兄と弟 [62.5]
「とりゃあ!やあっ!」
後宮の庭の奥に甲高い声が響く。
王妃の離宮の周りを囲む薔薇の生け垣に囲まれた庭の、白い運動衣を着た黒髪の少年が声の主だった。
幼い身体に合わせた小さく軽い練習用の剣を懸命に振る。構えから剣を突き出したまま一歩踏み出し、後へ下がる。次は構えから前にジャンプし、着地ざまに剣を突き出し身体を戻すとジャンプし下がる。
それをひたすら繰り返すのだが、前後それぞれのジャンプの後の着地がうまくいかず、少年は悔しげに口元をゆがめる。
「バレストラか、懐かしいな。まだ剣を初めて半年くらいか」
後からかけられた声に驚き振り返ると、そこには彼が見知らぬ若い青年が歩いてきた。
離宮で警備兵以外の青年といえば教師達くらいしか少年は見た事がない。兵ではなさそうだし、教師にしては若いし身なりもいい。何より、王子である少年にこんな口をきく者はいなかった。
居間の方からやってきたので、母の客人だろうと予想する。
その青年は、少年が密かに切望していた母親と同じ金色の巻き毛を持っていた。
自分が母にちっとも似ていないのは、彼を生んだ母じゃないからということは知っていた。それでも、茶色や鳶色の薄い髪色か巻き毛だったらよかったのにと常日頃思っていた。そう、このまさにこの青年のように。
「俺も同じ所を苦労したよ」
青年は、少年の為に置いてある玩具箱から、普段ふりまわして遊んでいるおもちゃの木刀を手にとった。それは彼は更に幼い頃に庭をかけまわりながら手にしていたもので、練習用の剣よりはるかに小さく、丸みをもたせ木で出来ていた。それを構えた青年は、少年がやっていた型を振る。
うまくできなかったジャンプのところも空中を滑るような動きを見せた。
少年は、剣の師よりも優美で正確なその姿に魅入ってしまう。そして惚けていた頭にぽんと置かれた手が彼の毛をくしゃりと撫でた。
「ボンナバンをやってみろ、見てやる」
少年はこっくりと頷き剣を構えた。
基本姿勢から全身、突いて戻し後退。そして今度は、青年の動きをイメージしながら、元の構えから飛びあがって前に出る。
ところが、緊張しすぎたせいか、着地でたたらを踏み次の動きに移れなかった。
失敗に羞恥で顔が赤らみ涙が滲む。
「大丈夫だ、ジニー。いいか、そこは上に飛び上がるんじゃないんだ。地面に沿うようにするんだ」
青年が自分の名を呼んだことに、しかも呼び捨てだったことに少年は驚いた。今まで母か姉からしか呼ばれたことがないのに。
そのことで首を傾げていたのに、青年は説明が分からないと勘違いしたのだろう。少年の後にまわり脇を持った。
「オンガードだ」
言われるがままに剣を構え基本姿勢をとる。
「そのままにしてろよ。さっきのお前の動きはこれだ」
少年はひょいと持ち上げられ、おおげさに上に弧を描くような動きで前方に降ろされる。
「次に、俺がやってみせたのはこうだ」
また持ち上げられた少年は、今度は低くスライドするようにして遠く前方に降ろされた。
「最初と後のでどっちが早く前に出れるか分かるか?」
「あとの」
少年はちょっと考えた後におずおずと答える。
「そうだ。上に飛び上がると高さがあるぶん前に進まないし着地に時間がかかる。それが隙になる。分かるか?」
黒い頭はぶんぶんと縦に振られた。
「よし、偉いぞ。構えて飛ぶ所だけ繰り返して練習してみろ。飛び上がっちゃ駄目だぞ。こつさえ掴めばすぐに出来るようになる」
「あら、二人で仲良く何をやっているの?」
庭のポーチから、女の柔らかい声が響いた。その声に少年は、手にした剣を投げ捨てて駆け寄る。
「ははうえ!」
「あらあら、ジニー、今日は甘えん坊さんね」
ぞろぞろと現れた女性達の先頭に立つ、金色の長い巻き毛を揺らす母の腰に少年は抱きついた。
「あのひと、けんをおしえてくれました」
母のスカートの影から照れくさそうに、青年を見ると、少年の練習用の剣と玩具の剣を手にこちらに向かってきた。
「ユリウス、あなたの幼い頃とそっくりでしょ」
「そうかな、俺はもうちょっとましだと思ったけどな」
「いいえ、覚えていますよ。飛ぶところが出来ないからって、お話に出て来る大地の精霊みたいにぴょんぴょんと二週間もやってたんですからね」
「母上、いい加減忘れてくださいよ」
「ほほほほ、あんな可愛い姿を忘れらえるもんですか」
青年が自分の母のことを、同じように母上と呼んで少年はけげんな顔をする。
「ユリウス、もしかしてまだ名乗ってないんじゃないの?」
母の横に立つ黒髪の女が、青年に親しげに近づき背中肩を叩いた。
彼女とは何度か顔を合わせたことがある。始めて会った時に、母が自分の新しい姉上になると紹介された。
その新しい姉が、青年の腕をとり、彼の前で膝を折った。
渋々といった様子で青年も膝を折り、少年と同じ目線になった。
「ジニー、今まで会いにこなくてすまなかった。俺はユリウス、お前と同じ母上の息子だ」
「むすこ?」
「おまえの兄上だ」
「あにうえ、ユリウスあにうえなのですね」
少年は、目を輝かせて青年の袖を掴んだ。
いつも母から、自分の賢くて聡明で優しい兄の話を沢山聞かされていた。自分が生まれた時に成人し、後宮を離れて城で暮らす兄は、父と同じように忙しくこの離宮を訪れることがなかった。
唯一、居間の壁にかけられた母と兄の姿絵で、今の自分と同じ年頃の金色の巻き毛で青い瞳の少年を兄だと教えてもらい、それを兄だとイメージしていた。ところか、彼の前に現れた本物の兄は背が高く凛々しい大人の姿をしていて同一人物だと気付かなかった。憧れの兄は母と瓜二つの容姿で輝いていて、母が読み聞かせてくれるお話に出て来る王子様そのものだった。
少年は、熱に浮かされたように初めて会った兄に歩み寄ると、手を広げた。
それを見て青年は戸惑っていたが、同じように手を広げて彼を抱きしめた。
「あにうえ、あそんでください」
「いや、剣の稽古をしてたんだろう」
「けいこはもういいです。あそびましょう」
「いやいや、そもそも剣の修行を始めたら剣は大切にしないといかんと教えられただろ?投げ捨てるなんてもっての、おい、人の話を聞いてるのか」
少年は、庭の奥に走り出し手を振る
「あにうえーーーー!こっちきてー」
女達の何本もの手で背中を押された兄は、ぎこちない笑みを浮かべながらゆっくりと弟の元に歩いて行った。
本編、後宮と獅子編「[62] 承知しました」の次(ジャックに襲われ離宮で療養エピソードの後)に閑話として挿入していました。