?でもね、お金も要らなくてもっと手軽に気持ちが楽になる方法があるんだよ。それって何だと思う?」
方向性は悪くなかった。だからもう少しだけ考えれば分かるはず。信じているからこそ答えを敢えて言わずに待つ。あとちょっと、時間をかければ―――
直後、授業終了を告げる予鈴が無情にも鳴り響く。道徳の授業が終わってしまった。その瞬間、五十嵐は黒板側に顔を向け、成宮は子ども達に見えないように唇を噛む。
学校側と交渉して与えられたのは道徳の一時間だけ。それ以上の延長は断じて認められない、と何度も厳しく念押しされた。無理に捻じ込んだ手前、この条件を呑む以外に道は無かった。
あと少し、もう一歩二歩。そこまで答えは近付いていたのに。ここで終わったら何も変わらない。しかし、タイムリミットは過ぎてしまった。悔しいが、ここまでだ。
多くの児童が困惑の表情を浮かべて壇上の三人に視線を送る一方で、後方で悪態をつくばかりで反発以外の発言は一切しなかったグループは休み時間と知って面倒臭い授業から解放されたと言わんばかりに清々しい顔をして席から立ち上がる。そのまま重苦しい空気の教室を飛び出して遊びに出ようと動き出した瞬間―――川島の声が教室内に響き渡った。
「みんな、このまま道徳の授業を続けます。トイレに行きたい子は行ってきても構いません。休み時間の間も友達同士でこの問題について話し合っても大丈夫です」
担任からの一言に反応は極端に分かれた。大半は安堵の表情を浮かべ、少数は苦々しい表情に変わる。五十嵐も成宮も驚きの眼差しで川島を見つめてしまった。次の授業は国語、受け持ちは担当の川島だから独断で授業を変更しても問題ないが……この特別授業を行う際につけられた条件を自ら破ることになる。それは即ち、学校や教育委員会の決定を反故にしたも同然の行為だ。当然のことながら彼女の評価に影響して今後の教師人生に大きなマイナスになることだって有り得るのだ。
「私、お二人の姿を見て決めたんです。“このままじゃいけない”って。例え私が罰を受けたとしても、保護者からクレームを受けることになっても、絶対に最後までこの授業をやり遂げるんだ、って。中途半端な終わり方は絶対に嫌だ、と強く感じたんです」
視線を生徒達から逸らさず、子ども達には届かないくらいの声で、二人に小さな決意を明かしてくれた。その瞳には迷いも揺らぎも一切見られなかった。あの校長や教頭の脅しと現実のギャップに挟まって苦しんでいた弱々しい姿をしていた時とは見違えるくらいに強く、筋の通った立派な教師として輝いていた。
「……済まんな。また叱られることになる」
「気にしていません。警部と一緒ですからある程度の叱責は覚悟していましたので」
肩を寄せて囁く二人。こちらは土壇場で風向きが変わったことで戸惑いはしたけれど、逆に覚悟は固まった。
こうなれば一蓮托生、とことん付き合うまで。処分上等、始末書や叱責が怖くて刑事なんかやってられるか。上からの評価なんて大分昔に気にしなくなった。萎えかけた気持ちが上向くと、目線も自然と高くなった。
次の予鈴が鳴るまでの十分間、活発に意見を話し合うグループ、ブレイクで雑談するグループ、一人一人が静かに考えるグループ、それぞれが頑張って答えを見つけようと努力する姿が多く見られた。一方で教室の隅に陣取っていた面子は運動場へ遊びに行って帰ってくる気配は全く見せない。その分だけ空気が軽くなったからか、議論は大いに盛り上がっていた。
そして次の時間のチャイムが鳴る。運動場に遊んでいたグループも渋々ながら遅れて教室に戻ってきて席に座ると、川島は生徒達に向かって声をかけた。
「では、さっきの質問で『こうだと思うなー』って意見のある人はいますか?」
すると幾つかのグループから手が上がる。川島はその一つのグループの子を指名する。
「誰かとお喋りすること!!これならお金もかからないし、簡単に誰でも出来るから!!」
「遊ぶこと!!携帯ゲームとか無くてもみんなで遊ぶ方法は沢山あるよ!!」
「似てるけど、体を動かすこと!!サッカーとか鬼ごっことかしたら、その時だけ夢中になれるし!!」
……これは思った以上の収穫だ。自分達が想定していた以上に答えを見つけ出してくれた。子どもの視点だからこそ見つかる答えもあるんだな、と逆に感心してしまった。
五十嵐は頬を綻ばせながら応えた。
「素晴らしい。君達は私達が思っていた以上に答えを見つけてくれました」
素直に賞讃の言葉をかけると、子ども達は一様に明るい表情を浮かべた。やはりよく知らない人からでも褒められると嬉しいのだ。一人一人の顔を見つめながら五十嵐は話を続ける。
「人と話す。これが一番嫌な気持ちや辛い気分を和らげてくれる特効薬です。話を聞いてあげるだけでいいのです。暗い顔をしている子に『大丈夫?』と声をかけるだけで、その子は“自分は一人じゃないんだ”と前向きな気持ちになります。何気ない一言かも知れませんが、その言葉が大きな勇気になるのです。いつもと違う、何か雰囲気が変わった。そのちょっとした変化に気付いたら一歩近付いてあげて下さい。遊びに誘う、話しかける、グループに入れてあげる。その行動が大きな希望に繋がることを、忘れないで下さい」
教室内を見渡すと、多くの子ども達が五十嵐の目を見ていた。確かな手応えを感じながら話の締めに入る。
「イジメられている子の多くは何も声を上げずじっと耐え忍んでいます。その様子を見て、反応を面白がってイジメる子達はどんどんエスカレートしていきます。大切なのはイジメられている子が出しているサインに気付いてあげること、そして声をかけること。追い詰められている子は必ず何らかのサインを出しています。元気がない、持ち物が少なくなったり汚れている、いつも俯いて暗い表情をしている、言葉数が少なくなった、最近一人で居ることが多くなった。そういうサインに気付いたら、迷わず声をかけてあげて下さい。その小さな一歩は大したことじゃないかも知れませんが、悩み苦しんでいる子にとってはとても大きな一歩になります。一人じゃない、誰か私を見てくれている、それだけで世界は大きく変わります。小さく縮こまっていた世界が急に開けて広く大きな世界に生まれ変わるような感覚になります。そして……君達には他人の痛みが分かる子になって下さい。最初から完璧に分かる子なんか誰もいません。友達付き合いや同級生と関わっていく中で、相手がどういう気持ちで居るのか、自分の発言で相手はどういう思いをしているのか、そういう小さなことを考えるところから始めてみて下さい。そうしたことを積み重ねていく内に、自然と相手の気持ちや痛みが分かるようになってきます。それが大切なクラスメイトを失った皆さんが出来る、小さな償いになります」
再び教室の中をじっくりと見回す。一人一人の瞳に、強い決意の火が灯っていた。その火は例え小さくても時が経てばいつかは心を照らす大きな炎となっていくだろう。ここから先は自分達の仕事ではない。伝えたいことを全て教えた以上は、部外者は静かに引き上げるだけ。
五十嵐が川島に目で合図する。それに応じるように小さく頷いて、川島は生徒達の方に向き直る。
「これで道徳の授業を終わります」
捜査の要となる山場を無事に乗り越えて、胸のモヤモヤが晴れた五十嵐と成宮は清々しい気分で教室を後にしようと生徒達に背中を向ける。すると背後から「起立」と号令がかけられ、生徒達が一斉に立ち上がる。驚いて振り返ると、みんなが立ち去ろうとしている二人に向かって視線を送っていた。
「ありがとうございました!!」
「「ありがとうございました!!」」
当番の号令と共に、みんなが一斉に大きな声で挨拶すると共に頭を下げていた。教室の後方で不承不承頭を下げているグループのもご愛嬌ということで静かにスルーする。
これで環境は大きく変わった。これからは仮に誰かが好き勝手な振る舞いをしようとすれば、クラスの中の誰かが指摘して、それにみんなが同調して調和を乱す行動を許さないだろう。イジメの下地は加害者と被害者と傍観者の三者が存在することで成立する。傍観者の割合が少なくなり新たに糾弾する存在が現れれば加害者に対して厳しい目が向けられ、やがてイジメは自然消滅の方向に向かっていく。これまでやりたい放題していた児童からすれば居心地の悪い状況になるだろうが、それこそ正常な姿なのだ。歪みを正した以上、我々の出る幕は無い。部外者は跡を残さず静かに去るのみ。
五十嵐は生徒達に深く一礼して教室から出て行った。成宮もそれに倣う。
晴れ晴れとした気持ちで玄関へ向かう途中、後ろから慌しい足音を立てて二人に近付いてくる気配に気付いた。振り返ると血相を変えて大粒の汗を額に浮かべた校長と、同じく興奮した様子で息を切らせている教頭の二人であった。
こちらとしては全て万事解決して高揚している気持ちに水を指された気がして、少し気分を害した思いだ。
「ア、アンタ達!!約束では一時間だけと言っていた筈ですよ!!」
激しい勢いで迫ってくる教頭に五十嵐は平然と切り返す。
「私共は特に何も……ただ、授業の経過に従ったまでです」
「惚けないで下さい!!担任の川島先生に無理を言って時間を延ばさせたのでしょう!!これは明らかな業務妨害ですよ!!警察に被害届を出してもいいんですか!?」
明らかに脅しにかかる文言を口にするが、五十嵐は疚しい思いが微塵も感じてないので落ち着いて言葉を返す。
「どうぞ、お構いなく。それより、警察の手が入ると探られたくない腹を調べられるのは其方様の方じゃないですか?」
「な、な、何の事ですか?」
思わぬ展開に話が流れていくことに対して明らかに動揺する校長。その額から息を荒げていた時に出ていた時とは違った汗が噴き出す。
「業務日誌の改竄、証拠の隠蔽、報告書の偽造。調べればすぐに分かることです。校内のパソコンを押収するだけで、貴方達のやった事が全て明るみになりますよ」
自分達のやったことを匂わせると、二人の表情が一気に青ざめていった。今更ながら自分達の犯した行為の重大さに気付いたらしい。
校長と教頭が行った行為は公文書偽造の罪か何かの罪に該当するだろう。そうなれば保身どころの話で済まなくなる。裏で教育委員会が関与しているかいないかまでは分からないが、捜査令状を請求して本格的な取調べが行われることになるだろう。
靴箱から自分達の靴を取り出すと、追いかけてきた二人の方を向かずに吐き捨てるように言葉を発した。
「全て正直に打ち明けていれば良かったのに。生徒より自分の身が大切ですか。一度鏡でご自身の姿を確認してみては如何でしょう?そこに映る自分は教師として相応しいかどうか」
ヘナヘナと膝から崩れ落ちる教頭、血の気が引いて蒼白となった顔で呆然と立ち尽くす校長。五十嵐と成宮の二人は挨拶もせず、静かに校舎を後にした。
後日、地元警察の手が刈安小学校ならびに管轄する教育委員会へ捜査の手が入った。
先日のイジメによる自殺に関して、証拠隠蔽や業務日誌の改竄、報告書や意見書の不正な形で処分された形跡がある疑いで調べが進められ、現場を統括する三河校長や小谷教頭が書類送検される事態にまで発展した。ここまで事態を悪化させた責任を痛感した教育委員会の幹部は総辞職、体制を一新してイジメ撲滅に向けて今後努力していくことで信頼回復に努めると表明した。
その捜査には所轄警察署からも刑事が動員され、その中には高杉も含まれていた。別に志願した訳でもなく、復讐とか敵討ちの気持ちも一切無かったが、一つの捜査として淡々とやるべき事をこなしていった。ただ、少しでも亡くなった被害児童の気持ちが浮かばれればいいなぁ、と仄かに私情を挟んでいたのは秘密である。
一連の経緯は地元新聞社の独自取材によって大々的に取り上げられ、小学校における深刻なイジメの実態や幼い命が犠牲になることが間違っていることを綿密な取材としっかりとした記事で問題提起する形で文章としてまとめられ、多くの小学校でイジメ問題に取り組むキッカケとして大きく活用されていくこととなる。
高杉は刑事課の自分の席で、地元紙の紙面をじっと眺めていた。そこには先日の集合住宅における児童の自殺に端を発した一連の事件の流れを詳細に記されていた。
自殺の背景にあったイジメの実態や責任者による無責任な隠蔽工作。その綿密な内容には記者の熱意や矜持が透けて見える思いだった。取材もしっかり行われ、捜査した内容と相違点は無かった。
あの時、電話に出て正解だった。高杉は心の底からそう感じていた。
突然の捜査打ち切りから暫くしてからあった、一本の着信。それは東京に強制送還された川島からであった。
『自分達の代わりに川島へ連絡して、クラスの子ども達と話せる機会をどうにか作って欲しい』
電話の向こう側から聞こえてくる声の裏に、以前ファミレスで聞いた五十嵐の仕事に対する信念が伝わってきた。そして、自分は捜査打ち切りで半分諦めかけていたが、東京に送り返された二人は今でも諦めてなかったのを強く思い知らされた。
『こんな中途半端な幕引きでは誰も得はしない。汚れた土壌を入れ替えない限り、悲しみの連鎖は延々と続いていく。放置していたら必ず次の被害者が生まれてしまう。そうなる前に何とか食い止めたい。どうか力を貸してもらえないか』
その提案に考えるまでもなかった。躊躇なく『分かりました』と即答した。今回の捜査では出過ぎた真似をしたとお小言を喰らっていたのでこれ以上深入りすると何らかの処分があるかも知れない、と重々承知している。でも、正しいと思った事を行うことがどうしてダメなのか。覚悟はもう決まっていた。これで警察を辞めることになっても、悔いはない。
熱が冷めない内にと、その日の間に川島へ連絡した。相手も同じ思いだったらしく、快く了承してくれた。但し『今はマスコミや教育委員会の目で過敏になっているので、間を置いて』と条件をつけられた。生徒に接触する名目は“同級生が自殺したことに対する、生徒への心のケア”として、とアドバイスも添えてくれた。
翌日、内密に学校を訪ねて川島の助言通り“数日後、生徒達に心理面のケアを目的とした授業を行いたい”旨を校長と教頭に提案した。これ以上は教育現場に外部の人間が立ち入ることに対して強い抵抗感を抱いていた責任者二人は当初渋っていたが『今回限り、教育現場に介入しない』と約束すると不承不承応じる運びとなった。その際には『一時間だけ』と制約がつけられ、教育委員会やマスコミには絶対洩らさないようにと何度も念押しされた。それはこちらも同じ思いだ。とっておきの策は直前まで知られたくないのはこちら側としても同じだから。
自分は一度切れた糸を繋いだだけ。後は何もしていない。仕事としては手間ばかりかかる小さな仕事かも知れないが、仕事に大きいも小さいも関係ない。小さな仕事で山が動くキッカケが生まれるのを、教えてもらえたから。
何度目を通したか覚えてないが、その記事を全て読み終えると自然に肩の力が抜けた。氏名や学校名は伏せられていたが、その日の朝に届いた新聞の紙面で我が子の亡くなった事件の成り行きを全て知る事となった。
昨日の午後、何の前触れも無いまま大勢の同級生が家を訪問してきた。その手には花やお菓子などそれぞれが思い思いに何か持っていて、口々に「歩さんの仏壇に手を合わせてもいいですか?」と聞いてきた。思えば、あれから同級生もその保護者も、私の家に訪ねてくることは無かったなと今更ながら思い出した。
拒む理由は無かったので招き入れると、みんな行儀よく順番をついて居間の片隅に置かれた小さな仏壇に向かって静かに手を合わせていった。中には仏壇の遺影に向けて「ゴメンね」と謝る子も居たのが印象に強く残った。最後の一人が終わると代表の一人が「突然押しかけてご迷惑をおかけして、すみませんでした」と大人顔負けの対応をしてくれたのは正直驚いた。この子達にどんな心境の変化があったのか不思議に思う事もあったけれど、亡くなった我が子に対して手を合わせてくれるその気持ちだけでも素直に嬉しかった。
さらに後日、郵便受けに一通の茶封筒が入れられていた。宛名も何も記されていない封筒の中身を不審に思いながら恐る恐る開けてみると、何枚か束ねられた手紙が出てきた。便箋に直筆で書かれた手紙には、我が子に対して心ない言葉を浴びせていたことや金品や物品を強要していたことを赤裸々に告白し、今は自らの行為の愚かに気付いて後悔していると記されていた。手紙の最後には謝罪の言葉と共に『二度と同じ過ちを犯さない』と誓いの文言で締められていた。
文面の構成から推察すれば、恐らく大人が無理矢理書かせた感じではない。一文字一文字に思いを込めて、文章も相手に自分の気持ちを伝えようと考えながら書いた痕跡も随所に見られた。でも、これに関してはどう扱えばいいか今の段階では分からなかった。『二度としない』と誓われても、誠意を率直に表して謝られても、死んだ我が子が戻ってくることは決して無いのだ。疑っている訳ではないけれど、まだ気持ちの整理がついていない以上は生理的に受け入れられなかった。
どうするか迷った末に、仏前にそっと添えておくことにした。少しの間に華やかさが増した仏壇の片隅に隠れるように置かれた茶封筒を、愛する我が子はどう受け止めるのだろう。答えの分からないモヤモヤを残り香として漂わせながら、今日という日がいつものように過ぎていく。
東京、警視庁。その片隅にひっそりと設置された捜査八課は相変わらず平常運転を続けていた。
窓際部署とは言え、他の課では処理し切れない仕事が廻ってきて常に捜査八課に属する刑事達が対応に大忙しであった。それは課長の五十嵐もまた同じで、書類に目を通してハンコを押しながら部下の捜査状況に耳を傾ける、二人か三人に分身することが叶うならばそうしたいくらいに仕事に没頭していた。
午後四時過ぎ。総務の方から速達便が届いたと一通の小包が届けられた。宛先は警視庁捜査八課・五十嵐課長。送り主は高杉。
溜まった仕事を大方片付けて一段落したところで、今持ってきた小包の封を開ける。中に入っていたのは地方紙の新聞が一部だけ。日付は今日。恐らく今日購入してそのまま郵便局に駆け込んで送ってくれたのだろう。
高杉と一緒に仕事したのがかなり昔のような記憶があるが、まだ一週間も経っていないなと思い直した。有給休暇を利用する荒業で、応援で携わった自殺案件の後始末をつけに行ったが、やはり有給休暇明けに刑事部長から呼び出しを受けた。
『何をしていた』と重ねて追求されたが『思い切って地方へ出掛けて、羽を伸ばしてきました』とだけ押し通した。陥落しないと見た刑事部長の矛先が成宮に向かったが『暫く帰ってない実家に帰省していました』とだけ返事した。その場で成宮が『休暇中に何処で何をしていても構わないのでは?プライベートも一々申告しないといけないのでしょうか?』と真面目顔で切り替えした際には聞いているこっちがヒヤヒヤしたものだ。平時から冷静なのはいいが、相手を挑発するのも如何なものかと後で叱ったのも良い思い出だ。
さて、本題に戻るとして……この朝刊に一体どんな意味があるのか。
普段は入れてもらっている身なので今日は玄さんの分も含めてお茶を淹れて席に戻り、新聞を広げる。すると見開きで大きく記事が組まれ、その内容をじっくりと読み進める。余計な脚色の含まれてない、端的に事実を伝え問題提起する記事を引き込まれるように夢中で貪り読んだ。そして記事の内容に満足して読み終えた。
「警部、こちらにハンコをお願い出来ますか?」
ちょうどタイミング良く成宮が決裁を求めてきた。渡された書類を受け取ると共に、それまで目を通していた朝刊を差し出す。
「今日の朝刊だ。高杉君から届けられた」
それだけ伝えると何を言いたいかすぐに分かったらしく、引っ手繰るように新聞を受け取ってその場で立ちながら読み始めた。当該記事を見つけると途端に文字を追う速度が緩やかになり、全て確認し終えると静かに畳んで返してきた。
「……これで解決、ですね」
「あぁ。そうだな」
偶然居合わせた現場の案件を、宙ぶらりんな状態で終わらせたくなかった。横槍が入って不本意な形で東京に送り返されて意地になったのもあるが、中途半端な形で捜査の終焉を迎えるのは許せなかった。決して好ましい方法ではなかったかも知れないが、お陰様で無事に自分達の目指すべき着地点に落とすことが出来たことに心底ホッとしていた。尤も、この事件が解決しても犠牲となった命は戻ってこない。でも、一定の解決が適ったことで全てが良い方向に向かっていけば、かけた労苦も報われる。
窃盗や詐欺のように犯人を捕まえて、裁判にかけられて、その罪を何らかの形で償い被害者の傷が時間の経過と共に癒えて元通りになる案件は限りなく少ない。それでも自分達は日夜発生する事件に全力を傾ける。ちょっとでも良い結果になることを願って。
「……さぁ、有給でたっぷり休んでいたから仕事はたんまり溜まっているぞ。一つ一つ片付けていくぞ」
「はい」
応える成宮の口元が僅かに上がっているのを五十嵐は見逃さなかった。他の部署からは“鉄の女”“感情を表に出さない氷の女王”なんてあだ名がついている部下も、最近になってようやく感情を少しずつ表に出すようになってきた。これもまた、良い傾向だ。
「……私に何かありましたか?」
「いや、何も」
五十嵐の思わせぶりな反応に小首を傾げつつ、自分の席へと戻っていく成宮。頼りになる優秀な部下の遠ざかる背中を温かい目で見送る五十嵐の表情は、捜査の時とは打って変わって穏やかな顔をしていた。
この町を大きく揺るがした、小学生による集合住宅からの飛び降り自殺とその背景にあった悲惨な実情という非常に痛ましい事件の傷も時の経過と共に少しずつ癒され、人々の記憶から薄れ始めた夏の終わり頃。高杉は刑事課長に突然呼び出しを受けた。それも刑事課でなく、場所を移して二人きりで、という条件付き。内容は一切告げられていない。
業務に関する話や伝達事項であればその場で直接行うのが普通であるのに、わざわざ小会議室に呼ばれて二人きりで話し合いとなると、否が応でも動揺する。先輩からも「何やらかしたんだ?」と軽口を叩かれる始末。最近は刑事課の仕事にも慣れてきて、大きなミスや失態は犯していない(小さな凡ミスはしょっちゅうやっているので胸は張れないが……)ので身に覚えは無い。あるとすれば……例の事件で色々と出過ぎた真似をやらかしたことか。
東京の警視庁で辣腕を振るう凄い刑事と一緒に仕事をして触発された影響からか、事件関係者に対して相手の知らない所で電話番号を入手した上で連絡したり、捜査方針に対して悪態をついたり、捜査の枠を超えた出過ぎた行為を行ったり。……思い返せば色々と身に覚えのあることが山程あるではないか。
しかし、あの時の行為について悪いことをしたと思ったことは一度も無い。越権行為だったかも知れないが、事件解決に向けて仕方なく犯した行為だった。なので処罰も甘んじて受けるつもりだし、その覚悟も出来ている。覚悟が決まっているのに直前になって怖気づく辺り、まだまだ警察官としてあるまじき姿かも知れないが。
指定された時間より少し早めに小会議室に入ると、まだ誰も居ないことに内心ホッとした。これで自分が後だったら気まずくなって余計に心理的圧力がかかるところだ。無人の会議室で何をするでもなく呆然と立っているのもアレなので、とりあえず椅子に座って課長が来るのを静かに待つ。
五分くらい待っていると、不意に扉が開いた。現れたのは課長だった。座っていては失礼だと反射的に椅子から立ち上がる。
「おう、早かったな」
課長は少し驚いた顔をしていたが、高杉の目から見る限り機嫌は悪くないように映った。尤も、課長は喜怒哀楽をあまり表に出さない人なので油断は禁物だが。
手にしていたのは缶コーヒーが二本。書類や封筒の類は一切手に持っていない。それだけで少し気持ちが和らいだ。もし仮に上から処分があるとすれば書面という形で伝達されるので、それが無いのは一つの安心材料だ。
「まぁ立ち話もアレだ、とりあえず座ってくれ」
言われて高杉はそれまで自分が座っていた椅子に腰かける。すると課長は自分の椅子から程近い位置にある椅子を引き寄せ、高杉と正対する形で座った。
……こういう場合って机を挟んで向かい合わせが定石なんじゃないですか、と自分の中のイメージと異なったので戸惑ったが、それもそれで距離が開いているだけ気分が重くなる要因になるので近い方が良いですけど。
しかし、内密に二人きりで話すというのは一体どういう内容の話なのだろうか。
刑事課から別の部署への異動の内示。外部からの圧力や上層部の印象の悪さから考えられなくもない。
暗に辞職を書かされる。これも先述した理由から考えられるが、こんな若造の首を飛ばすのであれば別に懲戒解雇であっさり済ませても不思議でないか。いや、逆に経験が浅い刑事が突然辞めさせられるのも不自然だから辞表を出せということか。
それとも処分を予め伝えることで心の準備を促す目的とか。話としては有り得なくもない。
色々な可能性が脳内でグルグルと巡る中、いきなり課長から手が伸びてきた。
「ほら、これでも飲め」
差し出されたのは先程手にしていた缶コーヒーの一本。
「頂きます」
恐縮しながら受け取ると、課長はこちらに構うことなくプルタブを開けて一口飲む。まぁ二本あるなら一本は自分用に買ってきてくれたのかな、と考えなくもないけれど……早く本題に入って欲しいと思ったのは自分の我が儘だろうか。
自分も課長と同じように缶コーヒーのプルタブを引いて、一口啜る。ほんのり温かいから買ってからまだ間もないのだろう。香ばしさと苦味が口の中で合わさり、少しだけ気持ちが落ち着く。
部屋の中にコーヒーの香りが仄かに漂う中、課長は何の前触れもなく切り出した。
「高杉。お前、東京に行く気は無いか?」
いきなり打ち明けられた内容に思わず目が点になった。
東京?どうして?課長の言っていることが理解出来なかった。
地方の警察官は主に現地で採用され、道府県内の管轄する警察署内で人事異動が行われて転勤する場合もあるけれど、基本的に同じ管轄の中で行われるので他所の管轄に人事異動するケースは滅多にない。例外なのは言わばキャリアの警察官が警察本部に転属となるパターンで、都道府県の枠を超えて全国各地に転勤するケースも多々見られる。しかし、高杉のように現地で採用されたノンキャリアの警官に関しては定年まで同じ管轄で過ごすということも珍しくない。
混乱するのも想定済みだったらしく、課長は丁寧な口調で説明を始めた。
「実はな、先日警視庁の五十嵐さんから電話があってな。『お宅の高杉君を是非我が捜査八課に迎え入れたい』と申し出があったんだ。私の一存では決められないので本人の意思を確認してから折り返し連絡する、とだけ先方には伝えたが……どうする?」
五十嵐さんが、直接電話をかけてくれて、しかも『迎え入れたい』って……それってつまり、期待されている証拠ってこと?端的に言えば引き抜きですよね?
思わぬ展開に頭がついていけてないが必死に冷静になって考えようと苦心して、課長に問い返す。
「でも、課長はどうお考えなのですか?」
「刑事課自体、人数が足りてない状態でお前を手放すには惜しい人材だと考えているが、こんな話は滅多にないからな。こちらとしては本人の意思に任せたいと思っている」
課長はあっさりとした感じで話してくれたが、その中でも自分を評価してくれていることが端々に滲んでいることが率直に嬉しかった。さらに課長は付け加える。
「それに……先日の一件で上層部は高杉の行動力についてあまり良い評価と受け止めてないらしい。地道に頑張ればいつか挽回出来ると思うが、東京に出て五十嵐の下で働けばもっと羽ばたけるのじゃないか、と見ている。試してみる価値は十分にあると思うぞ」
付け加えられたのは上の反応だった。やはり出過ぎた真似の代償は大きかったみたいで、好意的に見られてないことが課長の話から浮き彫りとなった。末端の捜査員の評価など簡単に覆ると思うが、一度ついたイメージを払拭するのは時間がかかるに違いない。それを考えると心機一転、新天地で頑張った方がまだ芽があるということを暗に示唆している。
そして課長は全て自分の意志を尊重する姿勢を強調していた。どちらを選んでも構わない。もし残るのであればこれまで通り励んでいって欲しい。そういうメッセージもヒシヒシと伝わってくる。
ボールはこちらにある。自由に選べるからこそ、真剣に悩んだ。今の仕事も悪くない、と思っている。面倒見の良い先輩、気の合う仲間、静かに成長を見守ってくれる上司。こんな雰囲気の良い職場はなかなか巡り合えないだろう。
東京という不慣れな土地に移ることに不安もある。知人も友人も家族も側に居ない離れた場所で、今まで通り仕事を続けていけるだろうか。五十嵐や成宮はあの時みたいに自分を快く引き受けてくれるだろうか。先の見えない所へ飛び込めるだけの力を、自分はあるのだろうか。次から次へと湧いてくる不安や迷い。でも―――
「お受けします。行かせて下さい」
高杉は課長の目を見据え、はっきりとした言葉で自分の意志を表明した。
迷いや不安よりも、チャレンジしたい気持ちが上回った。五十嵐が期待してくれているから自分を呼んでくれたのだ。その気持ちを前向きに捉え、もっと飛躍出来る可能性を信じて未知なる世界に飛び込む決意を決めた。
「……そうか」
高杉の反応も予想していたらしく、課長は短く応じるに留めた。その表情は嬉しさ半面、寂しさ半面といった感じか。
課長もまた自分の可能性を心から信じていた一人らしく、英断を尊重すると共に頼りになる部下を失うことに対して残念だと思う気持ちが素直に表れていた。それがまた嬉しく、そして期待に添えないことに申し訳なさを感じた。
それも一瞬のことで、缶コーヒーをグイッと一気に呷って晴れ晴れとした表情で告げた。
「分かった。先方にはそう伝えておく。あとは手続きなどもあるから正式な申し入れは一ヵ月後くらいになると思っていてくれ」
「了解しました。残り短い期間になりますが、気を抜かず職務に邁進していきます」
ハキハキとした口調で答えると、課長は満足そうな表情を浮かべて頷いた。まだ別れの時まで間はあるけれど、それまで今まで通り与えられた仕事に全力で取り組むことこそ恩返しになると高杉は考えていた。
高杉は先に立ち上がり「失礼します」とだけ告げて会議室を後にした。パタパタと廊下を駆けていく足音を耳にしながら、課長は一人で一抹の寂しさを手元に残った空の缶を弄ぶことで紛らわそうとしていた。子飼いの刑事が巣立つのは喜ばしいことながら、育ててきた身としては離れて欲しくないと微かに願っていたのは勝手な親心なのかも知れない。
夏の名残である残暑もようやく落ち着いて、秋の気配が少しずつ漂い始めた頃。飛び降り自殺のあった集合住宅の現場に、五十嵐と成宮の姿があった。かなり涼しくなってきたお陰で、日向で太陽光を浴びても汗が滝のように出るようなことはもう無い。
あれから数ヶ月経って、辺りはすっかり元の雰囲気を取り戻していた。車を停めて集合住宅の敷地を歩く二人は少し前の出来事を懐かしみながら歩いてく。その手には大きな花束が抱えられていた。
「すっかり秋の風情だな」
五十嵐が独り言のように洩らすが、成宮から相槌は返ってこない。成宮も成宮で色々と思いを馳せているのだろう。
やがて目指していた場所に辿りつくと、静かに花束を草むらの片隅にそっと立てかけた。缶ジュースや小さな花束が置かれたその場所は被害児童が飛び降りた現場のすぐ近くで、五十嵐と成宮も静かに手を合わせて故人の冥福を祈った。
あの痛ましい状況の跡はすっかり消え失せ、献花されていることだけが事件のあったことを思い起こさせる基点として残されていた。未だに花を添える人が絶えないということは、それだけ事件が風化してない証でもある。
それから二人は集合住宅の中に入り、遺族の元を訪ねた。今回は前もって訪問することを伝えてあるので、幸恵が二人を出迎えてくれた。捜査の一環ではなく、あくまで私的な訪問であった。
五十嵐と成宮は居間に通されると、部屋の片隅にある仏壇に目が留まった。両脇には小さな花が添えられており、色紙も供えられていた。
「同級生の子が、夏休みの間は毎日欠かさず誰かが来てくれてお参りしてくれました」
幸恵は温もりのある声で説明してくれた。
同級生は仏壇に手を合わせながら、色々と語りかけてくれたらしい。最近の学校であった出来事だったり、自分が何か自慢出来るようなことを報告したり、逆に失敗したことを語りかけたり。返事は無いけれど、話すことで何か意思の疎通が出来るのではないかと期待して言葉をかけていた。その光景がとても微笑ましい、と幸恵は語ってくれた。
その話を聞いて五十嵐は心の底から、あの授業をやって本当に良かったと実感した。同級生が死んだことから目を背け、元から居ない存在のように扱うことはどうしても避けたかった。かと言って腫れ物扱いされず、静かに冥福を祈るような優しい子になって欲しい。イジメの歪んだ環境を変えると共に、他人の痛みの分かる子に育って欲しいというもう一つの目的を果たせたことに満足していた。
二人は仏壇に手を合わせると、長居せず茶菓の持て成しも固辞してすぐに部屋を後にした。もう、自分達が居なくても大丈夫。あの子達は自分達の足でしっかりと歩いていける。どんな困難が待ち構えていても乗り越えるだけの力は身についていた。
屋外に出てふと空を見上げると、雲一つない快晴であった。いつまでも透けるような青空が延々と広がり、心もウキウキと躍り出しそうなくらいに綺麗な空だった。
それから一週間後。東京・警視庁。
キョロキョロと周囲を見回しながら廊下を進む、一人の青年の姿があった。今日から警視庁に配属となった警察官で、それまで務めていた警察署とは規模も人数も全く異なる雰囲気にまだ慣れてない様子らしく、緊張からか肩が幾分硬くなっていた。
こっちで合ってるのかな……?何回か職員に確認しながら歩いてきたけれど、そんな場所があるような感覚が一切無いのだけれど。不安が渦巻く心を押し殺しながら、ゆっくりとした歩調で先を進んでいく。まるで摩天楼みたいだ。歩いている内に方向感覚が麻痺しそう。
警視庁の入り口を通って十五分。ようやく目的の場所を目視で確認することが出来た。迷路のゴールをようやく発見した気分で内心ホッとする。
捜査八課と書かれたプレートの部屋。今日から、ここが自分の職場となる。
扉の前で大きく深呼吸をして、決意を固めてドアノブを捻って扉を開ける―――コンクリートが剥き出しとなり、窓は天井に近い高い位置に幾つかあるだけで空間が異様に広い、まるで倉庫みたいな部屋だった。
そこは机で作られた島が幾つか点在する、二十人弱が居る大きな間取りの部屋みたいだ。入り口の脇には給湯室も設けられていて、一応は捜査員が仕事する場所だと辛うじて分かるくらい。
中央の通路の先には大きなデスクが構えられ、そこには見慣れた顔の人物が煙草を咥えて座っていた。
「おぉ、高杉君!!」
相手はこちらに気付いて大きな声で呼んでくれた。それに対して高杉はペコリとお辞儀する。それと同時に部屋の中に居た人々が一斉にこちらを向いたので、視線を浴びて注目されることに慣れてない自分は小さく肩を丸めた。
その相手は手招きしてこちらに来るよう促していたので、それに応じてスルスルと中央の通路を進んでいく。予め荷物は宅急便で送ってあったので、手にしていたのは地元の名産品である土産が入った紙袋くらいだ。
居た堪れない気分で相手のデスクの前に立つと、大きく息を吸い込んで挨拶する。
「本日より警視庁捜査八課に配属されました高杉巡査部長です。色々と勉強不足な部分はあると思いますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
自分でもハキハキと喋れたと少しだけ満足すると、相手も思わせぶりな笑みを浮かべて応えてきた。
「ようこそ、高杉君。改めて自己紹介させてもらう。私が課長の五十嵐だ。一応階級は警視だが、みんなから“警部”と呼ばれているのでよろしく頼む。警視庁内で“厄介者の集まり”とか“扱いづらい人間の宝庫”と陰口を叩かれる窓際部署へ志願してきた英断に感謝する」
五十嵐が自ら“窓際部署”と断言する辺り、相当な場所なのだろうなと覚悟はしていたけれど、一見しても以前まで所属していた刑事課とあまり変わりがないと感じた。
すると五十嵐の方から右手を差し出してきた。自分も応じて右手を差し出すと、五十嵐はグッと自分の手を力強く掴んで握手した。その人並み外れた強さに痛みを感じると同時に、手の温もりを強く実感させられた。
「高杉君の場所は成宮の隣だ。分からないことがあったら成宮に聞いてくれ」
五十嵐が手で指し示す方向に自分が前もって発送しておいたダンボールが置かれたデスクが目に入った。その横では成宮が一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩いて作業に打ち込んでいた。
示されたデスクの前に立つと、机の上に名札が置かれていた。『警視庁・捜査八課 高杉』と刻まれたネームプレートを目の前にして、ようやく自分がこの場所の一員になったんだという実感が込み上げてきた。
作業に打ち込んでいる途中で邪魔するのもどうかと思ったが、面識があるとは言え今日からお世話になる身である以上は隣の成宮に挨拶することにした。
「成宮さん」
声をかけると作業を中断して、成宮がこちらを向く。
「今日からお世話になります、高杉です。色々と分からないこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。……あまり愛想が良くない方なので不機嫌かなと思うこともあるかと思いますけど、気にせず声をかけて下さいね」
そう言うと再び画面に目を戻してキーボードを一心不乱に叩き始めた。どうやら自分の外見について自覚しているらしく、アドバイスを添えてくれた。
まだまだ脆い信念かも知れないが、いつかは大樹のように揺るがず立派な生き様になればいいな、と淡い期待を夢見て、まずは荷物の整理整頓を始めることにした。
これからどうなるか分からないけれど、とりあえず振り回されて揉まれながら仕事をやっていくしかない。事件に小さいも大きいも無い。その信念を一緒にする仲間と共に、波乱万丈に満ちた刑事生活が今から始まろうとしていた―――
(了)