あなたの湖
あなたはお昼寝が好きなのですねと、私の耳を撫でる彼女の指先をよく覚えている。その爪の先が私をまさぐろうとすると、その向こう側にあるべきではない事実が見え隠れしてしまいそうで怖かった。冷たい、そして柔らかく、それなのに妙に艶めかしいその指は私の至る所を撫で続ける。私はそれを静かに受け入れ彼女の膝枕に頭を宛がう。どうなる、どうしたいなんて言葉は無用で、部屋に二人きりで、静かに過ごしていることが好きだっただけ。彼女が誰かなんてことはどうでもいいのだった。
■
失恋の痛みはきっとそこらに転がっているナイフよりも痛くて苦しいもの。そんな風な歌を歌うあのシンガーは嘘吐きで、この歌詞が感動するんだって私にイヤホンを突き付けたあの友人たちも同じように嘘吐きだった。私の中にあった失恋の痛みは刃物なんかではなく、それはまさしく湖に叩きつけられた大きな石だったのだ。森の奥の、動物一人暮らさないような湖。人は誰も住まず、自然現象も起きない静寂の湖。絶海の水分。私の心は誰にも侵されることのない聖なる場所で、誰も入ってこないから、何も起こらないから湖の水面はいつだって冷徹に平静を装った。
そこに誰かがやってきた。それが私の片思いの相手で、私の湖に初めて手を触れた人だった。なぜ好きになったのかなんてわからなかったけど、なぜ、どうしてを説明できるような恋愛をしていたつもりもなくて、さりげない優しさが好きだとか、時折見せる顔が好きとか、そんな誰にでも言えるような安い一言で紡がれる恋物語を自分で演じたいなんて思わなかった。どうして好きなのかわからない。その程度の、少しばかりがむしゃらの心理こそが恋愛のちょうどいい温度。友人たちに共感されない、小さな小さな私の恋愛観だった。
そこにやってきた彼は私の湖の水に手を入れ、少しばかり横に撫でた。当然波紋は広がった。ゆっくりゆっくり。今までそうやって湖を揺らす相手はいなかったんだと私は思った。揺れなかったから、揺れなかったのである。そこに彼は侵入してきてしまった。しかしながら、私は『彼の湖』に行くことはできなかった。私の湖は揺れ動いていたというのに、彼は別の女の子と共にその物語を始めたのだった。結局のところ、私は彼の横顔ばかりを見つめているだけで、特に込み入った話などしなかったというのに情けない。だから私の失恋は、刃物で刺された気分ではなかった。揺れるだけ揺れて、結局私は相手を揺らすことが出来なかっただけ。勝負に出ていないし賭けもしていない、望みがあるかもという段階にすら達していない。砂時計をひっくり返す前のような静止した恋物語を必死で朗読する私、そして、それが聞こえなかったために別の女の子と談笑に花を咲かせる彼。見事な構図で、同時に私は無様であった。惨め。矮小。これがナイフの痛みなわけがない。言うなれば圧倒的な敗北で、空は晴れ渡っているのに雨に濡れた気分だ。傘を差したのに傘の内側から雨が降っているような気分。びしょ濡れだ。私のイメージは完全にそれと一致した。湖に投げ入れられた大きな石が水飛沫を上げ、私はそれを思いきり被った。それだけのことである。
失恋したとわかって帰宅すると、部屋に着物を着た女の人が座っていた。私より少し年上のような風貌だが非常に美人で、黒髪で、恐ろしいほどに可愛らしい笑顔だった。なぜ私の部屋に見知らぬ人がいるのだろう。そう考えながらもあまりに自然体で床に座っている彼女に大きな声を上げる気にはなれなかった。私は鞄を置いて彼女を見下ろし、いろいろと浮かんだ疑問を消化しようと声を掛ける。
「あなた、人の部屋で何をしているんですか」
「ここは私の部屋ですよ」
「いや、私の部屋ですけど……」
「ここはあなたの部屋であり、私の部屋なのです」
意味がわからない。いつから私はこのような綺麗な住人と同居していたというのだ。というか同居してたんならさすがに気付くだろうし、顔に見覚えもないし。私は顎を撫でて唸った。とりあえずいくつか質問を飛ばしてみるが彼女は曖昧な答えばかり。どれもこれも彼女の本質に近づけるものではなかった。さらにはどうも私も悪い気持ちがしなかったのか、彼女と話しているうちに少しずつ打ち解けてしまっていたのである。会話の応酬の中にはささやかな軽やかさと好感触を抱く花のような香り。ここにあなたはいていいのかもしれない、と私が思って口に出すより前に、完全に彼女はこの部屋の住人のような佇まいをしていた。不思議なものだ。まだ出会って数分だというのに他人という気がしない。そう言われてみれば彼女がずっとこの部屋にいたような、そしてこの部屋にいるのがあるべき姿のような心地もしてきている。これは私がどうかしているのだった。おかしすぎる。初対面の女性だというのに、失恋で頭がおかしくなってしまったのだろうか。もう考えるのも面倒になってきた。ただでさえ心身共に疲れ切っているというのに。
「それより、私は晩御飯まで寝るから」
「では、私の膝をどうぞ」
「は?」
「いや、その方が喜ぶと言われました」
「誰に?」
「誰かさんにです」
私にとってはあなたも『誰か』状態なのだが、という質問は喉の奥で泡となって消えた。私はすでに立ち上がってベッドに向かおうとしていた足を止め、彼女の脚に目を向ける。着物で包まれたそれはふんわりとしているのが見て取れ、確かにそこに頭を預けると気持ちいいのではないか、と私の中の私が囁いた。少なくとも枕よりは心地がいいのかもしれない、とまだ囁く。見ず知らずの相手に膝枕されるというのはなんともおかしなことだが、しかし目の前の彼女はすでに『見ず知らず』というレベルではなく、そんなつもりで対応する私もいる。まるで仲のいい友人のようだ。まだ数言しかやり取りをしていないというのにだ。
結局、私はお言葉に甘えて、彼女の膝枕にお世話になってしまった。
やっぱり私、頭おかしくなったのか。
■
耳掃除をしてもらうみたいな形を取って膝枕をされると、少し慣れない雰囲気に私は動揺する。お母さんとは違う。それでも少し目を瞑って眠れ眠れと自己暗示をかけると、まるで雲の中で柔らかな気持ちよさに溺れているようだと思うようになってきた。心地よい。形容詞はそれほど多く持っていない私のボキャブラリー帳が悲鳴を上げる。じわじわと沁みてくるような眠気が差してくる頃合い、耳に何かが触れた。
「……」
「…………」
私は体を起こした。キョトンと瞬く彼女に溜め息を吐きつつ申し出る。
「……あの『 』さん」
「はい」
「耳をふにふにするの、やめてほしいんだけど」
「あらら、可愛らしい耳ですのに」
「寝にくいよ」
「でも、気持ち良いって誰かさんが」
「誰かさんって誰なのよ」
「でも柔らかくて、触っている私の方が気持ちいいのですよ」
「……ほどほどにしてよね」
私は再び膝枕に頭を乗せた。
正直に言えば、耳を触られるのはくすぐったいけれど、もう少しばかり奥深いようなくすぐったさがあった。心地よいのだろうか。歯がゆいと言えばいいのだろうか。よくわからない。ほどほどにしてと言った私の忠告は聞かなかったのか、目を閉じているというのに彼女は指で私の耳を撫でてきた。輪郭をなぞるように、くぼみに這わせるように。耳たぶを摘ままれ、端っこを摘ままれ。やりたい放題である。こんなんじゃ眠れるはずがない……。時折頭上から「可愛い」とか「おお」というような感嘆する声まで降ってくる始末。いったい何しに来たのだ。あなたは何者なのだ。なぜ私の部屋にいるのか。そしてどうしてこんなに親しみやすいのか。聞きたいことは山ほどあるというのに何を能天気な――。
質問を羅列して数えているうちに、私は微睡の中に沈んでしまった。
■
「おはようございます」
ゆっくりと起き上がった私の後ろから声がする。振り返ると彼女が座っていて、眠る前と同じにこやかな笑顔で私を見ていた。膝枕から起き上がると後ろ側になってしまうのか、というどうでもいい分析をしてしまった私の視界の端に映った時計。それはどう見ても夜を差していた。私は晩御飯を食べていない。
「どうして起こしてくれなかったのよ」
「だって、あまりにも気持ちよさそうに眠ってらっしゃるので」
「……にしたって、お母さんが呼びに来なかった? この時間ならとっくに晩御飯食べ終わってるはずなのに」
「確かに呼びに来ましたが、起こしませんでした」
「……お母さん、あなたの姿を見たの?」
「はい」
「お母さんは、あなたを見て何とも思わなかったの? 何も言わなかったの?」
「特には。お母様はこの部屋に来られましたが、私が『御覧のように気持ちよさそうに寝ていますよ』と言ったら『そうなの、なら起こしちゃ悪いわね』と一階に下りて行ってしまいました」
そんな馬鹿な。私は何か言おうと思って口を開きかけるのに、喉の奥が路頭に迷ってぱくぱくするだけになってしまった。この女性はいったい何者なのか私にはわかっていない。帰宅した私の部屋に座っていた着物を着ている女性。それだけだ。確かに話してみると随分と親しみやすい気もするし、『元々からそうだった』と思わせるような不思議な雰囲気を持っている。しかしそれを抜きにして一切素性は知れず、意味不明の塊のような女性である。そんな女性に――お母さんにとって初対面のはずの彼女に膝枕されて寝ている私を見て、何も思わなかったのだろうか。なら仕方ないと思う要素がどこにある? 私にはわからない。
私は女性を部屋に放り置いて一階に下りた。お母さんは夜勤のためにすでに家を出ていて、テーブルの上には美味しそうながらも寂しげに置かれたいくつかの食事、そしてメモがある。どうせ温めて食べておいてね、という程度のメモかと思ったが何やら分量が多い。文章の途中に『あの女性』という文字があることに気付いた私はすぐさまメモを手に取り、普段の読書の何倍以上かの速度で読み進めた。
『夜勤に行っていきます。起きたら温めて食べておいてね。それと突然のことで驚いているかもしれないけれど、あなたの部屋にいるあの女性は、あなたそのものです。言うなれば神様のようなものです。私の家系の人間がこれでもかというほど嫌な思いをすると現れて、あなたにとって安らぐことをしてくれます。あなたの嫌な気持ちも慰めてくれます。だから安心して身を任せてください。では行ってきます。母より』
■
「あなた、神様なのね」
「そう呼ばれてはいますが」
部屋に戻るなりそう言うと、『 』さんは頬をポリポリと掻いてそう返した。何を照れることがあろうか神様のくせに。私はデザートですよーと置かれていたチョコレートをパキパキ食べながらベッドに座る。甘い。しかし私は彼女のことをどう呼称した? 今、あなたとは呼んだ。しかし今頭の中で名前を読んだような気がする。『 』さん。『 』さん。なぜだ。頭の中でそれを発しているのに、自分で理解できない。先ほど耳を撫でられたのに反抗した時も、口に出して呼んだ。しかしそれを自分で認識できない。空白だ。なるほどその辺りが神様なのか、と私はチョコレートの銀紙を捲りながら考えた。しかし名前を呼んでいるのに自分で認識できないというのは随分不便なものだ。ちょっと頭が混乱する。
「で、私が嫌な思いをしたから現れたと」
「らしいですねえ。こういうのは私の意志で出てこれるものじゃないです」
「え、違うの?」
「ですから、あなたが絶望なり挫折なりしないと出てこないんですよ。私が出ようと思って出てこれるものじゃなく、あなた次第と言いますか。何かあったんじゃないですか?」
私はチョコレートを口の中で噛み砕く。
絶望、挫折、か。
それほど大きなものではないと思ってたけど、そんなに私はダメージを食らったのだろうか。私の中の湖に手を突っ込んだ彼が、別の物語を歩み始めて、私はそれを遠くから見つめざるを得なくなっただけで。刃物で切られるような痛みもなかったし、大きく揺れに揺れる波紋を呼び起こす大きな石を投げいれられた程度で、今はそれほど湖も揺れ動いているつもりもないのにな。私はチョコレートを持っていない片方の手で前髪を触りながら、小さく小さく彼女に言った。
「えっと、その……失恋した」
口に出すということはそれに実体を与えるということだと聞いたことがある。私はチョコレートの甘さのことばかりを考えるようにした。甘い。しかし実体を与えられ、言葉、音声として現れた『失恋』という文字は少しずつ私の耳に入ってこようとする。甘い甘い、と考えてその音たちを排斥しようも無駄、その言葉はじわじわと水が染み入ってくるように私の中に浸食を始めた。なるほどこれは辛い。言葉として実感すると、またしても私の中の湖が少しずつ揺れ動く。誰も手を突っ込んでいないし石も投げいれられていないのに、私自身が揺れ動かしてしまっている。
「失恋ですか、なんとお若い」
「あなたも若いじゃない」
「いえいえ、私は神みたいなものなのですよ。若いわけがないでしょう」
「でも、外見は」
「女は化粧でいくらでも」
「神が化粧って」
「嘘です」
「嘘か、安心。私の中の神様のイメージが崩れかけた」
「化粧も崩れ、イメージも崩れ」
「洒落にならない」
「まあ、歳は取らないのです。外見だけだと二十歳くらいでしょうかねえ」
「ほら若い」
「あなたは女学生では?」
「まあ、うん」
女学生って言い方が微妙に引っかかるけれど、まあ神様なんだし時代錯誤もあるだろう。というよりも話が脱線しすぎだ。神様が出てくる=私が絶望なり挫折なりした。何があったのか? 失恋した。という流れだったのにいつから外見や身なりの話になったのか。
「しかし失恋ですか。それはまあ、辛かったでしょうね」
そうはいっても、私はそこまで辛い感じはないのだけど。だって彼とは仲が良かったわけじゃないのだから。元々私の隣にいてくれる人だったわけじゃないんだし、自分の手元から零れ落ちて行ったわけでもない。それなのにどうして辛いと思えることができようか。実際今もチョコレートを食べている。失恋した女子がする行動としては随分とそぐわないような気もする。もうちょっと泣き寝入りするとか、そういう然るべき態度というものがあるとは思うけどそんな空気も心向きもない。単純に、彼が別の女の子と手を取り合って歩みだしたのを後方で見送っただけである。チョコレートを食べて何が悪いのか。
あまり辛いという感じはない、と伝えると彼女は首を傾げた。
「しかしながら、私はあなたがこれ以上ないほど絶望しなければ姿は見えないはずなんですけどねえ」
「何かの間違いじゃないの」
「間違いではありません。あなたの心なんて知るわけがないでしょう。いいですか、私の姿が見える見えないは私自身では司ることが出来ません。あなたが絶望しなければ見えない。それだけです。ですから、あなたが私の姿を見ているということは、あなたが絶望しているということなのですよ」
「…………」
意味の分からない因果関係だ。私は私の歯で折り取られたチョコレートの端っこを見つめる。
間違いではなく、彼女は私が絶望したから見えるようになった。見えるということは私が絶望していること。では何に――そう考えると、私は失恋したから絶望したということになるけど。それほど自分では実感していない。チョコレートを食べ終えて、銀紙を丸く潰してゴミ箱に投げる。適当に投げたからか銀紙はゴミ箱から大きく外れてしまった。だけど入れ直すことはせず、床に転がったそれを見つめながらポツリと呟いた。
「……やっぱり、絶望なんて大層な気持ちにはなってないよ」
「あらら、おかしいですねえ」
「いつまでいるの、あなたは」
「さあ、消える時まで」
「……私、もう寝るよ。さっきも寝たけど」
時刻はもう明日になりそうだ。
「では、どうぞ」
「えっ、また膝枕?」
「はい。それが役目ですので」
「意味が分からん……」
私は文句を垂れ流したけど、ベッドの上で正座する彼女にまたしても私は頭を預けてしまった。なぜかはわからない。不思議な感覚なんてものを信じたいなんて思わないし、まだ神様だのなんだのなんてことを信じたいわけじゃない。でも、私は受け入れてしまっている。見知らぬ人がここにいることを、あなたが神様であることを、今までここにいたことを。私は目を閉じた。枕の無機質な柔らかさとは違った、温もりのある優しいものが私を包んでいるようだった。
今日は寝すぎだ。
だけど、ずっと眠れそうだと思った。
よくよく考えるとさっきのチョコレート、甘いと言い聞かせてただけで、苦かった。
■
次の日学校に行くと、彼と彼女の物語は話題になっていた。私にはありがたいことにそれなりに友達がいて、朝は机に寄ってたかって窓の外を見つめるようにしながら話題に盛り上がる。宿題のことや授業のこと、体育のことや今日はあの日だとか。それらに当たり障りなく笑って、私も笑っていたけど、友達がそういえば彼と彼女、両想いで付き合い始めたらしいよと言った。私は一瞬、自分の笑顔が消えていやしないかと冷や冷やした。しまった、湖が揺らぎそう。必死で隠せ、森を増やせと心がざわめくのである。
私の恋心は友達一人として悟られていない。この恋心は私だけのものであった。私以外には知る由もなく、可能性に思い当たる人など誰もいないだろう。だからこそ彼女たちは何の悪意もなく、彼と彼女の恋物語や噂や目撃談を煌びやかな瞳を持って延々と語りだすのだ。二人が手を繋いでいたとか、ジュースを回し飲みしていたとか、学校の裏で口づけを交わしていたとか。
悟られてはならない。もし私の恋心が彼女らに悟られてしまったら、彼女たちの同情の言葉が私の耳に飛んでくるからだ。それはまたしても石となり生物となり私の湖に大きな震えを与える要因となりうる。言葉はいつだって実体となるのだ。昨日失恋したと囁いた自分の声がいつも以上に低かったことを忘れるな。私は笑うしかないのだ。
教室に歓声が沸き上がって入口に振り向くと、彼と彼女が同時に教室に入ってきた。なるほどもう一緒に登校か。二人の恋が成就したことに喜び羨むクラスメイト達の声。彼と彼女は照れたように顔を合わせ、そしてまた照れるように笑ってクラスメイト達の声を受け入れていく。私は頬杖を突いて見つめていた。
冷めている。
私が冷めている。
彼とは友達だし、彼女も友達だけど、他の皆のようにからかうことはできない。笑ったりすごいと言ったり、やっと付き合い始めたかと手を叩くこともままならない。私は冷めていた。しまった、これでは悟られる。いい気持ちではない、こんな光景を見せられて腹立たしく思っていることを見抜かれてしまう。これではまずい。私は笑った。隣にいた友達に、いいなあ彼氏、と言った。これが最も痛かった。
■
帰宅して、彼女に膝枕をしてもらった。
私は自分の腕を目に当てるようにして、暗闇に視界を投じる。
「やっぱり辛かったんじゃありませんか」
「そんなことはないよ」
「いえいえ、しかし私がいるということはですね」
「私が悲しんでる、ってことでしょ。聞き飽きた」
「それはいつまでもあなたが直視しないから、何度も言わなきゃいけないのですよ」
「直視して何になるのよ」
例えば私が悲しみなり絶望なり挫折なりから目を逸らしていたとしても、それはそれでいいんじゃないかと私は思っているのに。なぜ泣かなければいけないのか、辛さに直面しなければいけないのか。別に泣かなかったのなら泣かなかった、その事実だけで時間に運ばれればそれでいいのではないかって。湖はできるだけ揺れ動くべきではない。誰にも侵入されてはならなくて、いつまでもいつまでも水面は平静でいるべきだと。だから、だったら私は自分から湖を汚したくはない。実際涙も出ないのだし。
「あー、もう寝る」
「おやすみなさい」
「晩御飯には起こして」
「え」
「そこは迷うとこじゃないでしょうが」
「あなたの寝顔を見ているのが好きなのです」
「うーん、今は目を隠してるから表情も何もないはずだけど」
「だから腕をどかしていただけると」
「それは無理」
「あらら、残念」
私は眠りに沈んだ。
少しだけ暗闇に埋もれそうになる時、また耳を触られた。
だけど、今日は文句を言わなかった。
■
学校の帰り道、彼と彼女に出会ってしまった。
自動販売機で缶を取り出して顔を上げたら、横に立っていたのだ。私は息が詰まるのを感じた。視界が凍る。二人が並んで微笑んでいて、声を掛けてくる。
「みっちゃんじゃん、こんなところで会うなんて奇遇だね」
彼女の方が私に笑いかける。彼女の腕は左隣の彼の腕をしっかりと掴んでいて、それがまるでこれ見よがしにやられているようだと思った。そんなわけがない。私の彼への恋心は誰にも悟られていないのである。別に彼女と彼を取り合い争奪した仲でもない。彼女にそんな悪意があるわけがない。そして彼女はそんな悪意を持つような性格でもないし、純粋に彼を愛しているのだ。変な疑惑を持つべきじゃない。
しかし私は心地が悪く、すっと視線を逸らした。だがすぐに私の中のプライドが視線を二人へと戻させた。ここで目を逸らすなんて『友達』として、二人の物語の『傍観者』としてあってはならないことだ。悟られてはならない。この気持ちを。二人の仲を羨んでいるなどと思われてはならない。だから笑え、私。笑うんだ。二人を交互に見て、私は言う。
「二人はこれからデートかな? お熱いわねー」
私は口元に四本指を当てて、からかうように笑った。昨日の朝にはできなかったことだ。しかしやるしかないのである。目の前にいるから。昨日の朝のように、輪の外から彼らの姿を見つめているのとはわけが違うのだ。今この場にいるのは私と彼と彼女の三人で、私が輪の中にいる。だったら――だったら、笑うしかないじゃないか。私の中にそうせざるを得ない何かが知らせるままに、私は微笑むしかなった。
「そうなんだよ、彼がどうしても行きたいって」
「おいおい、俺はそんなこと言ってないぞ」
「えー、そこはそうだぜって言わなきゃ」
「こらこら」
私を置いてけぼりで会話する二人の息はピッタリだった。私は邪魔者だ。ここにいるべきではない。場の空気はその場にいるべきでないものがいるだけで、異物を取り込んだ機械のように動きを止める方へ動き出そうとする。私がこの場にいるのはあるべき姿ではない。二人は幸せそうだ。彼の頬も彼女の頬も、ふんわりと染まっているではないか。私の冷え切った心は、温かな二人の障害にしかならない。私は、ここには割り込めない。ここは私の居場所ではないのだ。
「私はお邪魔みたいね、うん。帰るよ」
「引き留めてごめんな」
彼がバツが悪そうに言った。
「それじゃあね」
私は手を振って歩き出した。
曲がり角を曲がってから、走った。
■
部屋に戻ると、『 』さんはいつものように正座して待っていた。微笑みをこの数日間にどれほど見たのだろうか。彼と彼女の恋路を見つめるたくさん人たち。それは誰しもが他意も悪意も善意も何もないままに見せる表情であったはずなのに、どれもが全て私を苛むようだった。私は微笑むその他大勢にまぎれたかったのに、上手く笑えたのかわからなくて。辛くないはずだった。悲しくないはずだった。絶望なんてしていない。失恋など痛くなかったのだ。彼と彼女の物語を、無表情で無感情に送り出したはずだったのに。
「眠りますか?」
神様は微笑んだ。
全ての誰かの微笑みとは違う、受け入れるだけの、慈愛の笑顔を。
「眠らない」
「では」
「泣く」
「あらら」
彼女は口元に手をやって、やれやれと言いたげに目を細めた。
「何よ」
私は問うた。
彼女は返した。
「もう泣いてらっしゃるじゃないですか」
そっと頬に指を当てた。
「……はは、なんだ。出るじゃん」
涙は出る。
心の中にある湖は、いつしか決壊するのだ。
あまりに揺れ動く湖は水が溢れ、その溢れた水が、熱くなった目からさめざめと。
ああ。
きっと私は、二人の物語を笑って送り出すことができなかったんだ。
だから、こうして。
■
「あなたは気持ちいいわ。ずっとこうしていたい」
私は膝枕されたまま囁いた。
「それはありがたいことです」
「いつまでいるの?」
「あなたが希望を見出すまで」
「なら……まだまだいるのね」
「私は絶望の権化で、あなたが絶望から目を逸らさないために可視化されたものなんですよ」
「うん」
「普段私の姿が見えなかったのは、絶望を見る必要がないから」
「……」
「ですから、少しずつ私が見えなくなり、忘れていくんですよ」
「……そっか」
私は彼女の温かさに包まれながら、笑った。
正直に言えば、立ち直るのに時間が掛かるかもしれない。だとしたら、彼女と共に生活することになるのかな。失恋の痛みはナイフではなく、岩石だったのだ。その石が湖の底を転がるから私の心は痛い。この石が深い深い湖の底に辿り着いて動きを止めるまで、石は湖の側面を殴り続けるのだろう。だとしたらきっと相当時間が掛かるな。だけど、それでもいい。彼女との、絶望との日々を楽しめばいい。
「眠るよ」
「泣き疲れたのですね」
「うん。それに、気持ちいいし」
「あらら」
彼女は嬉しそうに私の耳を撫でた。
(了)