ぐるぐるめぐる
ひとが死ぬ描写があります。
『みるくセンセ、詩は書けないって言ってたじゃないですか~』
『この詩、素敵ですね。ブクマ!』
『みるくさん新境地(*^▽^*)』
『夏みるくさまはじめまして。ハルカミライさまのブログから来ました。ブクマしました。次の作品期待してます。』
『いい』
『こっちのページで紹介してもいいでしょうか?』
「久那」
はっとして、鶴見久那はケータイをエプロンのポケットへ突っ込んだ。
レジカウンタの向こうには姉の桃音が立っている。「なに、ケータイいじってんの。遊んでないで、品出し」
「あ、ハイ」
「あはいらない。ほんとにぼーっとしてるんだから」
姉はぷいっと顔を背け、外へ出て行った。ほうきとちりとりを持っていた。掃き掃除をするのだ。ちらっとガラスの向こうに見える姉は、ひとに注意できる程やる気のある動きではなかった。
久那はポケットからケータイをとりだし、もう一度画面を見て、にやにやした。そこには、久那が投稿いた詩に対する賛辞が並んでいる。なかには、恋してしまいました! なんて感想もあった。
久那は19歳の、浪人生だ。大学受験は失敗した。試験をうけて落ちたのではなくて、インフルエンザで試験どころではなかったのだ。
久那は推薦をうけられるような才能も頑張りもなにもなく、専門学校だとかそこからでも間に合う短大だとかにも興味がなくて、一年休むことにした。
久那の家はコンビニ兼喫茶店をやっている。
久那が小学校に上がる前までは、細々と豆腐屋を続けていた両親だったが、母が腰を壊して豆腐をつくれなくなった。そもそも跡取りだったのに、販売や仕入ればかりやっていて、豆腐づくりは母に丸投げだった父は、一瞬で豆腐屋を辞めることを決意した。
大手チェーンコンビニのオーナーになって、更に母の要望で小さな喫茶店を併設するくらいの金はあった。久那が写真でしか知らない祖父母の保険金がもとだときいている。
久那が小学校に上がるのをわくわくして待っている間に、古くてくらいところばかりだった家は壊され、よなかまで明るい家ができあがった。
姉も久那も、小学校から戻ると喫茶店で宿題をし、コンビニで好きなお菓子を見繕って部屋でゲームをしたり本を読んだりしていた。久那は高学年になると、コンビニでも喫茶店でも手伝いをしていたが、姉は中学でも高校でも、ずっと家にこもった。
姉は成績がよく、久那は学校でいつも比較されていた。学年がふたつしか違わないから、中学でも高校でも姉はいつも校内に居て、久那がテストで悪い点をとったりすると、お姉さんは……と先生のお説教がはじまる。久那はそれをじっと聴いたが、いい気分はしないし、姉のようになろうと思ったことは一度もない。コンビニや喫茶店の手伝いも、寝る時以外はずっとお店に立っている父母のかわりにやる掃除や洗濯も、桃音は一切やらないからだ。
父母は成績のいい姉に甘く、久那は怠け者だからとお手伝いはどんどん増えた。それがない時間に姉は勉強しているのに、と思ったが、久那は口が重たく、そういう抗議はできなかった。
姉は大学へ行ったが、半年ほどで休学し、寮から戻ってきた。まわりのレベルが低すぎていらいらするから、といっていたが、よくよく話を聴くと、要するに寮内で洗濯をしていて笑われたことが気にいらなかったのだ。
成績トップだった姉は、まともに洗濯機も操作できないことを認めたくないようで、戻ってきてからしばらくは家電メーカーのホームページに日参し、各メーカーの洗濯機の取扱説明書を読んでは鼻を鳴らしていた。
姉はまだ復学していないし、久那は予備校にも行かずにコンビニと喫茶店で働いている。久那は特別頭がいい訳ではないが、指示されたことはさっさと済ませるタイプなので、父母から重宝された。あれだけ怠け者だといっていたくせに、久那が居るからと、父母はバイトをふたり辞めさせた。
久那はケータイを仕舞い、バックヤードから品物を運んで、棚へ並べる。久那の家のコンビニでは、野菜やくだものは扱っていない。すぐ近くに八百屋さんがあるからだ。そこの奥さんと母が幼馴染みで、義理立てしているのである。コンビニチェーンの偉いひとから叱られないのが不思議だったが、母が特別に許可をもらっているらしい。
お弁当も、売っていなかった。隣の喫茶店に置いてある。なので、コンビニは、本や雑誌と、お菓子、お酒がメインの商品だ。
久那はお酒を指定どおりにディスプレイし、立ち読みで表紙が折れてしまった雑誌を舌打ちとともに棚から排除し、少なくなったお菓子を補充した。雑誌は表紙が傷みやすい。また、お父さんに叱られる。
久那は近頃、働きはするものの、ケータイをいじっている時間が長かった。家族の誰にもないしょにしているが、こっそり書いた小説をネットで公開しているのだ。
きっかけは姉だった。
小さい頃から、小説家になる、といっていた姉は、中高ともに文芸部に所属していた。「部活動でつかう」という建前でノートPCを父に買ってもらい、その実部の同人誌に寄稿したのは中学で一回、高校で一回、しかも高校時代のものは中学時代のものの焼き直し、というていたらくだったが、姉はまだ、自分は小説家になるのだと友達や親戚に吹聴している。だが、毎日マニキュアを塗りながら電話で友達とけたたましく喋り、三日に一回くらいふらっとどこかへ出掛けるばかりで、キーボードを打っている姿なんてめったに見ない。
その姉が、久那がインフルエンザからまだ完全に快復していない頃に、薬を持ってくるついでにべらべらと喋っていた。「久那、あんたこのサイト知ってる? 『書いてみる?』っていうんだけど」
なんとなくききおぼえはあった。だからそういおうとしたが、姉はケータイを握りしめたまま亢奮気味に続けた。
「これ最近、うちでよく売ってる小説が載ってるサイトなんだよ」
その言葉で、はっきり思い出した。品出しの時に、「『書いてみる?』発! 超人気ファンタジー!!」と、帯に赤地で書いてあった本があった筈だ。
久那は布団にくるまったままで頷いた。姉は久那がのむ薬のシートを握りしめたままだった。
「あたしここで小説書こうと思うんだ。誰でも投稿できるんだよ。いろんなひとから読んでもらえるの。バカ女はあたしの作品けなしたけど、ここなら正当な評価がもらえる筈だもん」
どうやら、誰でも好きに文章を書いて、公開できるサイトらしい。またお金がかかるのかな、と久那は思った。
バカ女とは、中高と姉と同じ文芸部に居た、添島明日花よいう女生徒だ。姉は表面上、彼女と親しくしていたし、部の集まりで喫茶店に来たこともあった。でも姉は、たった一度批判されたことをずっと覚えていて、彼女の作品を同人誌に載せないように部長に働きかけたらしい。なんかくらい詩でさ、読んだら死にたくなっちゃいますよって部長にいったら部長も否定しなかったの、だからあたしがいわなくても同じだったと思う。姉はそういっていた。
姉は『書いてみる?』についてまだしばらく喋り、薬をシートごと久那の枕許へ置いて、軽いあしどりで出て行った。久那は苦労してシートをとったが、水がないのでのみようはなかった。
姉は数日、機嫌がよかったが、次第に不機嫌になっていった。
久那はインフルエンザから復活し、浪人を決めてコンビニのレジに座っているようになってから、ケータイで『書いてみる?』を検索した。利用者数百万人という大きなサイトで、トップページにはジャンルごとのランキング、よく検索されるキーワードのランキングなどがのっている。そこには、久那の家で売っている本と同じタイトルも、ずらりと並んでいた。
姉の作品はすぐに見付かった。姉は本名で活動していたのだ。
前書きには「耽美小説」だとあったが、難解な言葉や耳にしたことのない言葉、普段つかわないような漢字を羅列している、よくわからない恋愛小説だった。その作品を誉めているひとはひとりも居ないし、「応援ポイント」というのは2しかはいっていなかった。
久那は利用規約や、ヘルプページを確認した。
それによると、サイトに登録すると文章を公開できるだけでなく、好きな作品をブックマークしたり、感想を書いたり、いい作品だと思ったら応援したりできるらしい。応援ポイントはひと作品につき10までで、姉の機嫌が悪いのもよくわかった。
久那はなんの気なしに登録した。姉のように本名でやるのはこわかったので、本名のアナグラムの「夏みるく」にした。
久那は最初、姉の動向を観察する目的で登録した。毎晩お風呂上がりに姉のページを確認したが、姉は二作目を一向に投稿せず、「今日の活動」というブログのような機能ばかりつかっていた。
それも、「キーボードを打ちすぎて腱鞘炎です」とか、「バイトが忙しい」とか、「課題が大変で」とか、二作目を投稿しないいいわけを、居るかどうかわからないファンや読者にしている。「妹にインフルエンザをうつされた」と書いてあった時には笑ってしまった。その日、姉は友達と「執筆の勉強として」、映画を見に行っていた。
久那は姉の作品を数回読んでいたが、ある日、応援ポイントが増えているのに気付いた。19になっている。だから、少なくとも追加でふたり、姉の作品をいいと思ったひとが居たのだ。姉は「今日の活動」で、あたらしいポイントがはいったことを自慢していた。
それを見て、自分にも書けるのではないかと思った。
久那は昔から、悪夢ばかり見る。
夢のなかでは久那は、自分だったり、家族の誰かだったり、友達になっていたり、まったく知らない誰かのつもりで居たりする。
はじめは普段の通りの行動をしていることもあるし、はじめからなにかこわい目にあっていることもある。
久那は大概、夢のなかで死んだ。四割は殺されている。後の四割は自殺で、残りは事故死や自然死だ。
なかには、しっかりしたストーリーがあってから死んだり殺されたりする夢もあって、久那は日記にそのことを書いていた。箇条書きのようなものでも、文章にして頭から追い出さないと、ずっと覚えていてこわいのだ。
久那は小学生の頃からつけている日記を一冊、物置の段ボール箱のなかからとりだして、半日虫干しした。夜になってそれを読み返すと、小学生の辿々しい文字で、自分がどんなふうに殺されたのかを書いてある。読むうちに記憶がよみがえって、鳥肌が立った。
ただやはり、ストーリーとしては面白い。
久那は、ケータイをつかって、その夢の内容を文章にしていった。読むだけのつもりで登録した『書いてみる?』だが、久那がユーザーであることは間違いがなくて、ユーザーは小説を書くページをつかえるし、投稿もできるのだ。
書いているうちに面白くなってきて、久那は文章を夢中で打ち込んだ。
これは今日中には完成しない、と気付いたのは、深夜を過ぎてからだ。投稿できる長さを超えたから、ファイルを保存できなくなった。
久那はそれを分割して保存し、最初の二千字を、「異世界に転生したら勇者に恋された魔王だった」という連載小説の最初の一話として投稿した。
投稿する前に、「てみるで連載投稿する時はこうしたほうがいいよという書籍化作家のひとりごと」というエッセイを読んで、どうせなら目立つように、細かくしていろんな時間に投稿しようと思ったのだ。
投稿して、文章を分割して保存し、「今日の活動」に「初投稿!」というタイトルの記事を書いた。気になって小説ページを覗いてみると、ブックマークがふたつつき、応援ポイントも20はいっていた。すぐにお姉ちゃんに勝った、と思うと、久那は気分がよくなって、その晩はとびきりの悪夢を見た。
翌日、ブックマークは5に増え、応援ポイントも45になっていた。ブックマークをしても応援をしないひとが居るとは、エッセイで知っていたので、ブックマークが増えただけで嬉しかった。少なくとも姉の、訳の解らない短編小説より、自分の作品は応援されているのだ。
久那はその日、レジの合間に二話、投稿した。
ストックは沢山あった。久那は夢をそのまま書いているだけだから、次の展開に困って筆がとまるとか、主人公が思い通りに動いてくれないということはない。ただ、夢で見たそのままを書いているから、自分の好きなキャラクターを殺さなくてはいけなかったり、いやなことをいわせなくてはいけなかったり、そういうつらさはあった。
それでも、それまで姉の動向を観察し、お気にいりの小説を読んでいた時間を執筆にあてれば、一日に二万字くらいなら書けた。感想文やレポートは苦手だったし、文章が汚いとか美しくないとか父母や姉に笑われてきたので、こんなに文章を書けるなんてと不思議だった。
ブックマークは毎日、少しずつ増えた。
ブックマークが100になったら家族にいおう。そう思っていたのに、姉に「たったこれだけなの」とばかにされたくなくて、100になっても黙っていた。
200、500,1000、1500……目標を決めても、その数字になると尻込みする。
ある時を境に、ブックマークが増えにくくなった。
久那は、いろんなエッセイを読んだ。久那のように、ブックマークが増えない、と嘆いているひとは多かった。とても共感したエッセイがあって、初めて感想を書いた。そのエッセイを書いたひとも、学校では文章をあまり評価されなかったそうだ。でもエッセイは読みやすかったし、メインで連載している作品も凄く面白かった。
その日のうちに返信が来た。「夏みるく先生」と呼ばれるのがくすぐったかった。
久那は、「荒れる」ときいて、こわくてオフにしていた感想機能を、オンにした。すぐに、「連載初期から追っかけてます!」と、ハルカミライというユーザーが感想を書いてくれた。それからも幾つか、その日のうちに、複数の感想がついた。
久那は気にいっている作品に感想を書き、好きなユーザーの「今日の活動」にコメントを書いた。実際に喋るのとは違って、考えてから書き、違うと思ったら書き直せる文章は、コミュニケーションをとるのにはとてもやりやすかった。
何人かとは、それから交流するようになった。
久那の精神は落ち着いたが、ブックマークは相変わらず伸びなやんでいた。前は毎日、最低でも五件は増えていたのに、最近は週に三件増えればいいほうだ。
夏が来て、久那は夏バテで、しばらく『てみる』を見なかった。その頃には日時を指定して勝手に投稿してくれるシステムを利用していたから、放っておいても平気だと思った。
五日たって戻ると、ブックマークがみっつ減っていた。まだ1500以上あるのに、減ったみっつが久那に大きなダメージを与えた。
誰かがレビューを書いてくれた。今まで接点のないユーザーだ。久那はそのひとにお礼のメッセージを送り、そのひとの「今日の活動」を読んだ。
彼は(性別を明記する必要はないが、文章の感じから歳上の男性だと思った)いろんな作品に感想やレビューを書いていた。別のユーザーの作品に久那が書いた感想から、久那のことを知ったらしい。レビューのお礼メッセージに、そう返信が来た。
彼はしばらく、感想やレビューを書き、気にいった作品を「今日の活動」で紹介するだけだったが、詩を書いて投稿するようになった。
それは、久那の影響らしい。
久那の連載小説にはたまに、「詩みたい」「みるくちゃん詩も書けるんじゃない?」というような感想が書かれることがあった。それに関して、二回目の「今日の活動」で触れたのだ。久那は小学生の頃、国語の授業で詩を書き、担任にも家族にも笑われたことがある。作品はその後廊下へ掲示する決まりで、ほかの学年の子からも笑われた。だから、詩には苦手意識しかなく、書けないし、書いてもきっと駄作だと、そんなふうに書いた。
彼がコメントをくれた。『今まで読むだけだったけど、しばらくぶりに詩を書いて投稿します。最初の作品はみるく先生宛てでいいかな(^^)』と。
彼の詩はすぐに投稿されて、久那はそれを読んだ。自分には書けない表現だと打ちのめされた。とてもいい詩だった。
その作品はあっという間に応援ポイントを三桁得て、彼を誉める感想であふれた。短い詩なのに、レビューがふたつもついた。
久那は胸が痛かった。
彼はその後、数本の詩を投稿し、それも高く評価された。そして、連載小説をはじめ、そちらもブックマークが沢山ついて、ほんのふた月で人気作家になった。
久那は自分の半年を虚しく感じた。自分は毎日四千字くらい投稿しているのに、彼は毎日投稿ではなくてもあんなにブックマークがついている。そう思うと、今まで落ちたことのない執筆ペースが乱れはじめた。
久那は仕事でもミスをした。些細なミスでも姉が両親にいいつける。久那は飽きっぽくて怠け者だと、家族はみんなそう決めているので、仕事にも飽きたのかと怒鳴られた。わたしがお姉ちゃんのミスをいうと、ひとのあらさがしをするなと怒るくせに。
久那はいらいらしていた。とりあえず、連載作はふた月分、ストックがある。ほかの夢も書いて、短編で投稿しよう。そう思った。物置の段ボール箱にはまだ沢山の日記がある。
突然「デート」といって出掛けた姉の所為いらいらがつのり、くたくたになった久那は、物置から段ボール箱をそのまま部屋へ運んだ。箱はかび臭くて、中身を出して捨てた。久那は日記のなかに、見覚えのないノートを見付けた。
『みるく先生はどんなマンガが好きだった?』
『あんまり読んでないです。アニメは見てたけど、うろ覚え』
『やっぱり、異世界魔王みたいなファンタジーものかな。みるく先生は、とても可愛い、キラキラした文章を書きますよね』
久那は微笑んで、返信を打ち込む。彼のメッセージへの返信だ。本当はお手伝いが忙しくてマンガもアニメもそんなに親しんでいないが、彼がそういったものを好きらしいので、話を合わせていた。そうですね、魔法少女ものを見てたかな、とかなんとか、書いた。
『みるく先生のイメージに合いますよ』
『そうですか? ろーど ぱんださまは、やっぱり詩集なんか読んでました?』
『あたり(笑)。高校生の頃、文芸部で詩集を作ったよ。文化祭で売ったけど、買ってくれたのは部員の家族だけだった』
『その頃から素敵な詩をかいてらしたんでしょ』
『みるく先生の審美眼は厳しいからな。どうでしょうか。それよりも僕は、酷評されたっていうあなたの詩が気になりますよ。ここで公開したらどうかな』
どきっとした。
久那は、日記のなかに紛れていたノートを見た。それは、久那が通っていた高校指定のものだ。
『わたしは書けません』
『そういわずに。だったら、メッセージで僕にだけ、読ませてくれない?』
久那はケータイの電源を落として、布団を被った。
詩の書き方講座、というエッセイを見付けた。
久那はそれを読んだが、内容はほとんど頭にはいらなかった。
わかったのは、連載一本だけよりも、短編小説も投稿したほうが多くのユーザーの目に触れるし、メイン作の集客も見込める、ということだけだ。その作者は、詩やエッセイを書けば、まったく違うジャンルからもお客が来てくれると書いていた。
彼が「今日の活動」で、いろんなひとがもっと詩を書くようになればいいのにと書いていた。詩を読んでみたい作者として、「夏みるく」は一番最初に書かれていた。
久那は詩を書こうとしたが、吐き気がしてきて辞めた。
相変わらずブックマークは増えない。
彼が、自分が働いている農園の写真を、「今日の活動」にアップした。彼は前々から「農家の息子」だといっていた。昔はもっと都会に住んでいたけれど、高校在学中に両親が農家を継ぐことになって、田舎へ引っ越したそうだ。大学は行ったけれど、結局農家の血が騒いで今は農業してます、と。
久那はお財布と、通帳をたしかめて、親に幾らかねだれば会いにいけると思った。久那はバイト代をもらっていない。月々のケータイ料金や、毎日の食費があるからだそうだ。
久那はお金のことを親に頼めなかった。書籍化すればお金が手にはいるのにと思った。
彼の「今日の活動」には、とあるユーザーが彼を訪ねたという「今日の活動」へのリンクが張られた。彼とそのユーザー、あら浦トウゴは、どちらも夏みるく=久那と親しくしてくれている。あら浦トウゴは飛び入りで農作業に参加し、夜には彼と彼の家族と、地元のおいしいお酒を吞み、おいしい野菜と鹿肉を食べたそうだ。
久那が「わたしも行ってみたいなあ」とコメントを書くと、「今度は三人で吞みましょう」と誘われた。久那は、行きたいけれどお金がないのだとは、口が裂けてもいえなかった。
久那は詩を投稿した。
翌日、感想やレビューがついた。詩だけでなく、メインの連載小説にも。ブックマークもどんどん増えた。ずっと前の「詩が苦手」だという「今日の活動」に、これ嘘じゃん、とからかうようなコメントがついた。
メッセージも来た。久那の詩に感動したというひとからだ。メイン作もブックマークしたとあった。彼が詩にレビューをつけてくれた。
久那は嬉しかった。こうやって目立てば、自由になるお金が手にはいるかもしれない。
その日、姉は機嫌が悪かった。無言電話があったそうだ。
久那はまた、ケータイを見てにやにやしている。投稿した詩はどれも高く評価され、彼も誉めてくれた。みるく先生はなんでも書けるねといわれて、凄く嬉しかった。
姉が戻ってきて、久那はケータイを隠す。「品出しすんだ?」
「うん」
「ハイでしょ」
「ハイ」
姉は偉くもないのに、働いている時は敬語をつかえと久那に命じている。久那は、面倒なので従っていた。
姉は最近、出掛けることが減った。無言電話が増えて、家にもかかってくるし、コンビニや喫茶店にもかかってくる。それに、夜道でつけられた、と喚いていた。警察に届けたけれど、姉の態度が悪かった所為か、そのあと巡回が増えたようなこともない。
姉は棚からお菓子をとって、バックヤードへはいっていった。「あたし休憩する」
このところずっと休憩じゃない。お父さん達に見えるように、たまに外の掃き掃除するだけで。
バックヤードから出ると、二階の住居へ通じる外階段がある。姉がそこをあがっていくあしおとがきこえた。久那は姉が持っていった分のお菓子を清算した。姉は絶対にお金を払わない。きちんと清算しておけば、毎月終わりに親に報告できる。
お客さんが来て、久那は対応した。それから夜までずっと、ひとりで働いた。
「なんかさあ、こいつの書いた詩、見覚えあんのよね」
喫茶店が終わって、母と父がコンビニに居る時間、久那と姉は閉まった喫茶店で余りものを食べる。このところ毎日、クリームシチューだ。
向かいの席で不機嫌そうだった姉が、ケータイを突き出してきた。久那はそれを覗きこんで、どきっとする。
『夏みるく』のページだったのだ。
姉はケータイをひっこめ、操作した。「メインのクソつまんないファンタジーはぺらぺらした文章で、一人称で子どもっぽくって、擬音ばっかなの。あたしでも書けるよあんなの。でも詩はそこそこ書けてるのよね。当然、あたしが小学校の頃に書いた詩のほうが上手だけど、ラノベのパクりみたいな文章書いてる人間が書ける詩かなって思ってさ」
姉は、自分は審美眼もあるのだと、そういいたいらしい。しばらく夏みるくの批判をして、気分がいいみたいだった。
「そんなにいうなら、お姉ちゃん書いたら」
そういうと、姉は久那を睨んだ。久那は怯まずに、ケータイを顎で示す。「その、夏みるくってひとの小説にさ、こんなのつまんないって、指摘してあげたらいいじゃん」
姉の目付きが和らいだ。そうねえ、と嬉しそうにケータイを操作する姉をテーブルに残し、久那は自分がつかった食器を綺麗に洗って、お風呂へ走った。
「鶴見桃音」のページが荒れた。
姉はばか正直に、久那の作品に突撃をかけ、長ったらしい感想を書いていた。その感想は、姉の投稿したたったひとつの作品よりもずっと長文で、陳腐極まりないものだった。久那がつかっている表現がおかしいとか、漢字が読みにくいとか、何話のどの部分がなんという作品に似ているとか、そういったことだ。
久那は辞書を引いて言葉の意味を調べてつかっているから、姉の指摘は的外れだし、漢字についても作品の雰囲気に合ったものを選んでいるにすぎない。パクりに関しては、もとの作品を知らないのでなんともいいようがなかったが、別のユーザーが「まったく似ていない」と自分の「今日の活動」やブログで怒ってくれた。感想でも、いろんなユーザーが庇ってくれた。
姉はいいわけだけの「今日の活動」を続けていて、そこに大量の批判コメントがついた。作品の感想にも、訳の解らない自己陶酔しているだけの文章だとか、なんという詩人のこの作品に似ているとか、猛烈に攻撃されていた。
姉は感想機能をオフにし、「今日の活動」にもコメントをつけられないようにして、すべての感想とコメントを削除した。その作業はレジカウンタの奥で行われていて、久那はひさしぶりに駐車場を掃除した。姉は適当にしか掃除しておらず、駐車場の一角に煙草の吸い殻がたまっていた。
「またつけられたみたい」
がらんとして寒い喫茶店で、灯をふたつだけつけ、姉妹は向かい合って座っている。久那はカレーを食べながら、ケータイで動画を見ていた。
「また? いつ?」
「今日、本屋から戻る途中」姉は情感たっぷりに間を置いた。「あたしあいつのこと知ってるみたい」
久那はケータイから顔を上げた。
「誰なの」
「稲郷。稲郷新」
久那は少し考えて、その名前を思い出した。姉と文芸部で一緒だった男子生徒だ。喫茶店が文芸部の会合の場になっていたので、知っている。あだ名は「アララ」。舌に生まれついて障害があり、手術をしてもうまく自分の名前を発音できず、目がぎょろぎょろしていて色黒なのもあり、いつもからかわれていた。
姉は久那が焼いた目玉焼きをのせたカレーを、スプーンでつつく。「あいつ、昔からあたしに気があったのね」
それはない。久那は知っている。姉が毛嫌いしていた明日花と、稲郷は親しかった。久那は、障碍を理由にからかわれてもやり返さなかった稲郷に、少しあこがれていた。
彼女と親しかった稲郷が、彼女を文芸部から排除しようとしていた姉を、好きになる筈がない。
だが、姉はそう決めていて、機嫌がいいみたいだった。
久那はしばらくぶりに、本屋へ行った。彼の詩集が出版されたからだ。
予約はしていなかった。久那は平積みになっている詩集を一冊とって、裏表紙の折り返しを見た。そこには彼の写真があった。久那の想像していた通り、恰幅のいい、三十手前くらいの男性だ。久那が思っていたよりも色白で、笑顔はぎこちない。
詩集を買って、読んだ。てみるに投稿されていたものがほとんどだが、いつつ、あたらしい詩が含まれている。昨夜、それについてメッセージをもらった。『そのうちのふたつはみるく先生宛てだよ』
どれが自分宛てのものか、久那にはすぐにわかった。「夏の貴女は魔法をつかう」と、「夢見る君は」だ。久那はそれを読んで、充たされた気分になった。
その晩、見慣れないユーザー名からメッセージが届いていて、それは久那の作品を出版したいというものだった。
『書いてみる?』は、幾つかの出版社と提携している。人気作を書籍化する際に、帯に『書いてみる?』発であることを明記するなどがルールで、そのかわりにどの作者に書籍化を持ち掛けてもいいらしい。
久那は数回、出版社のひととメッセージをやりとりし、てみる運営とも連絡をとった。どうやら、怪しい話ではないらしい。
編集者は、久那の投稿した詩がランキングにのっているのをきっかけに、メインの作品を読んだそうだ。あのエッセイに書いてあることは本当だったんだなあと久那は感心した。
書籍化までには沢山のステップがある。
編集者さんは久那の作品を文句なく面白いといってくれたが、会議で編集長が難色を示したらしい。文章が長すぎるし、時代小説みたいな古臭くてわかりにくい表現がある。それに、改行が少ない。
だが、その点をクリアすれば、書籍化できるそうだ。久那は作品を推敲することにした。PCがなくて作業が進まないので、ネットカフェへ行って、そこで作業することにした。新幹線代は工面できなくても、数回ネットカフェを利用できるくらいのお金ならある。
おそるおそるネットカフェにはいってみると、受付に稲郷が居た。あちらは久那に気付いていないらしい。だが、久那は挨拶した。「稲郷さんですよね。鶴見の妹の……」
「ああ、久那ちゃん」
稲郷はにこっとしたが、頬がこけている。なにか不幸でもあったような顔付きだった。
久那は二時間、推敲をし、USBメモリに文章を保存した。ドリンク飲み放題だと稲郷からきいていたので、アセロラジュースを飲んだ。
時間いっぱいまで粘ってから返ろうとすると、出入り口外の階段まで稲郷が追いかけてきた。「久那ちゃん、忘れもの」
「あ、ごめんなさい、ありがとう……」
帽子だ。普段は被らないけれど、姉や姉の友達に見付かりたくなくて、被ってきた。
久那が慣れない帽子を被ろうとしていると、稲郷が器用に被せてくれた。「ありがとうございます」
「ううん。久那ちゃん見てたら、明日花のこと思い出しちゃってさ。明日花、いつも帽子が曲がってたんだ。彼女もアセロラジュース好きだったろ?」
明日花。
姉が毛嫌いしていた女生徒だ。たしかに、喫茶店に来た時に、アセロラジュースありませんかといっていた。
「そうでしたね」久那は頷いた。「明日花さん、お元気ですか」
稲郷は表情を曇らせた。「彼女、自殺したんだ……同人誌に採用してもらなかったの、ショックだったみたいで」
久那は謝って逃げた。明日花が自殺していたなんて、知らなかった。
でもほっとした。
それからも数回、推敲のためにネットカフェを利用した。PCをつかいに来るだけの久那は、稲郷からめずらしがられた。
「久那ちゃん、動画も見てないでしょう?」
「あ、ハイ」
たまたまバイトあがりだという稲郷が、近くまで送ってくれることになった。雨が降っていて、傘を持っていない久那を、傘にいれてくれたのだ。
久那は目を伏せていた。姉がいっていたことは勘違いだろう。稲郷はそんなにひまではない。
「ずっと、キーボード叩いてるね。今日も音がきこえてきた」
「あの……文章書いてるんです」
他人、しかも、姉とは対立する立場のひとだ。だから、姉に話すことはない。そう思うと、何故かするっと言葉が出てきた。
稲郷は目をかがやかせた。
「そうか、久那ちゃんもクロードと一緒だね」
クロードとは、姉のペンネームだ。クロード・プーレというペンネームだった。文芸部はペンネームで呼び合っていたが、稲郷だけはいやがらせのようにずっと「アララ」と呼ばれていたのだ。
久那は頭を振る。「わたしのは、たいしたことなくて」
「あんなに真剣に書いてるんだから、素敵な文章なんじゃない? 俺も読んでみたいな。今度、見せてよ」
久那は返事をせずに、ありがとうございましたと喚いて逃げた。
姉がアカウントを削除し、あたらしいアカウントを作成した。名前はプーレ。また、訳の解らない小説を投稿し、3ポイントだけもらっている。
稲郷はどこまでもいいひとだった。久那が推敲をしていると知って、それなら俺のパソコンかしてあげるよと、家に誘われた。久那は稲郷に対してなにも警戒心を持っていなかったから、お金が浮くのがありがたく、稲郷の家に行った。
稲郷の家はネットカフェの真裏にあって、ネットカフェは彼の家族が経営していると知った。稲郷はおばあさんと、小さな男の子と暮らしている。扉を開けるなり抱き付いてきた男の子に目をまるくしていると、稲郷が慌てた様子でいった。「兄貴の子どもなんだ。兄貴、奥さんに逃げられて、今は親父と俺が世話してる」
久那はPCをかりに来たのだけれど、その日は稲郷の家を掃除し、常備菜をつくってタッパーにつめ、稲郷と協力しておばあさんをお風呂にいれ、帰った。
久那はコンビニでの仕事が終わると、稲郷の家へ行った。一時間ほどPCをつかわせてもらい、お礼に簡単な食事をつくって帰った。最初はがらんとしていた冷蔵庫は、久那が訪れるようになって、食材が多くはいっていることが増えた。
推敲は終わり、久那はふと心配になって、稲郷に読んでもらった。稲郷は言葉少なに、だが誉めてくれた。久那は安心して、そのデータを編集部へ送った。
翌日から、稲郷が居なくなった。
久那の本は、来年の夏に出ると決まった。
書籍化が決まり、イラストレーターの選定にはいったことが嬉しくて、久那は稲郷に報告をしにいったのに、彼はまだ居なかった。彼の甥っ子は、友達に会いにいったとしかきかされていない。
久那はおばあちゃんと甥っ子に食事をつくり、家中を掃除して、帰った。
夏みるくに、あら浦トウゴからメッセージが届いた。
あら浦は、かつて親しくしていたが、久那が詩を投稿するようになってからは感想もコメントもくれなくなった。
そのあら浦からのメッセージには、『もうやめよう』と書いてある。
久那は意味がわからなくて、そのメッセージを保存し、あたらしい詩を投稿した。書籍化前にトラブルになるのはいやなので、もしなにかあっても運営に報告できるように、メッセージを保存したのだ。
あら浦はそれからも、メッセージを送ってきた。
『わかってるでしょう』
『君はそんな子じゃない』
『俺にも考えがある』
『こんな酷いことはもう辞めてくれ』
『会って話そう』
久那は気付いた。詩を投稿する度に、あら浦はメッセージを送ってくる。
久那は恐怖を覚えた。
「かなとくん、おにいちゃんはどこへ行ったんだっけ」
「ともだちのとこ」
「そのお友達、どこに住んでるかきいた?」
「しらない……新幹線でいくって。ぼくもつれてってほしいっていったのに、クマが出るんだぞっておどかされたよ。のうかだから大変なんだって」
久那は息を整えていた。大丈夫。大丈夫。
詩はすべて削除した。詩に関する「今日の活動」もだ。
あら浦は最寄りの駅を指定してきた。久那は鞄のなかに、ノートとお金をいれている。まだ本のお金ははいっていない。あるだけのお金をかきあつめた。
指定の時間、ベンチにぽつんと座る久那の前に、ひとが立った。
見上げると、稲郷が居て、いった。「こんにちは、夏みるく先生」
「気付くべきだったんだ。俺も稲郷新のアナグラムで名前を決めた。アラタじゃなく、あだ名のアララをつかったけど……君もそうしたんだね」
久那は俯いている。
誰も居ないところで話したいといって、ふたりは近場のホテルを借りた。
稲郷は哀しそうにいう。
「俺は夏みるくの作品の大ファンだった。君は凄くいい作品を書いてた。それなのに、どうして盗作なんかしたんだ」
久那は答えない。
鞄のなかにはノートがある。久那の日記にまぎれこませてあったノート。姉が盗んだのだろう。添島明日花と名前が書いてあった。詩は、姉がいったようなものじゃなかった。凄く素敵だった。自分には書けないと思った。
こんな詩を書けたらいいのに、と思った。
それから、その詩は文芸部の同人誌に載っていないと思い出した。
添島明日花は、稲郷以外に親しい人間は居なかった。だから、きっと誰にもばれない。
まさか稲郷が自分の作品のファンだったなんて思っていなかった。
「久那ちゃん」
稲郷が久那の肩を掴む。「君は明日花の詩を消したけど、そういう問題じゃないんだよ。盗作を正直に読者に伝えて、謝ってほしい。君にはそれをする義務がある筈だ」
そんなことはできない。もう少しで書籍化するのに、ほかのジャンルといえ盗作がばれたら、書籍化がなかったことになってしまう。
稲郷が久那の体をゆすぶる。「久那ちゃん」
「あの、ごめんなさい、それはできないんです、あのこれ」
鞄から封筒をとりだした。なけなしのお金をつめてある。
稲郷がそれを払いのけた。
「君はこんなことする子じゃない!」
「お願いします、謝罪だけは、だって、そんなことしたら、そんなことしたら」
「君が謝れば、俺は君を応援する。君がいい子だって知ってるから! ぱんだにも相談したんだ、あいつも君をまもるって約束してくれた。あいつは二冊目も出版が決まってるんだ、だから」
ぱんだ?
ろーど ぱんださんに、喋ったの?
稲郷を見た。あら浦とぱんだは、相当親しくしていた。彼の農園に行っていたのだ。
喋ったんだ。
久那がその時考えていたのは、ろーど ぱんだに、はじめてレビューをくれた相手に、自分が不正をしていたと知られた、ということだけだった。
久那は稲郷を突き飛ばし、走った。稲郷が追いかけて、久那の腰にしがみつく。「久那ちゃんだめだ!」久那は鞄で稲郷の頭を殴り、窓を開けて外へ飛び出した。
落ちる時は思っているよりもずっとはやい。何度も夢で死んだから知っている。あっという間に地面が迫ってきて、久那はアスファルトに叩きつけられた。
「久那!」
姉の怒鳴り声で目が覚めた。
久那はレジカウンタに突っ伏して寝ていた。「ごめん……」
「すみませんでしょ。ぼーっとしてるだけじゃなく、勤務中に寝るなんて、あんたろくな大人にならないよ」
姉は激しく罵って、外へ出て行く。
久那は悪夢を反芻していた。稲郷さんが、あら浦先生で、ろーど ぱんださんが詩集を出版して、それで……。
久那はぞっとして、バックヤードを通って外へ出た。外階段から家にはいり、物置から自分の日記のはいった箱をとりだす。箱はかび臭くて、久那は中身を自分のベッドにぶちまけ、箱はごみ置き場へ放り投げた。
日記のなかに、添島明日花のノートがある。そのことは知っていた。姉が、明日花から預かってって頼まれたから、久那の日記と一緒にしてていいよねと、久那が中学生の頃に勝手にあの箱のなかへいれたのだ。
添島明日花のノートには、夢で見たような詩は書いていなかった。もっと繊細で、素敵な表現にあふれた、非凡な才を感じさせる詩がそこにはあった。
久那はぶるぶると震える。稲郷は、たまに買いものに来てくれるので、面識はある。ネットカフェは夢で見たよりももっと近くにあり、彼のお兄さんは離婚していなくて、美人な兄嫁が居る。
添島明日花は存命だ。ただ、高校の頃事故にあって、それがきっかけでそれ以前の記憶を一部失っている。姉が「明日花からノートを預かった」といった直後の事故だ。
明日花がノートの存在を忘れたから、姉はずっと隠していたのだろう。明日花といつも同人誌の紙面を取り合っていた。明日花の詩は素晴らしいが、高校レベルのものではなく、ほかの作品の粗が目立つからと、部長が同人誌に載せるのをためらったと稲郷からきいている。
稲郷はいつだったか、明日花がつかっていたノートがある筈なんだといっていた。その時に、姉が割り込んできて、久那は明日花のノートのことをいえなかった。
ぜんぶそうだ。いつだってそうだった。家族になにかいわれても黙りこんで、姉が贔屓されても我慢して、本当はレビューも感想もポイントもほしいのに遠慮して企画へのお誘いも断ってきた。
久那はノートを鞄にいれ、家を出る。
「久那ちゃん、こんにちは」
ネットカフェの受付に居る稲郷は、走り込んできた久那に驚いたみたいで、続きをいわない。
久那は黙って、カウンタに明日花のノートを置いた。もともとぎょろっとした稲郷の目が、さらにぎょろりとする。
「久那ちゃん、これ……これどこで?」
「ごめんなさい、稲郷さん」
久那はその場にしゃがみこむ。ぐるぐるとまわっている。
稲郷と、その兄が、久那を運んだ。稲郷の家にはベッドはなくて、久那はまだ腰も曲がっていない稲郷の祖母がつかっている布団をかりた。稲郷の兄嫁は看護師で、久那は貧血だといった。すぐにお医者さんにかかりなさいと。
久那は稲郷に、明日花のノートを預かったと姉がいっていたこと、自分がつかっていた日記用のプラスチックの箱にそれを勝手にいれられたこと、明日花の事故からそのノートの話にはならなかったことなどを、必死に話した。稲郷は怒り、哀しみ、嘆いているようだった。
「明日花に報せるよ」
「ごめんなさい」
「いいんだ、久那ちゃんはこわくて話せなかったんだろ? クロードは気が強いからさ」
稲郷はにっこりする。「それに明日花は、あのノートがなくてもいい詩を書いてるし。『書いてみる?』ってサイトで、結構人気なんだぜ。ハルカミライってペンネームで」
ハルカミライ。最初に感想を書いてくれたひとだ。
久那は起き上がり、眩暈でふらついた。稲郷が肩を掴んで支えてくれる。「久那ちゃん?」
「もしかして……あら浦トウゴ先生じゃないですか、稲郷さん」
「え?」
「わたし、夏みるく……」
久那は布団に倒れた。
次に起きると、病院に居た。久那は貧血で、しばらく入院しないといけないらしい。生理が遅れていたのに放置していたと叱られたし、生理用品が減らないのにおかしいと思わなかったんですかと母も叱られていた。久那のスケジュールをきいて、医者は尚更怒った。両親はひたすら縮こまっていた。
稲郷と明日花が見舞に来てくれて、話した。稲郷はやっぱり、あら浦トウゴだった。
「あの、明日花さん、姉のこと……」
「うん。クロードには、色々いったよ」明日花は交通事故の痕が残る顔で、ちょっと笑う。「でもね、ノートを見てたら、少しだけ、記憶が戻ったの。わたしたしかに、クロードに自分からノートを預けてるみたい。それがどうしてだったかは思い出せないけど、クロードってあれで臆病だから、わたしの記憶がないのにノートを持ってるのがわかったら、盗んだと思われるかもって、こわかったんじゃないかな」
それは、逃げ道ばかりさがしている姉なら、ありそうなことだった。
姉は復学した。久那がいなくなって、仕事が増えたからだ。
久那は入院がのび、姉が「あたらしいの買うから」と置いていったノートPCをつかって、病室で執筆し、投稿した。ブックマークは夢と違って、4000以上あったが、あら浦の企画したイベントに参加して、もう少しだけ増えた。
『夏みるく先生、詩はどう?』
『まあまあです。ろーど ぱんださまに添削してもらいたいな』
『僕でよければ。でも、詩まで夢に見るなんて、みるく先生は本当に面白いね』
稲郷はあれから二回、明日花と一緒にろーど ぱんだの農園へ行っている。二回目にはぱんだと家族の協力を得て、明日花にプロポーズしたそうだ。もうしばらくしたら結婚式のことも報告するという稲郷の嬉しそうな『今日の活動』を眺め、ウィンドウを閉じた。
「やあ」
突然声がして、久那は病室の出入り口を見た。
そこには、恰幅のいい、三十手前くらいの男性が、両腕で抱えきれないくらいのトルコキキョウの花束を持って立っていた。肌は白いほうだが、顔には細かいものも深いものも含めて皺があり、日光にさらされる仕事をしているのだとなんとなく感じる。
そのひとは、照れた様子で病室へはいってくると、久那のベッドのあしもとに立った。「どうも……こんにちは」
「……ぱんだせんせい?」
男性は吃驚したみたいで、花束がわさっと動いた。ぱんだ、というよりは、ホッキョクグマのような雰囲気だ。でも、子どもの頃ふとっていて、あだ名がパンダだったと、プロフィール欄に書いていた。
「いやだな、トウゴくんとミライ先生には内密にって頼んだんだけど……」
「きいてません」
「え? それじゃあ、どうして僕がろーど ぱんだだってわかったの?」
トルコキキョウの香りがする。久那はいう。
「夢で見た先生の詩集に、写真が載っていました」
「僕の詩集……?」
「はい。書き下ろしの五つのうち、ふたつはわたし宛てだったんです。内容は忘れてしまったけれど、夏の貴女は魔法をつかうと、夢見る君ってタイトルで……」
ぱんだは困ったように、花束をテーブルへ置き、頭を掻いた。「弱ったな……詩集の出版が決まったって話と、君への詩もあるって話がお土産だったんだけど……」
ぱんだは、久那が夢で見たという話を、疑わない。それが嬉しくて、久那は頷いた。
「楽しみにします。夢よりも素敵な詩ですよね」
「それはどうだろう」
そういいつつも、ぱんだは少しほっとしたように見えた。
「ああ、そうだ、折角だから、みるく先生の詩を見せてもらおうかな。約束どおり、添削をするよ」
久那は笑って頷き、書きかけの詩のファイルを開いた。あと少しなにかが足りない詩は、ぱんだが添削してくれたら、きっといいものになるだろう。そんな予感がした。