Episode.29 本当の幸せ
怜也はいつも直行するはずの靴箱を通り過ぎると、そのまま保健室へと向かった。怜也は保健室をあまり利用して来なかった。高堂達による暴力で怪我をすることは多々あったが、保健室に行くことでその怪我が普通でないことを先生に見つかり、とやかく言われるのが嫌だったのだ。
確かに、そこで先生たちの発見によってイジメは解消されるかもしれない。表面的には。だが、その裏でその何倍にも及ぶイジメが行われようとは思うまい。
先生たちはイジメを発見し、無事解決への道を選択できたことに優越感を抱くだろう。そして万が一でもイジメが理由で自殺何てしようものなら、教師たちは必死に「イジメは発見し手を打っていた」と弁解し続けることだろう。
そんな事を考えながらも怜也の口元は少しだけ笑みを浮かべていた。
だが安心して欲しい。僕は決して自殺もしないし、イジメだって受けていない。僕へのイジメは終わった。そう、終わったんだ。僕がもう不登校になることもない。不思議と、明日からの学校が怖くない。
あれほどにも自分を追い詰めていたのにウソのようだ。実際の所、高堂だけが少し変なだけで、その取り巻きは何も変わってはいない。でも、僕はもう殴られない。そんな気がしていた。
そうこうしている間に、怜也は保健室の前にたどり着いていた。中に誰かいるだろうか。怪我もしていないのに先生へ会いに来るだなんて、おかしな生徒だろう。なんて言い訳をしようか。科目担当の先生であれば「質問があって」と適当に理由を付けられるが、残念ながら保健室の先生にまったくもって接点はない。
だが唯一救いがあるとするならば、ここが職員室ではなく保健室であるということだ。他の先生たちの目を気にする必要はない。中に、保健室の先生だけがいれば、の話なのだが。
怜也は残念ながら特殊能力により怪我をしてもすぐに治ってしまうので、どこか怪我をしたという理由は使えそうにない。なので「お腹が痛くて」というあからさまな嘘をつく他なかった。
うまくごまかせるだろうか。怜也はわざとお腹を押さえながら下唇を噛んで扉に手をかけた。
「お、お邪魔します……」
いや、そこは失礼しますだろ! と自分にツッコミを入れる。なんたって今までこんな芝居をしながら先生に嘘をつくだなんて初めてなのだ。緊張していて当たり前だ。それにしても酷い。怜也は自分で自分を苦笑しながら中を覗き込んだ。
そこには事務机に向かう一人の女性が座っていた。そう、あの時のパラドックス――だった人。運よく他に保健室を利用している生徒はいないようだった。
「あら、どうしたの?」
先生はそう言って椅子から立ち上がった。怜也はお腹をさすりながら弱弱しく伝えた。
「ちょっと、お腹が痛くて……。少し、休んで帰ってもいいですか?」
だがその嘘は一瞬で見抜かれたであろう。なぜなら動揺と興奮で心臓はバクバク、顔面は紅潮しており、腹痛というよりも発熱の方が症状としては合っていただろうから。
「いいわよ」
だが先生は疑いもせず優しく受け入れると、怜也に椅子を一つ持って来てくれた。
「ありがとうございます」
怜也は椅子に腰かける。嘘だと分かりながら、一応職務は全うする先生。
「どこら辺が痛いの?」
「あ、えっと……。こ、ここら辺です」
「胃の当たりかしら? いつ頃から?」
「さ、さっき……。帰ろうと思ったら、急に痛くなってきて」
「吐き気はある?」
「い、いえ。た、たまにあるので! 座って休めば治ると思います!」
「……そう?」
たまにあるのならなぜ今まで来なかったんだ! というツッコミはしないでおこう。とっくの昔にばれている。
「じゃあ治るまで何かお話でもする?」
先生はにこやかに笑った。なんて優しい人だろうか。あの時人間の血を使って殺戮を企てた人物とは到底思えない。というか、そうだった。この人、殺人鬼なんじゃ……。
パラドックスであったからといって人を傷つけた過去が許されるわけではないし、能力を失ったことでその罪がチャラになるのはどうなんだろう。と考えながら、じっと先生の顔を見る。すると先生は不思議そうに顔を傾けた。
「私の顔に何かついてる?」
「あ! いえ! な、何も……」
「そう。何も、ね」
ニコッと笑う先生。だが、その合間が少し怖かった。何もない。そう、先生の顔の痣の後は、綺麗に消えていた。先生の顔には確かに、ひどい火傷の痕が残っていた。イジメにあった時つけられて、それ以降人間を憎む原因になったともいえる事件だ。
だが、そのことさえなかったことになっているんだろうか。聞きたい。先生に。でも、どうやって聞けばいいんだろうか。
「あ、あの……」
「ねえ坂下君」
「……っ! はいっ!」
突然自分の名前を呼ばれて驚いた。僕は名乗っていないのに、どうして名前を知っているんだろうか。すると先生は僕の名札を指出した。
「あ」
「全部顔に出てるわよ」
緊張で真っ赤になっていた怜也。次は羞恥心で真っ赤になった。少しくらい嘘をつく練習をしておくんだった、と思いながら、もう腹痛の嘘をついているのも無駄な気がしてお腹をさするのを止めた。すると、先生の方から話の確信に迫るようなきっかけを与えてくれた。
「坂下君、ここに来るのは初めてよね」
「あ、はい……」
「やっぱり。見かけたことなかったもの。よかった。ちゃんと私、記憶あるんだわ」
「記憶……ですか?」
ドキッとした。まさにこれから『記憶』について問いただそうとしていたのだから。
「そう。最近、私おかしいの。なんていうか、記憶が飛んでるみたいで」
「飛んでる……」
「うーん、飛んでるというか、話しがかみ合わないと言うか。別にそれで特段困ったこととかはないのよ。ただ、他の先生がね。『最近は早く帰られるんですね』とか言うから。私、今までそんな遅くまで学校にいた覚えないのよ。だから『今までずっとそうだったじゃないですか』って言い返すと首を傾げられちゃったりして。私、もしかして記憶が飛んでるのかしらって不安になったけど、そんなはずないのよね。だって昨日どうやって家に帰ったかとか、家に帰ってどうしたかまで覚えているんだもの。今までのことだってそうよ。確かに何のとりとめもない日々だったから具体的なことは覚えてないけど、わざわざ学校に残っていたら覚えているはずだもの。だから、もしかしたらその部分の記憶が飛んでるのかもって思って」
「へ、へえ……」
「ごめんね、変な話して」
先生はそう言うと困ったように笑った。何も返事をしなければ、そこで会話が終わってしまうような気がして、怜也は慌てて質問を返す。
「ほ、他に忘れてる事とかないですか?」
「え?」
その言葉に先生はくすくすと笑う。
「ごめんね。もし忘れてたとしたら、私忘れちゃってるから思い出せないわ」
「あ。そ、そうですよね。あはは……」
先生はじっと怜也の顔を見る。
「もしかして坂下君、何か心当たりあったりする?」
「え⁉︎ ……いや! ないです!」
勢いでないと言ってしまった。本当は聞きたいこと一杯あるのに。なんとか話を続けなければ。
「……その! せ、先生肌綺麗ですね!」
「え?」
なんだその言い訳は。これではただの変態生徒でないか。だが先生は優しく笑ったままお礼を言った。
「ありがとう。一応私も女の子だから、美容には気を使ってるのよ。ふふっ。いつまでも綺麗でいたいって思うのは、おかしいかしら」
「そ、そんなことは……!」
確かにそうかもしれない、と怜也は思った。それは女性だから美しくありたいと思うには当然のことだ、ということではなく。この人が美容に異様なほど執着しているのはあの痣があったからではないかと思ったからだ。リミットであった時は能力で痣を隠していたとリーダーは言っていた。だが、今痣が消えたところで今まであったことには変わりないはず。
「先生の昔の写真とかは……」
待て、なんか今めちゃくちゃきもくないか?
「あ! えっと! 変な意味じゃなくて! なんて言うか! 昔からそんな綺麗な肌だったのかな、とか! う、疑ってるわけじゃないんですけど!」
何が言いたいのか全く分からない。すると先生はその時今まで浮かべていた優しい笑顔を一瞬曇らせた。
「見せてあげたいところだけど……。ないのよ」
「え?」
「写真。私、写真に写るの嫌いだったから。一枚も残してないの」
「そ、そうなんですか……」
「不思議よね。今では何とも思わないのに」
「そ、卒業写真とか……」
なぜそこまで執着して聞くのだと思われるだろうが、怜也は続けた。先生は首を振る。
「学生時代にはいい思い出がなくてね。実は、残してないんだ」
「え……」
「引っ越すときに昔の教科書に紛らせて捨てちゃった。別に見返すことなんてないからいいんだけど」
「た、楽しくなかったんですか? 学校……」
先生は困ったように笑う。
「君の前でこんなこと言うのは可笑しなことかもしれないけど。私、学校嫌いだったのよ」
「……っ」
「虐められていてね。なんかひどい事をされたような気がする。でも、何も思い出せない」
「…………」
「記憶があいまいなのって、もしかしてそのせいかしら。でも、それなら今のままがいいわ。苦しかった時の思い出なんて、思い出せない方がいいもの」
「……そうですか」
先生はそう言うと、この保健室に入ってきた時と同じような優しい笑顔を浮かべた。忘れている。何もかも。リミットの存在すら覚えてはいない。でも、彼女は今幸せそうだった。
彼女の生活が大きく変わったことはない。普通に先生も続けているし、社会生活にも馴染めている。過去の忌々しい記憶はすべて清算され、優しい思い出しか残っていない。
それで、いいじゃないか。この人がどれほど人を傷つけてきたかなんて考えるのはやめよう。これで犠牲にあった人達が報われるかどうかは分からないけれど。今この人は、パラドックスであった彼女ではないのだ。パラドックスとしての償いは、クラフトで終わった。
「もう治ったみたいので」
怜也はおもむろに立ち上がった。先生は優しく怜也を見送る。怜也が保健室の扉に手をかけたところで、思い出したように呼び止められた。
「そうだ、坂下君」
「はい」
「学校、楽しい?」
「え……」
怜也は少し戸惑って視線を逸らす。だが、もう一度しっかりと向き直ると先生を見た。
「はい。楽しいです」
「――そう。良かった」
怜也は一礼すると、保健室を出た。
リミットでなくなること。それは僕にとっては地獄同然の世界だと思っていた。だが、それは僕が特別リミットに救われた人間だったからなのかもしれない。彼女にとってリミットであった今までの記憶は、彼女を苦しめるもの以外何者でもないのだ。
リミットを捨てることが必要な人もいるのだと、改めて感じざるを得なかった。
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