未知との遭遇、悪夢再び
「ほら、見て見てお兄ちゃん!」
嬉しそうなジゼの声に、ラグーは耳を傾ける。
「ん?」
「ん? じゃなくて、見てってばぁ」
「ああ、見てるよ」
彼女が指差すのは、視界いっぱいに広がった星の海だった。大小様々な星が瞬き、夜の街へとその光を降らせている。鮮やかな群青色のそれに見とれながら、ラグーは頭の後ろで手を組んだ。
「えーっとね、ほらアレ」
ジゼがしきりに指を差すのは、数多の星々の中でも一際強い光を放つ三つだった。美しく輝くそれらを前にして、アレはなんだったかな、そんな思考を巡らせるラグーをよそにジゼは一層嬉しそうな声で続けた。
「アレがデネブでー、アレがアルタイル、んでもってそっちのがベガなんだよ」
「へぇー。よく勉強してんだな、お前」
「ふふん、それも全てこの日に向けてなのだよ」
勢いよく上体を起こしたジゼは、得意気な口調で賢しらに人差し指を立てる。暗くてはっきりとは見えないが、恐らくその口角はニンマリと上に上がっていることだろう。そんな彼女の顔を想像して、ラグーは少し、空気が漏れるような笑いを溢した。
「これが世に言う夏の大三角形だよ、覚えておくと後々に有利かも」
「それくらい俺だって知ってるって、馬鹿にすんな。つーか何に有利なんだよ」
「でね、お兄ちゃん」
ラグーは目を閉じ、思考に耽る。
ジゼがここまで明るくなれて本当によかった。もしあのままだったらきっと、楽しい青春なんてものはやって来なかっただろう。母さんが交通事故でこの世を去って、早いものでかれこれもう四年という月日が経とうとしている。今こうして二人平和に暮らせるのも、俺が諦めずに現実と向き合ってジゼを育ててきたからだ。辛かったけど、本当に今は幸せだ。
そんなことを考えていると、思考を遮る声があった。
「ちょっとお兄ちゃん!?」
「んあっ? なっ、何だ?」
慌てて起き上がるとそこには、見事に膨れてしまった妹の顔があった。その頬は怒りを主張するように膨らみ、目は様々な訴えをたたえている。
これはよくないとすかさず謝罪を一言。
「わ、悪かった悪かった。ちょっと考え事してて」
「まったくもう……お兄ちゃんったら」
「で、なんの話だったっけ?」
「だからね。アレがデネブで、次のがアルタイル、そのまた次のがベガなの」
「それはさっき聞いたよ!」
ジゼは「あはは」と笑う。ラグーも釣られて笑った。二人の黄色い笑い声が夜空に響き、それを見下ろす星たちはまるで兄妹を見守るかのようだった。
「今日はありがとね」
ひとしきり笑ったジゼは、居住まいを直して静かに微笑んだ。何を今更……そう思ったが、彼は敢えて何も言わずに微笑みを返した。
柔らかな夜風が吹き抜けて、ジゼの腰まであるツインテールを優しく揺らす。空とほぼ同色のそれはゆらゆらと棚引いて、それはそれは美しかった。
「お兄ちゃんも暇じゃないのにね。無理言って星、一緒に見てくれてありがと」「なんのなんの。こう見えてお兄ちゃんも結構暇でな。それを言うなら、家の屋根でなんて味気無い場所でごめんな。もっと広い所がよかったろうに」
「ううん、そんなことないよ。お兄ちゃんと一緒なら私はどこでも嬉しいから」
そう言うと彼女は立ち上がり、軽く伸びをした。スラリと伸びた細い脚が目の前を遮り、ただ短いプリーツスカートが風に揺れる。
こんなことでも喜んでくれるなら。ラグーは伸びをする自分より一回り小さな背中に、言葉を投げ掛ける。
「また、兄ちゃんとでよかったらさ……一緒に星を見ないか?」
軽い提案のつもりだったが、その言葉にジゼの肩はピクンと弾け、素早くターンをすると一言、
「いいの?」
「ああ、お前がいいならな」
「やったぁ! 絶対に見る! 約束だよ、お兄ちゃん!」
向日葵のような笑顔で抱き着いてくる。
いつまで経っても中身は子供なんだな。そう胸中で笑いながら、兄はその背中をポンポンと叩く。彼なりの約束の印だ。
こんな日がずっと続くように、いつまでも笑って暮らせるように。俺がジゼを守ってやらなければ──、ラグーは改めて決意を固めた。この誓いが揺らがぬように。
そんな時だった。
「「ん?」」
二人は同時に顔を合わせた。訝るジゼの表情を見て、自分もこんな顔をしてるのだろうと彼は察した。
「お兄ちゃん。携帯鳴ってるよ?」
「お前だってそうだろ」
今しがた鳴り始めたアラームに、二人はポケットから携帯を取り出して確認する。バイトの給料で買った青い携帯。そのサブディスプレイでは、赤いランプが煌々と存在感を放っていた。
ランプの色が赤? 一瞬、ラグーの表情に曇りが生じた。自分の記憶が正しければ、赤ランプは『警報』だったはず。普段はあまりお目にかからない色のランプに、最早嫌な予感しかしなかった。
「お兄ちゃん……これ……」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ジゼもまた困惑の色を浮かべている。とにもかくにも、状況が分からないことにはどうしようもない。ラグーは携帯を開き、画面を確認する。
「………?」
すぐさま目に飛び込んできたのは、見慣れない文字だった。
「ナイト……メア……?」
「え?」
画面の下でスクロールする文字。それは確かにそう書かれていた。
ナイトメア。その言葉は以前どこかで耳にしたような気がした。記憶が曖昧なだけに、ラグーはどこか落ち着かない気持ちなる。画面にはただ、『ナイトメア出現』の文字が左から右へと流れている。
「この警報アラーム、ただ事じゃない気がする」
「ああ、そうだな。いったい何が……」
「あ! ワンセグ! もしかしたら何か情報が得られるかも!」
その言葉に突き動かされるようにボタンを押す。テレビのアイコンが画面に現れ、映像に切り替わる。
映ったのはニュース番組だった。ディナルダでは有名な女性キャスターが、いつになく真剣で、それでいて焦ったような面持ちで警報内容を読み上げている。緊迫したその異様な雰囲気は、何か言い知れぬ不安感を煽るようで心臓の辺りが重くなる。
「お兄ちゃん、音量上げないと聴こえないよ」
「お、おう」
ジゼの指摘の元、音量を上げる。
『──程、《ブレイブシュナイド》より《ナイトメア》が出現したとの通達がありました。場所はセントラルエリア、付近の住民は軍の指事に従って速やかに避難してください』
「ブレイブシュナイドだって!?」
ラグーは驚きに声を上げた。その瞳は大きく見開かれ、表情は引き吊っている。
ブレイブシュナイドとは、ここディナルダが誇る世界最強の特殊部隊であり、世界中が知る軍隊である。そのブレイブシュナイドから通達が来るなど、余程の災害か戦争が始まったとしか思えない。故にラグーは気が気じゃなかった。
それに、セントラルエリアから自宅までの距離はそう遠くない。何かあってからではジゼが危険に晒されてしまう。それだけは避けなければいけない。ラグーは立ち上がり、携帯を制服のポケットに仕舞い、ジゼに言い放つ。
「俺は様子を見にセントラルへ行ってくる! 何かあったらすぐ連絡しろ。それと、何があっても家から出るな!」
「駄目だよお兄ちゃん! ナイトメアが出たんだよ!? 行っちゃ駄目!」
「何があったか確かめるだけだ。すぐ戻るから待ってるんだぞ!」
「ちょっとお兄ちゃ──」
引き止めるジゼの言葉を振り払い、ラグーは駆け出す。階段を駆け降り、家を出て坂を下る。
二十二年前にも一度ナイトメアが現れたが、その時はブレイブシュナイドが駆逐したと記述にはあった。それが再び現れたと言うことは、また争いが始まるに等しい。そうなったらジゼは──。一瞬でも脳裏に過った不吉な考えを振り払うように、ラグーはスピードを上げる。聴こえるのは地を蹴る音色と、自分の荒い呼吸だけだった。
「ハァ……ハァ……ったく。こんなことなら普段から走っておくんだった……!」
夜の街を疾走するラグーは、呼吸もままならない息切れの中でそう吐き捨て、苦々しく顔を歪める。口の中が乾き、喉が熱い。それでも彼は走り続けた。高く聳えるビルの隙間を縫い、路上に備え付けられたゴミ箱を蹴り倒し、この角を曲がればセントラルエリアだ。一刻も早く事態の把握を……そう思えば思うほど、ラグーの足と心臓の鼓動はその速さ増していく。
本当に知ってしまっていいのだろうか? 一瞬だが、そんな思いが胸を過る。知れば後には引き返せない。不可思議な感情の葛藤に苛まれるラグー。踏み出す一歩毎にセントラルへと近付いていくこの身体、ラグーは一人、大英断を下す。
「これはジゼのためでもあるんだ。何をビビってんだ俺は……! 行くしかねえだろ!」
そんな覚悟の元、彼はさらにスピードを上げる。もう迷っている場合ではない。
意を決したラグーは、ビルの角を右折する。
しかし、そこで目にしたものは──
「な……なんなんだ、これは……」
抉れた地面、割れたビルの窓、赤々と炎を立ち上らせた車、どれを取っても凄惨を極めた光景だった。
いったい何が起こったのか?
そこまで考えた時、脳の奥から思考に割り込むようにある名前が浮かび上がった。『ナイトメア』、ニュースキャスターは確かにそう言っていた。ナイトメアが現れた、それはつまり──
「グルルルル……」
「……ッ!?」
突如聞こえた地を這うような低い獣の唸り声が、思考の続きを物語るように彼を恐怖へと誘った。
いったいどこから聞こえてくるのか、驚きを隠すこともなくラグーは辺りを見回すが、それらしいものは何も見当たらない。姿は無いのに確かに耳にまとわり着く唸り声。耳を澄ませば、すぐ背後から獣の息遣いが聞こえてくるような錯覚に陥るほどに、生々しかった。
見えない恐怖。それはやがてラグーの不安をひしひしと煽り、まるで息遣いが伝染したかのように彼の呼吸をも獣のそれに塗り替えていく。
必死になってあちこちに目を向けていると、やがて一つの灯を見つけた。突如として視界の隅に現れたそれはまるで炎のように赤い灯で、ラグーの視線は必然であるかの如く惹き付けられた。
しかし、その不思議な灯を注視して数秒の後、ラグーは声を上げて後ろに飛び上がった。
「うわぁっ!?」
直後、生まれて初めて聞くような規模の爆発音が鼓膜をつんざく。
飛び散る堅い何かが顔や身体を打ち付け、鈍い痛みを脳へと伝えた。
何が起きたのか? 混乱する頭をなんとか働かせるラグーは、暫し呆けながらも今しがた起きたことを反芻する。
変な灯を見付けて、凝視していたら光が膨張して、瞬き一つのうちに視界が光に埋め尽くされて、気付けば目の前には大きな穴が。何度考えを改めても、結局最後には疑問符ばかりが残る。
そこら中に点在する地面の穴、それは、例外ではないと言わんばかりにラグーの前でも口を開けている。訳が分からない。
「でも一つだけ分かるのは、あそこで飛び退いてなかったら俺も今頃、この穴みたいになってたってことか……」
尻餅をついた体勢のままラグーは生唾を飲み込んだ。訳も分からないまま死と隣り合わせの環境に立たされた自分を客観視して、改めて冷や汗が背中を伝い落ちる。
「とにかくここに居ちゃヤバいっぽいな。ひとまず……」
あれこれ考えあぐねている余裕はない。
「あそこに避難するか」
冷静に考えた結果、彼は歩道橋を避難場所に選んだ。普段交通量の多いセントラルエリア、混雑を緩和させるために設けられた歩道橋。ここならある程度の高さがあって事態を把握しやすいだろう。その考えに至ったラグーは、立ち上がると急いで橋へ向けて走り出す。
「よし、ここからなら広く見渡せる!」
橋の上でラグーは、手すりから身を乗り出す。眼下に広がるコンクリートの絨毯は穴だらけで、改めて見渡すと尋常ではないことが起きているのだと容易に考えられる。
そして、尚も耳にこびりついて離れようとしない獣の唸り声。それは、絶えず闇の中に充満していた。姿は見えないが、確かな存在感……いや、それはもうそんなちゃちなものではない。言い換えれば『威圧感』。お前などいつでも殺せるのだと言っているかのような威圧感が、姿は見えずともこの闇に漂う唸り声から感じ取れる。
正直に言ってしまえば、ラグーは帰りたかった。
「て言うか、だいたい事態は把握できた。……いや、よく分かんねえけど、とんでもないことが起こってるってのは分かった」
それだけ分かれば十分だろう。あとはジゼの安全さえ確保できれば問題ない。
そう思い、ラグーは引き返そうと踵を返す。
その時だった――
「………?」
――≪ソレ≫は姿を現した。
「……犬、か?」
遠くてはっきりと確認はできないが、不気味な暗闇から出てきたのは、更に不気味な闇を纏った犬のようだった。
なんだ、ただの犬じゃないかとラグーは僅かに安堵したが、すぐに脳裏を掠める違和感に顔をしかめた。
「犬……だけど……」
それは一歩づつ、確かにラグーを目指している。
「なんだよコレ……」
一歩。
「どんだけデケエんだよ……!」
また一歩。
やがて完全にその姿を確認できるまでの距離に至って初めて、ラグーは驚愕にその身を戦慄かせた。
それは、ただの犬ではなかった。かつてジゼと一緒にテレビで見た虎、その三倍――いや、それ以上の巨体だった。
口からはみ出るほど長く禍々しい牙、まるで青竜刀と見紛うような長く鋭い爪、背中には逆立った無数の針のような突起。漆黒の獣は一つ吼える。
「グオオオオオオ――!」
「うわああああああああああ!」
地獄の底を思わせる咆哮に、ラグーは半ば反射的に悲鳴を上げた。男なのに情けないなど、そんなプライドなど気にしていられる状況ではない。ラグーは身を屈め、手摺に隠れるように背を密着させた。
こんなことなら、いつも通りに事無かれ主義者でいれば良かった。ラグーは後悔に歯をガタつかせる。しかしジゼのためなら考え無しに行動してしまう、それが彼の弱点でもあり優しさなのかも知れない。
「これが、ナイトメア……!」
ナイトメアはまた一つ雄叫びを上げる。
どうすればいい? どうしようもないのか? 考えれば考えるほどぐちゃぐちゃになっていく思考。ジゼの元へ帰る。ただそれだけのことが、未だかつて経験したことのない恐怖によって果てしなく不可能になっていく。
「このまま終わるのか? こんなことならジゼと逃げておくんだったな……」
後悔を滲ませ、拳に自然と力が籠る。しかし、そんな絶望に『待った』をかけるが如く、遥か遠くから鳴り響く音があった。
「サイ……レン……?」
音が徐々に近付くにつれて、ビルの窓ガラスに反射する赤い光。危険を報せる時に用いる緊急用のサイレンだ。
ラグーは恐る恐る手摺から顔を覗かせる。すると、ナイトメアの遥か後方から、まるで闇に紛れたてんとう虫のような赤い光がこちらに向かってくるのが見えた。
訝しげに振り返るナイトメア。しかし一向にお構い無しと言わんばかりに、運転席の真上に赤いパトランプを携えた巨大なトレーラーがナイトメアからやや離れた場所で停止した。
見ているだけで圧倒されるような重厚な車体に、闇に霞むような銀色のコンテナ。そこには、十字架が刻まれた西洋の盾を模したペイントが施されている。
思わず声を上げるラグー。このペイントには見覚えがあった。最近あった、学校の現代社会での授業、その最中に教科書の挿し絵で見たこのペイント。それは間違いないなく、ここディナルダの誇る特殊戦闘部隊――ブレイブシュナイドの物であった。
ナイトメアが怨嗟を垂れ流すように低く唸る中、漸く人間の声が街に響き渡った。
『こちらエリズ。みんな用意はいいかしら』
『エリズさん、マイクのボリュームが大きすぎますよ!』
『細かいことは言いっこ無しよ! そんなんだからろくに彼女もできないのよ』
『ほ、ほっといてください!』
若い男女のなんとも間の抜けたやり取りがスピーカーから流れてくる。恐らくはブレイブシュナイドの関係者だろうか。ナイトメアが出現して、この事態の収拾を図るべく駆け付けたのだろう。
世界最強と唄われる部隊のお出ましとあれば幾分か気持ちが楽になったラグーだが、安堵すると同時に身体中の力が抜けてしまった。
「でも、ブレイブシュナイドが来たんだ。取り敢えず安心だろ」
再びナイトメアが雄叫びを上げる。
『おっと、悠長に構えてる場合じゃなさそうね。ケィト君とガーデナーの装着員は小隊を組み、速やかに配置に着いてちょうだい』
先程までの女性の声とは、明確に違うものがあった。スピーカー越しにでも分かるほどの緊張感。それが、顔を見ずとも彼女の声から容易に感じ取れた。
やがて、コンテナの後方部分のゲートが開き、中から人型の影が幾つも飛び出した。
「あ、あれは!」
現れたのは人型をしたロボットだった。
闇とほぼ同色に近い紫のボディーカラーにカメラのレンズを思わせるような目。見るからに人間用とはかけ離れた規格のライフルを携えて、これら四機のロボットは正方形を作るようにトレーラーの前へと躍り出る。ホバリングの機能が備わっているのか、その動作は歩くと言うより滑るに近いもので、この整列一つ取っても訓練に訓練を重ねたことが窺い知れる。
ライフルを胸元に構えホバリングを止めた頃、その正方形の中心を陣取るかのように、一人の男が駆け寄ってきた。
やや長めの茶髪に細身の身体。ブレイブシュナイドのユニフォームらしき制服に身を包んだその男は、四体のロボットに四方を囲まれたままそれぞれにアイコンタクトを送った。いよいよ戦いが始まる。そう考えただけで、ラグーの頭の中は様々な思考で埋め尽くされていく。
逃げなくて良かったのか? 今なら間に合うんじゃないか?
しかしスピーカーからの声が、そんな考えを打ち消してしまう。
『ケィト君、アクティブデバイサーの起動準備はできてるでしょうね?』
「もちろんです。いつでも行けますよ」
ケィトと呼ばれる男は、ブレスレットらしき物を装着した左手をひらひらと振って返事をする。
『気張りなさいよ。ミッション、≪目標の殲滅≫。作戦――』
そこまで言って沈黙が生まれる。生温い風が頬を撫で、静寂の中でナイトメアの唸りとロボットのライフルを構える音とが混じりあう。
『――開始』
物々しい雰囲気の中、戦いの火蓋が切って落とされた。
ナイトメアが一際大きな声を上げる。そして、それを合図にするかのようなタイミングで前の二機が前進を始めた。
ついに始まってしまった。ブレイブシュナイドの戦いを間近で見れる興奮とナイトメアを前にする恐怖、それらが鎖のように絡み付く。
「一番機は二番機と前進、挟み撃ちにして! 三番機、四番機はトレーラーの守備!」
「「了解!」」
前進した二機がケィトの指示の元、ライフルの引き金を引く。ナイトメアは高速で迫り来る二機を交互に見やるが、別段避ける素振りは見せなかった。弾丸は見事、その巨体に命中した。
「全弾命中! 適切な距離を保ち、撃ち方続行!」
怒号に似た指示が戦場に飛ぶ。
これはブレイブシュナイドが優勢ではないか。端から見ればそんな光景だったが、すぐにラグーの考えは驚愕に書き換えられる。
「引け、引けぇ! がはっ――」
突如、前進した二機のうち一機が宙を舞った。あんなに重厚そうな機体がなんの苦も無く弾き飛ばされる。それは、圧倒的な力の差に他ならなかった。
漆黒の獣は天を仰ぎ、遠吠えを一つ。すると、その四つ足を駆使して駆け出した。その巨体からはおおよそ想像もつかない猛スピード。ナイトメアは驚くほどあっという間にケィトの前に到達し、禍々しく鋭い爪をハンマーのように降り下ろす。
「ケ……ケィトさんッ!」
受け止めようとすかさず前に出る二機だが、その猛攻はまるで神の一撃。受け止めるには遠く及ばず、まとめて宙を舞う羽目になった。
阿鼻叫喚。ロボットは苦痛に声を上げる。そこでラグーは、あることに気が付いた。
「もしかして、人間が……!?」
見る限り撃破されたロボットは、多少武装しているものの身長などは人のそれに近かった。加えて、先刻ロボットから発せられた悲鳴は確かに肉声。なんとなく合点がいったラグーは、その悲惨さに身震いした。
「人間があんな化け物と……? 無理だ、敵うはずが無い!」
これ程までに圧倒的な戦いを、ラグーは未だかつて見たことが無かった。それ故に、度々脳裏を過るブレイブシュナイドの敗北。それは即ち、この国の終わりを意味していた。
今の世は戦争も無く平和に暮らせているが、世界最強の部隊が壊滅したとあればきっと他国は見過ごさないだろう。その隙を衝いて、戦争を仕掛けてくるかも知れない。そうなってしまっては、ディナルダは他の国々の植民地に成り下がり、未来など奪い去られてしまうだろう。もしそんなことになったらジゼは――。
どうにかできないものか。必死の思いで知恵を絞るが、たかが一般人の学生にはどうすることもできない。むしろ、そんなことは考えずとも分かっていた。分かっていただけに、ラグーは悔しさを堪えきれずに奥歯を噛んだ。
「ナイトメアめ……これ以上好き勝手やらせないぞ!」
雄々しい台詞と共に、ケィトはブレスレットを口元へと引き寄せ、早口で言葉を発する。
「アンチエネルギースーツ、セットアップ」
その言葉一つで、ケィトの身体は黒のユニフォームから一変して鮮やかな真っ青のスーツに被われた。一瞬の出来事に、ラグーは目を丸くする。
「パイロットネーム、ケィト・ラッセルマイダーで固定。パワーエレメント同調……同調を確認」
矢継ぎ早に飛び出す聞いたことも無いような言葉だが、それに答えるようにスーツのラインに光が走る。
しかし、猶予という猶予は与えられなかった。痺れを切らしたナイトメアは爆発的な咆哮と共に飛び上がると、急降下する勢いで食らい付こうと口内から覗く無数の牙を突き立てた。
万事休す。ラグーはケィトの身を案じると同時に、敗北を悟った。しかし――
「型式番号、XYZ-007。――≪エストール≫、起動」
冷静で厳かな声。強烈な閃光がケィト全身を隠した。
そのあまりの目映さに思わず目を覆ってしまうラグーだったが、次に目にした光景に驚嘆の声を上げた。
「なんだあれは……!」
全身を包む雪より白い装甲。それは耐熱、耐刃、耐弾、耐衝撃仕様のオリハルコン。頭部は如何なる衝撃にも耐えうるフルフェイスになっている。
そんな人型のロボットが、黒炭の如く艶のある両手でナイトメアの牙を受け止めていたのだ。
『エストールの起動に成功したようね』
「はい」
どこかホッとしたようなスピーカーの声に、ケィトの声が短く答える。
どうやらあの白い機械人間はケィトその人らしい。
『それじゃあ打ち合わせ通りに』
「了解」
それだけ受け答えを済ませたケィトは一瞬だけ身を屈めると、瞬発力を活かしてナイトメアの巨体を押し返した。
仰向けに倒れた隙を見計らい、後方にバックステップをして距離を取る。そして胸に右手を翳し、
「アームドウェポン。VM鉄鋼弾、アクティブ!」
その叫びに応えるように、何も無い空間から突如大きな銃が出現し、両手に握られた。
手品……否、そんな次元ではない。我が目を疑う光景だが、現にケィトの手にはボディーのカラーリングとは対照的な黒の銃が収められている。
「VM鉄鋼弾、その威力……試してやる」
濁った夜空から黄金色の月が顔を出し、クレーターだらけの地面に光を落とす。ガチャリ、と重たい音を立ててケィトは鉄鋼弾を構える。遊びではない、ナイトメアに対して静かに向けられた銃口は、重苦しいプレッシャーもさることながら鋭い刃の切っ先を想わせる殺意を放つ。
互いに生死を賭けた戦い――ナイトメアは攻めるが吉と踏んだのか、四肢の関節を僅かに曲げて飛び上がった。
「このっ……!」
続くようにケィトは鉄鋼弾を撃つ。だが、毛ほどのタイミングのズレが生じたらしくあっさりとかわされてしまう。
このままではケィトがナイトメアにやられてしまう。またしてもラグーはブレイブシュナイドの敗北を案じる。――だが、
「空中なら避けられないだろ!」
すかさず銃口は上向きに、その刹那、焦げたような火薬の匂いと共にナイトメアが悲鳴にも似た鳴き声を上げる。
「当たったッ!」
形勢逆転の兆しに、ラグーはまるで自分のことのように小さくガッツポーズをする。
だが、そんな喜びも束の間のことだった。
どうにか着地したナイトメアだが、様子がおかしい。荒々しかった唸り声は嘘のように静まり、頭を下げ、急に大人しくなってしまった。
ただならぬ違和感。その様子にラグーは、嵐の前の静けさのような物を覚えた。瞬間的な爆発のために力を溜めているような――。
そんな時だった。
『高エネルギー反応を確認! 危険です!』
スピーカーを通して、男の声が叫ぶように告げる。その尋常ではない焦りぶりに、ラグーは動揺を隠せずにいた。
こんな所に長時間いたのでは、自分の身が持たない。ラグーの頭は限界に近い状態だった。
『ケィト君逃げてぇぇぇ!』
――絶叫。彼の名を呼ぶその声と同時にナイトメアの額が燃えるような深紅に染まり、ケィトの身体は弾け飛んだ。
ラグーは目の当たりにしていた。瞬間的な光の膨張を、そしてそれに飲まれる一人の男を。
『ケィト君聴こえる!? 応答してちょうだい!』
煙が晴れた頃そこには、地に倒れ伏す彼の姿があった。しかし先ほどまで全身を被っていた白装甲は跡形も無く、おおよそ身を守るには脆弱すぎる格好だった。
今攻撃を受ければ彼の命は無いだろう。
ナイトメアはゆっくりと前進する。
「駄目なのか!? どうせ俺には何もできない……でもこれで終わりなんて俺は嫌だ……!」
ラグーは地面を殴る。拳が痛んでも、血が滲んでも、地面を殴る。
「怖い……怖い……関わりたくない……でも、これで全てが終わってしまうかも知れない……」
どうすれば生き残れる?
何度も何度も、反芻するように、呑吐するように考えても――浮かぶ答えは一つだけだった。
「――しかない」
弛緩する両手もそのままに、ゆっくりと立ち上がる。
「やるしか……ない」
カチリ。
頭の中で、スイッチが切り替わった。
「俺がやるしかない」
その言葉は決意に他ならない。己の意志……ラグーは吐き捨てる。それはまるで、自分に言い聞かせているようでもあった。
チャンスは恐らく……いや、確実に一度しかない。無茶で無謀な作戦――それはラグー本人が一番よく解っていた。
急ぎ足で、しかし気配を押し殺して、ラグーは橋の階段を下る。一段、また一段と、足が階段を踏み締める度に心臓の動きが速さを増していく。幾度となくすくみかける足に鞭打って、彼は歩みを進める。
やがて道路に。ここからは、文字通り命懸けの時間だ。下手すれば命は無い、もしかすると、下手しなくても命は無いかも知れない。それだけ危険な行為だ。
緊張のせいで乱れた呼吸を強引に整え、ラグーは構える。
チャンスは一度きり、失敗は許されない。今一度念を押すように、頬を強く叩く。
静かに、しかし全力で息を吸い覚悟を決める。今だ。
「こっちだ! ナイトメア!」
全身全霊を込めたラグーの全力疾走が始まった。