若き王の悩み【2】
午後をまるまる費やしたのは、秋に予定されている連邦国首脳会談に向けての準備会議だった。
連邦の統治者である我が国が開催する、5年に一度の国の威信をかけた政治的大行事だ。
各大臣と各官長を集めて準備状況や各国の反応の報告を受け、同盟国首脳との対談や会議での国の方針を再度固めていく。
もちろん国の将来にも関わる事案なだけに一度で済むはずはなく既に幾度目かの会議だったが、毎回同盟国への支配強化を主張する急進派と、方向は同じだが緩やかな浸透支配を主張する穏健派、そして先王の意向を汲み現状の各国の自治を尊重する保守派の三派に別れて弁舌を戦わせ、一向に意見を少しも相容れる気配がなかった。
最終的な決断は王である俺が行うが、実際に脳であり手足として動くのは家臣達だ。
父上は迷いの無い王の決断に皆疑うことなく従い手腕を振るったが、まだ俺は彼らから見れば若造で、命令も出来るだけ彼らを納得させるものでなくてはならない。
この件は保守派の見解と同じように、各国の自治主権という父上のご意思に沿うつもりだ。
だが急進派や穏健派は、保守派に比べれば数は少ないとはいえ、これから俺と国を支えていく若手が多い。
だからぎりぎりまで時間をかけても、出来るだけ三派の意見をすり合わせて各方から納得を引き出したかった。
カイル達が裏で根回しや説得をしてくれているのは知っているが、はたして俺はうまくやれているのか。
保守派の重鎮達の意見に、急進派の若手貴族達が年寄りの時代遅れな世迷言と軽んじて鼻先で笑っていたのを思い出し、頭が痛くなった。
「ユリウス様、具合がよろしくありませんの?」
無意識にこめかみを押さえていたようだ。茶を給仕する母上の女官のウィルミナが心配そうに声をかけてきた。
「いや、心配ない。ちょっと考え事をしていてな」
「そうですか。すぐにターニャ様がお越しになりますからお待ちくださいまし」
俺が通された客間には、俺とユカの肖像画がかけられている。
その正面に座らされた為、気恥ずかしさをごまかすために棚の花瓶に活けられた黄薔薇や、母上が昔から気に入っていた鳥の置物などに目をやっていた。
すると廊下から軽やかな足音が聞こえ、ドアが勢いよく開かれた。
「母上、そんなに慌てなくても…」
「よく来てくれたわね、ユリウス。元気そうで何よりです」
「申し訳ありません。忙しさにかまけ、ついご無沙汰していました。母上こそお元気そうで」
俺は飛びつくように抱きついてきた母上の頬に軽く口付ける。
久しぶりに会う母上は、俺と同じ色の髪をゆるく後ろにまとめあげ、深緑の飾り気のないドレスを纏って落ち着いた姿をしているが、明るい笑顔に健康的に紅潮した頬が、ずいぶん若々しく見せていた。
父上亡き後、いや、俺が物心ついた頃から常に気丈に明るく振舞っていらしたが、いつもどこかに影があった気がする。
それが、最近は何かふっきれたように、心からの笑顔を俺達に向けてくださるようになった。
笑顔が増えたのはいいが、淑女の鏡のようだった母上が若い娘のような一面も見せるようになったのは、ユカの変な影響ではなければいいがと少し心配になる。
だが、そんなことを考えていることはおくびにも見せず、母上を絵の前の椅子に導き、自分も元の場所に座った。
「カイルから聞きましたが、ジニーのことでご相談があるとか」
「ええ、そうなの。忙しいのにお呼びたてして御免なさいね。これは私の一存で判断してはいけないと思ったの」
そう言うと、母上は控える女官達を下がらせ、部屋に来た時から手にしていた布の包みを開いた。
「これ、なんだかお分かりになる?」
差し出されたものを受け取ると、俺はしみじみと見て答える。
「ハンカチ、ですね」
包みの中身は、10枚以上はあるだろう小さな白いハンカチが広げ重ねられていた。
それには達者なものからいびつなものまで、様々な縫い目の刺繍が施されている。
俺は、再びこめかみを押さえた。
それは間違いなく、ユカが貴族の女達から贈られたのと同類のハンカチだ。
「母上、これはどちらの家の子女から受け取られたものですか」
「ユリウス、私はあなたを賢い子に生み育てたはずだけど…」
ユカの件が頭を掠め思わず馬鹿なことを口にしてしまった。
俺はあわててわざとらしく咳払いをすると、冗談ですと付け加える。
「もちろん、ジニーにですね」
「そうよ。部屋のゴミ箱に捨ててあったと、侍女が集めて持ってきたの。夏至の宴の時から度々でこんなに。それとなく尋ねてもあの子は何も言わないし。あの子が娘さん達から好意を寄せられるのは結構なことだけど、こういうことはまだあの子には早すぎるわ」
夏至の宴と言えば、一年で一番日の長い日に神の威光を祝う祭りで、大陸中の人々が、朝から翌朝までまる一日かけて宴を開き浮かれ騒ぐ。
去年は喪中で我が国は自粛したが、そのぶん今年は例年を上回る盛り上がりだった。
妹や弟達も、眠気が襲うまでは宴に加わることを許され、大いに楽しんでいた。
その時に貴族達がまだ7つになったばかりのジニーに目をつけ、歳の近い娘を持つ貴族達が売り込みを始めたのだ。
俺が報告を受けていた限りでは、俺への書面や顔を合わせた時の王弟の花嫁候補への打診や、母上やユカへの根回し程度だった。
そもそも王家の者の花嫁候補は正式に受け付けるまでは、そういった意図の接触は控えるのが慣例だったはずだ。
それでもこうやって現物が出てくる限りは、何らかの手でジニーに娘を接触させ手渡させているのだろう。
もし、ジニーが自覚なくともこれを身につけて公に姿を見せたら、それは既成事実となってしまう。
俺は母上の懸念を察して、深く頷いた。
「俺が話をしましょう」
「そう、お願いできるかしら。大好きなあなたの言うことなら素直に聞いてくれそうだわ」
「ジニーは今、館に居ますか?」
「ええ、自分のお部屋に。こちらに呼びましょうか?」
「いえ、俺が行ったほうがいいでしょう」
俺は女官に案内されてジニーの部屋の前に立つと、軽くドアを叩いた。
「ジニー、俺だ。ちょっといいか」
「ユリウス兄上? 母上とお話していたのでは」
すぐにドアが開き、黒い頭がのぞく。
最近は会うたびに背が伸び、あどけない顔に時々大人びた表情を浮かべるようになり、目元は懐かしい人の面差しを宿しているこの歳の離れた弟が可愛くてたまらなかった。
そしてジニーも、俺をよく慕ってくれている。
ジニーに招かれ部屋に入ると、明るく清潔な薄い緑の壁の部屋には懐かしいものがあった。
「これは俺の…」
「はい。母上が兄上がお使いになったものだから、これで私も兄上のようにしっかり勉学にはげみなさいとくださいました」
新しい部屋には不似合いな、使い込まれ、塗りがはげ、細かな傷の残る机が据えられていた。
横の棚には本が整然と並べられ、机の上にも数冊がやはり行儀良く並べ立てられている。
母上は俺を買いかぶられている。勉学には決して熱心なタイプじゃなくて、教師や侍女の目をかすめてさぼっていた。本だって揃えて置くのが苦手で、今も執務室の机に積んでいると、カイルがぶつぶつ言いながらも片付けてくれている。
俺は机の前に立つとそっと机の端についたぎざぎざの深い傷に触れた。
これがついた時のことはよく覚えている。毎年恒例となったカイルの別荘へ行く前に、前年別荘の使用人の息子に馬鹿にされたナイフの練習をしていて失敗して指を切り、腹立ち紛れに傷つけたんだ。
幼い日の事が思い出され懐かしさに浸りかけたが、今はそのような時ではないと思いなおし、机の前の椅子を引いて座り、脇で少し緊張気味に立つ弟を抱き上げると膝に乗せた。
「あっ、いけません。兄上のお膝に乗るのはふそんなことです」
「何故だ」
「礼儀の先生が、ぼくの兄上である前に王だから、けいいをはらいなさいって」
「そうか?でもユカもよく乗ってるぞ」
「義姉上はなんでもトクベツだそうです」
生真面目な顔でそう語るジニーに、俺は苦笑した。
「二人でいる時はいいんだよ。俺達は兄弟なんだ。しかも男同士のな」
「男どうし…」
「ああ、男同士の兄弟ってのも、俺とユカのようにトクベツなんだよ。だから何でも言いたいことを言っていいんだ」
「ふけいじゃないんですか?」
「ああ、もちろん。だからお前が考えてる、思ってることを正直に話してくれ。俺もそうするから」
「はい、兄上っ」
どうやらジニーは『トクベツ』という言葉が嬉しかったらしく、顔を赤らめ、そのまま天に舞い上がってしまいそうな様子で、大きな声で返事をした。
「それでだ。お前は今、親しい娘はいるのか?」
「そのようなものはおりません」
「同じ年頃の娘で、最近よく会ったりする者はいないのか」
「学友のバルー伯爵家のフリッツやラグリッツ男爵家のアディ、ロームルクス家のトネル達の妹君やその友人に引き合わされることはありますが。兄上、どうしてそんなことをおたずねになるんですか」
ジニーの挙げた学友の名前のほとんどが例の急進派や穏健派の子弟だった。
もともと王位継承2位だった時に決められた学友だし、あの父が配慮を講じたとは思えない。むしろ父の死後に台頭してきたのだから、気にしなかった俺の落ち度だ。
つい苦虫を噛み潰したような顔をしてしまい、頬を赤らめけげんそうに俺を見上げていたジニーの顔におびえの顔が走った。
これはいけないと笑顔を見せ、頭をぐいぐいと撫で回して話を戻す。
「最近お前、娘からハンカチをよくもらってるそうだな」
「母上から聞いたのですか」
「ああ。心配するな、別にそのことを咎めるわけじゃない。ハンカチの意味は知っているのか」
「……ええ、フリッツ達が教えてくれました。愛のこくはくのハンカチだって」
「そうか、知ってるならいい。それでいい子はいたか?」
黒い頭が無言で横に振られた。
そのことに俺はひとまず安堵した。
「別にハンカチをもらうのは悪いことじゃない。好きな子が出来るのもな。だけどお前は俺の弟だ。それを胸に挿したい時は俺にまず相談してくれないか。決して悪いようにしないから。」
「兄上、ぼくはどの娘のハンカチも挿す気はありません。けっこんもしません。だから全部捨てました」
急に身体をこわばらせ顔を青くしたジニーに、俺はあわてて背中を撫でた。だが、身体を振るわせ涙声で続けた。
「あの娘達の父おやは、兄上の次の王にぼくがなるかもしれないとふけいなことを言うのです。兄上の後をつぐのは兄上のお子なのに。そんな者たちの娘を気に入ったりしません」
「ジニー、お前は今王位継承権第一位にいる。だからその者達の言うことは嘘でも不敬でもない。俺とユカにまだ子どもが無い今は、何かあればお前が後を継ぐんだからな」
「い、いやだ。ぼくは早く王である兄上や未来の兄上のお子をささえるりっぱな臣下になるんだっ」
俺はジニーの目尻ににじむ涙を指で拭ってやりながら困り果てていた。
弟の心のうちを聞きだすことが出来たが、こんなに忠臣になることを望み頑なになっている理由がさっぱりわからなかった。
継承権のことは幼くても教え込まれ理解しているはずだ。
それを頭ごなしに否定しては、今はまだ幼子のたわごとで済むが、今後の王位継承の順位に混乱をきたす。
俺はもう一度諭すようにゆっくりと言った。
「いいか。お前は俺の弟で、俺に何かあれば次の王になるんだ。もちろん、俺に子ができても、その子に何かあった時もだ。重責だろうが、王族で生まれた責務だ。分かるか。それは俺の臣下として働いてくれることより大事なことなんだ。だからこそ貴族に付け入られないように心がけて――」
「――ちがうのです!どうして兄上は分かってくれないのですかっ!あの時約束したのに」
俺の言葉を遮るように突然そう叫んだジニーは、俺の腕の中からするりと抜けて膝から降りると部屋から飛び出していった。
取り残された俺は状況が理解できず固まっていたが、やがてのろのろと立ち上がると部屋を出、廊下で控えていた女官に声をかけた。
ジニーは館の別の部屋に駆け込んで篭り、そこには侍女が付いているので心配いらないと言う。
俺は母上に仔細を告げ、様子が気がかりなので明日また顔を出すのでと伝えると、急に疲れを感じながら離宮へ帰った。
その晩ユカにジニーのことを相談をしたかったかったが、そういう時に限って夕食もとうに済んだ頃に離宮に戻ってきた為、なかなか話を切り出せずにいた。
そして眠い目をこすり彼女がベッドに入るのを待っていた時、その使いはやってきた。
母上の使いで来たという顔見知りの女官は人払いを頼むと、寝巻きの上に薄いガウンを纏った俺とユカの前に青ざめた顔で跪いて言った。
「申し上げます。弟君が、ジニー様がお館から姿を消されました。お庭も心当たりを捜しましたが見つかりません。行方知れずになったのでございます」