序章・迷える少女
1
気づいたときには私は目を濡らしていた。
暖かい布団は冷たく感じて、異様に心がにごっていて自分を抱きしめた。
あの恐怖、あの出来事が私の頭を何度も往復し私は布団に顔をうずめた。
私は感傷に浸るのもほどほどに、現在時刻を確認するため机上に備えられている電子時計に目をやる。
時刻は、朝の六時。日付は九月十七日。まだあの子は寝ているだろう、今のうちに私はある学校に向かうために制服の入ったクローゼットに手をかける。
静かに部屋を後にして、なるべく音を立てず階段を降り外に出ようとしたとき声を掛けられた。
「あら、ご飯食べていかないの?」
母親だ。おっとりとした口調だ。
このまま無言で外に出ようと思ったが、変に無愛想ぶるのもどうかと思った。
「……朝はいいわ」
「そう。今日は早いのね」
「日直だから……」
私は言葉が詰まった。
ふと吹き抜けている二階のほうを見たところあの子が玄関のほうを見つめていた。
おどおどした様子で見ていて、図らずともあの子は私と目が合うと顔を伏せ壁に隠れてしまった。
「……もう行くね」
逃げるように家を後にした。
私はもう一度この場所に来て思うことがあった。
愛想をよくしたほうがいいかと思うことがある。もっと愛想をよくして、あの子と近づけば私にとってもあの子にとってもプラスだ。
だけど今のあの子に近づくことも、前からあの子に近づくことも私は拒んでいる。
自分の『願い』だってそれに準じているものだし、あの子が一人で前を向くことを望んでいる。
人間はいつまでも他人を頼っては生きてはいけない。何より人間が弱すぎる生き物くらい私は随分理解している。
晴れた天を仰いで私は嫌に思った。
下に俯けば、ちらほらと水溜りがあり私の記憶をくすぐる。これは『昨日』にあった雨の名残で、忌々しい『昨日』の残骸だ。
「おや、君は随分早い登校をしているんだねえ」
塀に乗っている人形が話をかけてきた。
その人形はある『形』に包まれている。その『形』は人形であるがぬいぐるみと呼称するのも間違いではない。見た目は愛くるしいミーアキャットで、それに赤い眼帯がつけられた『形』である。
「醜い面を見せないで」
私は辛らつに言い放つ。
「おやおや、『昨日』会ったばかりなのに随分な言い草だ。もしかして君は『いつ』の君なのかい?」
体が震えた。
能力を与えた本人なのだから私の能力を把握していてもおかしくない事態であるけど早すぎる。
「君の能力が未来と過去を見る『願い』の魔法だからまさかと考えたけど、君はやっぱり未来と過去を見ているのでなくて未来と過去に行って直接見ているんだね。なんだい君は何か起こった『未来』を変えるために現実的に過去に来たのかい。まあ何が起こったなんて大方想像もつくし君の願った『願い』を元に辿れば君がやりそうなことも想像できる」
『形』は感情もない言葉を淡々としゃべる。
「でもね。君の見てきた『未来』がどういうものか知らないけどね、人間という生き物は生まれたときから『運命』が決められている。もちろんいつ『死』ぬかなんてものも、人間がそんな『運命』を抗うこそ『神が定めた道』にそむく行為だ」
「言ってなさい」
私は『形』を通り過ぎる。
「そうそう。君に一つ有益なことを教えよう」
『形』後ろからこう言った。
「君にあの子を殺すことはできない」
「……本当、気味悪いわ」
瞬時に取り出した剣が『形』を切り裂く。
「喧嘩早いねえ」
『形』を成した人形は無様に綿となった。
どうせまた新しい『形』を見つけて私の前に現れるのだろう。あんな『形』に手を出すなんて時間の無駄だ。
剣を元に戻して、私はある女のいる学校を目指した。
ある女の名前は一瀬寧々という人物である。
周囲から羨望のまなざしの一点となっている人間、人から尊敬されて一切の妬みを周囲から受けない『理想的』な人間である。それは彼女にとってそうであって、私には醜い情景にしか写らない。
人に愛され、疎まれず、プラスの面しか持っていない人間はまさしく『理想的』な模範生である。そんな人間がいるなど逆に気持ち悪いと思うし何より人間性があるかどうかと問われれば皆無と、私は結論付ける。
しかし、一瀬寧々という人間は『理想』を手にしている。まがい物の幻想に囲まれた偽りの『理想』だ。
私にはそれは『幻想』でしかない。私の目に映る一瀬寧々という人間は誰からも気にされず、誰からも興味をもたれず、誰からも必要とされていない人間として映る。そう映るのは私の『真実』のせいなのだから。
私は唇をゆがめます。それがたとえ『幻想』であっても壊すべきであるか、私はいまだに迷っている。
いや、これは所謂作業だ。私のただ一つの目的に達するための過程である。そこに障害があるのなら、壊してでも、踏みにじってでも……悪になろうとも消してみせる。
そう決心した。でなかれば、こんなことをしたりしない。
私は一瀬寧々のいる学校に身を潜め、しばらく彼女をつけることにする。なるべく彼女から視線をそらさず、ばれないように……。
私は不意に心が黒くなっていることに気づいた。楽しそうに慕われている一瀬寧々が笑っている姿を見て私は憎悪を感じた。
その憎悪は一瀬寧々に向けられているものであったが同時に私自身にもある。
私があの子の側にいられることを拒絶して招いたのが今の状況なのかもしれない。あの子のためだと拒絶した過去をやるせなく思う。
……私が『幻想』を叶えたとしてあの子は絶望するのだろうか。
目の前の耐え難い『真実』に目を覆うのだろうか。そればっかりは私でも未来を見ることは叶わなかった。
時間は経ち放課後。一瀬寧々は一人になった。
取り巻きは各自帰ったのだろう、それか彼女によって帰らせたか。どちらにせよ一人になったとことは好都合だ。
私は路地に入った一瀬寧々を追いかける。
「朝からの視線の正体……不審者かと思えば、こんな表情のない女の子とは。私ったら校外まで尊敬されているのかしら?」
「相変わらず気味の悪い魔法ね。そんなに他人の『視線』が気になるのかしら?」
「あら、『相変わらず』なんて言葉、会った事のない人間に対しておかしな言葉だわ。それともどこかでお会いしたかしら? それとも、あなたは魔法が使えるのかしら?」
一瀬寧々は疑問をいくつも投げかける。
淡々とした口調と、お嬢様然とした風貌に私は図らずとも圧倒される。私の『視線』を把握している上で彼女は冷静だったのだ。
「そうね、両方とも肯定してあげるわ」
「そうよねえ。じゃないと『敵意の視線』なんて向けてないものねえ。てことは、『幻想』を知っていて、それを『維持』じゃなくて『完成』させるために私の前に来たってことでいいのよね?」
急に彼女を取り巻く雰囲気が変わった。穏やかな表情も、明らかな敵対として私に威圧的な瞳を向ける。
「やっぱり知っているね」
「やっぱり? あなたは私を知っているようだけど私はあなたを知らないわ。あなたこそ気味の悪い魔法じゃないのかしら」
「今の状況で一瀬寧々という人間が私を知る必要はないと思うわ。私は一瀬寧々を知っているそれだけで十分よ」
「益々気味が悪いわ。名前まで知っているなんて」
一瀬寧々は一歩足を引いた。
「いいじゃない、『過去』のことなんて」
私は制服の懐から小道具を取り出す。握ると隙間が僅かにできるほどのスティックのようなもの。長さはほんのちょっと手から飛び出す程度。私はそれを垂直に縦にして地面に落とした。
「始めましょうか、私達、『迷える少女《魔法少女》』の願いのぶつかり合いを――」