第7話:海南神社の神と500円の使い道(前編)~インフレと屋台の攻防戦~
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『冬の陣』第7話は、今回のテーマは「5歳児のお財布事情とインフレ」前編です。
お年玉攻防戦で死守した500円玉を握りしめ、理太郎は三浦半島の総鎮守「海南神社」へ向かいます。
しかし、そこには格差社会という現実が待っていました。
1.親戚宴会からの戦略的撤退
1月1日、午後2時。
三崎港に近い我が家「本田要塞」のリビングは、現在、アルコール濃度が致死量に近い空間と化していた。
「おい晃ァ! もっと飲め! 昔、お前が防波堤から落ちた時の話、もう一回聞かせろやァ!」
顔を茹でダコのように赤くした叔父(母方の親戚・漁師)が、一升瓶を片手に絡んでいる。
その横では、叔母たちが「健康診断の結果」という極めて現実的かつデリケートな話題でマウント合戦を繰り広げ、足元では従兄弟の子供たちが奇声を上げて走り回っていた。
地獄だ。
孤高を愛する男にとって、この親戚の集まり(新年会)ほど精神力を削られるイベントはない。
俺は部屋の隅で体育座りをし、愛機『メカ・ダイナソー』の図鑑を盾にして、気配を消していた。
ふと、視界の端で黒い影が動いた。
「溶接ゴリラ」こと、父・晃だ。
奴は無表情のまま、叔父の酌を巧みに躱し、空になった徳利を片付けるフリをして、廊下へとスライド移動した。その動きは、戦場を生き抜くベテラン兵士のように音がない。
目が合った。
ゴリラが、顎でクイッと玄関を指した。
(……来い)
無言の合図。
俺は頷き、トイレに行くフリをして、戦場からの離脱を図った。
廊下に出た瞬間、俺たちはアイコンタクトを交わし、音速でコートを羽織り、靴を履いた。
「……逃げるのか、親父殿」
俺は小声で尋ねた。
「……初詣だ」
奴は短く答え、コートのポケットをポンと叩いた。
そこには、宴会の魔の手から避難させた『久保田の大吟醸(小瓶)』が、しっかりと確保されているのを俺は見逃さなかった。抜け目ないな。
ふと、リビングの方を振り返る。
少し開いた襖の隙間から、絶対権力者(母上)と目が合った。
彼女は今まさに、酔っ払った叔父に「花代ちゃん、もう一杯!」と絡まれている最中だ。
この地獄に彼女一人を残して敵前逃亡することに、俺の良心が微かに痛んだ。
だが、母上は俺たちに気づくと、怒るでもなく、止めるでもなく、ただ静かに片目を瞑ってみせた。
『ここは私に任せて、行ってきな』
その瞳は、夫の息抜きを許す理解者としての慈愛と、この程度の修羅場などモノともしない戦士の強さに満ちていた。
……すまない、母上。この借りは、出世払いで返させてもらう。
「行くぞ」
カラカラと音を立てる昔ながらの引き戸を開けると、冷たい三浦の潮風が吹き込んできた。
俺たちは脱兎のごとく、カオスな宴会場から脱出した。
2.神域への進軍
外は快晴だった。
元旦の三崎下町商店街は、シャッターを下ろしている店も多いが、初詣に向かう人々の流れで活気づいている。
普段は魚の匂いが強いこの街も、今日ばかりはどこか清々しい、新しい年の匂いがした。
俺は親父殿の大きな手を握り、歩幅を合わせて歩いた。
奴の手は分厚く、硬く、そして温かい。溶接の火花と戦い続けた職人の手だ。
俺のポケットには、一枚の硬貨が入っている。
500円玉。
これは、昨夜のお年玉回収の際、親父殿が「理太郎の分だ」と言って、母上(絶対権力者)の徴収から死守してくれた、俺の全財産だ。
たかが500円、されど500円。
5歳児にとって、これは国家予算にも匹敵する巨額の富である。
無駄遣いは許されない。最も効率的で、満足度(ROI)の高い投資先を見極めなければならない。
商店街を抜けると、朱色の鳥居が見えてきた。
三浦半島の総鎮守、『海南神社』。
源頼朝公も参拝したという由緒正しき神社であり、この地域の精神的支柱だ。
境内からは、楽しげな笛や太鼓の音と、人々の喧騒が聞こえてくる。
そして何より、俺の嗅覚を刺激する、あの抗いがたい香り。
焦げた醤油。ソースの甘辛い匂い。バターの濃厚な香り。
ここは神域であると同時に、欲望渦巻く巨大な市場なのだ。
3.屋台という名の経済戦争
鳥居をくぐると、そこは戦場だった。
参道の両脇に、色とりどりの屋台がひしめき合っている。
焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、りんご飴、チョコバナナ……。
極彩色の看板と、立ち上る湯気が、俺の視覚と嗅覚を猛烈に攻撃してくる。
俺はゴクリと唾を飲み込み、まずは市場調査を開始した。
狙うは、500円以内で購入可能、かつ腹を満たし、さらに「祭り気分」を最大限に味わえる至高の一品だ。
まずは定番、焼きそば。
鉄板の上で踊る麺とキャベツ。ソースの焼ける音が聴覚を刺激する。
俺は値札を確認した。
『大盛り焼きそば 600円』
「……なっ!?」
俺は絶句した。
600円だと? 予算オーバーだ。
去年のデータでは500円だったはずだ。まさか、小麦価格の高騰と円安の影響が、この神聖な境内にも及んでいるというのか。
次だ。たこ焼き。
丸いフォルム。揺れる鰹節。
『ジャンボたこ焼き(6個入り) 600円』
……高い。高すぎる。
1個100円の計算だ。原価率を考えれば暴利もいいところだ。
俺は震える手でポケットの500円玉を握りしめた。
この硬貨一枚では、主力級の粉モン(メインディッシュ)には手が届かないのか。これがスタグフレーションか。日本の経済はどうなっているんだ。
ふと横を見ると、親父殿が無言で「じゃがバター」の屋台を見つめていた。
湯気を立てる巨大なジャガイモに、バターがとろりと溶けている。
「……美味そうだな」
親父殿がボソリと言った。
その目は、完全に獲物を狙うゴリラの目だ。
だが、俺は知っている。親父殿の財布の紐は、母上によって厳重に管理されている。彼の手持ちもまた、俺と同じくワンコイン(お小遣い)程度のはずだ。
「……我慢だ、親父殿。あのじゃがバターは500円。買えばそれで終了だ。貴殿には『お賽銭』という重要な支出が残っているはずだ」
「……チッ」
親父殿は舌打ちをし、未練がましくジャガイモを一瞥してから歩き出した。
親子揃って、世知辛い初詣だ。
4.宿敵たちの初詣
「おーい! 理太郎じゃねぇか!」
俺たちの経済的苦境を嘲笑うかのような、底抜けに明るい声が聞こえてきた。
人混みを割って現れたのは、ダウンジャケットの前を開け放ち、右手にチョコバナナ、左手に食べかけのフランクフルトを握りしめた巨漢――もとい、5歳児だった。
本田 鉄平。
同じ幼稚園「しおかぜ組」に所属する、俺の永遠のライバルにして筋肉至上主義者だ。
その口の周りはチョコレートとケチャップで派手に汚れている。
「よう! あけおめ! お前もなんか食えよ! ここの焼きそば、肉がデカくて最高だぜ!」
鉄平が得意げに笑う。そのポケットはジャラジャラと小銭で重そうだ。
さらに、彼の母親が後ろから「鉄平ちゃん、落とさないでよー」と呑気に声をかけている。
……なんと。
どうやら彼の家では「お年玉は全額本人支給」かつ「使い道は自由」という、極めて放任主義かつ羨ましい経済政策が採られているらしい。
「……鉄平氏か。貴殿の糖分および塩分の摂取量は、すでにWHOの推奨値を大幅に超過していると思われるが」
「うるせー! 祭りは食ったもん勝ちなんだよ! ほら見ろ、この『当たり』付きチョコバナナ! もう一本もらえるんだぜ!」
単純だ。だが、その圧倒的な「消費の力」が、今は少し眩しい。
金に糸目をつけず、本能のままに祭りを享受する。それも一つの正解なのかもしれない。
すると、もう一人、群衆の熱気を冷ますような、澄んだ声が降ってきた。
「……あさましいわね。年明け早々、食欲と物欲に支配されるなんて。霊長類としての進化を疑うわ」
人混みの中から優雅に現れたのは、鮮やかな手毬柄の着物に身を包み、白いショールを巻いた少女だった。
田中 泉美。
「論理の怪物」の異名を持つ、しおかぜ組の頭脳派だ。
普段は機能性を重視したパンツルックが多い彼女だが、今日は完璧な晴れ着スタイル。髪も日本髪風に結い上げられ、普段の3割増し、いや5割増しで「深窓のお嬢様オーラ」を放っている。
「……田中氏か。あけましておめでとう。その装いは、初詣における『ビジュアル戦略』としては完璧だな」
俺が率直に評価すると、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「当然よ。TPO(時と場所と場合)をわきまえるのが淑女の嗜みだもの。……それに、お祖母様がどうしても着ろと言うから、仕方なくね」
口ではそう言いつつも、その頬は少し紅潮している。まんざらでもないらしい。
だが、俺は見逃さなかった。
その「淑女」の手には、真っ赤に輝く「りんご飴」がしっかりと握られていることを。しかも、すでに半分ほど齧られている。
「……田中氏。そのりんご飴は、TPO的にどうなのだ?」
「……これは『縁起物』よ。赤は魔除けの色。カロリー摂取が目的ではないわ」
相変わらずの減らず口だ。
泉美は視線を俺の手元に向けた。
「で? 本田氏(俺のことだ)は何を悩んでいるの? その眉間の皺と、握りしめられたポケットの手。……さては、資金繰り(お年玉)に失敗して、インフレの波に飲まれているのね」
図星だ。彼女の洞察力は、相変わらず鋭い。
「……否定はしない。俺の手元流動資産は500円。これに対し、市場価格が高騰しすぎている。俺は今、スタグフレーションの被害者だ」
「500円? プッ、少ねー! ガチャ一回分じゃん!」
鉄平が遠慮なく笑う。殺意が湧く。
だが、泉美は真剣な顔で俺のポケットを見つめ、少し考え込んだ。
「……ワンコイン。確かに選択肢は限られるわね。焼きそばは無理。たこ焼きも無理。……でも、だからこそ『投資』のセンスが問われるわ」
「投資?」
「そう。一瞬で消える食料に使うか、それとも形に残り、未来への指針となる『運命』を買うか。……賢い投資家なら、どちらを選ぶかしら?」
運命。
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。俺は目先の空腹や欲望に惑わされていた。
500円という限られたリソースを、最も有効に活用する方法。それは、単なる消費ではなく、未来への投資であるべきだ。
5.マグロみくじの決戦
俺たちの視線の先に、一つの屋台……いや、社務所の特設コーナーがあった。
人だかりができている。
『三崎名物 マグロみくじ』。
それは、三崎ならではのユニークなおみくじだ。
木箱の中に、大量の「張り子で作られたマグロ」が入っている。
参拝者は、専用の小さな釣り竿を使い、そのマグロを一本釣りするのだ。マグロの腹の中におみくじが入っている仕組みである。
初穂料、300円。
「……これだ」
俺は確信した。
たこ焼きは食べれば消える。だが、このマグロみくじなら、張り子のマグロは記念品として手元に残るし、今年の運勢という重要な「情報」も手に入る。
さらに、釣り上げるという「エンターテインメント性」まで付随している。
300円なら、残り200円で温かい飲み物も買える。
これこそが、500円の使い道として、最もコストパフォーマンスが高い最適解だ。
「俺もやるぜ! 大吉釣ってやる! でっかいやつ釣るぞ!」
鉄平がフランクフルトを飲み込みながら割り込んできた。
「私も、今年の運勢パラメーターを確認しておく必要があるわね。……統計学的に、大吉の確率は低いはずだけど、私の『引き』を試してみるわ」
泉美も財布から小銭を取り出す。
こうして、しおかぜ組のトップ3による「新春・初釣り大会」が勃発した。
後ろでは、親父殿と鉄平の母、泉美の母が、苦笑しながら見守っている。
特に溶接ゴリラは、腕組みをして無言だが、その目は「しっかり狙え。本マグロ級を狙え」と語っていた。三崎の血が騒いでいるのか。
「いくぞ……!」
俺たちは300円を納め、小さな釣り竿を手に取った。
木箱の中には、青いマグロ、赤いマグロ、金色のマグロが泳ぐようにひしめいている。
「うおおお! 金だ! 金色のやつだ!」
鉄平は迷いなく、派手な金色のマグロに狙いを定めた。気合だけで竿を振り回し、強引に針を引っ掛ける。
ガツッ!
「釣れたぁぁ! 見たかオラァ!」
繊細さのかけらもない一本釣りだ。
「……風はないわね。竿のしなり係数は……フックの角度は……」
泉美はブツブツと計算し、木箱の端にある、塗装が綺麗な赤いマグロに狙いを定めた。スマートに竿を操り、静かに釣り上げる。
「……計算通りね」
実に優雅だ。
そして俺は。
俺は、木箱の中央、他のマグロたちの下から、俺に釣って欲しそうにこちらをじっと見つめている一匹の青いマグロと目が合った。
派手さはない。だが、その目つきは鋭く、尾びれの反り具合に野生の気骨を感じる。
直感だ。論理ではない。俺の孤高の魂が、こいつだと叫んでいる。
(……お前か。俺の相棒は)
俺は深呼吸をし、竿を垂らした。
針先が、マグロの背中の紐に近づく。
手が震える。これはただの遊びではない。今年一年の運命を決める、真剣勝負だ。
親父殿の熱視線を背中に感じる。
今だ!
ヒュッ!
手首のスナップを利かせ、俺はそのマグロを空中に跳ね上げた。
美しい放物線を描き、青いマグロが俺の手元に収まる。
「……確保した」
俺たちは三者三様、それぞれのマグロを手にした。
マグロの腹には、運命を記した小さな紙が詰め込まれている。
果たして、神が下した審判は――。
「「「いざ、開封!」」」
俺たちは同時に、おみくじを開いた。
(後編へ続く)
最後までお読みいただきありがとうございました!
『冬の陣』第7話でした。
500円で屋台はキツいですよね……。
今時の夜店は最低でも1000円持ってないと、子供達にも厳しい世界のようです。
お小遣いをあげる大人たちも、このインフレ圧力の強さには頭を抱え、厳しい財布事情が垣間見えます。
ちなみにマグロみくじは実在します。三崎にお越しの際はぜひ。
さて、いよいよおみくじの結果発表です。
そして次回、境内に響く不気味な笛の音……。
最強の捕食者「獅子舞」の登場に、理太郎はどう立ち向かうのか?
そして父の背中が語るものとは?
次回、第8話(後編)をもって、短期集中連載『冬の陣』は最終回となります!
1月3日AM7時更新予定です!
最後まで、理太郎たちの冬休みにお付き合いいただけたら幸いです!
「面白かった!」「続きが気になる!」「最終回楽しみ」と思っていただけましたら、
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本編「俺の親父の嫁」では、
・砂場での宿敵との戦い
・同級生との恋の予感ならぬ悪寒
・理太郎が父の職場(造船所)に潜入して見た「男の背中」
・台風の夜、家を守るために戦う「溶接ゴリラ」の勇姿、
・理太郎の迷子、他
笑って泣けるエピソードを多数収録しています。
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