君の歌
出会ったのはCD屋さん。大学1年生の時。
バイト帰りに好きなバンドのCDを買いに行って、手を伸ばしたら横から伸びてきた手と重なった。
『あ』
同時に言って、慌てて手を放した。
横を見ると金髪の男性が気まずそうにこちらを見ていた。
少し見つめ合って、
『どうぞ』
同時に譲った。
綺麗に重なり合った声。
私たちは同時に吹き出した。
「このバンド、好きなんですか?」
少し掠れた低音。目尻の涙を拭いながら彼はそう尋ねた。
私は答えた。
「はい、今日、新曲が出るって聞いて楽しみで」
それが私と彼の出会いだった。
少女漫画のようなシチュエーション。
こう言うのって普通、本屋さんとかだよなあと思いながら、それでも、一瞬重なり合った手の爪がとても綺麗だと思った。
好きなバンドのことをきっかけに意気投合して、私たちは自然と付き合うようになった。
彼は売れないミュージシャンだった。
曲を作って、路上やライブハウスで演奏をしては、メジャーデビュー出来る日を夢見ていた。
くすんだ金髪。無精髭。散らかった部屋。
他の部分はだらしないくせに彼の爪はいつも綺麗で。
いつだってギターリストの指先をしていた。
彼の作る歌が好きだった。
一緒に見る景色が彼の中で歌へと変換される。
手を繋ぎながら向かった家からコンビニまでの道のり。
一本の缶ビールを分け合っておそるおそる飲んだ初めてのお酒。
夕焼け空に消えていったベランダで吐き出された煙草の煙。
同じ景色を見ていたはずなのに彼を通すとそれは作品へと変わっていく。
生まれる私たちの歌が愛しくてたまらなかった。
その関係が変わったのは大学4年生の時だった。
就職活動が始まった。
後ろに結んだ黒髪。リクルートスーツ。パンプス。
常識的な格好で説明会に行って、履歴書を書いて、面接をして。
私の夢は「社会人」になることになった。
まるでオセロのようだった。
黒と黒に挟まれたから私は黒にならなければならない。
周りを見ると黒い駒しかなくて。
白い駒のままの彼にいらだちを覚えるようになった。
あの日もそうだった。
彼の部屋。ベッドに寄りかかりながら私は携帯電話を見ていた。
届いた新着メール。
おそるおそる開くとそれは「お祈りメール」だった。
深く溜め息を吐いてうなだれた。
中々決まらない内定。
焦りを感じていた。
部屋の隅っこでギターをいじっていた彼は気遣わしげに私を見て口ずさみはじめた。
それは私が好きな歌だった。
今までなら愛しい歌だったはずだ。
でも──
「ねえ、あなたはいつまで夢見てるの?」
自分でも驚くほど冷たい声が口から出た。
彼の演奏が止まった。
「もうそろそろ現実を見た方がいいんじゃないの?」
あなたも黒になるべきなんじゃないの?
彼はギターを置くと私に近付いてきた。
「どう言う意味?」
怒っている、と言うよりも、彼の目は悲しそうだった。
私は彼の目をまっすぐに見て言った。
「そのままの意味だよ。あなたも「社会人」になろうよ」
私の、お誘い。
彼の目の悲しみはますます強くなって、私の頬にその手が優しく触れた。
その指先に触れ返す。
こんな時なのに。
いや、こんな時だからこそ、私は今日も彼の爪は綺麗だと思った。
行為の後。ベッドの上。ギターの音色で私は目を覚ました。
散らかった部屋。こちらに背中を向けた彼があぐらを掻いてパンツ一丁でギターを弾いていた。
手入れされた爪が弦を弾いて少し掠れた低音が響く。
ああ、新しい曲だ。
私は音色に耳を傾ける。
それは1人の男と女の歌で。
愛の歌だった。
聴きながら「馬鹿だなあ」と思った。
私はそんな女になれないよ。
これは私の誘いへのお断りの返事だ。
彼は売れないミュージシャンで私は彼の恋人だった。
そう、恋人だった。
カーテン越しの朝焼けが寝癖頭のくすんだ金髪を照らす。
皺だらけのシーツを握りしめて私は顔を埋める。
余計な音をたててはいけない。
この泣き声はこの歌には必要ない。
それは1人の男と女の歌で。
でも、私たちの歌ではなく、君の歌だった。
演奏が終わる。
私は小さく笑って言った。
「良い歌だね」
他人事みたいに。
彼はこちらに背中を向けたまま言った。
「良い歌でしょ」
他所者みたいに。
それが、私たちのお別れだった。
それから私は内定をもらって、そこで出会った男性と結婚した。1人の女の子を産んで、娘はもう小学生になる。
家族で朝食を食べている時、テレビから音楽が流れてきて、私の手が止まった。
エンタメコーナー。
女性のアナウンサーがにこやかに紹介していた。
『最近、この歌を耳にした方も多いのではないでしょうか。こちら、今、SNSで話題になっている曲なんです』
「この曲、今、流行ってるの?」
尋ねると最近めっきり生意気になった娘は馬鹿にしたように返す。
「お母さん、知らないの? 今、みんな、歌ってるよ」
「……そう、みんな歌ってるの」
アナウンサーは続ける。
『今日はなんとこのスタジオで歌って下さるんです。お願いします!』
演奏が始まる。ギターが奏でられる。テレビに映った君の爪は相変わらず綺麗で。
甦る。
朝焼けに照らされた君のくすんだ金髪。皺だらけのシーツ。こらえた泣き声。
それは1人の男と女の歌で──
私は小さく笑って言った。
「……良い歌だね」
愛の歌だった。