Episode.86 ジョニィ
リンが目を開けると、そこは布団の中だった。急いでそこから起き上がる。おかしい。あの時確かにジョニィは刺され、自分も意識を失ったはず。リンは靴を履くことも忘れ外へと駆け出した。ジョニィが泣き叫んでいた場所には、何もない。
現状が理解できずしばらくそこに立ち止まっていると、遠くから白いビニール袋を大切に抱えた少女が歩いてくるのが見えた。生きている。ジョニィも自分も、まだ生きている。
ジョニィがリンの姿に気が付いて手を振った時、何かがジョニィの頭に投げつけられた。それは、拳ほどの大きな石だった。草むらから駆け出して来た少年たちは、彼女を取り囲むようにすると声を張り上げる。
「リミットだ! やっつけろ!」
ジョニィは投げられる石で額を切りながらも、なんとか家の方まで走って逃げて来た。リンはジョニィを家の中へ引き込むと、急いで扉を閉める。
鍵もまともに閉まらない扉は、少年たちが叩くだけでひどく軋んだ。
「裏口から逃げなさい」
ジョニィは頑なに首を振っていた。しかし時間はない。
「行けって言ってるの! 早く!」
半ば怒鳴るように叫ぶと、ジョニィは青い顔をしてその場から駆け出した。逃げ際に落としたビニール袋から、簡素なパンが二つ飛び出している。
やっぱりそうだ。どういう訳か、時間が戻ってる――。だとするとこの後――。
少年たちが叩いている扉を、何者かが勢いよく蹴り飛ばした。その勢いで扉は外れ、抑えていたリンもまた一緒に吹き飛ばされる。転んだ先で血を吐きながら咳き込んでいても、部屋に土足で入り込んできた大人たちはリンに見向きもせずにジョニィを探し回っていた。
「逃したか⁉︎ いないぞ!」
リンには立ち上がる体力さえ残っていなかった。ひとまずジョニィがこの場から逃げ出せたことだけで良かったと、胸を撫で下ろす。どうかこのまま無事に逃げ切ってくれれば……。これで安心して死んでいける――。
リンが目を閉じかけた時、何者かが部屋に飛び込んでくる音がした。何かが宙を舞い、部屋の物が荒れ狂うように飛び交っている。死とは騒がしいものだなと思いながらリンがうっすら目を開くと、そこには黒い羽根を散らしながら必死に両親に立ち向かうジョニィの姿があった。大人の力には敵わず幾度となく突き飛ばされる。その先で腕を切ろうと喉をつこうと、ジョニィは繰り返し立ち上がり向かっていった。
どうして戻ってきたの。どうして――。
リンが涙を浮かべていると、ジョニィは彼女の前に立ちはだかった。
「ずっと一緒にいるよ」
初めて自分にかけられたその声は、かき消されそうな轟音の中でも吸い込まれるように耳の奥へと響いて来た。ジョニィの父親がパンを踏みつぶす様子を目の端に捉えたのを合図に、ジョニィは再び舞い上がる。リンはジョニィの言葉に答える声も出なかったが、涙だけは変わらずあふれていた。
何故この子が実の両親と殺し合わなければならないのか。ただ背に羽根があるだけで、それだけで人は我が子を捨てることも殺すことも出来るのだろうか。この子が一体何をしたというのか。誰も傷つけはしなかったし、生きることに一生懸命だった。なのにどうして。
どうして、この子が――。どうして――。
血に染まっていく親子を見ている中で、リンの中の決定的な何かがぷつんと切れた。
【許さない】
地面を這うようなどす黒い声が部屋全体を包み込み、ジョニィとその場にいた人間たちは真っ赤な光に包まれた。
◇
ジョニィが目を開けると、そこは知らない土地だった。目の前には女性のように美しい男性が立っている。ジョニィは周囲を見渡すとすぐに駆け出して行った。そして何かを探すように走り回り、リーダーの方を振り返る。ジョニィの問いかけるような瞳に、リーダーは小さく首を振って答えた。
その意味を理解したジョニィは、その場に崩れるように座り込む。ぽろぽろと涙を流す彼女を、リーダーはそっと抱きしめた。最初は抵抗していたジョニィも、温かな体温にそっと身をゆだねていた。
◇
『ジョニィは自分を殺そうとした両親やいじめに加担したクラスメイト、そして死の淵にあるリンへ何ひとつ手を差し伸べなかった人間たちをひどく怨んでいた。私が初めて彼女を見た時あまりにも淀んだ瞳をしていたので、この子はもう二度と笑うことが出来ないのだろうと思った。
しばらくはジョニィは、ツェッペリンで匿うことに決めた。毎日朝昼晩と食事を運んでいたが、いつもその十分の一程度しか口には入れなかった。
「死ぬつもりですか」と聞いたが答えはなかった。
彼女が来てから数週間後、さすがにそろそろ飢え死にしてもおかしくないなと思いながらいつものように食事を運んでいる最中、青い空に影がさしたのがわかった。彼女はこの狭い空を、悠々と飛んでいたのだ。
――天使のようだと思った。
彼女は地面に降り立つと、踏まれて折れてしまった花にそっと手を添えて優しく声をかける。
「大丈夫。生きるんだよ」
私には理解できない感情だった。
「なぜ生きる希望を失ったのに、他者の生命を懇願するのですか?」
そう聞くと、彼女はしっかりとした声で答えた。
「私はこの世界に溢れる命、全てが憎いわけじゃないんです。青い空が好き。ひとしきり降る雨が好き。誰にも愛でて貰えなくても、懸命に咲き誇る花が好き。人間に殺されたり邪魔者扱いされる虫や植物にも命はある。両親には許されなかったけれど……。どうかここでは、誰かを愛することを赦してくれませんか」
その言葉を聞いて、きっと彼女を笑う人がいるだろう。邪魔だと刈られ生命を絶たれる雑草に話しかけている彼女を、バケモノ呼ばわりするだろう。
だが、バケモノはどちらだろうか。
人でない者を愛でるのは罪なことなのか。忘れ去られたように咲く蒲公英に、彼女は小さく笑いかけた。
「私はあなたの命を、軽んじてしまっていたようです」
◇
それから数か月後、突然平穏な街に銀色の男が現れる。彼は部屋に閉じこもる彼女を、無理やり青空の下に引きずり出した。
「こんな作り物の世界にいたら、いつまで経っても気がめいっちまうぞ! もっと広い空を飛ばせてやる! 着いて来い!」
そう言って半ば強制的に彼女をツェッペリンから連れ出そうとしたのだ。突然現れた無礼な男にジョニィは実に不愉快そうな顔をしていたが、彼は歩きながら続けた。
「外が怖いか? 大丈夫。俺がずっと傍にいてやる。怖い時は逃げればいいし、泣きたい時は泣いて、笑いたくなったら笑え。青空の下自由に飛ぶことを、この俺が許してやる」
ダンテの言葉に、ジョニィは驚いた顔をした。そして彼女はそのまま、彼と一緒にツェッペリンを後にしたのだった。
「礼儀も気品の欠片もない男ですが、気に障ることはありませんか?」
のちにツェッペリンへ訪れた彼女に聞いたことがある。すると彼女は少し照れながらこう答えた。
「あの人は、太陽のような人です」
そして作り物の空を眺めながら続けた。
「そしてあなたは月のような人。月と太陽がかわるがわる私の元へ会いに来て、そしてついに私は死ぬことを諦めてしまった。――ありがとう」
彼女はそう言って、綿毛を空に放ちながら笑っていた。』
◆
タンバは話を終えると、剣を構えた。振り返ると三人の背後には複数人のパラドックスが迫っている。
「まずい! 挟み撃ちか!」
咄嗟に銃を構えた万寿だったが、タンバは三人の隣をすり抜けてパラドックスの前に立ちはだかる。
「タンバさん……?」
「残念ですが、もう手遅れです。私の能力ではこの現状を元に戻すことは出来ません。お互い殺し合ったが故に、亡くなった方を生き返らせようとすると片方の命は助からない」
能力……。タンバの言葉にひとつの可能性を見出した万寿。呟くようにその名を呼ぶ。
「ジョニィさんなら……」
時を戻す能力。それならこの現状を打破することが出来るかもしれない。彼女がパラドックスを襲う前に戻れたとしたならば――。しかしそれにタンバは首を振って見せた。
「彼女は協力しませんよ。戻したとて、それは自分に不都合が生じる前まで。すべてを無かったことにはしないでしょう。けれど、希望はあります。あの人の出方次第では――」
意味深な言葉を残してタンバが微笑むと、その場に分厚い本を投げ捨てた。その本の表紙にも、ジョニィの額に浮かんだ呪印と同じ文字が浮かんでいる。
「彼はこの世のすべての能力を持っています。しかしその使い方を強要することは出来ません。神のみぞ知る、とはこのことですね。太陽がいない空には、月が輝くもの。さて、最期くらいは自分らしく戦ってみましょうかね」
タンバはそう言うと、瞳から涙をこぼしながら笑った。
「――ジョニィさんを、頼みます」
駆け出していくタンバ。向かってくるのは我を忘れたパラドックスと魔物たち。一人では決して太刀打ちできないほどの数に真正面からぶつかっていく。その背中を追いかけようと一歩踏み出したダンテを制したのは、るい太だった。
「僕が一緒に残ります」
「……るい太!」
「ダンテさん。あなたは行ってください。約束したんでしょう。ずっと傍にいるって」
「――っ」
「大丈夫。彼女はきっとまだ、どこかで生きています。きっと連れて帰ってくださいね」
るい太はあえて明るく笑って見せた。ダンテは握った拳を震わせながらも、力強く頷く。
「……るい太、タンバ。ありがとな……。絶対死ぬなよ!」
「そちらこそ!」
るい太は軽く手をあげると、一目散にタンバの所へと走り出した。
結果は万寿にも分かっていた。だからこそ、何も言えなかった。つられるように一歩踏み出しかけたのを、ダンテによって止められた。
「大丈夫だ、万寿」
「……っ」
万寿は頭上に輝く太陽の顔を見上げた。彼は力強い瞳で、前だけを見据えている。
「行こう!」
「――はい!」
二人は再び走り出す。振り返ることなく、彼女の元へ――――。
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