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風呂場の侵入者

訓練を終えると、そのまま浴室へ向かった。


浴室は、屋敷の造りにしては少し手狭な造りになっている。


石造りの壁と床はひんやりとしているが、立ち込める湯気のおかげで冷たさはそこまで気にならなかった。


天井は低めで、音が少しだけこもる。

その分、熱も逃げにくいのか、室内全体がじんわりと温まっていた。

薄く白んだ湯気の向こうで、湯が静かに揺れている。


服を脱ぎ捨て、そのまま湯船へ足を入れた。

じわり、と熱が肌へ広がる。


ゆっくり肩まで身を沈めた瞬間、思わず息が漏れた。


「……はぁ」


張り詰めていた緊張の糸がほどけていく感覚に、目を閉じる。

腕をわずかに動かすだけで水面が揺れ、小さな波紋が広がった。


耳に残るのは、水のわずかな揺れと、自分の呼吸だけだった。


(静かだ……)


手のひらで湯をすくい、そのまま肩へとかける。


熱を含んだ湯が肌を滑り落ち、じわりと身体の奥まで温かさが広がっていく。

訓練で張っていた筋肉が、少しずつ緩んでいくのが分かった。


「気持ちいいな……」


小さく呟き、そのまま浴槽の縁へと背を預ける。


湯気の立ち込める静かな空間。

何も考えず、ただぼんやりと湯舟に浸かる時間を堪能していた。


その筈だった。


不意に、ガラリ、と勢いよく扉が開く音が響く。

誰かが入って来るとは思っておらず、肩がびくりと跳ねた。


「ねぇねぇ!」


聞こえてきたのは、聞き覚えのある高い声。

その瞬間、嫌な予感が背筋を駆け抜ける。


(この声はティア!?

 いや待て待て待て!なんでだよ!?)


途端に思考が混乱する。

考えを整理するよりも前に、ぺたぺたと素足の音が近づいてきた。


濡れた床を踏む軽い音が、どんどん近くに来る。


「私も入るー」


「は!?」


思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


「ちょっ、待っ――!」


言い終わるより早く、ばしゃっ、と大きく湯が跳ねた。


反射的に振り返りかける。

が、視界の端に肌色が映った瞬間、慌てて顔を逸らした。


途端に、熱が一気に顔へ集まる。


心臓の音がやけにうるさい。


こちらの混乱なんて気にも留めず、浴室には遠慮のない水音だけが響く。


「ふぅ〜……、あったかーい」


対照的に聞こえてきたのは、満足そうな声だった。

恐る恐る視線を動かせば、ティアは当たり前のように湯船に浸かっている。


「な、な、な……! なんで普通に入ってきてるんだ!?」


声が完全に裏返ってしまう。


「なんで?」


返ってきたのは、きょとんとした声。

本気で意味が分かっていないような響きだった。


「今、俺が入ってるだろうが!?」


慌てて視線を逸らし、そのまま距離を取ろうと身体を引く。


だが、もともと広くない浴室だ。


背を引いた瞬間、すぐに石の縁へ肩がぶつかる。

逃げ場がない。


湯気の熱とは別の意味で、頭がくらくらしてきた。


(近い近い近い近い!)


湯気のせいで視界はややぼやけているが、それが逆に意識を変に刺激してくる。

水面が揺れるたびに、距離の近さを嫌でも感じてしまう。


「そんなに慌てなくてもよくない?」


不思議そうにこちらを見て、ティアが言う。


「よくないだろ!?」

「なんで?」


間髪入れずに返され、思わず言葉に詰まる。


「なんでって……っ……」


言いかけて、口ごもる。

当たり前すぎることなのに、うまく言葉に出来ない。


「……その、普通は……、一緒に入ったりしないだろ……」


やっと絞り出した言葉は、ひどく弱かった。


「なんで?」


「なんでって……いや、だから……っ」


言葉が続かない。

説明しようとすればするほど、余計に意識してしまう。


(落ち着け……落ち着け俺……!)


無理やり呼吸を整えようとして、深く息を吸う。

だが、湯気を吸い込みすぎて危うくむせかけた。


その間にも、ちゃぷん、と小さく水音が鳴る。


ティアが湯の中で体勢を変えたらしい。

わずかに揺れた水面と一緒に、距離感まで近づいた気がした。


「ねぇ」


すぐ近くで声がする。


(近い!思った以上に近い!)


狭い浴室。

立ち込める湯気。

逃げ場のない距離。


意識するなと言う方が無理だ。


「なんでダメなの?」


不思議そうな声で問われる。


本当に分かっていないのだろう。

だからこそ余計にタチが悪い。


「ち、近い!ちょっと離れろ!」


思わず声が上ずってしまう。

慌ててさらに距離を取ろうとするが、もう逃げ場はなかった。


「……だから、普通はだな……っ!」


なんとか説明しようとする。

だが、ちゃぷんとすぐ目の前で水音が響いた。


「……っ!」


反射的に息を呑む。


(来てる来てる来てる!!)


視線は必死に逸らしているのに、気配だけで分かる。

湯気越しに、すぐそこにいる。


熱い。


湯のせいなのか、別の意味なのか、もう自分でも分からなかった。


「ねぇ」


耳元に近い位置で、声が掛けられる。


近い。

近すぎる。


湯気越しでも分かる距離感に、無意識に肩に力が入った。


「そんなに嫌?」


「い、嫌とかそういう問題じゃ――」


言い返そうとして、途中で言葉が止まる。


頭の中がぐちゃぐちゃだった。

何をどう説明すればいいのか、自分でも分からない。


距離感がおかしいとか。

普通はこういうの避けるだろとか。

色々言いたいはずなのに、思考がうまくまとまらない。


「じゃあいいじゃん」


「よくない!!」


反射的に叫ぶ。


その勢いで、思わず振り返りそうになり――


「っ……!」


寸前で慌てて顔を逸らした。


(危な……!今のは絶対ダメなやつだ……!)


心臓がうるさい。

自分でも分かるくらい、バクバクと鳴っている。


「なんでそんなに顔赤いの?」


「っ、赤くなんかない!」


反射的に否定する。

だが、自分でも分かるほどに声が上ずっていた。


説得力なんて欠片もない。


「赤いよ?」


くすり、と小さく笑う気配がした。


「……っ、だから……近いんだって……!」


どうにか絞り出した言葉は、もはや言い訳みたいなものだった。

けれどティアは、やはり納得していないらしい。


「近いとダメなの?」


「ダメだ!」


即答だった。

考えるより先に口から飛び出していた。


「んー……、嫌じゃないなら、別にいいと思ったんだけど」


「いや……、その……」


言葉を探そうとして、途中で詰まる。


嫌、ではない。

ただ、どう反応するのが正しいのか分からないだけだ。


距離感がおかしいのはティアのはずなのに、振り回されているうちに、自分の感覚までもが乱されていく。


常識とか、男女間の距離感とか。

そういう当たり前の線引きが、ぐちゃぐちゃに崩れていく感覚に襲われる。


頭の中がうまく整理できない。


「……レインって、変なの」


ぽつり、とティアが呟いた。


「変ってなんだよ……」


力なく返しながら、顔を逸らしたまま額を押さえる。


もう駄目だ。

色々と限界が近い気がする。


湯気のせいで視界は白くぼやけているのに、隣にいるティアの気配だけはやけにはっきり感じてしまう。


「だって、嫌そうじゃないのに、ずっと慌ててる」


「それは……」


言葉が詰まってしまう。


説明しようとしても、何をどう言えばいいのか分からなかった。


ティアにとっては、本当に深い意味なんてないのだろう。

だからこんなにも無防備で、異常なほどに距離が近い。


悪意も警戒もなく、踏み込んでくる。


それが分かってしまうからこそ、強く突き放すことも出来ないでいた。


「レイン?」


不思議そうな声で名前を呼ばれる。


その直後。


こつん、と軽い感触が肩へ触れた。


「っ!?」


反射的に肩が跳ねる。


どうやらティアがこちらへ寄り掛かったらしい。


「お、おい……!」


「んー?」


「っ……、お前、警戒心とか無いのかよ」


困惑を隠せないまま、問い掛ける。


困惑を隠せないまま問いかけると、ティアは「んー……」と少しだけ考え込む。


そして。

「レイン相手なら、別にいいかなって」

あっさりと、そんなことを言った。


思考が一瞬止まる。


そんなふうに迷いなく言われてしまうと、もう何を返せばいいのか分からなかった。


熱くなった顔を隠すように、湯舟に口元を沈めた。

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