No.14 雪明かりの知恵(福井県池田町)
ふるさとに咲く物語 第14作
『雪明かりの知恵』
作者:常時謙仕
第一章 雪の朝
昭和六十一年、一月。
福井県の池田町では、朝から細かな雪が降り続いていた。
窓ガラスの向こうは、白と灰色の間のような景色だった。屋根の雪は軒先まで垂れ、杉の木は枝を重そうに下げている。
朝六時半。
台所から、
ことこと、ことこと。
鍋のふたが小さく鳴る音がした。
「春香、起きてる?」
母の声がする。
「うん……」
布団の中から返事をしたものの、春香はすぐには出られなかった。
雪の朝は、布団の中がいちばん暖かい。
やがて、
ごそっ。
春香は頭までかぶっていた毛布をはねのけた。
「寒い……」
窓を少し開けると、
しゅわあ……
冷たい空気が部屋へ入り込んできた。
春香は急いで窓を閉めた。
小学六年生の春香は、池田小学校へ通っている。
学校までは歩いて二十分ほど。
夏なら何でもない道だが、冬になると話が違う。
雪が積もれば道幅が狭くなり、屋根から落ちた雪が道の端に山のようにたまる。
それでも、春香は冬の町が嫌いではなかった。
雪が積もった朝には、いつもの道が別の道に見えるからだ。
石垣も、田んぼも、川も、みんな白い布をかぶったようになる。
学校へ向かう途中、春香は一軒の家の前で足を止めた。
「おばあちゃん、おはよう!」
雪かきをしていた近所の美代さんが顔を上げた。
「ああ、春香ちゃん。気をつけて行きね」
「うん」
美代さんは七十歳を過ぎている。
大きなスコップを持ち、玄関前の雪を少しずつ寄せていた。
「手伝おうか?」
春香が言うと、
「ありがとう。でも、学校に遅れるよ」
美代さんは笑った。
春香は少し迷った。
そして、
「じゃあ、帰りに寄るね」
と言って歩き出した。
雪を踏むたび、
きゅっ、きゅっ。
靴の下で雪が鳴った。
その音を聞きながら、春香はふと思った。
町には、雪の中で困っている人が、ほかにもいるんじゃないだろうか。
その考えが、この日の授業につながっていくことを、春香はまだ知らなかった。
第二章 何が必要なのか
その日の六時間目。
担任の山下先生は、黒板に大きく、
「冬の町に、何が必要だろう」
と書いた。
「来週、地域の方たちとの交流会があります。そこで、六年生から『冬の町について考えたこと』を発表してもらいます」
教室がざわついた。
「雪かき!」
「除雪車!」
「道路を広くする!」
次々と声が上がる。
春香も手を挙げた。
「雪かきで困っている人を、みんなで助ける仕組みがあったらいいと思います」
「いいですね」
先生はうなずいた。
「では、春香さん。どうしてそう思ったの?」
「今朝、美代さんが一人で雪かきをしていたからです」
そう答えると、後ろの席の由美が言った。
「でも、おばあちゃん、毎年やってるよ」
「うん。でも……」
春香は言葉を止めた。
毎年やっているから大丈夫。
本当にそうなのだろうか。
先生は黒板にもう一つの言葉を書いた。
「何が必要なのかを、どうやって決める?」
春香はその文字を見つめた。
その日の帰り道、職員室の前に新聞が置かれていた。
新聞の横では、ラジオからニュースが流れていた。
最近、女性が働くことについての話をよく聞く。
昭和六十一年の四月からは、男女雇用機会均等法が施行される。
母も最近、
「仕事を少し増やそうかしら」
と話していた。
春香の家では、祖母と母が家事を分担している。
もし母が仕事を増やしたら、今まで母がしていたことは誰がするのだろう。
春香はそんなことを考えながら家へ帰った。
「ただいま」
「おかえり」
母は台所にいた。
春香はランドセルを下ろしながら尋ねた。
「お母さん、仕事、増やすの?」
「まだ決めてないわよ」
「どうして?」
「仕事もしたい。でも、おばあちゃんのこともあるでしょう」
母は鍋の中をかき混ぜながら言った。
「だから、何がいちばん大事なのか、考えているところ」
「大事なもの……」
春香はその言葉を繰り返した。
その夜、祖父が古い本を持ってきた。
「これ、学校の発表に使えるかもしれんな」
開いたページには、昔の王さまの話が載っていた。
ソロモン。
王になったソロモンは、神から「何を与えようか」と問われた。
金でも、長寿でも、敵に勝つ力でもない。
ソロモンが願ったのは、
人々を正しく導くための知恵だった。
春香は本を読んで、首をかしげた。
「知恵って、頭がいいってこと?」
祖父は笑った。
「それだけじゃないだろうな」
「じゃあ、何?」
「何が必要なのかを、ちゃんと見つける力……かもしれんな」
春香は黙った。
黒板に書かれていた言葉が浮かんだ。
何が必要なのかを、どうやって決める?
布団に入ってからも、その言葉は消えなかった。
第三章 白い町の声
翌日から、春香は町の人に話を聞き始めた。
美代さんには、
「冬に困ることは何?」
と聞いた。
「雪かきもそうだけどねえ。買い物に出るのが大変な日があるね」
魚屋のおじさんは、
「雪の日は配達が遅れることもある」
と言った。
学校の用務員さんは、
「屋根の雪も気になるな」
と言った。
母に聞くと、
「仕事と家事を両方する人が増えたら、時間の使い方も変わるかもしれないね」
と言った。
祖父は、
「病院へ行く人もおる。雪が多い日は道のことが心配だ」
と言った。
一人に聞くと、一つの答えが返ってくる。
別の人に聞くと、また別の答えが返ってくる。
春香のノートは、だんだん文字でいっぱいになった。
雪かき。
買い物。
病院。
屋根。
仕事。
家のこと。
道。
春香は机の上にノートを広げた。
「多すぎる……」
全部を何とかしようとすると、何もできなくなる。
そこで春香は、思いついた。
「じゃあ、新しい除雪機を買えばいいんじゃない?」
学校で提案すると、何人かが賛成した。
「それなら雪かきが楽になる」
「町に一台あればいいよ」
春香も、その案がいちばん簡単に思えた。
しかし、先生はすぐには答えなかった。
「春香さん。除雪機があれば、誰が使う?」
「町の人……」
「誰が、どこを優先して雪かきする?」
「それは……」
「燃料は? 故障したら?」
春香は黙った。
先生は黒板に、
「物が必要なのか。仕組みが必要なのか。」
と書いた。
春香は、その文字を見ていた。
その帰り、また雪が降り始めた。
さらさら、さらさら。
雪は音もなく町を白くしていく。
道の向こうで、美代さんが雪を寄せていた。
春香は駆け寄った。
「美代さん!」
「あら、春香ちゃん」
「どうしてほしい?」
突然そう聞かれて、美代さんは目を丸くした。
「どうしてほしいって?」
「雪かき? 買い物? 病院? 何がいちばん困る?」
美代さんはしばらく考えた。
「そうねえ……」
スコップを雪の中に立てた。
「雪かきも困るけど、一番困るのは、困ったときに誰に頼んだらいいかわからないことかもしれんね」
春香は息を止めた。
その言葉は、胸の奥に落ちた。
雪かきをしてくれる人を探すだけではない。
困っている人が、
「助けて」と言える道
が必要なのかもしれない。
春香はノートを開いた。
そして、一行目に書いた。
「何をしてあげるかではなく、何が必要なのかを聞く。」
鉛筆の先が止まった。
ソロモンが求めた知恵とは、こういうものなのだろうか。
自分が正しいと思う答えを持つことではなく、
人の話を聞いて、
何が必要なのかを考え、
その中から選ぶこと。
春香は、ノートを閉じた。
第四章 雪明かり
交流会の日。
体育館の窓の外では、朝から雪が降っていた。
春香たちは、模造紙を壁に貼った。
そこには、大きな字で、
「池田の冬に必要なもの」
と書かれている。
その下には、町の人から聞いたことが並んでいた。
雪かき。
買い物。
通院。
屋根。
仕事。
家のこと。
そして最後に、
「困ったとき、声を出せること」
と書いた。
春香は発表の順番を待ちながら、何度もその文字を見た。
最初は、新しい除雪機があればいいと思っていた。
けれど今は違う。
何か一つの答えを決める前に、聞くこと。
そして、聞いたことをみんなで考えること。
それが、春香の考えた「知恵」だった。
発表が始まった。
春香は前に出た。
「私たちは、冬の町に何が必要なのかを考えました」
体育館は静かだった。
「最初、私は雪かきをするための新しい機械が必要だと思いました。でも、町の人に話を聞いてみたら、それだけでは足りないことが分かりました」
春香は、一枚の紙をめくった。
「困っている人が、誰に頼めばいいのか分からないこともあります。仕事をしている人は、雪かきの時間が取れないこともあります。病院へ行く人もいます」
そこで春香は、少し間を置いた。
「だから私は、まず、困っていることを言える場所が必要だと思います」
発表が終わった。
拍手が起こった。
春香は席へ戻った。
窓の外を見る。
雪はまだ降っている。
体育館の明かりが雪に反射して、白い粒が一つ一つ光って見えた。
帰り道。
春香は母と歩いていた。
「今日の発表、どうだった?」
母が聞く。
「まだ分からない」
「何が?」
「本当に、これでよかったのかなって」
母は笑った。
「それでいいんじゃない?」
「え?」
「すぐに答えが出ないから、考えるんでしょう」
二人は雪道を歩いた。
きゅっ。
きゅっ。
足元で雪が鳴った。
春香はポケットからノートを取り出した。
最後のページには、まだ何も書かれていない。
春香は鉛筆を握った。
けれど、すぐには書かなかった。
白いページを見つめる。
何を求めればいいのか。
誰の声を聞けばいいのか。
自分にできることは何なのか。
雪明かりの向こうで、町の家々に一つ、また一つと明かりがともっていく。
春香はノートを閉じた。
そして、まだ白いままの最後のページを、そっとランドセルの中へしまった。
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とことき文庫
ふるさとに咲く物語シリーズ第14作
『雪明かりの知恵』教師用虎の巻
作者:常時謙仕
■ 1 作品の基本情報
舞台:福井県池田町
時代:昭和61年(1986年)
季節:冬
主人公:小学6年生・春香
聖書的モチーフ:歴代誌第二 1章7~12節・ソロモン
主題:相手の声を聞き、本当に必要なものを考える知恵
本作では、ソロモンが神から「何を与えようか」と問われた際、富や長寿ではなく、民を正しく導くための知恵を求めたという聖書の物語を下敷きとしている。
ただし、聖書の内容をそのまま道徳的教訓にするのではなく、春香という小学6年生の少女が、地域の冬の暮らしについて考える中で、「知恵とは何か」を自分自身の問題として考える構成にした。
作品の中心となるのは、「何をしてあげるかではなく、何が必要なのかを聞く。」という春香の気づきである。
■ 2 本作で考えたい「知恵」
本作における「知恵」は、単に「頭がいいこと」ではない。
春香は物語の前半で、「冬の町には除雪機が必要だ」と考える。
一見すると合理的な答えである。
しかし、町の人々に話を聞いてみると、困っていることは雪かきだけではない。
買い物、通院、屋根の雪、仕事と家庭の両立など、人によって必要としているものが違う。
ここで春香は、「自分が必要だと思ったもの」と「相手が本当に必要としているもの」は同じとは限らないことに気づく。
これは第13作からの重要な発展でもある。
第13作では「自分一人で判断せず、相談する」ことが中心だった。
第14作ではさらに、「相談するだけでなく、相手の話を聞いてから考える」という段階へ進んでいる。
したがって本作は、「人のために何かをしてあげる」という善意だけではなく、相手を一人の意思を持った存在として捉えることを扱っている。
■ 3 ソロモンとのつながり
歴代誌第二1章7~12節では、ソロモンは神から「何を求めるか」と問われる。
そこでソロモンは、自分のための富や長寿ではなく、民を治めるための知恵と知識を求める。
本作では、この構造を、「何が必要なのかを見極める」という小学生の日常的な問題へ置き換えた。
春香は最初から「知恵を持った少女」ではない。
むしろ、自分なりの答えを持っている。
しかし、町の人々の声を聞くことで、その答えを修正していく。
ここが重要である。
本作でいう「知恵」は、「最初から正しい答えを知っていることではなく、必要な情報を集め、自分の考えを見直しながら、よりよい答えを探すこと」として捉えたい。
授業では、ソロモンについて、「なぜソロモンはお金や長生きを求めなかったのだろう」
だけで終わらせず、「本当に必要なものを選ぶには、何が必要なのだろう」へ発展させるとよい。
■ 4 池田町という舞台
福井県池田町は山間部に位置し、冬には雪と向き合う暮らしが身近にある地域である。
本作では、雪を単なる背景として扱わず、人と人とのつながりを浮かび上がらせる存在として描いた。
雪が降れば、道路、買い物、通院、屋根、仕事など、普段は見えにくい生活上の問題が表面化する。
だからこそ、春香は「町には何が必要なのか」という問いを持つ。
また、「雪明かり」は作品の象徴でもある。
雪そのものが明るいのではない。
家々の明かりが雪に反射して、町全体がほのかに明るく見える。
これは、「一人の力ではなく、それぞれの人の小さな働きが重なって地域を照らしている」という本作のイメージにつながる。
■ 5 昭和61年という時代背景
昭和61年は、男女雇用機会均等法が施行された年である。
本作では、この時代背景を説明文として前面に出さず、春香の母親の「仕事と家庭をどう両立するか」という会話に取り入れた。
重要なのは、女性が働くことを問題として描かないことである。
母親は、「仕事もしたい。でも、家のこともある」という状況にいる。
これは女性だけの問題として限定するのではなく、仕事、家庭、地域の役割を誰がどのように分担するのかという普遍的な問題として扱いたい。
授業で時代背景を補足する場合も、「昔は女性が働きにくかった」という単純な説明だけにせず、当時、社会の中で働き方や男女の役割について新しい考え方が広がっていたことを説明すると、本作との接続がよい。
■ 6 中心場面①「除雪機が必要」
春香が「新しい除雪機があればいい」と考える場面は、本作の重要な転換点である。
ここで教師は、春香の考えを「浅い」と評価しないことが大切である。
春香は本当に町のことを考えている。
だからこそ、「春香の考えは間違っていたのだろうか」と問うことができる。
児童から、「間違いではない」「除雪機も必要かもしれない」「でも、それだけでは解決しない」「使う人のことを考えないといけない」などの意見が出れば、本作の狙いに近づいている。
■ 7 中心場面②「何がいちばん困る?」
美代さんに春香が、「どうしてほしい?」と尋ねる場面は、本作の核心である。
春香はそれまで、「自分がしてあげること」を考えていた。
しかし、美代さんの答えは、「困ったときに誰に頼んだらいいかわからない」だった。
ここで重要なのは、春香が美代さんの問題を勝手に決めつけなかったことである。
これは現代の学校生活にもつながる。
「困っている友達を助けてあげる」のではなく、「その友達は何を必要としているのか」を考える姿勢である。
「助ける側/助けられる側」という固定された関係を作らないことも重要である。
■ 8 最後の白いページ
物語の最後、春香のノートには白いページが残っている。
これは「春香が答えを見つけられなかった」という意味ではない。
むしろ、「考え続ける余地を残した」と捉えたい。
「知恵」を一つの正解として与えてしまえば、本作の価値は小さくなる。
春香自身も、「本当にこれでよかったのかな」と考えている。
この迷いは未熟さではなく、よりよく考えようとする姿勢である。
授業の最後にも、教師が結論をまとめすぎず、「あなたなら、その白いページに何を書く?」と問いを残すと、「結」を読者に委ねる本作の構造を生かせる。
■ 9 編集委員による評価
総合評価 ★★★★☆ 4.7/5
第14作は、シリーズ第13作からの主題の連続性が非常に明確である。
第13作『秋風の旗』では、「善意だけで動かず、自分の役割を考えて周囲と相談する」ことが描かれた。
第14作ではそこから一段階進み、「自分がよいと思うことを押しつけるのではなく、相手の声を聞き、本当に必要なものを考える」という主題になっている。
この発展は、シリーズ全体の道徳的成長として自然である。
特に評価したいのは、ソロモンの「知恵」を「勉強ができること」や「正解を知っていること」にしなかった点である。
春香は最初に一つの答えを出し、それを町の人々の声によって修正する。
この構造により、児童自身にも、「自分ならどうするか」「自分は相手の話を本当に聞いているか」という問いを返すことができる。
また、主人公を女子児童としたことで、昭和61年の女性の働き方をめぐる社会変化を、児童の家庭生活に自然に接続できている。
一方、編集上の最大の注意点は、「相手の言うことを何でも聞けばよい」という教材にしないことである。
本作が扱うのは、相手の意見に従うことではない。
相手の話を聞き、その情報をもとに、自分でも考えることである。
つまり、「聞くこと」と「決めること」の両方が必要なのである。
また、除雪機のエピソードについても、「機械ではなく人間のつながりが大切」という単純な二項対立にしないことが望ましい。
除雪機のような道具も必要であり、人の助け合いも必要である。
問題は「どちらが正しいか」ではなく、「地域の人々にとって、今何が必要なのかを見極めること」にある。
■ 10 編集委員総評
第14作『雪明かりの知恵』は、シリーズ第9作以降の、
聴く → 共に生きる → 公正に判断する → 見方を見直す → 役割を分かち合う → 必要なものを見極める
という流れをさらに発展させる作品として評価できる。
特に、ソロモンの「知恵」を、「答えを持っていること」ではなく、「人の声を聞き、自分の考えを修正しながら、よりよい答えを探し続けること」として描いた点が本作の強みである。
最後の白いページは、シリーズの「結を読者に委ねる」という方針ともよく合っている。
第14作は、児童に「知恵とは何か」という大きな問いを投げかけながら、その答えを教師にも児童にも固定しない。
その余白こそが、本作の最大の教育的価値である。
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