43,人界のターニングポイント その3
お待たせしました。
「――さん。……ローさん。……ゴローさん!」
誰かの声がする。
誰かが、呼んでいる。
呼ばれてるなら、応えないと。
「んぁ? あぁ、暑い……寒い……?」
シチューの具材みたいに蕩け、煮崩れしていた脳が輪郭を取り戻していった。
寒暖を判じる感覚にバグがある。間抜けな呟きが漏れたのも、きっとそのせいだろう。
頭蓋骨というコップに、脳という水が注がれていくような、えもいわれぬ感覚と共に正常な自分へと回帰していく。すると暑くないし、寒くもないのだと悟るのは早かった。
今は十月の終盤、ハロウィン目前である。
秋の風に冬の吐息が混じるようになり、徐々に肌寒くなっていく頃だ。
いやに長引いた夏の日差しもすっかり落ち着いて、心地良いものになっていた。
レスポンスを返すのが遅かったからだろう、焦れたように誰かがオレの名前を呼んでくる。
「……ケイ?」
視線を落として声の主を見ると、呼びかけてきていたのは女子大生の熱海景だった。
彼女は中学生みたいな童顔に、杞憂を色濃く出している。オレに理性が戻ったのを悟ったのか、似合わないスーツを着込んでいるケイは安堵したようだったが、安心しきった訳でもないらしく、変わらず心配そうに覗き込んできている。
「大丈夫ですか? これで三度目です、体調が悪いなら休んだ方が……」
「三度目? 何が?」
訳が分からないことを言われる。三度目とは、何が三度目なのだろう。
周りを見渡す。
オレの一歩後ろには女子高生の春夏冬栗落花ちゃんがいた。
彼女も似合わないスーツを着ていて、オレも同じ物を着ている。三人共お揃いの格好だ。
そしてようやく気づく。オレ達は今、街中にいた。
見覚えのある街並みだ。ここは東京の渋谷区、道行く人は当たり前に多い。だがほぼ全員が好奇の目をこちらに向けている様から異様な雰囲気を感じさせられた。
なんでこの人達はこっちを見ている? 道を開けてくれるのはありがたいが――いや違う、皆はオレ達の前を歩く人を見ている。オレやケイ達には目もくれていない。
少し前を行く人もオレ達と同じスーツを着ている。すらりとした後ろ姿と、絹みたいな艷がある黒髪のポニーテールが印象的だ。馬の尻尾みたいに束ねた髪を揺らしながら歩いていて、オレ達は彼女について行っているらしい。
あまりにも綺麗なその姿に見惚れること数秒、その人に関する記憶を引き出せた。
この人はエヒムさんだ。道行く人達は誘蛾灯に群がる蛾のように彼女へと集り、しつこく食い下がっている。中にはスマホを構える人や、テレビ局の人らしいカメラマン、エヒムさんにマイクを向けてインタビューを試みる人までいた。
エヒムさんの表情はここからだと見えないが、少し気が立っているような雰囲気がある。自身に群がる人達が不愉快なのだろう、露骨ではないが穏やかな空気ではない。
「……あの人、何してんだ?」
ぽつりと零すと、ケイは眉根を寄せてオレの顔を見つめた。
オレを気にかけてくれているのが伝わる表情に、ちょっとした居た堪れなさを感じた。
「……あの人が何かしたっていうより、港区でのアレが撮影されてたらしいです」
アレ? 港区のっていうと、あの大勢の悪魔が襲ってきた奴か。
あんなことがあったら、そりゃあ何人かは動画で撮ってたりしても不思議じゃないな。
一人納得していると、ケイは説明を続けた。
「その動画とか写真にエヒムさんが映ってたみたいで、ここにいるエヒムさんがそっくりだって気づいた人達から話が広まって、色んな人が集まって来ちゃったんです」
「マジで? にしたって話が広まんの早すぎじゃね?」
「偶然もあるんでしょうけど、それだけ注目度が高いってことなんだと思います」
「確かにトレンドではあるんだろうけどな……」
東京での特大スクープだ、日本中が注目しているだろう。テレビ局とか、興味を持った個人とかが足を運んで来ているというのは想像に難くないし、なんならネットの配信者などもいるのかもしれない。そうなるとどうしても目立ってしまうエヒムさんの容貌からして、ちょっと出歩くだけで見つかってしまうのは分かる話であった。
「気になるのは分かるんだけど……なんか、ヤな感じ」
最後にツユリちゃんが無表情のまま吐き捨てると、そのタイミングで思い出した。
そうだ、オレ達はエヒムさんに言われて、港区に向かっているんだ。
とんでもない災難があった、あの悪魔の大群が暴れていた所に。
「………」
昨日のことだ。昨日、あんなことがあったばかりなんだ。ツユリちゃんの言いたいこともよく分かる。昨日あんな事があったのに、渋谷区の人達は当たり前の日常を過ごしている。
ああ分かる、分かるよ。あんなことがあって、みんな何がなんだか分かってなくて、都庁の人達もどうしたらいいのかすぐに判断できず、今頃どうしたものかと話し合っているのかもしれない。そしてその間に、日々の仕事を投げ出せない人達は日常を送るしかないんだ。
だからって納得はできない。アンタらこんな所で何をしてるんだ。危ないんだよ、とんでもない化け物が現実にいて、今この瞬間に何かが起こるかもしれないんだと言いたくなる。
けど、言うだけ無駄だろう。人は不確かな日常の中にいる。自分達の世界が薄氷の上に成り立っているのだと、ここにいる人達には想像することができない。
無知だからだ、何も知らないから平気な顔をしていられる。あんな訳のわかんないことで、今までの日常が消えて無くなるなんて想像できない。できるわけがないんだ。
仕方ないんだが、どうにももどかしい気持ちになる。
オレは頭を振る。オレは今まで白昼夢を見ていて、ボーッとしていたらしい。夢は見てないが、とにかくそういう状態にオレはなっていた。ケイの言う通りなら三回も。
気を取り直す。ツユリちゃんは周りに、馬鹿を見るような暗い目を向けていた。言葉にしていないツユリちゃんのモヤモヤが理解できるから、オレはその肩を軽く叩いて笑いかける。
「……ゴローさん?」
「そんな顔すんなって、オレ達だって巻き込まれてなかったらあそこにいたんだ。頭ん中にあるゴチャゴチャした恨み辛みは、元凶を見つけて纏めて叩きつけてやろうぜ。無関係の人達をそういう目で見るよりよっぽど建設的だろ?」
「……です、ね」
「で、オレらって何してんだっけ? ちょっとボーッとしててそこらへん曖昧なんだよな」
わざと馬鹿みたいに明るく言うと、ツユリちゃんは顔を逸らした。
フッと失笑気味に噴き出したのだ。気まずくなるが、ケイが応じてくれる。
「その調子だと、ホントに記憶が飛んでるみたいですね。覚えてます? 昨日の研修が終わって、今は皆が知り合って二日目なんですよ」
「……マジで言ってる?」
「マジです。ツユリちゃんもわたしも、ゴローさんも一日で研修が終わったんです。荒療治ですけど、荒事があっても怖がらず、冷静に立ち回れる処置をしたから充分だって言われて……」
「後は実地で学べ、って……エヒムさんの加護があるから、大丈夫らしい、です」
「あー……なるほ……ど?」
言われてみるとそんな気がしてくるが……駄目だ、昨日のことがあまり思い出せない。
こっちを見ないまま、ツユリちゃんが補足してくれた。ポツポツと呟くように。
「ウチ達は、どれだけ凄い力をエヒムさんに貰っても、ちょっと前まで何も知らないモブだったんです。だからいざって時に、敵に攻撃されたりしてビビってたら話にならないから、ウチ達の意識を調整するのが先決だって、テシガワラっていうお婆さんが言ってました」
「簡単に言うと昨日の研修で、あの人達はわたし達が人の形をしたものに攻撃しても、平気でいられるように洗脳したらしいです」
「せ、洗脳? 結構ヤバいことされてんのな、オレら……」
「けど合理的、です。正しいと、思いました。だからウチも受け入れてます。覚えてないようですけど、ゴローさんも同意してました。ボーッとしたりする理由は、分かんないですけど」
「――薬の副反応のようなものです。もちろんすぐに無くなりますし、実際に薬物を使用したわけではないので、後遺症が出て苦しむこともない。その点に関しては安心していいですよ」
自らに集る人達がいい加減鬱陶しくなったのだろう、『散れ』と強い語気でエヒムさんが命じていた。すると蜘蛛の子が散ったように、エヒムさんに寄っていた人達がいなくなる。
目を瞬く。明らかに尋常じゃない力が働いたのが分かった。今までなかったはずの新しい感覚、第六感みたいなもので、エヒムさんから不可視のエネルギーが発されたのを感じられた。
今の感じが天力って奴なのか。慣れない感覚にむず痒くなっていると、エヒムさんが口を挟んできた。エヒムさんはオレ達の遣り取りを聞いていたらしく、歩く脚を緩めてオレに並んでくれて、優しい語調で声を掛けてくれたのだ。
「ワタヌキくん、調子は戻りましたか?」
改めて見るとこの人、顔面凶器が過ぎるな。
美人過ぎて顔を見るだけで頭が茹でりそうだ。
声まで心地好く脳を震わせてくるんだから堪らない。
「う、ウッス……大丈夫ッス、心配掛けてすんません。そんで今更こんなこと訊くのは申し訳ないんスけど、なんで港区に行くんスかね」
初対面の時は気安く話し掛けていたが、今はなし崩しとはいえ曼荼羅とかいう会社に入社していて、エヒムさんはオレの上司って立場だ。口の利き方には気をつけておく。
オレの質問にエヒムさんは嫌な顔一つしなかった。オレの意識が曖昧になる前にもしたであろう説明を、もう一度丁寧にしてくれる。
「【輝夜】と事を構えるのがほぼ確定しているからです。街中にいたのでは周りに余計な被害が出かねないでしょう? 既に廃墟になっている港区にいた方が周囲を気にする必要がなく、無関係な人達を巻き込まずに済むはずです」
「へ、へぇ……」
「私としては【輝夜】に襲撃される前に【曙光】を叩いて大人しくさせたいのですが、アレらの動向は予測したくても判断を下せる情報がない。なので考えるだけ無駄になりますので、今は場当たり的に対応するしかないわけです」
嫌になりますねと嘆くエヒムさんに、オレは空返事で返すしかなかった。
嫌になるというのには完全に同意できる。まるでギャングの抗争みたいに、切った張ったが大前提の話をされても、昨日まで一般人だったオレには遠い話に聞こえてしまうからだ。
不慣れな話のジャンルに閉口すると、なんとも気まずい沈黙が落ちる。
エヒムさんはオレの反応が芳しくなくても気にしていないのだろう、前を向いたまま脚を動かしていたが、彼女が気にしてなくてもオレは気にする。気の利いた返事ができなかったからだ。勝手に気まずくなって黙るのが嫌で、不意に気になったことを訊ねてしまうことにした。
「そ、そういえばエヒムさん」
「なんでしょう」
「あの家具屋坂って娘こなんスけど、あの娘って今どこにいるんスか?」
家具屋坂刀娘。本名は匠太刀刀子だったっけ。
曼荼羅のバイト戦士だという彼女はこの中にいない。
昨日のことだ、あの娘は『かぐや姫』というお伽噺が実話を元にしたもので、自分はかぐや姫の子孫だと語っていた、ような覚えがある。その過程でヤバい所業をさらりと口にしていた気がするが、実情だけに着目すると彼女はオレ達と違って事情通である。
そんな家具屋坂が、オレ達はともかくエヒムさんといないのはなぜなんだろう。ちょっとばかし気になって訊ねてみると、エヒムさんはあの娘が別行動している理由を教えてくれた。
「ああ、刀娘ですか? 彼女には私から一つ、仕事を頼んであります。フィフとシモンズがあの娘についているので心配しなくていいですよ。収穫がなければ合流する手筈ですしね」
「は、はぁ……そっスか。よかったらどんな仕事か聞いてみてもいいっスかね」
「む……」
やべ、踏み込みすぎたか? エヒムさんが考え込むのを見て、オレは少し焦る。
顔色を伺って、マズそうなら謝っておこうと思うも、彼女は数秒悩んだ末にこっちを見る。
その表情には特に負の感情とかはなくて、オレはホッと安堵の息を漏らした。
「……そうですね、伝えておいても大過はないでしょう」
まるで自身へ確認を取ったかのような前置きをして、エヒムさんは言った。
「刀娘には特殊な技能があるそうで、自らの運勢を操れるそうなんです」
「は、はぁ……運勢を、っスか」
「ええ。その技能を活かして、できれば【曙光】や【輝夜】の目を引きつけ、港区へ誘引して来るのが刀娘に任せた役目です。上手く行けば一気に問題を片付けられるかもしれませんが、まあやれることはやっておこうか程度の浅知恵なので、期待しないで合流を待ちましょう」
運勢を操る技能が家具屋坂にはあると言われても、オレにはいまいちピンと来なかった。
大吉と大凶を選べるという事なのだろうが、それを選んだところでなんになるというのだ。
困惑してケイやツユリちゃんを見るも、彼女達も首を傾げて疑問符を浮かべていて、そんなオレ達の反応にエヒムさんは苦笑していた。
あるいはエヒムさんも、家具屋坂の真価を把握できていなかったのかもしれない。
後に合流してきた家具屋坂を迎え入れた時、この人も驚いていたのだ。
運勢を操る。これは良くも悪くも、破格の技能だったのである。
† † † † † † † †
マモとは魂を指す名称だが、神や悪魔をはじめとする超越者達はマモを持っていなかった。
超越者に『魂』がないのではない、マモは現行の人類に特有の資源ものなのである。
なぜマモが人間特有のものなのか、遡ると人間という種の成り立ちを直視せねばならない。
救世教の神書にも記されているが、人は天使をモデルとして設計された生命だ。である以上は人の起源が救世教にあるのは明白だと言えて、これは何者にも否定できない事実である。
だが人類の黎明期に活動していた、殆どの神々にとって人という被造物は真新しい存在であり、率直に言うとマンネリ気味だったゲームに提供された新鮮なコンテンツだった。
故に必然だ。
救世教の作品は他の超越者達の目にとまり、数多の人間が模倣品として作製されていった。
救世教の人間起源種と、その他の雑多な人間種が交わり現在の人類に繋がっているのだ。
並み居る超越者達に創造された被造物、人間が生命活動を行うための原動力としてマモを内包しているのは、こうした経緯を踏まえた上での偶然の産物であると言える。
救世教の人間へ搭載された魂と。他の超越者達が作製した、製造方法の異なる人間の魂。
双方が交配して混じり合うことで、偶然マモが生まれてしまったのである。
結果として現行人類は、多くの超越者からその価値を認められていた。
勢力間の駆け引きや戦闘の駒としてではない。
個々の無聊を慰める愛玩動物としてでもない。
食用の、家畜としての価値を認められたのだ。
一部の物好きが品種改良を施して生み出した、特定の血族は例外だ。しかしほぼ全ての人間は、人間が家畜として飼う牛や豚と同程度の存在なのである。悲しいがこれは事実だ。
(ブゥブゥ、モォモォって鳴いてるんじゃないってのにね)
――人の立場でこの真理を知った時、アタシはなんて思ったっけ。
アタシはふと湧いた疑義を、心の中で雑念だと切り捨てる。
幾ら手持ち無沙汰だからって、くだらない懐古に時を費やすほど酔狂ではなかった。
「……哀れだよね、普通のヒトっていうのはさ」
呟きながら東京都内を散策していると、いつもの日常にはない浮ついた喧騒が目についた。
お仕事のために出歩く営業マン、店舗で働いてたり、私用で出歩く老若男女。警察の人やカメラを持って彷徨くテレビ局の面々、個人で事件などを取り扱うネット配信者。色んな職種の色んな人達でごった返しており、東京都は今日も今日とて賑やかだ。
先日の人造悪魔による東京襲撃、埼玉のテーマパークで繰り広げられた惨劇、そしてアタシの手で鏖殺された、とあるビルの可哀想な人達。
昨日だけでどれだけの命が散ったのか、アタシもまだ正確には把握していない。
けれど悪魔という存在が公になってしまったのだ、そりゃあ何も知らない一般人でも、今の東京が非常に危うい状況下にあると、うすうす察していても不思議ではなかった。
これは、とてもマズイ。
大半の人間は家畜だ。しかも食用の。
可食部は全身、余さず食える。だが最も美味なマモに拘る超越者は少なくない。
マモは様々な摂取の方法があり、多様な味付けがあった。叩くもよし、愛でるもよし、親しむもよし。マモは人の想念で味が変わるのだ。畏敬、忠誠、信仰、愛情、哀願、憎悪、絶望。心を染める感情によって食する者を愉しませる。
必然。マモは不特定多数の超越者に愛されて、一部のグルメ気取りにも愛好された。
感性という点では神も人も同じだ。
超越者達の個性も多様性に富み、勤勉で善良な者がいれば、怠惰で害悪な者もいる。
そして最悪なことに、現在の人間世界から前者の善良な者達はほぼ退去ログアウトしてしまって、残っているのは怠惰で偏屈で害悪な存在ばかりになってしまっていた。
彼らは基本的に何もせず、どこかに引き篭もりグータラしていて、気が向いた時にマモを摘まんで食べて、気紛れに悪徳を嗜む時もあれば善行で遊ぶ時もある。
しかしこの世界に飽きて去っていった超越者達と異なり、未だ残留している者達には偏屈なところがあり、アグラカトラ様が言うには数体、偏屈でグルメな神がいるという。
ソイツらは人間の無知で無垢な想念に染まったマモを好んでおり、自分のような超越者の存在を忘れてしまった、現在の人間達の在り方を望むようになっているらしい。
(つまり超越者の存在を人間が認知するのを認めないって事)
知ってしまったら味が濁る。だから人間は無知であるべきで、愚かなままでいるべきだ。
そんな嗜好を持つ神々と知己の間柄であるアグラカトラ様は、こう称して笑っている。『怠惰で無責任な上に、癇癪持ちで自己中心的なスーパーウルトラクレーマー』と。
(最悪じゃん)
ほんとに最悪だ。日本列島を活動拠点にしていたアグラカトラ様と知己ということは、ソイツらもまた日本に居る可能性が濃厚になってくる。
もしもソイツらが今の人間からマモを摂取したりなんかして、あれ? なんか味が濁ってるな、なんて感想を持とうものならどうなることやら。
今頃【輝夜】の人達も頭を抱えているだろう。実父の武蔵屋も相当焦っているはずだ。
「………」
アタシはフルフェイスヘルメットを被って、ネクタイを締めたスーツ姿の女を横目に見る。
この変質者、エーリカ・シモンズは人間の『例外』に区分される、特定の血族の一人だ。
下界保護官の一人、天使フィフキエルの直属の部隊【天罰】の元構成員であり、あの人の副官をしていたという才媛である。今はどうしてかエヒムさんに従ってるみたいで、エヒムさんの指示でアタシの供廻りをさせられている。この人といると、人の縁って複雑だと実感した。
「あのー、シモンズさん?」
黙ってついて来るシモンズさんに、なんとも言えない気まずさを覚えつつ声をかける。
ついて来るのはいい、エヒムさんの頼みだから仕方ない。黙っているのもいい、共通の話題なんかないから。でもどうしてもこの人の格好が気になってしょうがない。
「なんだ?」
言葉短く、端的にレスポンスを返してくるシモンズさんに、アタシも率直に訊ねた。
「なんでそんなヘルメット被ってるんです? 正直、悪目立ちしかしないと思うんですけど」
「エヒム様の思し召しだ。亡きフィフキエル様のお側に侍る栄誉を賜っていた私は、光栄にも他の下界保護官様との面識もある。これは私の面貌や加護の気配を隠すために、エヒム様から下賜された特別な品だ。伊達や酔狂で被っているわけではない」
「へ、へぇ、そんな凄い物なんですね……あと日本語も堪能でいらっしゃる、と」
ここまで余り喋らなかった上に、シモンズさんは外国の人だから不安しかなかったが、どうやら言葉での意思疎通に問題はなさそうだ。
アタシがちょっと安心しながら呟くと、それが皮肉めいて聞こえたらしいシモンズさんは、ヘルメットのバイザー越しにアタシをじろりと睨みつけてくる。
「エヒム様の恩寵だ。日本語を十全に理解しろとのお言葉を賜った故に、こうして日本語を話せるようになった。そんなことより、私などとの話に気を取られている場合か?」
どうやらシモンズさんがアタシと普通に話せているのは、エヒムさんの『言霊』による恩恵らしい。エヒムさん凄すぎない? なんて感心してしまうも、シモンズさんは呆れていた。
どうしたんだろうと、彼女が向けた視線を辿って前を向く。すると、目が点になった。
「え?」
東京都新宿区。世界有数のターミナル駅である新宿駅。
そこにある雑多な人だかりの片隅に、ぽつねんと一つの人型が佇んでいた。
どこか途方に暮れた、迷子の子供のような雰囲気があって、善良な人なら声を掛けてしまいそうだったが、どうしてか誰も彼もが無視している。まるで、見えていない・・・・・・かのように。
「――――」
見えていないのだ。見えているわけがない。
だって、ソイツは。
全身が真っ黒で、影のように真っ黒で、墨汁で真っ黒に染められたような奴だった。
人間じゃない。
アタシは絶句した。アタシは悟ったのだ。
野生の神様がそこにいた。