第7話
戦国時代前期頃のイメージですが、純粋な歴史ものではありません。
時代背景等はかなりアバウトです。
あくまでフィクションとしてご了解下さい。
「おや、まだわらしではないか」
頭上から大きな声が響いてきて、成鷲はギクリと弾かれたように顔を上げた。
恐怖に見開かれたその目に飛び込んできたのは紛れもない血の色だった。
血に染まった大きな口からその上へと恐る恐る視線を移していく。
玉をはめ込んだような大きな瞳、そこにかかる白い髪――否、髪もまた老人のごとき白髪ではなく背後の山入端に残る夕日に透けて金糸銀糸かとも思える輝きを放っている。
――鬼だ。白い鬼だ。
成鷲はぼんやりそう思った。
この世のものではあり得ない恐ろしさと妖しさと美しさがそこにあった。
「わらしが何故斯様なところを彷徨いておる」
再び鬼の声が響く。腑を揺さぶるような低く大きな声が背筋を震わせ、全身を硬直させる。
しかし、数拍おいて、鬼が動かぬのを見てか、あるいは鬼ながら人語を話すのに力を得てか、成鷲は僅かに己を取り戻した。
緊張に干からびた唇で懸命に言葉を紡ぐ。
「わらしではない。元服は済ませた。これでもいっぱしの武士だ」
精一杯の虚勢である。とはいえ、相手を見据え胸を張って答えたつもりが、声の震えは止めようもなく、我ながら何とも情け無いか細い声を絞り出せただけだった。
「元服か」
あーっはははは、と血まみれの口を大きく開けて鬼は高笑いした。
「まあどちらにせよ今は満腹。敢えてわらしを喰おうとは思わぬ。見逃してやろうほどに早々に立ち去れ。ただし…」
見開いた鬼の眼が一瞬燃え上がったようにみえた。
「ここで見たことは決して口外するでない。もしそなたの口から儂のことが知れたら、その時は…そなたばかりでなく一族郎等喰らいつくしてくれようぞ」
言われて成鷲は後ずさり手当たり次第周りのものに掴まって立ち上がろうと藻掻いた。しかし、腰が抜けて一寸も身体は持ち上がらない。
「いかがした? 逃げぬのか?」
それを楽しそうに鬼に笑われ、成鷲は己の不甲斐なさに恥じ入るばかり。さりとて我が身が自由にならぬのでは如何ともし難い。
観念した、というよりは我とわが醜態に呆れ果てて、成鷲は縮め震わせていた手足をドンと投げ出した。
もはや、やけくそ。恐怖心も消し飛んでいた。
成鷲は頭を上げ、鬼の眼をきっちりと見据えて言い放った。
「伴の者が山賊に殺られて帰り道がわからぬ。もうすぐ日も暮れよう。山道に迷い野垂れ死ぬよりは鬼の巣であろうとこうしてゆるりとしておる方がましというものだ」
「面白いわらしじゃ。なかなかに肝が据わっておる」
見据えた鬼の眼は、不思議な色を湛えて成鷲を見下ろしていた。
「しかし申しておくが、鬼の巣はここではないぞ。もそっと奥山でな。腹も膨れた故、鬼は鬼の巣に帰るのだが…そなたはこの荒れ寺にて夜明かしか? 山賊も物の怪もまだまだたんとおるぞ」
成鷲の目がたちまち不安気に揺れる。
途端、鬼はまた真っ赤な口を大きく開けて大笑いだした。
「まこと人とは不可解な生き物じゃ。それほどにひとりは嫌か? 鬼とでも共にあった方がましか?」
成鷲は何も言えずに俯いた。言われてみれば妙な話だが、このまま置いて行かれたら…ここで孤独と不安の一夜を送るくらいなら…と考えると、鬼でも邪でもよいからいて欲しいというのが正直な気持ちである。
押し黙る成鷲を、鬼は玉のような眼で興味深げに見ている。
成鷲は次第に居たたまれなくなる。またもやけを起こして要らぬ事を喚きそうになるのを懸命に堪え唇を真一文字に結んでいた。
が、鬼はそんなことなど我関せずとばかり、更に成鷲を頭の天辺からつま先までしげしげと眺め回す。
「そなた、国は何処じゃ。都の者ではあるまい」
突然の問いに成鷲は危うく舌を滑らせそうになり、慌ててまた口を閉ざした。そして僅かに顔を上げると、未だ震えを伴った声で精一杯の虚勢を張った。
「一族郎党喰らいつくすと言われて国を教えるほど愚か者ではないわ」
「ほほう、言うたな小童。なに、国など聞かずとも、この千里眼でそなたの姿など何処からでも見渡せるわい」
鬼はかかと笑った。
つるべ落としの秋の日はすっかり山の端に隠れてしまい、薄闇の中、人を喰らった大きな口も、先程までの恐ろしさは感じない。
「ならば、このまま国には帰らず都に留まるとしよう。もっとも命があればの話だが」
本当に成鷲はもう己の命などどうでもよくなっていた。ただ、このわけのわからない悪夢から一刻も早く目覚めたかった。