Bの部屋
〈入獄〉
わけあって(わけなどなかったが、■がそういうことにした)、獄に入ることとなった。
脳髄のように入り組んだ道を、車で延々と揺られてやってきた刑務所は、僻地のそれらしく、ひどく古ぼけて見える灰色の塊だ。
見回したところで背景と呼べるものはなにひとつ無く、土台もしっかりしていないのか傾き気味である。あるべき奥行きを欠いて薄っぺらい、閉じた世界。
看守に引き渡され、小突かれるままに薄暗い監房区画へと足を踏み入れた私は、きょうびこんな典型的な『監獄らしい監獄』が現存しているということにまず驚いた。
監房区画は中央の通路と、その両側に六つずつ並んだ十二の雑居房からなる。一つの部屋には二人から五人ほどの囚人が入れられており、彼らと通路を隔てているのは、黒くごつごつした鉄格子だ。(これも刑務所の記号的なパーツとして■が備え付けたものであろう)
私は左側の列の、奥から二番目の部屋に収監された。今日からこの九番監房が私の居室となる。
同室の囚人は二人で、それぞれ私より若い男と私より年長の男だ。
「やあ、あんたは何してここに来たんだい?」
若い方の囚人が、まるで犯罪者とは思えぬ朗らかさで私に話しかけてきた。テレビドラマや海外の映画でしか刑事施設の様子を知らなかったものだから、まずリンチなどの洗礼があるものと覚悟していた私にとっては、これもまた驚きであった。
「いや、つまらないことですよ」
根掘り葉掘り訊かれたらいやだ(そもそも■の怠慢ゆえに、掘ったところで何も出てこなかったに違いないのだ)と思っていたが、同居者たちはそれ以上のことを詮索しようとはしなかった。これがここの流儀ということだろうか。それなら、うまくやっていける気がする。
たまたまおとなしい囚人と同室になったものかと思いきや、他の監房からも殺伐としたものは感じられなかった。監房区画の構造はまるで映画のセットのように監獄然としているのに、ここの住人たちはまるで修道僧のようである。囚人間で揉め事を起こすでもなく、脱獄を企てる者もいない。看守が恐怖政治を敷いているわけでもないのに、どうしてこれほど平和なのだろうか。
そして、これほど平和なのに――どうして私は落ち着かないのだろうか。
正体不明の違和感があった。しかし人に話す気にもなれず、この刑務所らしからぬ空間での生活に早く慣れようと思うことで、私はそれを忘れるべく努めた。
朝は六時半の起床。とくに急き立てられることもなく通路に並び、点呼と房内の点検。
工場ではときおり自由時間(休憩に使ってもいいし、運動や読書をしてもよいという意味での『自由』である)を交えつつの刑務作業が夕方まで続き、規則に反するものを持ちこんでいないか身体検査を受けたうえで、全員がまた監房に閉じ込められる。
夕食の後は二十一時の就寝まで、本を読んだりテレビ(検閲済みの録画番組だが)を見たりといった余暇が与えられている。
……退屈であることを除けば、まるで刑罰を受けているという実感の湧かない場所である。この国の司法制度は加害者に甘いとマスコミがよく騒いでいた気がするが、もしこれが全国の標準的な刑務所の実態であるなら、国は口やかましい批判も認めざるを得ないだろう。
もっとも、今はそこに収容されている身である私には、ただありがたい話といえた。
「ここはずいぶん静穏ですが……本当にみんな犯罪者なんですか」
ある日、ついに私はその問いを口にした。それを聞いた同室の囚人は、なにか納得したような表情で頷く。
「そうか、あんたはここに来てから暴れたりしなかったんで、知らないんだな」
彼は鉄格子の外を指さした。つられて私の視線が飛ぶ。
通路の最奥――十二番監房だった。
「あれがあるから、みんな調教されたゾンビみたいに従順でおとなしいのさ」
「あれ――とは、十二番監房のことですか」
「『Bの部屋』だ。名前の由来は誰も知らない」
同室の男は低い声で、面白がるように続ける。
「あそこには、普段は誰も入れられてない。懲罰房なんだ。なにか規則違反をやった奴だけが、『Bの部屋』にぶち込まれる」
みんなそれが怖いのだ、と彼は言う。私にはまだ話の全容が見えていなかった。
「十二番に入れられると、なにか特別な――ひどい扱いを受けたりするということでしょうか」
「いや? 看守たちはなにもしないさ。ほかの部屋と比べて行動を制限されるわけでもなし、飯や睡眠時間を減らされることもない。まあ、しばらくここで暮らしてれば、新入りがあの部屋の世話になるところを見る機会もあるだろう。そうなりゃ嫌でも意味がわかる」
彼はそれ以上なにも言ってくれなかった。言ったとて信じないだろうと笑うのである。
そして、彼は正しかった。後に私はそれを知る。
若者が二人、新たにこの刑務所へと送られてきたのは、私が入ってからちょうど一ヶ月ほど経ったころだと思う。
彼らはこの場にあってきわめて異質な存在として映った。常に目をぎらつかせ、ほかの囚人とは関わろうとせず、看守が房の前を通りかかるたびに敵意をむき出しにするのだ。
二人は刑務作業中の自由時間になると、決まって工場の隅へ引っ込み、恐ろしく質の低い仕事をしながら、なにやら密談していた。人目をはばかる様子が余計に怪しく、私は唇の動きから二人の会話を推し量ろうと好奇心からの努力をしてみたが、読唇術など素人が思い付きで実行できるものではなかった。
ところがある日の夜、私より年長の、もう一人の同居者がおもむろに呟いた。
「あの若者たちは、脱獄するつもりのようだね」
「どうやって――読唇術、使えるんですか?」
「なんだって? あんなのは聴覚障害者が手話と合わせて使うもので、遠くの会話を盗み聞くようなスパイの技術じゃないよ。僕はただ机の下に落とした工具を拾っていて、たまたま会話の内容が聞こえただけさ」
彼が聞いた話によれば、若者たちは工場のトイレから外へ出られると踏んでいるらしい。あそこの換気扇は備え付けが雑だから、押せば簡単に外れる……と。
話を聞いていた若い同居者が、横目で通路の向かいを見やった。十番監房には若者の片方が収容されている。
「へえ、そんな手があったか! あそこの便所は臭すぎて使ってなかったんだが」
「正直に言うと、僕は去年の冬から気づいていた。けど、脱走しようなんて夢にも思わなかったよ」
「どうしてです?」
私がそう訊くと、年長の囚人は、さり気なく自分も十番監房に向けていた視線を、ついと左にずらした。
「僕はかつて、『Bの部屋』に二日間入れられたことがある」
懲罰房というのは、もっと長期間入れられるものではないのだろうか? その疑問は声に出さずとも伝わり、彼は言葉を継いだ。
「二日だけだ。たった二日間――けれど、それが限界だった」
またあそこに入れられる危険を冒すことを考えるだけで、脱走の成功がもたらすであろう甘美な自由さえ色あせてしまう。壮年の囚人は、能面のような無表情でそう語った。
「なにがあるんです? 雑居房のひとつというだけではないんでしょう」
私が二度目となるその問いを投げかけると、彼は若い同居者と同じ答えを返してきた。
「もしあの二人がしくじれば、君も自ずと理解するだろう。他人が入るところを見るか、自分で体験するまでは、言ったところで信じないよ」
ただ、と付け加えてこうも言った。
「強いて言えば――『なにも無い』。それを知る部屋だ」
若者たちの計画は失敗に終わった。
件のトイレは施設内でも最東端で、配管の関係上、防護壁の外に位置する。彼らは「抜け穴」から出た先を、刑務所の敷地外であろうと考えていた。ところが、その外側には施設をさらに囲むもう一枚の壁が立ちはだかっていたのである。
監房に連れ戻される二人を見ながら、私は平静を装うのに苦労した。『Bの部屋』の正体がわかると思うと、興味を持たずにはいられない。さしたる娯楽もない刑務所の中では、今やそれだけが私の関心事となっていた。
そして、その日が来る。
早朝、四人の看守は神妙な面持ちで、若者二人を十二番監房の前へ連れてきた。起床時間前だったが、私は密かにそれを見ていた。
「これが懲罰房? 普通の雑居房じゃねえか」
「黙って入れ」
二人は押し込まれるように鉄格子の内側へ入り、そして戸が閉ざされた。――さあ、どうなる。
五分が過ぎた。何も起こらない。
三十分が過ぎた。何も起こらない。
出役の時間になっても、若者たちは平生と変わらずふてぶてしい態度で、看守やほかの囚人を睨んでいる。
「……平気な顔してますけど」
「あんた、早漏って言われないか? 夜まで待つんだよ」
工場への道のりを歩きながら、私はせっかちな自分をなだめた。しかし、周囲の様子が普段と違うことに気づく。
いつもなら黙然と列をなして行く受刑者たちが、無秩序な並びで歩きながら、なにごとか囁き交わしていた。それ自体は刑務所らしい自然な光景といえたが、彼らの中に混じって一カ月を過ごしたからこそ、それが普通でないとわかる。他は全く平常通りであるだけに、異様さは際立って見えた。
太陽が中天にかかるころ、人々は微笑みを浮かべていた。
時が経つにつれ、それらの笑顔が歪んだものとなる。
斜陽が曇り窓から橙光を投げかけるころになると、人々は隠しもせず嗤っていた。
彼らはなぜこんなに楽しそうなのだ? かつて十二番に入れられたと語った同室の男も、口端がつり上がるのを抑えられない様子である。
この日ほど作業が長く感じた日は初めてだった。
夜が来る。囚人たちは部屋に帰る。
二人の若者が十二番監房に入り、戸が閉められると、それまでざわついていた他の雑居房がにわかに静まりかえった。
そして『それ』は始まった。
「え――うわ、うわっ、なんだアレ?」
「うっ……おい看守、中に変なモノが居んぞ!」
私が見張りの看守を見ると、彼も他の囚人たち同様ニヤニヤ笑いを浮かべて、その場を動こうとはしなかった。
――看守もこれを楽しみにしているのだ。いったい何が起きている?
十二番監房については、二人は私以上になにも知らない。私のそれよりもいくぶんか邪悪な好奇の目で、監獄の住人たちは恐怖に引き攣る二人の表情を眺めていた。
そして誰からともなく口を開く。
「どうした、若いの」
「なにが見える」
「なにが居る」
「俺たちにはなにも見えない」
それは人の声というより、風もないのにさざめく森の木の葉のような、不気味さを持った唱和であった。
若者たちが、部屋の奥の暗がりをしきりに顧みながら喚く。
「アレが見えないのか? 顔だけ違うマネキンが何体も、有刺鉄線で鉄板に磔にされて――」
「なに言ってやがる、赤ん坊だ! いや違う、頭だけ赤ん坊のニワトリ……ありがちな……」
意味がわからなかった。
二人は別々のなにかを見ているようだったが、いずれ監獄にそんなモノがいるはずはないし、そもそもどうして部屋に入る前に気づかなかったのだ? 私が斜めに覗く十二番監房には、ただ怯える若者たちが見えるのみだ。
『Bの部屋』とは、なにか呪われた部屋のようなものなのだろうか。科学を絶対的に盲信しているわけでもない私は、とりあえずそう考えておいた。(――と、■は記した)
「なにも居ないぞ。頭は大丈夫か」
「そうかい、君たちにはそんなモノが見えているのか」
「で、なにをそんなに怖がっているんだ?」
嘲笑。あなたたちはその部屋の恐怖を知っているはずなのに、体験した者さえいるはずなのに、なぜ――そんな違和感は瞬く間に吹き飛ばされ、私は答えを悟った。
愉しい。
私は昂奮していた。あの部屋に入れられているのが女性であれば、勃起さえしていただろう。
「なんなんだよ出せよ、ふざけんな死ねこっち来んな出せ早く!」
「く――来るな――来ないでう、うぇ」
若者たちの恐怖は、誰も助けてくれない絶望と相まってか加速度的に高まっていき、ついに片方が嘔吐しながら気絶した。
「やめろ出せ、すぐにこれを――よせ来るな――お、俺じゃない」
残った青年が房の奥を、目を背けたそうな動きで凝視しながら、鉄格子に張り付いて身体をくねくねさせている。それまで良心のようなものが私に無表情を強いていたのだが、ここに来て滑稽さに堪えられなくなり、吹き出してしまった。同時に周囲の人々からも爆笑が巻き起こる。
「おいおい、倒れた方は大丈夫なのかよ。ゲロまみれで寝るだけならまだしも、窒息して死んじまったら洒落になんねえぜ」
「起きてる方も初日でこれかぁ。明日の夜には鉄格子のぼりはじめるんじゃねえかな」
「四日目まで行くのは絶望的だね――若いのはこれだから。私など、三日目の就寝時間まで耐えたというのに」
洗礼はあったのだ。たまたま私が運良く逃れただけで。
その事実さえも私に幸福感を与えた。おとなしくしてさえいれば、私はずっと見る側の立場でいられるのだ。
安全圏。
檻の中でありながら、檻の外にある者。
高みからの見物。
ああ――
やはり、この国の司法制度は加害者に甘い。
誰もが寝不足であった。
しかし二人を除いて、囚人たちの顔に憔悴はなかった。ショーはまだ続いているのだ。
対照的に十二番監房の若者たちは、昨晩とは別の恐怖に震えながら開室点検の時を待った。朝になれば、部屋が持つ恐るべき呪いの力も鳴りをひそめ、哀れな受罰者は一時の平穏を得る。
だが、今度は時が進むことそのものが恐ろしくなる――夜がまた近付いてくるのだ。筆舌に尽くしがたい、周囲の人間が笑っているという状況がまるで理解できないほどの、圧倒的な悪夢の時間が。
「やはり、これがあると仕事がはかどるね」
「これだけが楽しみみたいなモンだからな」
「ああ、時間の経つのが遅いぜ――」
工場では私を含め、作業中の囚人たちがしきりに懲罰房の二人を盗み見た。看守は一時間おきに、わざとらしく朗々と現在時刻を読み上げる始末だった。そのたびに二人はびくりと窓に目を向け、確実に傾いてくる陽光に震えながら、天体の運行が止まることを祈るように歔欷するのだ。
しかし時は、歩くそばから道が消えていく人のように、ひたすら前進するものである。(『私』がここへ来るのに使った道もそろそろ消えていることだろう――などと■が考えたものだから、実際にそうなった。なにしろもう必要ないものだ)
十一番までの雑居房が囚人たちで満たされ、泣き喚く若者たちが強引に十二番監房に押し込まれると、瞬く間に狂宴は再開された。
「なんで部屋の中に部屋がある? ああ、ああぁ――開けるな! そいつをそこから出したら、壁が全部なくなるだろうが!」
「天井が開いてあれが俺を覗いてるんだ俺の頭の中にあれがいるんだ俺の体をあれが動かしてるんだあれが俺に考えさせてるんだこれもあれが言わせてるんだあれが俺になってるんだ」
今度は私も初めから笑ってしまった。
昨日よりひどい。監房の中に部屋があるのか? 壁がなくなると困るのか? 『あれ』とはなんだ?
「もはやワケがわかんねえな」
「そうだな、もう少しまとまってねえと理解できん」
「いや、僕はこれくらいカオスな方が好きだよ。文学的解釈の余地がある」
「は、アホくせえ――」
もっともらしく批評の真似事を始める囚人たち。私はというと、単純にその支離滅裂さを楽しんでいた。
意味など不要だ。少なくとも私のような(そして■のように――虚ろな)者には。
いつの間にか私は眠っていた。
寝起きの耳に、破壊された言語の断片が飛び込んでくる。
「出を描た糸は神いて語いるそからの中神は手を指先か過去ら画家のキャンバスの四肢にしかしメッセージ繋がい持る伸ばし画家が無ければって意味がない性」
なにが起きたかと鉄格子の外を見ると、看守たちが若者たちを引きずるようにして運び出していた。二人は奇妙に落ち着いた口調で、しかし意味不明の言葉をしゃべり続けている。
「質的ゼロまでず知っと俺の中からスポンジの穴ループは空っぽ、自由どいつも外にこいつも行きた来がる出られない俺の外にもスポンジの穴外へ外へけれど前には楽でありがたいよね穴赤い前からしか見えない顔外から上からじ必要ゃ見えない顔、誰、お前、俺」
「『私』歩けないんだ誰かがつけた俺はテーマいいどこにもジャンプ気がして思ったのですと進めないだか虚らもう空想前に足跡があるところはしてみよう楽しければ」
運ばれていく若者たちを見送りながら、興醒めした私は舌打ちして吐き捨てた。
くずが。
(まさに、それは■の言い訳に過ぎないがゆえに)
発狂者二人がどこかの精神病院に送られると、以前にもまして刑務所の生活は退屈なものとなった。以前と違うのは、過重懲罰により囚人の精神を破壊したとして、看守が交代になったことくらいだ。
工場と監房を往復するだけの日々。耐えがたい無聊に苛立ちは募る。が、揉め事でも起こせば、今度は自分が『Bの部屋』送りになる。祭が終わってしまえば、誰もがその恐怖を知っていた。
そうして、また新たに送られてきた犯罪者が目にするのは、平和な刑務所と穏やかな囚人たち。収監されたばかりの男は私より少し年下で、神経質そうな顔つきをしていた。
「作家だったんですが、人を殺してしまいましてね」
訊いてもいないのにそう言う。本当は自慢したがっているのかもしれない。その狂気を、正気への抵抗を。
だが、彼もやがて知るだろう。この区画の人々が、看守はおろか凶悪犯であるはずの者まで、聖職者のように暮らしている理由を。
薄氷の下には、浅薄な狂気など呑みこんでしまう深淵が広がっている。
〈破獄〉
わけもなく『Bの部屋』に入れられることとなった。
今にして思うと、以前の看守はショーを開く間隔というものを心得ていたのだろう。飽きが来ないようにか、観客たちの体力を考えてか、むやみやたらに囚人を懲罰房送りにすることはなかった。
しかし、新しい看守は(これもまた■のごとく)職権を濫用してみたくてうずうずしている類の下種だった。そんな人間の目の前で、私と元作家が共同で使っていた、工場の機械が故障したのである。
「備品を損壊した廉で、二日間の懲罰房入りを命ずる」
得意げに宣言する看守に、私は猛抗議した。我々の操作手順にミスはなく、単に機械のほうに問題があったとしか考えられなかったのだ。
しかし看守は、果てしなく自己陶酔を高めながら、わけのわからない理屈で自分の権利を主張した。
「いいか貴様、神とは最高権力者のことだ。ならば最高権力者イコール神とも言える。貴様らにとっての最高権力者は、いまこの場においてワタシだ。つまりここではワタシが神だ!」
なんら感銘を呼び起こさない科白だったが、日数を増やされたいのかと付け加えられては、二日間の懲罰房入りを呑むしかなかった。
「初めてでよくわからないのですが、懲罰房とはなにをされる場所なのですか?」
不運な同居人となった元作家の質問は無視した。どうせすぐにわかる。
そして十二番監房の、扉の前に立ったとき――私はただの薄暗い空き部屋を見出した。
そう、中ではなにが見えるのか知らないが。
現実にはなにも居はしない。
中の人間が見るモノは、すべて幻覚だ。
恐れるべきものなどなにも無い。
「入れ」
自称神が命令を下す。私は傲然と、異界の門をくぐった。
《無限フラクタル構造》
――穴だ。
明らかに、それは私が部屋に足を踏み入れた瞬間から出現した。
奥の壁に空いた、直径一メートルほどの円い穴。そこを申し訳程度の金網がふさいでおり、壁の向こうが見えている。
「えふっ――待ってください、疎外などしていない。あなたの勝手な価値観を押し付けるな。自分が創った世界(表題:『自慰』)に亀裂を入れてまで、こちらを覗いてニヤつく神など死ぬがいい!」
元作家がなにか言っているようだが、私には聞こえていなかった。穴の外の光景が、本来そこに見えるはずのないものだったからだ。
窓と机だけがある部屋。机の上に置かれた籠。その中の人形。
椅子に座り、その人形を観察する人間。
窓の外からその人間を見ている、巨大な目。
人形も人間を見ている。人形の顔には巨大な目だけがある。
どう考えても屋外の景色ではなく、ここの壁に穴が開いているなら見えて然るべき、施設を囲む高い壁もない。できの悪いシュールレアリズムの絵を見ているようだった。
――出られるのか?
ふと思い立ち、一歩穴の方へ踏み出した途端、私はなにかが居ると感じた。
なにも見えない。奇妙なものは、穴とその向こうの風景だけだ。にもかかわらず、私は『それ』が、前後左右といった空間的広がりとは別の方向から、私を意識していることを確信した。
目も耳も鼻もないが、『それ』は確かに私の方を見ており、私の息遣いを聞いており、私の体臭を嗅いでいる。
「なにが見える」
「なにが居る」
「俺たちにはなにも見えない」
さざめく観客の声が、私に現実を意識させた。そう、ここで見聞きする異常なものはすべて幻覚だ。外の連中にはなにも見えていない。聞こえていない。
ああ、だが――ここと外は違う世界だ。
呪われた部屋などというレベルのものではなかった。ここは無限に自己相似化する次元構造の狭間だ。この世界では私が全知覚でもって『それ』を感じ、『それ』もまた私に影響できるに違いないのだ。だとしたら、幻覚だ現実だという区分は無意味ではないか。幻覚が現実になることはないかもしれないが、現実が幻覚になることはままあるのだから。
幻覚が現実を超克している。幻影が実在を凌駕してくる。ヴィーナスの失われた腕。地図の空白へと続く道。あるいは神。
存在に依拠した“リアル”など、力のヒエラルキーにおいては最下層を這いずる虫けらの世界でしかないと、私は悟った。
『それ』は我々が現実と呼ぶ構造野に、存在する必要すらないのだ!
元作家が満面の笑顔で絶叫し始めた。
「わかりました! 神は私だったのですね! 自らに似せて作ったヒトに人殺しをさせるとはこれすなわち神殺しの疑似体験をさせること、被造物に自らを殺す演習をさせていたということです! 人間にとっての神は私にとっての■、しかし神は人間の作り出した幻想なのですから、■もまた私たちの作り出した幻想ということになる。私は私の作り出した妄想に作り出されたもの――おお、死すべき神はここに! 自らの神を超越したあなたはきっと■となることでしょう。しかし■となることは、同時により上位の新たな神、またそれまで自分が属していた世界、あまつさえ自分が支配していた世界に支配されるということでもある――なぜならそのとき、あなたもまた神という幻覚なのだから! 無限の三角状ループ! ■!」
しかし元作家はここで、こなみじんになって死んだ。
正確には、彼が死んだのかどうかはわからない。が、元作家の姿が消え去り、一瞬前まで彼がいた場所にその形骸――血と肉片だけが残っているとなれば、死んだと考えて構わないだろう。
外の観客たちが騒がしくなった。元作家の理不尽な死に衝撃を受けているらしい。――となると、これは彼らにも見えている事象なのか。あえて「現実」とは言うまいが。
人ひとりを粉砕することなど造作もないのだ。『それ』は幻覚であると同時に神であり、そして■でもあるのだから。
私は妙に冷めた面持ちで、元作家のなれの果てを見ていた。いまや真理は私の手の内だ。壁の穴は消え去り、『それ』が私の中に入り込みつつある。
人類が言語を作り出す前から遺伝子に刻まれていた、もっとも古い恐怖が鎌首をもたげる――そんなことより私は先日、凄惨な事件を目の当たりにした。人間が時間軸でめった刺しにされた挙く、傷口が勝手に自己相似化を繰り返して、被害者わ無になってしまったのだ。ところが明日のことだった。無が帰ってきたという。無の中には無限があり、無限の中には無限光があった。シュれーディンガーの猫。無は無限の外から無限光を(おそらくクラインボトル状に閉じている)
る《了》
「見えない」
■がそう言うと、囚人たちは強張った顔をこちらに向けた。■の言葉よりも、落ち着き払った態度がなにより異常だったのだろう。
もう一度、ゆっくりと声を出した。
「なにも、見えない」
そう、見えはしない。
あなたたちが望むものなど。
懲罰房での二日間が終わった。
誰もが無言のまま迎えた開室点検の時刻、新たにやってきた(使い捨ての)看守が扉の鍵を開ける。■は開かれた出口を前に、しばし立ち止まった。
扉を開けたまま、暗い監房の中を顧みる。■が横に退くと、ざわりと空気が揺らぎ、『私』が出て行った。
それは虚妄。
神と同じく、少なくとも無力な仮構であったもの。
しかし、実は虚妄こそが運命の織り手であると知ったならば。
「さあ、ゆけ」
もはや十二番監房は『Bの部屋』ではない。
存在せざるものは解き放たれた。
〈 〉