Episode.35 人間の死Ⅱ【当たり前がない男】
さてここで、彼の中で二つの選択肢が浮かび上がる。開けるか、開けないか。
▼開ける 開けない
もしもここにずっといて、それでまた誰かが殺されてしまったのなら……僕は一生後悔する。見ず知らずの人でも救えるような、そんな人に憧れて僕はここを選んだんじゃないか。
開ける ▼開けない
開けないと……先には進めないんだ。開けろ。開けるんだ。
万寿はぎゅっとドアノブを掴んだ。
▼開ける 開けない
大丈夫。声は遠いから、すぐ近くに人はいないはず……。ゆっくり、音を立てずに開くんだ。ゆっくり……。
ひとつの扉を数センチ開くのに、数分はかかっただろうか。万寿はその隙間から外の様子を覗き見た。やけに暗い廊下だが、そこに人影はなさそうだ。魔物もいない。さらに扉を開けて、今度は顔を押し出した。
……よし。誰もいない。
周囲を警戒しながら、万寿はようやくその身体を廊下へと出した。一人の男の声が聞こえる。どこかで聞き覚えのあるようなないような……。先に見える扉は開いていた。抜き足差し足で扉の近くへと忍び寄る。直接中を覗き込むのは危険すぎるので、部屋を出る前に拾ったスマートフォンを内カメラにしてそっと中の様子を映し出した。
部屋には一人の男が立っている。その前には同じユーチューブグループのメンバーと、それを手伝っている裏方であろう人たちが全員拘束されているように見えた。万寿は一人立っている男を見て眉間にしわを寄せる。そして画面をズームさせた。長身で鮮やかな髪色の彼は、有名なユーチューバーの一人。――先ほどの物置で倒れていた“死体”と同じ顔をしていた。
どういうことだ……? 彼は確かにさっき死んでいたはず……。
万寿が戸惑っていると、その中で拘束されている人と視線が合った気がして、すぐさまスマートフォンを引っ込めた。部屋の中から、グループメンバーの戸惑った声が廊下まで響いてくる。
「もういい加減にしろって! 離せよ!」
「お前おかしいよ! どうしたんだよ!」
いつも動画ではつらつと話す彼は、無表情でぼそぼそ何かを話している。万寿もその声に耳を傾ける。
「そうなんだよねえ。本当はさ、もう少し泳がそうと思ったんだよね。こいつのふりしてさ、皆からちやほやされる生活味わってみようかなーとか思ってさ。だけど、やっぱ無理だよね。だって俺大きい声出すの苦手だしさあ。お前らよってたかって俺のことおかしいとか変だとか言ってさ。そんなに変かなあ、俺。普通にしてるだけなんだけどなあ。変だよなあ。気持ち悪いよなあ。いなくなれって思ってんだよなあ。お前ら全員、俺のこと見下してんだもんなあ」
ほとんど独り言のように話す男。今の内容からして、間違いなくあの男がパラドックスだ。『こいつのふり』ということは、死んでいた彼に変装しグループメンバーと接触した可能性が高い。ではやはり、先ほどの彼はもう――。
万寿は落ち着いて状況を整理する。拘束されている人間、七名。まだ危害は加えられていないようだが、それも時間の問題だ。相手の能力は『姿を変える』能力? もしそれだけだとしたら、ダンテとジョニィが来れば難なく人質を解放できるはず。
万寿はこのことをひとまず伝えなければと、一度そこから距離を置こうとした。ゆっくりと地面を這うように後ろへ引き返そうとした瞬間、目の前に何かが飛んできた。思わずさらに身を屈める。それと同時に手からスマートフォンが転がり落ちた。廊下にスマートフォンの転がる音がこだまする。ぼそぼそ呟いていた彼はぴたりと動きを止めて、ゆっくりと後ろを振り返った。
「誰か……いる?」
その声にぞくっと背筋が凍った。万寿はその時やっと気が付いた。この廊下が異様に暗かった理由を。
ライトさえ覆い隠すほど天井にびっしり張りついている、黒いものの正体。それは単なる壁紙ではない。じっと万寿を睨みつけていた、数千匹にもわたるコウモリだった。
「誰かいるよね? 今さ、動いたよね?」
……やばい! こっちに来る! 時間! 時間を止めないと!
「まだ誰かいたんだ? まあいいけど。出ておいでよ、怖がらないでさあ」
彼の声が近づいてくる。万寿は必死に時を止めようとするが、彼の歩みは止まらない。焦れば焦るほど、落ち着いて能力を発動できない。
どうしよう、どうしよう! 助けて! 助けて! 誰か……。誰か……。
――違う。戦わないと。一人でも。どんな状況でも。
その時天井のコウモリが一匹飛び立った。それを合図に万寿は起き上がり、そのまま部屋に飛び込んでいた。
「うわあああ!」
相手を押し倒す形で部屋に飛び込んだ万寿。万寿はパラドックスへ馬乗りになっている。拘束されている全員が驚いた様子で万寿を見つめていた。
「誰……?」
万寿はパラドックスに突き飛ばされた。頭を机に強打しながらも、必死に叫ぶ。
「逃げてください!」
万寿の叫びも虚しく、拘束されている彼らは頑丈に縛られた縄で身動きが取れない。まずは縄をほどかなければ。万寿は拘束されているグループメンバーに駆け寄ろうとしたが、それはいとも簡単にパラドックスによって遮られた。軽く腹部を蹴られただけで、万寿は数メートル吹き飛ぶ。雑多に置かれたリビングの備品にぶつかり、物と一緒に地面へと転がり落ちた。
「やめろよ!」
同じグループメンバーの一人が叫んだ。それにイライラした様子で、パラドックスは振り返る。
「さっきからお前なんなの? 何様なの? 今俺に言った? 何もされないと思ってんの? 俺のことなめてんの?」
「知るか! てめーのことなんか知らねえよ! おいお前! 今のうちに逃げろ!」
「え……?」
万寿はぐわんぐわんと周っている頭を押さえながら、叫んだユーチューバーの方を向いた。視線が合わない。
「立てるなら今のうちに逃げろって! 誰か知らねーけどお前は関係ねーから! 死ぬ必要ねえから!」
「ごちゃごちゃ、うるさいなあ」
男のターゲットが万寿から恐れず声を上げた彼に変更された。ぐるっと向き直った男。いつの間にかその手には包丁が握られている。
「や……やめろ……!」
万寿が声を上げるが、男が包丁を振り上げる。彼はまだ万寿に叫んでいる。
「逃げろよ! 早く!」
殺されそうになっているのに。
「立て! 走れ!」
何の能力もないのに。
「逃げろ!」
「止まれ、止まれ、止まれー!」
彼と万寿の声が重なった。時が止まった。パラドックスもその場で固まっている。助けなければ。彼を助けなければ! 万寿はなんとか立ち上がり走り出そうとするが、先ほどの脳震盪のせいで再び地面に転がった。ひどい吐き気だ。それでもいい。立たなければ。助けなければ。時間はもうない。8秒。もう……。
万寿が手を伸ばした瞬間、どす、とナイフの刺さる生々しい音が聞こえた。男がナイフを引き抜くと、血が噴射してあたり一面に散らばった。
「あ……」
万寿は息をするのを忘れた。噴水のように吹き出るその血を、口を開けてみていることしかできなかった。
――僕はまた、助けられなかった。
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