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プロローグ

――これは夢だ。


そう、頭のどこかでは理解していた。

これは現実じゃない。

起きてしまえば、きっと何事もなかったように消えていくはずのもの。


息が、出来ない。


喉を締め付けられるような圧迫感。


「っ……」


声にならない息だけが漏れる。

指で押さえつけられているわけでもないのに、吸おうとすればするほど、苦しくなる。


ただ苦しいだけの空虚な呼吸が、何度も繰り返される。


目の前には、少女が一人。


いつからそこにいたのか、どこから現れたのかも分からない。

気付いた時には、そこにいた。


感情の機微を感じさせない無表情。

まるで人形のように整った顔立ちで、静かに俺を見下ろしている。


一切の色を拒絶するような、純白。

風もないのに、まるで水の中に漂っているみたいに、ゆるやかに揺れている。


血をそのまま映したような、鮮やかな紅い左眼。

その左眼だけが、まっすぐこちらを見ていた。


もう片方の目は、長い前髪に覆われて見えない。


見えないはずなのに。

その奥に、何かが“ある”と分かってしまう。


理屈ではない。

見えているわけでもないのに、直感だけでそう感じていた。


視線を逸らさなければならない。

そう頭では理解しているのに、身体が言うことを聞かない。


「は…、は…」と呼吸が浅く漏れる。


――アレは危険だ、と。


恐怖を抱いていた。

本能が警鐘を鳴らしている。


「来る……な……」


震える唇で、どうにか拒絶の言葉を紡ぐ。


その声は届いていないのか、

あまりにも声が掠れ過ぎて声にすらなっていなかったのか

少女は、止まらない。


ゆっくりと。

静かな足取りでこちらへ歩み寄ってくる。


やがて、少女の手がゆっくりと持ち上がる。

白く細い指先が、躊躇いもなく白い前髪へと触れた。


「やめ、ろ」


反射的に拒絶の言葉を口にする。


その言葉は彼女の耳に届くこともなく、少女は静かに前髪を掻き上げた。


俺は咄嗟に目を逸らそうとした。


だが、それは出来なかった。


視線が縫い止められる。

見えない糸で固定されたかのように、動けない。


露わになった瞳の奥に、“それ”はあった。


花。


黒いユリのような形をした紋様が、瞳の奥で静かに咲いている。


いや、咲いているだけじゃない。


ゆっくりと。

確実に。


花弁が開いていく。


まるで生きているかのように。



身体の奥で、ずっと警鐘は鳴り続けている。


近づくな。

見続けるな、と。


それなのに、恐怖とは別の感情が浮かび上がる。

禍々しい筈のその光景に、思考が鈍る。


――綺麗だ、と。


そう思ってしまった。


理解できない。

こんなものを前にして、そんな感想が出てくる理由が分からない。


黒い花弁は、開くほどに深さを増していく。

光を吸い込むような黒なのに、目が奪われた。


次の瞬間。


喉に、冷たいものが触れた。


思わずびくりと身体が震える。


気付けば、息がかかるほどの距離に、少女が目の前にいた。

いつ近付かれたのか、まるで分からない。


細い指が、俺の首に絡みついている。


逃げなければならない。


分かっているのに、身体が動かない。

指一本すら、思うように動かせない。


まるで“動くことすら許されていない”かのように。


少女の指に、ゆっくりと力が込められていく。


喉が圧迫される。


息が、詰まる。


視界が歪む。

輪郭が崩れ、世界が溶けていく。


それでも――。


視線だけは、逸らせなかった。


瞳の奥で、黒い花が咲き続けている。

開いて、広がって、侵食するように。


それが視界いっぱいに広がっていく。


「――どう、して」


かろうじて、声が漏れる。


自分でも何を問うているのか分からない。

ただ、言葉にせずにはいられなかった。


少女は答えない。


ただ静かに、こちらを見つめている。


まるで。

壊れていく過程を観察しているかのように。


あるいは、何かが完成するのを待っているかのように。


首を絞める力が、さらに強まる。


喉が潰れる。

空気が入ってこない。


苦しい。


意識が暗く沈んでいく。

奈落の底へと引きずり込まれるように。


その最中で、ふと思う。


どうして俺はこんなにも。

目の前の彼女に惹かれているのだろうか。


「綺麗……」


そんな言葉を、零しているのか。


自分でも理解できない。

だが確かに、間違いなく本心からの呟きだった。

心の中の言葉が、自然と口から漏れ出していた。


俺の呟きに、少女の指が、ぴたりと止まる。


ほんのわずかな沈黙。


それまで機械のように無機質だった動きが、初めて動揺を見せた。


「……あなた、は」


かすかな声が、耳元で囁かれる。


吐息が触れるほど近くで。


その声はほんの少しだけ、震えていた気がした。


まるで何かを確かめるように。

あるいは、なにかを思い出そうとするかのように。


その言葉だけが、暗い闇に飲み込まれていった。

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