詰問
勢いよく背中が石造りの壁にぶつかった。
鈍い衝撃が走る。
「っ……!」
肺の奥に溜まっていた空気が、強制的に押し出されたように吐き出される。
叩きつけられたわけじゃない。
ただ、後ずさった勢いのまま距離感を見誤っただけだ。
けれど、石壁の硬さは容赦なく背中へ伝わってきた。
その直後。
ダンッ、と胸元へ強い衝撃が走る。
握り締められた拳が、そのまま胸板へ叩きつけられていた。
布越しでも分かるくらい重い一撃。
押し付けられた拳が、小さく震えているのが伝わってくる。
怒りなのか。
焦りなのか。
それとも別の感情からなのか。
目の前の相手――シランは、一歩も引かなかった。
むしろ、距離を詰めるたびにこちらの逃げ場を丁寧に潰してくる。
背後は石壁。
左右へ抜けようと思えば不可能ではない。
けれど、今のシランの様子がそれを許さなかった。
逃がす気なんて最初からない。
そんな圧が、真正面からぶつかってくる。
琥珀色の瞳には、怒りと焦りが入り混じっていた。
普段なら、どこか余裕を滲ませている目だ。
なのに今は違う。
真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに、ただこちらを射抜いていた
彼女の目尻には、うっすらと涙まで滲んでいた。
「シオン、あんた……自分が何やってるのか理解してるの!?」
責め立てるその声は、鋭いのに、どこか崩れそうで。
張り詰めた糸みたいに、不安定に震えていた。
(あぁ……。
シランにバレたんだな……)
どこか他人事みたいに、ぼんやりとそう考える。
否定する材料もない。
そんな気分にもなれない。
反論が許されるような立場ではないのだから。
偶然、彼女に見られたのだろう。
レインとティアと一緒にいたところを。
どの場面を見られたのだろうか。
笑っていたかもしれない。
言葉を交わしていたかもしれない。
あの場の空気を思い出そうとして、すぐにやめた。
「……わかっているさ」
その返答を聞いた瞬間、シランの声がさらに強くなる。
「そうだよね!?シオンがわかってない筈ない!」
それに合わせるように、胸元を掴む指先にも力がこもった。
シランの瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が滲んでいた。
けれど、必死に堪えている。
怒っている筈なのに。
責め立てている筈なのに。
その顔はどこか、縋っているようにも見えた。
「だったら!!どうして!!」
感情を押し切るように、言葉が叩きつけられる。
「あいつらは敵だよ!?敵!!殺せって命令受けてたじゃない!!偵察ならともかく!!なんで、あいつらと仲良くしてるの!?」
矢継ぎ早に投げつけられる言葉。
シランの言葉はどれも正しい。
何ひとつ、間違っていない。
黒ユリの呪華の抹消。
それが、俺たち2人に与えられた命令だ。
つまりはティアの抹殺。
それが最終的な目的である以上、過程がどうであれ、結果だけ見れば俺の行動は逸脱していた。
危害を加えるどころか、
会話を交わし、
食事を共にし、
その契約者の鍛錬にすら付き合っていた。
こんな状況で、今、思い出すべきではないのに、
思い出したくもないのに、断片的に浮かぶ光景がある。
くだらないやり取り。
無防備な笑顔。
警戒を解いた、あの時間。
自分の愚かさに苛立ち、舌打ちしたくなる。
一度、目を伏せた。
言葉を選ぼうとしたわけじゃない。
ただ、何を言っても言い訳にしかならないと分かっていた。
それでも。
「……仲良くしているつもりはない」
口にした瞬間、自分でもそれがどれだけ説得力の無い言葉か理解していた。
その一言で、シランの表情が凍りつく。
「は……?」
信じられないものを見るような目。
「それじゃあ何?……あれが、“任務の一環”だって言うの……?」
掴む力が、さらに強くなる。
胸元の布が、千切れそうなほどに皺が寄せられる。
「……ただ、観察してただけだ」
「は?」
「接触しなければ分からないこともある。あの2人の動き、思考、戦い方……」
淡々と説明を続ける。
口にしているうちに、自分でも分かっていた。
空虚が心の内を埋め尽くしていくことに。
自分でも分かっている。
これはただ、自分を誤魔化すための“言い訳”だ。
「ふざけないで!!」
次の瞬間。
胸に強く、握りしめた拳が叩き付けられる。。
その反動で背中が壁にさらに押し付けられ、逃げ場が完全に塞がれた。
「そんなの、いくらでも方法あるでしょ!?わざわざ一緒に笑ったり、食事したりする必要ある!?」
シランの息が荒い。
肩が大きく上下している。
怒鳴っている筈なのに。
どうしてか、その声は必死で。
責めているのに、どこか縋るみたいで。
視線を逸らしてしまった。
真っ直ぐに向けられる琥珀色の瞳を、まともに見続けることが出来なかった。
「……ほら。なにも、言えないんじゃない」
ぐっと唇を噛む気配がした。
「任務だって言い張るなら、ちゃんと、最後まで言い切りなよ……。シオンらしくない……」
震える手が、ゆっくりと襟から離れていく。
圧迫されていた背中は解放されたはずなのに、呼吸がうまく出来ない。
代わりに、胸の奥に、重りのようになにかが深く沈んだままだった。
シランが、ゆっくりと背を向けた。
そのまま数歩、ヒールの音を響かせながら、距離を取った。
引き止めるべきなのか。
弁明するべきか。
正直にすべて打ち明けるべきか。
何を言えばいいのかすらわからない。
ただ、その背中を見ていることしかできなかった。
「……ねぇ、シオン」
不意に足音が止まり、名前を呼ばれる。
くるり、とシランが振り返った。
さっきまで浮かんでいた怒りは、もう顔に出ていなかった。
代わりにあるのは、今にも泣き出しそうな表情。
感情を押し殺そうとしているせいで、余計に脆く見える。
怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。
抑え込まれた感情は、鋭く刺さる。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「もし、あいつらと戦うことになったら」
シランが一歩、距離を詰める。
再び、反射的に後ろへ下がろうとして、壁に阻まれた。
「私と、そいつら」
さらに一歩。
今度は手を伸ばしてこない。
触れもしないまま、ただ確実に距離だけを縮めてくる。
俺を逃がさないための距離。
呼吸も、視線も、思考さえ閉じ込めるみたいに。
「どっちを選ぶの?その気持ちと、命令。……どっち?」
視線を逸らせない。
シランは答えを求めているのに。
俺の答え次第で、何かが壊れる。
そんなことを理解した上で、それでも問いかけている目だった。
喉が、ひどく乾く。
何か言わなければならないと分かっているのに、言葉が出てこない。
頭の中で、いくつもの答えが浮かんでは消える。
任務だと割り切る言葉。
感情なんてないと切り捨てる言葉。
いくらでも思い浮かぶのに、どれも口に出来なかった。
どうしてか。
脳裏に、あの光景ばかりが浮かぶ。
レインの笑っていた顔。
くだらないやり取り。
無防備に隣へ座ってきた姿。
敵だということすら、忘れていた時間。
その記憶が、思考をぐちゃぐちゃに乱していく。
「……俺は」




