ある画家の独白 [25.5]
いつものように油紙に包んだ絵を男に渡すと、男は俺に頭を下げ無言で去っていった。
これで明日には、まとまった金が届けられるだろう。
酒を買い足したら、最近見つかったという西の山で採れた赤い鉱物を買ってみようか。黒がよく映える赤い絵の具が作れるといいが。
俺は客が出て行くと、アトリエに戻った。
黒髪のふくよかなモデルが横たわり、眠たげにあくびをかみ殺している。そのでかい尻をぴしゃりと叩いて柔らかい肉の感触と抗議の声を楽しみながら、キャンパスの前に戻り筆をとった。
途端に黒髪のモデルを見据える俺の目は、別の黒髪の女を映す。
似つかわしくない絢爛豪華な部屋で、ガウン姿で床に座り込み俺に向かって杯を掲げる、凛とした黒い瞳の女を。
絵が描きたいという理由で神画官になって20年が経った頃、筆を持つ生活に飽き飽きしていた。
俺は、神官としては駄目な野郎だった。酒は飲むし女も抱く。それを蔑む人々の目も気にならなかった。
神よりも、祈る人の姿を描く方が好きだった。一人一人の人生と祈りを描きだせるから。
だが、俺の絵は布施を引きだす為の道具の一つでしかなかった。
ある時、神画官の長に呼び出された。
俺の絵を渡す金持ち信者達が望む、美しい乙女や少年の祈りの姿を描けと言う。
それからだった、俺が新しい絵を描けなくなったのは。
金持ち用の絵を生産出来ない俺は、修復班にまわされた。神殿の老朽化した壁画を修復する退屈な仕事に。
俺はなんの為に筆を持つんだろう。なんのために糞面白くない神官職についたんだっけな。そんな感情がループすることに辟易した頃、俺は神官長様に声をかけられた。
「あなたは写しはできますかな?」
雲の上のような存在だった神官長様に声をかけてもらって、頭を垂れて戸惑う俺の耳に入ったのは信じられない言葉だった。
「神具の一部を模写して欲しいのです」
神具を手に出来るチャンス、神官として光栄なことだ。俺は一も二もなくその誘いに飛びついた。
神具。
託宣により儀式を執り行うことで、神より使わされた神具。神官のみが奉られた一部の神具を目にすることはできるが、触れることは上位神官のみと定められている。
記録部の者が内々に記録するという話は知っていたが、神画部に神具絡みで声がかかることはなかった。
それが何故俺?
俺の問いに神官長様は、俺の描いた老人の祈りの絵を1枚持ってるんですよ、と嬉しげに笑った。あの絵は、神画官の長が俺の無能降りを示すために皆の前に晒し、散々嗤ったあげくに捨てさせたはずだったんだがな。
俺はその神具を見て息を飲んだ。
薄い本で、見たことのない文字の合間に小さいながらも絵が描かれていた。そのいくつかある挿絵の一つに、俺は頭を石でぶん殴られる以上の衝撃を受けた。
明るい色彩の部屋に女がよこたわるその絵は、最初に目にした時、子どものらくがきのようだと思った。だが、見れば見るほどその色彩の強烈な印象は頭に焼き付き、単純な線で描かれた女の躍動感に心が揺さぶられた。
なんだ、この絵は!
俺はその絵を模写をしながら興奮した。女を抱くわけでもないのに体の芯が熱くなる。
この絵の生命力にあてらてしまったのか。
その興奮は、8枚の絵の模写の仕事が終っても俺の体に残った。
もっと描きたい。あの絵のように、力を感じる絵を描きたい。その思いは止まらず俺を蝕んでいった。
もう、人に言われて絵は描きたくなかった。自分の為に描きたかった。
幸い、神具の模写の後、神官長様からの個人的な依頼で描いた「赤ん坊」「少年」「少女」「男」「女」「老人」「老女」という連作の祈りの絵をかなりの額で買い取って貰っていた。
そして神官長様の古い友人だという、当代きっての画家の巨星、スカッチ殿を紹介してくださった。彼は俺の連作を見て、自分の絵を描くべきだと言ってくれた。
そして俺は還俗した。
蓄えで細々と暮らしながら、絵を描く生活が続く。
スカッチ殿のすすめで芸術院に登録したが、芸術院内だけでなく他の芸術家からも、好事家からも俺は嘲笑された。
『子どものらくがきのようなでたらめな絵』と罵られても俺は自分を曲げなかった。
食うのに困り始めた最近は、売れる絵を描けと言われても頑として断り、市場に働きに出て野菜の木箱を運んだ。
そんな俺のところに、芸術院から来たと名乗るあのハゲがやってきた。奇特なことに俺のパトロンになりたい女がいるという。美しい女で、金をたんまりと持っていると男は説明した。
彼女を味わえて俺が羨ましいとも言い、断れば芸術院の登録を抹消し絵で食うことはできなくなると脅してきた。
この歳になって、食うために、描く体を売れと言うのか。女の玩具になれというのか。俺は嗤った。断るから好きにするがいいと。芸術院のために描くのではなく、俺の為に描いているのだから。
だが、俺の言葉に納得しなかったハゲは後ろに連れたごついやつに命令すると、俺を捕縛し連れ去った。
これは神の導きに違いない。俺は神官をやめてから忘れてた祈りを、今ここに感謝の祈りを神に捧げよう。
縛られた俺の前に現れたのは、黒髪の女だった。彼女は連れの男にハゲ達を一掃させ、芸術院の不正を暴くために俺を利用したことを謝った。
そのことにも驚いたが、なんと彼女は俺の絵があの運命の神具の影響を受けたことを言い当て、更に信じられない告白をした。自分も生きる神具、王子の運命の花嫁として異世界から召喚されたと。
俺の目の前にいるのは、次期王妃だった。
男同士のように酒を酌み交わす次期王妃、市井ではユウと名乗っていたが、魅力的で刺激的だった。
特別に勉強したわけではないと言いながら、あの絵の描かれた世界の芸術に通じる彼女は、知る限りの事を教えてくれた。
彼女の世界では、子どもの頃から勉学の中に芸術や芸術史も含まれているそうだ。もちろん、上位学校では芸術を専門的に学ぶことも出来るらしい。戯れに描いてもらった絵は確かにうまくはなかったが、それでも俺の知らない技法も感じられ興味深かった。
久しぶりに浴びるほど飲みいつのまにか潰れた俺が目を覚ますと、彼女の警護役らしい連れの男の顔が間近にあって、心臓に悪かった。
二日酔に頭を抑えながら驚く俺を見て、ソファーで優雅にお茶を飲んでいた彼女がコロコロと笑っていた。
改めて朝日のもとでみた彼女は、昨夜よりもずいぶん若く見えた。顔の骨のつくりが俺達と少し違うからか。
彼女に絵を描かせてくれというと、私を描いてくれるのかと不思議そうにしていた。
俺が絵を描く限り援助は惜しまないと言ってくれたのに、己を描いて欲しがるのがパトロンじゃないのか。
別れ際に彼女は、絵の価値は持ち主や世間によってつけられる価値は一時的なもの、その後後世まで様々に評価は変わって行くのだから、自分の描きたいものを書き続けるよう言ってくれた。だから俺は、今日もただ絵のことを考え筆を持つ。
「あの絵の作者は、より主観的で印象的な表現のために技術を習得し可能性を追求していったそうです。あなたもこの世界で彼のようにご自分の絵を探求して、あなたの絵を見つけてください」
これはユウが俺に贈ってくれた言葉だ。
彼女は美術館に並ぶ俺の絵のように、この世界の中で生きている人々の中で異質だと感じていのだと語った。それが俺の絵で勇気づけられたとも言っていた。
後宮のお茶だの菓子だの愛だの宝石だのという世界に入らず、王子と共に政務を担っているという彼女は、どのような王妃になるのだろう。
期待する反面、残念でならない。
彼女を描きたい欲求が日に日に高まっているからだ。駄目もとで頼んでみるかな。
彼女ならもしかしたら……。
本編、王妃の公務編「[25] 画家と神具」の次(芸術院の不正を暴き、トマスと語り合った後)に閑話として挿入していました。