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藤堂彩子の結晶成長学

第一章

 その研究室のドアを開けた瞬間、私は足を止めた。

 光が――散らばっていた。

 大きな窓から射し込む午前の陽が、机の上に並ぶ結晶の中を通り抜けて、無数のプリズムを作っていた。無機質な空間のはずなのに、ガラスと鉱物がそれぞれ勝手に屈折を起こし、壁にまで虹色の斑点を浮かび上がらせている。

 私は、少し笑っていた。無意識に。

「……理想の部屋、見つけた。」


 修士課程に進むにあたって、私が選んだのは「無機化学の構造解析」の研究室。

 目的はただひとつ、結晶に囲まれた生活だった。

 これ以上に私にとって贅沢な環境があるだろうか。人工生成された塩の六角結晶。試料としてカットされたスピネル構造体。粉砕されたナノ粒子が静かに沈むガラス瓶。すべてが美しい。

 思い描いたとおりの研究生活。誰にも邪魔されず、ただひたすらに結晶格子と向き合う時間。

 きっとこれからの日々は、静かで、完璧に、私の欲望を満たしてくれる――

 と思っていたのに。

「とりあえず、今夜飲み行くよね!」

「お前、マジで手ぇ早いな、まだ自己紹介もしてないぞ?」

 目の前の男たちの声がうるさい。なんか明るい。なんか馴れ馴れしい。なんか慣れてる。なにこれ。

 ……誤算だった。


 教授は高名な人物で、研究室には全国から学生が集まる。私も他大から来たので、ご多分に漏れず、そのうちの一人だが。

 そして、頭は切れるけど、なんか軽いタイプが多い。どうやら、「女が多くて楽しい」みたいなレビューを見てここを選んだらしい。理解不能。

 まあ、教授は教授で、「この瓶の底を見てごらん、酒石酸の結晶が美しくて…」とワインを小物に、意外に軽い一面を見せるので、類は友を呼ぶというやつか。

 私は冷めた目で辺りを見渡す。笑顔の多い男。距離が近い男。こっちの目を見すぎる男。あれも無理。これも違う。どうせ嘘の笑顔ばっかり。

 ……と、そこで目が止まった。


 一人、完全に無視を決め込んでいる男がいた。目を合わせない。誰にも話しかけない。むしろ自己紹介の輪からも外れて、白衣のまま早々に実験装置の調整を始めている。

 黒髪、長め。少し猫背の長身。眼鏡はしていないが、二重で大きい目が絶えず次の作業を追っている。鼻梁は細く、口は大きそうだが、きっちり閉じられていることで、全体のバランスは取れている。とにかく喋っていないせいで、存在感が逆に際立つ。


 ――なにあれ。童貞臭い。

 思わず、声が漏れそうになる。

 その無関心さ。喋らなさ。やたら真剣な顔。誰とも打ち解けようとしない態度。周囲の空気を読まない冷たさ。ぜんぶ私の「推し」の条件を完璧に満たしている。寡黙な理系男子。もうそれだけで特別。

 彼がちょっと器具に手間取って、微かに眉をひそめた。シャープな瞳が際立つ。その顔を見た瞬間、私は喉の奥がひくっと跳ねた。


 ――怒った顔、いい……。


 これだけで、来てよかったと思える。自分が変なのはわかってる。でも、この感覚だけは正しい。


 私は今、明確に堕ちた。


 その日から、研究室の生活は「結晶」と「彼」の二本柱になった。


第二章

 半年が経っていた。

 彼――寡黙な童貞くんは、相変わらず誰とも親しくなっていない。いや、むしろ自ら壁を作って、近づくものすべてを拒んでいた。女子にも、男子にも、まったく興味を示さない。群れない、話さない、笑わない。黙々とX線回折データを取り、論文を読み、装置の不調にため息をつく。

 聞けば、学部生のころからこの研究室には居て、初めから何も変わっていないそうだ。

 そして、私にも何もしない。絶え間なく視線を投げかけているんだけど。しかも、自分で言うのもなんだが、芸能人並みに可愛い顔から放たれる、結晶並みの輝きがある私の視線なのに。

 無視、どころではない。たまに目が合っても、彼はすぐに視線をそらす。気まずそうにうつむき、距離をとる。話しかけても、必要最小限の単語で会話を終わらせてくる。


 ……嫌われている。

 その可能性が高い。普通なら、それで落ち込むのだろうけれど――私は逆だった。

「たまらない。」

 私の心は、どこまでも静かに、でも確実に高鳴っていた。

 嫌われている。その明確な線引き。拒絶の意思。距離を保つあの冷たさ。

 どうしてあんなに、人間を避けて生きていられるのか。あの孤独を、誰にも肯定されずに抱えている姿が、痛いほどに尊い。

 自分を安売りしない男。自分の世界を、他人に侵されない男。

 そんな彼と、唯一の接点を、私は発見した。


 一科目だけ。彼と私が偶然、履修している同じ講義があった。週に一度、月曜午後、講義棟の古い小教室。彼はいつも、教室の隅の二列目の窓際に座っている。

 その日、私はその講義に、教科書を持たずに行った。

 もちろん、わざとだ。古典的な方法ではあるが、計画的な忘れ物。私は彼の隣に、当然のように並んで座る。

「ねえ、今日教科書忘れちゃって……見せてもらっていい?」

 彼は、明らかに困った顔をした。まぶたが震える。ペンを持っていた指が止まる。表情は焦りと戸惑いに染まりながらも、私から顔をそらしたまま、小さく頷いた。

「……うん、いいよ。」

 その声のかすれ具合。口数の少なさ。まるで水槽の中で話しているみたいに、ぼんやりとした声。最高。

 私は、彼の開いた教科書に少しだけ体を寄せる。わざと紙の端をなぞるように指を滑らせると、彼の手の甲と、私の小指が一瞬だけ触れた。

 その瞬間、彼の肩がびくりと震えた。心臓が跳ねたように見えた。おそらく、気のせいではない。

 私は顔を上げて、あえて彼の表情を見ずに、教科書を読み続けた。

 接触成功。

 研究と同じ。観察して、試して、反応を見る。そして記録する。

 彼の「防御反応」を見ているだけで、私はひどく満たされていった。


第三章

 講義で隣に座ってから、彼との距離はほんの少しだけ、縮まった。

 とはいえ、物理的な意味であって、精神的なものではない。むしろ、彼のガードの硬さは日に日に高まっているようにすら思えた。私が話しかけるたび、彼は少しだけ身体を引く。私が笑うと、彼は目を伏せる。

 わかりやすい拒絶。でも、脈はある。


 彼の態度は明らかに過敏すぎる。興味がなければ、そんなに動揺しない。私の存在を無視しておけばいいだけだ。だが、彼はそれができていない。


 私が他の院生と話していると、今度は逆に、彼は睨むようにこちらを見てくる。私もわざと彼以外と話して試す。

 気になって仕方ない。彼の警戒心。その理由。その奥にある、たぶん彼自身も気づいていない「欲望」。そこをこじ開けてみたい。


 まずはエサを撒いて、落として、最後はこちらの自由にして楽しむのだ。


 ある日、研究室で何気ない雑談のふりをして、彼に趣味を尋ねた。

「好きなものとかある? 研究以外で」

 彼は少し間を置いてから、ぽつりと答えた。

「……革鞄。」

「へえ、革鞄? 意外。」

 思わず声が弾んだ。地味で陰のある彼が、まさかそんな渋い趣味を持っているなんて。完璧。想定外のピースがはまる音がした。

 

 ――数日後

 私は計画を立てた。ある日の夕方、彼に声をかける。

「ねえ、革鞄、好きなんだよね? よかったら、一緒に見に行かない? 渋谷にすごくいい工房があるの。」

 明るく、自然に、押しすぎない距離感で。

 彼は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに視線を逸らす。

「いや……そういうのは……ちょっと……予定が……」

 噛んだ。顔が赤い。なのに、断ってくる。

 こじらせてるなあ。

 これまでで一番明確な拒否だった。でも、なんだろう……この断り方、微妙にヘタ。

 押したらいけそうな気配だけが残る。


 私は諦めなかった。革鞄という共通項は手に入れた。会話は続けられる。だが、問題は別にある。

 彼は、まったく私を誘ってこない。

 何度、二人きりの空間を作っても、何度ヒントを出しても、彼のガードは鉄壁のまま。

 こじらせすぎ。これはもう一種の病気。

 でも、その病的なまでの慎重さが、私にはたまらなく魅力的だった。


第四章

 このままでは、何も起こらない。

 私は、ついにそう判断した。半年以上を費やしても、彼は一度たりとも私を食事に誘わなかった。唯一進んだのは、講義の帰り道で一緒に歩いたことくらい。それすらも私が強引につきまとった結果に過ぎなかった。こちらから話しかけない限り、彼は私の存在を、空気のように扱ってくる。

 ――童貞、ここに極まれり。

 拒否の仕方が鈍い。近づいても逃げないが、決して寄ってこない。その微妙な温度が、どこか病的で愛おしい。

 だから、もうこっちから行くしかない。告白してやろうじゃないか。

 

 ある日の放課後、人気のない研究室の脇、光が斜めに差し込む静かな廊下。私は彼の帰り際を狙って立っていた。彼が出てくる。目が合う。逃げようとする気配。

 でも私は、先手を取った。

「ねえ、話があるんだけど」

 彼は一瞬で警戒モードに入った。目線が落ち、肩が強張る。

「……なに?」

 心臓が高鳴る。けれど、顔には出さない。呼吸を整える。研究会のプレゼンと同じ。言葉は端的に、感情は抑えて、理論的に。

「あなたのことが、好き。付き合ってみたい」

 沈黙。

 5秒、10秒、20秒。

 彼は、何も言わなかった。

 いや、言葉どころか、逃げた。

 逃げるように、頭を下げて、「…ごめん、よく聞こえなかった」とだけ呟いて去って行った。

 

「は?」

 私は廊下に取り残された。すぐに笑いが込み上げた。

「スルーかよ。告白、スルーて。逃げるとか、漫画か?」

 でも、怒りよりも、面白さの方が勝った。これほどまでに、感情の表現が下手な人間がいるなんて。拒絶が真剣すぎて、逆に本気を感じた。

 逃げたなら、追えばいい。リベンジする。それだけだ。

 

 翌週、私は再び彼に近づいた。今度は昼休み。人が少ない研究棟の中庭。空気が柔らかくて、沈黙しても不自然にならない時間帯。

「ねえ、この間の返事、もう一回ちゃんと聞きたい。

 たまに横に並ぶだけじゃダメ……正式に、付き合ってください」

 彼は一度、大きく瞬きをした。逃げない。たぶん、もう逃げきれないと悟ったのだろう。

「僕で、いいの……?」

「いいとか、悪いとかじゃない。好きって言ってるの。だから、試してみたいの」

「博士行くから、すぐ離れ離れになるけど…」

「3年なんて、長い人生であっという間だよ。待っててあげるから、あなたも絶対、待っててね。」

「はい…今まで、ごめんね…僕も君が気になって仕方なかったんだ…」

 彼は、目を伏せたまま、小さく頷いた。

 成功。

 このときの達成感は、告白が通じたからではない。

 あれだけガードが硬かった彼を、自分の手で開かせたという事実。

 その歪な成功が、私の自尊心を甘く撫でた。


 でも、私の中には最初から、決して本気にはならないというルールがあった。彼はまだ学生を続けるという。将来性は未知数。経済力も微妙そう。というより貧しい部類か。

 色々やりたいことがある私には、大きなおもちゃの管理に時間も金も取られるわけにはいかないのだ。


 ただ、キープにはちょうどいい。恋人というラベルがあれば、観察も支配も、より簡単になる。

 そして何より――

 怒った顔を、もっと近くで見られる。


第五章

「なんで手、動かさないの?」

 彼の声が、静かな研究室に響いた。今までで一番大きな声だった。

 私は、その瞬間、内心で絶頂しかけていた。

 

 あれは冬の実験週間、私がわざとミスを連発していた頃だった。

 高温加熱処理の段取り。装置の初期化。記録データのバックアップ。すべてにおいて、私は「手際が悪いふり」をしていた。

 彼は、黙ってそれを見ていた。

 最初の一週間は、無言でカバーしてくれた。静かに、でも確実に、彼は私のミスを修正していた。

 でも、その翌週から、何かが変わった。

 

「……やってみようとは思わないの?」

 彼が、珍しくこちらをじっと見た。眉をひそめていた。

「……思ってるけど、うまくできないの」

 私はわざと、少しだけ寂しそうに答えた。罪悪感を誘うトーンで。

 でも彼は、いつものようには引き下がらなかった。

「だったら、手を動かして。全部人任せにしてるように見える」

 その声に、感情が混ざっていた。イラつき。苛立ち。そして――怒り。

 

 私は、その顔を見つめた。

 目元に深く入ったシワ。軽く噛んだ下唇。震える指。暖房はろくに効いてないのに反して、彼の体温は高く、顔は赤くなっているのが、見てわかる。

 完全に、怒ってる。

 その顔が、最高だった。

 私の中の何かが跳ねた。脳が、喜んでいた。

「……怒ってるの?」

「怒ってるよ」

「そっか。うれしい」

 彼は、一瞬だけ目を丸くしてから、無言でこちらから目を逸らした。意味が分からない、という表情。

 私にとって、それこそが最高のリアクションだった。

 

 その日以降、私は彼の“怒りスイッチ”を意識的に探るようになった。ちょっとだけ作業を遅らせる。返事を濁す。装置のリセットを彼に任せる。

 怒らせる方法を研究していた。


 怒ったときの彼の顔は、人工結晶のように美しかった。

 硬質で、透明で、ひび割れそうなほど脆い。

 

 だが、私は一つだけ見落としていた。

 彼は、本気で傷ついていた。


第六章

 その夜、私は地獄を見た。

 研究室主催の歓迎飲み会。私たちも修士2年になったのだ。気乗りしなかったが、彼が参加すると聞いて、出席を決めた。

 私の中には、ちょっとした期待があった。

 お酒が入っても、彼は無口なままだろう。会話に入れず、少し困ったような顔で、グラスを指でいじるだけ。そんな姿を、隣でじっくり眺める夜。最高の観察タイムになるはずだった。

 ……なのに。

 

 彼は、その日ずっとにこにこしていた。

 誰かに話しかけられれば、うっすらと微笑む。乾杯のときには、グラスをしっかり掲げていた。後輩の男子と話すとき、声にすら少し弾みがあった。年下には比較的楽に話せるようだった。

 私は、席の隅で氷のように固まっていた。

「……誰、あれ」

 その表情は、私の知っている彼ではなかった。

 私は、ずっと見ていた。彼が誰かと笑って会話するたびに、心の奥がギリギリと軋んだ。

 あの眉の動き、口角の緩め方、タイミングの良すぎる相槌。

 それは、「演技」と呼べるほど器用でもなく、「素」でもない。中途半端な社会的適応の産物。

 多少飲み過ぎているきらいはあるが、どちらにしろ、性根はあんなもんなのか。

 そして私にとってそれは、完全なる裏切りだった。

 寡黙で、孤立していて、怒りっぽくて、誰にも好かれていない存在。

 その“彼”に惚れていたのに。

 

 飲み会が終わったあと、私はすぐに、スマホを開いた。

 SNSに、「……」だけのポストを打った。

 短い、怒りのメッセージ。文にならない、文にできない、不快感の表明。

 たったそれだけなのに、すごくスッキリした。

 でも、本当は、ものすごく別れたかった。

 

 翌朝、彼は明らかに変わっていた。

 あの飲み会の「笑顔の彼」は跡形もなかった。研究室に現れた彼は、暗い顔をして、目の下に新しいクマを宿していた。どうやらあのメッセージの意図は伝わっていたようだ。

 私は、それを見た瞬間に、足元の怒りがスッと引いていくのを感じた。

 あ、戻ってる。

 彼の顔には、生気がなかった。喋らない。誰とも目を合わせない。資料を持つ手が震えていた。

 この顔だ。この表情だ。

 私の“推し”は、ちゃんとここにいた。そして、ほかの何でもなく、私のコントロール下だ。

 私は、急速に心を冷静に戻した。昨日の苛立ちが、氷のように溶けていく。

 彼が、弱っているなら別れられない。

 だってその表情は、私が一番好きな“顔”だから。


第七章

 彼は、ぜんっぜんやってこなかった。


 付き合って、もう三ヵ月。研究の合間に二人きりになる時間も作った。帰り道にさりげなく寄り道もしたし、手をつないでも抵抗しなかった。研究棟の屋上に誘って一緒に夜景も見た。

 その上、坂道探訪という更なる共通の趣味も見つかった。

 更に更に、私はセミロング気味だった髪型を、彼が好みそうな前下がりボブに作り変えた。彼が、隣の研究室のボブの技官さん(ちなみに既婚者)と話すときは度を越して硬い表情になることに気づいたのだ。

 それなのに、彼から何も起こしてこない。


「……もう、エサをやるしかないんだけど?」

 私はある日、帰り道の坂の途中で、ぽつりとつぶやいた。スマホを眺め、そして仕舞い、彼の横をぴったり歩く。照明の影が長く伸びている。

 彼は、私の言葉を聞いていないふりをしていた。でも、指が少しだけ震えていた。

 手は恋人繋ぎ。身体を寄せても自然な構図。立ち止まれば、目が合う距離。そういう状況を私は何度も作った。

 なのに、彼は何一つ仕掛けてこない。

 

 私はついに、少しあざとい技術を投入することにした。

 その日、研究室の倉庫整理を手伝うフリをして、白衣の下のインナーを一枚減らした。屈んだとき、腕のあたりからほんの少し胸元が見えるようにした。

 地味なアプローチ。でも彼には効くはずだと思っていた。

 彼は、気づいた。

 ちらりと目をやった瞬間、すぐに逸らした。顔が赤くなっていた。しどろもどろになって、ペンのキャップのはめ方が分からなくなっているのが可笑しかった。

 でも、それだけ。

 なにもしてこない。なにも言わない。ただ、困っている。明らかに戸惑っている。

 

「……かわいいなあ、ほんと」

 私は心の中でつぶやいた。

 これはもう、完全に逆効果。

 彼の中の“拒否感”が反応している。でも、その反応こそ、私にとっては理想だった。

 攻めても、引かれても、全部こちらの得。

 あざとさが通じないというのは、一般的には敗北だ。普通なら恥ずかしさや無力感を覚えるかもしれない。

 でも私は、彼のその“うまくいかなさ”を愛していた。拒否して、うろたえて、表情がくしゃくしゃになるたびに、彼という人間の輪郭がくっきり見えてくる気がした。

 

 その日の帰り、私は彼の顔を見て確信した。

 彼は、疲れている。心から疲れてる。顔が引きつってる。目が死んでる。

 でもそれがまた、よかった。

 追い詰められて弱っていく様子を、私は心の底から、静かに愛していた。いつかは折れる感触も得た。

 

「ねえ、今晩は寄り道しよっか」

 そう言っても、彼は「ちょっと用事があって」と断った。

 でもその言葉には、明確な嘘の気配があった。

 その嘘も、とっても愛しい。


第八章

 ある晩、すべてのタイミングが重なった。

 いつもの講義。私は例によって教科書を忘れ、それを理由に席を隣にした。レポート課題を一緒にやろうと持ちかけ、図書館に残った。

 寄り添う二つの影。


 彼の鞄に、さりげなく革製のキーホルダーを付けて「これ好きでしょ」と言ったら、珍しく彼はうれしそうだった。

 私は、そのとき確信した。今なら、いける。思いっきり上半身を密着させた。まるで盛った雌猫がもじもじするかのような態度を見せつけた。

 

「……今日、泊まってく?」

 その言葉を出したのは、彼の方だった。

 一瞬、意識が空白になった。信じられなかった。

 でも顔には出さなかった。少し首を傾げて、手のひらを愛撫しながら、「え? なんで?」と返した。

 彼は、小さな声で言った。

「もう、君がもう…。今夜は…一緒にいよう…。」

 私は頷いた。勝った。

 

 その夜の彼は、いつもより言葉が多かった。

「この間の論文、面白かったね」

「高校のときは化学と物理は得意だったけど、数学は苦手だった」(どうでもいいが、この口ぶりからすると、幾何は私のほうが得意そうだな)

「子供の頃、岩石図鑑を毎日見てた」

 彼の口から出てくる断片の一つひとつが、人間味を帯びていて、私には少しずつ退屈だった。でも、それでいいと思っていた。

 大事なのは、いま、私の隣に彼がいるという構図だ。

 

 ベッドの上で、彼は極端に不器用だった。触れ方も、脱ぎ方も、間合いも全部ぎこちない。

 私は、ただ静かに見ていた。

「……いいよ、焦らなくて」

 そう言うと、彼はすぐに止まった。

 目が泳いでいた。体温が高くなっていた。少しだけ震えていた。

 その顔が、最高だった。

 私は、彼の首筋に指を這わせながら、心の中でカウントしていた。

「これで全部、私のもの」

「あなたの初めてを、全部」

 彼の身体は拒絶しながらも、抗わなかった。

 それがなにより、私の所有感を満たしてくれた。


 これで、この自由に使えるおもちゃは、もう逃げない。


第九章

 ロープウェイの下にある喫茶店は、予想よりも地味だった。


 尾道の小旅行。きっかけは私だった。「ねえ、尾道って行ったことある? 坂がいっぱいでさ、研究に詰まったら行ってみたいなって思ってた。ほら、楽しそうでしょ、笑って!」と言ったら、彼は珍しく「いいかも」と答えた。

 “笑って”“喜んで”“楽しんで”という言葉が、彼の顔を強ばらせるのを私は知っている。

 だからこそ、共通の趣味を“楽しめる”、坂の街へ連れていきたかった。

 

 土曜の朝、新幹線で福山まで行き、在来線で尾道へ。

 旅の間中、彼はやや緊張していた。駅弁も口数少なめで食べ、私の荷物をさりげなく持ってくれる。優しさというより、責任感の重さに潰されそうな背中だった。

「ほら、ここ。めっちゃいい坂じゃない?」

 私は坂の上の風景を指差す。

 石段と手すり、両脇の古い塀。猫がのんびり歩いている。

「うん……すごい、雰囲気ある」

 彼は真面目に言ったが、目はどこか泳いでいた。

 

 夜、ホテルの部屋に戻った時、私は少しだけ期待していた。

 でも彼は、何をするでもなく、すぐにベッドに横になった。

「楽しかったけど、疲れたね」と言った。

 手を出してこないのか。こんなにも私が手をかけて作った空気なのに。

 それでも、私は無理には動かなかった。そういう日もあると割り切って、静かに背中を預けた。

 たぶん、こういう穏やかな時間の中にこそ、彼の中の“限界”が滲み出てくる。

 

 別の日。

 二人で都内の鉱物展示会に行った。

「見て、これ。水晶なんだけど、成長途中で異物が混入してるやつ」

「わあ……なんか、体内で結晶が歪んでる感じ」

「うん。でも、その歪みが美しいって言われてる」

「……なんか、ちょっと、君みたい」

 そう言ったとき、彼は本気で照れていた。

 私は笑ったふりをしながら、心の中で「何がどう歪んでるのか、説明してみなよ」と冷静に思っていた。

 鉱物のことになると、彼は少しだけ饒舌になる。

 ラベルを見て「この分類、ちょっと違和感ある」とか、「結晶軸の偏りが見える」とか。

 でも私は、その言葉の中には“私のための意味”が含まれていないことが、なんとなく不満だった。

 

 それでも、表面上は恋人同士らしく過ごしていた。

 映画を見て、カフェでトッピング多めのコーヒーを飲み、研究室の愚痴をこぼし合う。

 ただ時折、私に刺激されて、彼が怒った表情を見せる瞬間があって――とはいえ、彼が直接私に不満を漏らすことなんてないんだが――内心ガッツポーズをしていた。


 ある日、彼のスマホをふと覗いた。

 検索履歴に「恋愛 疲れる」「恋愛 愛着」とあった。

 なるほど、愛着とか何のことを言っているのかわからないが、とにかく、限界は近い。

 でも、それでいい。

 壊れたら、壊れたで仕方がない。

 その過程こそが、私にとっては宝石のように価値のあるものだった。


第十章

「春になったら、私だけ、先に就職するんだよね。これからの生活、正直、不安だよ。あなたも、やっぱり働いてほしい」


 黄昏に沈む研究室。夕日に染まる二人。

 本心かどうかはともかく、私は一般的にありがちな感情を伝えた。


 彼は、冷静な声で答えた。

「元々、博士課程に進むつもりだって、ずっと言ってたろ?…いまさら突然そんな話をされても、困るよ…」

 私はその言葉に、胸がざわついた。また困らせてしまった。

「……わかってる。でも、現実は変わらないよ。私たち、いつかは二人で生活していくんでしょ?私だけ働かせて、あなた、何も思わないの?3年はとても長いよ…待ってられないよ…」

 彼は黙り込んだまま、視線を逸らした。

 その沈黙が重かった。


 私は、なぜか嬉しくてたまらなかった。

 彼が戸惑い、悲しみ、どうしようもなく困っている――その姿を見るのが、こんなにも愛おしいなんて。


「……もう少し、考えてみる」

 急速に進んだ夕闇の中、そう言った彼の声は震えていた。

 私はその言葉に満足し、さらに押してみた。

「考えるだけじゃ足りない。行動して。」

 だが、彼はもう何も言わず、俯いたままだった。


 私は微笑みを抑えきれずに、心の中で叫んだ。


 ――やっぱり、モノの壊れていく姿は美しい。


第十一章

 就職活動は面白かった。

 いかに自分を見せ、いかに相手を“適切に”見抜くかというゲーム。必要があれば適度に演技ができ、それに対する不安感もゼロの、私の大得意分野だ。

 入ってしまえばこっちのものだし、そもそも、長い人生の、たまたまはじめの会社にすぎないし。

 当然ながら、私はさほど苦戦せずに、いくつかの研究開発職の内定を得た。


 最終的に選んだのは、某製薬系メーカーの技術職。

「結晶構造に囲まれる生活が続くし、論文がそのまま生かせる。もちろん給料もいいし」といえば、彼氏も含めて、誰も文句を言わない、つけられない。

 でも、本当は違う。

 内定者懇親会で出会った、“理想的に見える”理系男子がいたから。

 

 彼。

 名前は伏せておくが、長めの前髪、姿勢の悪さ、細い指先、そして――見事に無口。

 私が「鉱物とか結晶、好きなんですよね」と言ったとき、彼は軽く頷いただけだった。

 でも、瞳の奥が少し光ったのを、私は見逃さなかった。

「これは、次の獲物になる」


第十二章

 時は過ぎ、あっさりと卒業した。

 私の人生は動き出した。

 社会人としての新生活。

 新しい職場、引っ越し先の慣れない環境。


 そして、元研究室のホームページのメンバー欄からは私の名前はなくなった。ただ…


 そこに載っていた彼氏の写真には、何か吹っ切れたような、明るい笑顔がはじけていた。

 その笑顔を見て、私は思わずドン引きした。あの、何もかもに不満そうで、何もかもに不安そうだった、理系男子はどこへ行った!

「なんでこんな奴と、付き合っているんだろう」

 私は自分の感情をマインドコントロールしようと努めていた。

 彼に興味を持ち続けようと、無理やり気持ちを抑え込んでいた。

 しかし、どれだけ努力しても、この笑顔では、もう無理だった。

 感情は自然に離れていった。


 いらなくなったおもちゃは、捨てるべき。

 

 メールを書いた。

 長く、冷静で、冷酷で、論理的に。

 別れを告げるにふさわしい、多面的な理由を羅列した。


 ・私は学生なんかを続けているあなたとは違って、未来を真剣に考えたい

 ・いまのままではあなたは私を支えてくれない

 ・学生と社会人では考え方のギャップが大きい

 ・そもそもみんな普通学生時代のパートナーとは別れてきてる

 ・そして新しい人ができた(これはすぐに本当になるだろうが、今はまだ嘘)

 ・心が変わった

 ・自分を必死にマインドコントロールしようとした、でも無理だった

 ・別れてもストーカーにはならないでほしい


 最後に、「どうか郵送で荷物を送ってください。もう、会わずに済ませたい」と書き添えた。

 これで終わるはずだった。

 

 しかし彼からの返信は、意外なものだった。

「少しだけでいいので、会えませんか。君の持ち物を返したい」

 郵送で済むじゃん、それ。だから予め書いておいたのに。

 心底うんざりした。

 でも、どこかでこうも思っていた。

 最後に、もう一度“あの顔”が見られるかもしれない。

 寡黙で、怯えていて、怒っていて、悲しげな。

 そんな一つの表情の、純粋結晶。

 

 私は、会うことを承諾した。

 これが本当に最後だと思って。


第十三章

 待ち合わせのカフェに現れた彼は、見違えるほどやつれていた。

 頬はこけ、目の下には薄い隈ができていて、髪も伸びたままだ。

 それでも、私が呼べば来るのだと、内心で優越感を覚えた。


「……久しぶり」


 彼は低く声を出し、私から目を逸らした。

 喋る気力もなさそうで、まるで壊れかけのラジオのようだった。


 私は胸の奥がきゅっとするのを感じた。

 ……この感じ、懐かしい。


「なんでやつれてるの」

「メールもらってから、何ものどを通らなくて」

 無意味なほど健気じゃん。ただ…


「なんで、何も言わないの?最後なのに、本気で引き留めようとか、ないわけ?もうこれで本当に終わっちゃうんだよ!」


 私は挑発するように笑ってみせた。

 もっと取り乱せばいいのに、泣きついてくればいいのに。

 それすらできないの? って。


 彼は静かに首を横に振った。


「次の人がいるなら、僕が何を言っても意味ないでしょ

 …心変わりを責めても…」


 その声音に、一瞬、揺らぎそうになった。

 でも、すぐに理性が戻る。

 こいつは将来性がない。

 私の人生のゴールに据えるには、貧乏すぎて、情けなさすぎる。

 だけど……だからって、こんな簡単に手放していいのか。


「じゃあ、友達に戻るのはどう?それなら問題ないでしょ?これからも変わらず休日は遊ぼうよ。」


 私は笑顔で提案した。

 好意でも情けでもない。文字通り損得勘定だった。


 彼は一瞬、黙りこくった。

 それからゆっくりと、私を真っすぐに見た。


 そして――怒った。


「……彼女が元カレと会ってるって知ったら、新しい彼氏、悲しむでしょ。そういうとこだよ。君の、よくないところ」


 静かに、でも確かな怒気を帯びた声。

 あの優しくて臆病な彼が、はっきりと否を突きつけてきた。


 私は思わず喜びの声を上げてしまった。

 心が跳ねる。


 この顔、初めて見た!

 なんて綺麗な、呆れを含んだ怒り顔。最高。


 実験週間のときも、怒った彼の顔が忘れられなかった。

 私は、研究室の実験室を出たあと、あのときも言ったのだ。


「さっきの顔、めちゃくちゃカッコよかった!」


 そのとき、彼は戸惑っていた。

 喜ばれる表情じゃないはずなのに、褒められてしまったのだ。

 常人の感覚なら、当然そうなる。


 でも私は、その怒りの熱に陶酔していた。

 そう、今回も同じ。

 理不尽にでも彼を揺さぶれば、こんな美しい顔が見られる。

 まさに私だけが知る表情。


 惜しいな……ほんと、惜しい。

 こんな貧乏くさい男じゃなかったら、人生に置いておいたのに。


 少しだけ名残惜しいが、もういい時間だ。

 彼が別れたければ、会いたくなければ、そうしたらいい。

 私は立ち上がり、軽く手を振った。


「じゃあ、さようなら」


 彼が最後に、ぎこちない笑顔を向けた。


「楽しい日々をありがとう、さようなら」


 なぜ笑うの?


 笑顔はいらないんだよ。

 やっぱり、こいつは何にも分かってない。やっぱり、時間の無駄だった。


 私は、清算しきった心で、彼の前から立ち去った。


エピローグ

 彼は、あの後も研究を続けたが、何かを失ったように、徐々に人と関われなくなっていった。

 自宅に引きこもるようになり、研究成果も途絶えた。

 情熱的に迫られた時期を過ぎたあとから…、いや、今思えば最初からか、彼女からは駆け引きばかりで、一時的な性欲は感じられても、愛着らしいものは一切感じられなかったことを思い出す。

 だが、彼が何を間違えたのか、どこでどうすれば良かったのか、彼自身、全く分からなかった。あれほど抵抗して、そして心を開いて、愛するようになって。どうすれば彼女の愛着を育むことができたろうか。自分のような不完全な人間には無理な話だったのか。次の彼氏に比べてそれほど自分は無能だったのか。

 夜の坂道を歩くたびに、彼は彼女の腕の温度を思い出した。胸元に押し付けられたあの微かなぬくもり、無表情の奥に確かにあった熱。それらが、いまはすべて霧のように遠い。

 それらの問いは、内罰的な彼のなかで、何年も何年も、絶えず反響し続ける空洞となった。


 私は、順調に社会人としての生活を送り、新しい恋人と穏やかに暮らしたのち、子宝にも恵まれ、誰もが羨む理想の人生を送っていた。

 ごくたまに、過去を強制的に思い出させるイベントはやってくるが、その過去はもう"古びた観察記録"でしかない。

 彼がいま、どこでどうしているか。

 …そんな無駄なことに思いを馳せる瞬間は一度たりとも来なかった。


 サイコパスの脳には下記のような特徴がある。

・扁桃体の機能低下により恐怖の条件付けが不十分。

・前頭前皮質下部の感情・倫理を司る部分の機能低下。

・ドーパミンの過剰放出により、過剰に快楽や刺激を求める。

・セロトニン過剰放出によりセロトニン感受性低下、怒りに対する鎮静作用の機能不全。


 サイコパスに関わることになった人間の不幸さはいうまでもないが、サイコパス自身もまた、自分のコントロールの及ばない脳の働きによって反社会的行動を余儀なくされており、被害者と言えるのかもしれない。


 一つ注釈をいれると、本文中の彼は、何年もの年月を経て、元彼女がサイコパスであることを発見した。それからは、自分の力の及ばないところで物事が進行していたことを理解し、ようやく彼女からの洗脳がとけ、内罰的な思考から脱出できたようである。また、当初から愛されていたわけではないことも理解し、そういう意味で、何も失ったものはなかったことに気づいた。

 ただし、刺激は多く、そしてクリエイティブな面も持つ彼女には惚れていただけに、人としての繋がりが完全否定されたことで、一抹の淋しさも感じることとなったという…。

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