44,人界のターニングポイント その4
新宿駅前に佇む真っ黒々助。
頭のてっぺんから足の爪先まで『黒』一色。墨汁のプールに身を浸したように黒いそれは、もはや人の輪郭を持っているだけの、明らかに普通の人間には有り得ない姿をしていた。
しかしそれだけなら、言っては悪いが奇抜な姿をしているだけの化け物とも言える。
だが身近に存在感が希薄な神格、女神アグラカトラがいる刀娘の目は誤魔化されなかった。
地面に落ちた影がそのまま起き上がったような化生を見た刀娘の第六感は、どこかアグラカトラに似た気配を感じ取ったのである。あ、無視したら駄目な奴だ、とも直感した。
「うわぁ……」
予想していなかった事態に直面し、刀娘は思わずといった調子で呻き声を漏らす。
エヒムからの要請で、自らの運気をマックスまで引き上げた上で散策していたが、まさかこんなところで野生の神様と遭遇するとは想像だにしていなかった。
刀娘は自らの『幸運』を疑っていない。
剣術よりもずっと自信のある特技で運気を操っているのだ、疑う理由がなかった。
そんな刀娘からすると、自分がここで、この怪しげな神様と遭遇するのは幸運なことであるはずで、そしてそうであるなら自発的にアクションを掛ける選択肢しかなかった。
一応隣にいるエーリカ・シモンズの反応を窺ってみる。エーリカは天使フィフキエルの下で闘争に明け暮れていた、あのゴスペル・マザーラントの副官だ。目利きは優れているだろう。
刀娘がこっそり反応を盗み見ると、エーリカはヘルメットのバイザー越しにも分かるほど、険しい表情で黒い人型を睨みつけていた。どうやら刀娘と似たような所感を持ったらしい。
なら話は早い。
「あの、シモンズさん? 神様ですよね、アレ」
確認のために小声で訊ねると、エーリカは鼻を鳴らした。
表情はヘルメットに隠されているが、その声音には彼女の嫌悪感が露骨に滲んでいた。
「神? 不遜だぞ、家具屋坂。神とはメシア様の父君たる至尊の御方のみ、他は恐れ多くも神の名を騙る傲慢な悪魔に過ぎない」
(うへぇ……忘れてた、【教団】の人って過激なのが普通だったじゃん)
アグラカトラをエヒムの同盟者と位置づけて許容してたから忘れそうになっていたが、ただ一番上の優先順位に、自らが仕えてる上位者がいるだけの狂信者なのだ、エーリカは。
遠い目をして黄昏そうになる刀娘だったが、その狂信者が天力を発するとギョッとした。
「そして神の名を騙るにも、あの程度の隠形しかできていない小者には分不相応だ。そこらの木っ端に毛が生えた程度の脅威でしかない、アレがエヒム様を煩わせる前に処分するぞ」
「ちょっ! ちょっと待ってシモンズさん!? ここ街中! 普通に巻き添え食らう人が出るんでやめてもらっていいですか!? やめなきゃブン殴りますからね!? マジで!」
左手首に巻いている、エヒム謹製のスマートウォッチをタップして、二つのトンファーを取り出したエーリカが天力を漏出する。それを見た刀娘は慌てて制止した。
冗談じゃない! こんなところで考えなしに暴れられたら、一般人は何が起こったかも分からないまま全員蒸発する! そうなったらますます状況が悪化するに決まってる!
エヒムが被らせているエーリカのヘルメットには、天使が使う認識阻害の結界【聖領域】が付随している。刀娘もまた自前の結界を張って、刀娘自身を自動で追跡させているため、どれだけ目立つ言動をしていたとしても一般人に注目されることはない。
故に刀娘は慌てながらも、宣言通り実力行使で止めることも厭わない意思表示として、左手首に巻いているスマートウォッチから大太刀を取り出した。
すると、エーリカは刀娘の態度に憤慨する。
「バカにするな。喫緊の局面でもないのに、この私が無実の民の安否を捨ておくとでも?」
「そ、そうですよね? ヤダなぁもう、アタシってば心配し過ぎて空回っちゃってました」
「ああ、案じられるまでもない――あの程度なら一撃で仕留めてみせる。スマートにな」
「アホかぁーっ!?」
どんなに矮小に見えても神は神だ。例えエヒムの足元にも及ばない存在にしか見えず、エヒムの加護を受けているエーリカなら討ち取れそうではあっても、下手に手を出すのは愚策。
エーリカは日本の神々に疎いのだろうが、未だこの世界に残留している神格は【高天原】という別次元に引き篭もっていることが多い。この神は【高天原】から気紛れに出向いてきた可能性があり、もしそうであるなら手を出したが最後、敵討ちを名目に引き篭もり達が大挙して押し寄せて来かねない。そうなったら今の微妙な時勢だと致命傷だ、人の時代は終わる。
殺意マシマシで動き出しそうなヘルメット女を見ては、流石に刀娘も躊躇しなかった。
鞘に収まったままの大太刀を振り上げて、本気でエーリカに叩きつける。
「なっ!?」
まさか本当に殴りかかられるとは思わなかったのか、エーリカは咄嗟に二つの得物を交差させて大太刀を受け止める。衝撃が周囲に散って、巻き込まれた通行人達が転倒した。
突然強風に煽られたとしか思えない一般人は、悲鳴を上げて周りを見渡す。だが、誰も刀娘達に気づかない。無力な彼らのすぐ前に、たたらを踏んだエーリカがいるのに。
「き、貴様何をする!? 私は味方だぞ、血迷ったのか!?」
「血迷ってんのはお前だー! 一応年上だからってんで遠慮してやってたけどもう知んない、郷に入っては郷に従えアホォ! マナー知らずのゴーイングマイウェイ外国人は日本の文化を学んでから出直せバカ! ボケ! ウンチ!」
「誰を排泄物扱いしているか分かっているのか、小娘……!」
「お前だよブワァーカ! このバカ! 断言したげるけど絶対エヒムさんはアタシの味方するに決まってる! よそ様に出向いてんなら現地の文化を尊重する精神ぐらい持てってね!」
「ぐ、ぐぅ……!?」
激昂してまくし立てる刀娘にエーリカはぐうの音しか出なかった。
実際、エーリカもエヒムの精神性の背景を知ってしまっている今、エヒムが刀娘の言うように叱責して来るのが自然だと分かってしまったのだ。天使フィフキエルの配下としての癖が抜けておらず、短絡的に行動しそうになっていたのを自覚しては文句も言えない。
黙り込むエーリカに対して、フゥ、フゥ、と荒い息を吐く刀娘の怒気は凄まじかった。
なぜこんなにも怒っているのか、実は自分でもよく分かっていない。ただなんとなく、全力でブチギレた方がいい気がしたのだ。そうしなければならないという使命感すらあった。
この得体の知れない感覚に刀娘が抗った試しはなかった。体の内側から湧き出るこの感覚に従う限り、悪いようにはならないという確信があるのだ。根拠はない。必要ない。
果たして不運と幸運の天秤は、後者へ大きく傾いた。
「そこな小娘、何をしておる?」
甲高い少年的な声。刀娘とエーリカに、無思慮に近寄る者が現れたのだ。
駅前で呆然と佇んでいた黒い『のっぺらぼう』である。
彼は二人の起こす騒ぎに気づいていた。いや、正確にはエーリカに殺意を向けられた時には気づいていて、仕掛けてくるようなら迎え撃ってやろうと身構えていたのである。
なぜか身内でコントを始めた様に毒気を抜かれてさえいなかったから、穏便な態度を取ることもなかっただろう。仮に何事もないまま声を掛けられていても、この意味不明な遣り取りを見て興味を持たなかったら完全に無視していた。
小学生男子みたいに小さく、しかし恰幅のいい体格をしている黒い人型。それに声を掛けられた刀娘は、ぎくりと身を強張らせて、ぎこちない動作で振り返った。
そんな少女を見て、『黒』はなぜだか眉を顰めたような雰囲気を醸し出す。
「あっ……か、神様?」
「ん? 如何にも麿は至高の軍神サマだが。斯く言う其方は……輝夜の……」
「っ……」
一目で生まれを見透かされた刀娘は戸惑いを覚えるが、神であるなら人の来歴を読み取る権能、ないしは眼力があっても不思議ではない。気を持ち直した刀娘は所作正しく跪く。
その際に横目でエーリカを睨み、黙ってろよと威圧しておくのも忘れない。
「御前にて騒ぎましたる無礼、平にご容赦を」
「……いい、いい。そういうヘタなゴマ擦りはマロの好くもんじゃあないわ。数奇な道を行く小娘の無礼に、一々目くじらを立てるほど狭量でもない。ソチは特別に許す、楽にせい」
へりくだって謝意を示した刀娘に対し、『黒』は何やら含みつつも立つように促す。
ちらりとエーリカを一瞥し、すぐに刀娘へ向き直った『黒』は仰々しく名乗った。
「マロは【国開き】にて一軍を従えておった、この日ノ本で最たる軍神デブデワイクである」
デブで……矮躯?
頓狂な名前に聞こえて。更に、名前の通りの姿をしているように見えて。刀娘は一瞬吹き出しそうになってしまったが、そこは気合で耐えた。
笑いを堪えられたのは、【国開き】というギルド名を直前に聞けたのが大きかった。【国開き】はアグラカトラがかつて属していた組織であり、そのアグラカトラが言っていたのだ。
古い神の名はどれだけの時が経とうと、人々の記憶からなくなることはないのだ、と。
人は自らを庇護してくれた神の名を決して忘却せず、子々孫々の遺伝子に受け継がれる。例えばアグラカトラも記憶に残っていて、胡座という座り方の呼称もあの女神が由来だそうだ。そしてこの軍神の場合デブという悪口と、矮躯という特徴が名前として残ったのだろう。
……なんでそうなった?
「マロへの拝謁には本来、相応の代償を支払わせるのだが、マロからソチに訊ねたき儀がある故、有為な答えを聞けたなら不問としてやる。心して答えるがよいぞよ?」
「はい」
尊大な態度と古めかしい言葉遣いはスルーして従順に頷く。
上位存在の意向には基本的に服従しておくのが鉄則だ。こちらから話を聞いたり、相手の言葉を遮ったりすれば殺されかねない。特に古めかしい言葉遣いをするようなタイプは、古い時代の価値観のまま振る舞いがちだ。こちらの話をしたいなら流れを読まねばならない。
軍神デブデワイクは『黒』の姿のまま、寺の釣り鐘を鳴らしたような声で言った。
「マロは友である武神、デイダラノッポより信じ難い話を聞き下界へ降臨した」
話の前置きに出された名前に刀娘は内心げんなりした。
何が悲しくて一日の内に二柱の神の名を知らなくちゃならないのか、と。
デブデワイクはそんな少女の内心など意にも介さずに続ける。
「マロ達の好むマモの味に、急に雑味が混じったというのだ。無垢なるマモの透明な味わい、それがあるからこそ此の世から離れずにいたマロ達にとっては由々しき事態である。輝夜よ、心して答えるがよいぞよ。いったいこの下界にて何があったのだ?」
輝夜って組織の名前で呼ばないでほしいが、刀娘はグッと文句を呑み込んだ。
訊かれてもいないのに名乗っても、うるさいの一言で切って捨てられるだろう。機嫌を害する恐れを犯してまで訂正する必要はない。
「………」
問い掛けにどう答えるか知恵を絞る。
ここで返答を間違うわけにはいかない。しかし正しい答えを出せる自信もない。
聞かれた事を正直に答えるのが正しいわけではないのだ。どうしたものかと気を揉んで、刀娘はすぐに思考を放棄した。こういうのは上に丸投げするのが大吉でしょ、と。
「蒙昧なる身には、御身の望む解をお伝えできる自信がありません。ですので御身と対するのに適していると思しき、我が神をご紹介したいのですが、如何でございましょう」
「おん? 神と申したか、輝夜よ?」
「はい。この身が奉じるは女神アグラカトラ様。あの御方なら……」
「アグラカトラだと? 我らが首領の悋気に触れ封印された、阿呆の極みのアグラカトラ?」
あ、やっぱりそんなふうに認識されてるんだ、あの女神。
刀娘もまたアグラカトラをアホだと思っているが、デブデワイクに同調しなかった。軽はずみに軽口を叩こうものなら、『同じ神として、神への侮辱は聞き流せん』とか言って怒り出しかねないからだ。口は災いの元、沈黙は金と弁えておかないといけない。
デブデワイクは少しの間、沈思を挟んでから口を開いた。
「……よい。久方ぶりにあの阿呆面を拝むとしよう。輝夜、マロを案内せよ」
「仰せのままに」
よし、と刀娘は内心ガッツポーズする。
手に余る事案は早々に手放すべし。これはもう人生の指針にしてもいいかもしれない。
そして、刀娘は仕事がデキる女だと自負している。立ち上がり様にエーリカを横目に見て、口パクで意図を伝えた。
エヒムさんを呼んで、と。
意外と言っては失礼かもしれないが、エーリカは殊勝な態度で頷いて駆け去った。
デブデワイクはそんなエーリカの存在を黙殺している。理由は明白だ、エーリカはエヒムの加護を受け、天力を持っているのである。事情を知らない日本の神であるデブデワイクの目には、エーリカは【教団】の犬にしか見えず、関わりを持つと面倒になると判断したのだろう。
良く言えば隠居の身、悪く言えば引き篭もりになっていたデブデワイクをはじめとする神々は、自ら日本のために動いたりはしない。自分達さえ無事ならどうなろうと構わないのだ。
――この時、刀娘には自覚がなかった。
人間世界の秩序、安寧を左右する重要なターニングポイント。
二つに一つの道の、一方を自らの手で選んでしまったのだということを。