07.華の名前
過剰に摂取した薬がまだ残っていたのか、神官長と話す途中で、また気分が悪くなった。
隠したつもりだったけどいち早くそれに気付いた神官長は、また明日伺います、と話を切り上げた。
「サリー」
「はい、こちらに」
「すぐに神子様を寝台に」
素早く後ろに回ったサリーさんと神官長に介助されて、寝室へと向かう。さすがに今日は入るつもりはないらしく神官長は、扉の前で足を止めた。
「大事なお話だったのに申し訳ありません」
寝台に横になる前に、込み上げる吐き気を堪えて頭を下げた。
……結局神官長の事を知る事はできなかった。でも大丈夫、始まったばかりだから。
今は、煩わせるより従順に従うふりをした方が良い。
寝かせられた瞼の裏で思考を巡らせる。眠りに落ちる刹那、ふわり、と優しい匂いがした気がした。
*
何か夢を見た気がしたけれど、目覚めたと同時に忘れてしまった。
乾いた頬が引きつっていて泣いていた事だけは分かった。
* * *
パンを浸したミルク粥みたいな朝食を部屋で取り、身支度を整えた後、国王からの遣いだと言う男が二人、訪ねて来た。どちらも召喚されたあの日に部屋にいた騎士と同じ制服を身に着けていた。いやどちらもいたかもしれない。
口を開いたのは、壮年の男の方。立ち位置から察するに若い方は男の部下らしい。
ソファから立ち上がって挨拶しようとしたのを押し止めると、彼は王からの遣いでネストリと名乗った。
「お加減は如何ですか」
「はい。大丈夫です」
食欲は無いけれど、昨日の気持ち悪さは消えている。それに、朝食を終えた後すぐにお医者様がやって来て診察までしてくれた。手厚い対応はされている実感はある。
「こちら国王からです。お受け取り下さい」
そう言って恭しくビロードの箱を差し出した。隣にいたもう一人が慎重に箱を開けて中身を見せる。
台座に嵌っていたのは、紫色の石。拳程もある大きな宝石だった。
アメジスト、だろうか。宝石に詳しくないが恐らく間違い無いだろう。
――こんなものいらない。
「私には勿体ない、ですね」
本音を隠してそう言う。
予想しない反応だったのかネストリさんは、少し間を空けてから繕うように言葉を重ねた。
「いえ、首飾りにされても耳飾りにされましても、その艶やかな黒髪に映えてよくお似合いかと思われます」
ああなるほど、加工して使うのか。お世辞に苦笑してから、「ありがとうございます」と返事を返す。国王からの贈り物を突き返す訳にはいかないだろう。
明らかにほっとした様子で、サリーさんがそれを恭しく受け取る。
「王様に宜しくお伝え下さいませ」
こんな言葉でも大丈夫だったらしい、ネストリさんは「お伝えします」と頷き、後ろに控えていた男を視線で指した。
「神子様、この男があなたの警護を担当させて頂きます」
大きな体格の男が一歩前に出て膝をつき、見た目の無骨さに反して綺麗な礼を執った。
「……警護ですか。何か危険な事でも?」
そう尋ねればネストリさんは、「形式的なものです」と、気負い無く答え、多忙らしく早々に男を残して部屋を出て行った。
残った騎士さんに近付き、顔を覗き込む。意志の強そうな少し強面な顔。表情は動かず面白くない。せっかくそれなりに整った顔なのに深く刻まれた眉間の皺が勿体無い。
――この人。
太い腕。視線はちょうど胸ポケット。床に落ちた影の形。色んなものがフラッシュバックして――繋がる。
「……お名前を教えて頂けませんか」
「サダリです」
声を聞いて確信する。
あの時、――祭壇に向かおうとしたあたしを羽交い締めにして止めた人だ。
二人目はこの人。
「サダリさんですね、宜しくお願いします」
人懐っこい笑顔を作って、右手を差し出せばサダリさんは微かに戸惑った様に差し出された手を見下ろした。
「あ、すみません。もしかして握手の習慣とか無いんですか」
一度引っ込めてそう尋ねれば、サダリさんは緩く首を振って答えた。
「いえ……男同士ならば一般的に行われる行為です」
ああ、もしかして女の人は手の甲に口付けられたりとかするのだろうか。目の前の彼では想像がつかない。
「それに私に尊称は不要です。呼び捨てで構いません」
サリーさんと判を押した様に同じ事を言うので、思わず笑ってしまう。けれど彼女とは逆に困らせてみたい、と思った。
「じゃあ、私も呼び捨てで呼んで下さい」
私の言葉に、サダリさんは一度だけ瞬きして、真意を探る様にじっと見つめた。そして、目だけで笑うだけの私に本気だと察したのか、ゆっくりと首を振った。
「それは……致しかねます」
予想通りの答え。
私はわざと唇を尖らせてサダリさんを見た。
「……じゃあ誰もいない時だけ、とか。……だって」
「ここじゃ私は『神子様』で、名前すら呼んで貰えないんですよ?」
控え目な笑顔を作ってゆっくり顔を伏せる。目の前の騎士では無く、後ろに控えていたサリーさんが、遠慮がちに神子様、と呼び掛けて止めたのが気配で分かった。
ああ、ごめんね。
あなたを傷つけたい訳じゃない。
そう、この世界の人間は誰一人として私の名前を尋ねようとはしない。きっと『神子』でさえあれば他に何もいらないのだろう。
「……お名前をお伺いしても?」
黙ったままのサダリさんに焦れたのか、サリーさんが遠慮がちに尋ねてきた。
うれしい、と笑ってから、私は一番大切な名前を言った。
「『イチカ』です。イチカ・タチバナ」
「響きがやはりこちらとは違うのですね」
「一つの華、でイチカ、って読むんですよ」
一輪でも咲き誇って魅了する、華。
華やかなお姉ちゃんそのもので、ぴったりだと誇らしく思った。
「ぴったりの名前ですわね」
「ありがとう」
年を重ねれば『あたし』は少しでもお姉ちゃんに近付けただろうか。あまり似てなかったからこそ、そう言われるのは純粋に嬉しかった。
「騎士さんの名前は?」
「……」
「意味とか無いんですか」
無言は戸惑いの現れなのだろう。もともとお喋りが上手そうなタイプではないが機転が利かない辺り、見た目よりも若いのかもしれない。
「考えた事もありませんが……あるものでしょうか」
「ありますよ、きっと。私の世界は漢字って言うのがあって、その一つ一つに意味があるから、ぱっと見て分かるものもあるし、そんなのなくても、誰かにあやかってみたり、ね。名前って言うのは、両親が産まれてくる赤ちゃんに贈る初めての贈り物なんですよ」
『お母さんもお父さんも、ずーっと奈菜の名前考えてたのよ。一番初めに贈るものだからって』
優しい声が頭の中に反響する。
あれはいつだったか、多分、離婚して渡米して……お母さんはあたしの事が嫌いになったのだと泣き喚いた時だ。
「……確かに。そう考えると素敵ですわね」
頷いたサリーさんに笑顔を作ってサダリさんを見上げる。
眉間に皺が寄っているのは、心当たりでもあるのか。部屋に入って来た時に感じた警戒心に近い構えた空気は感じない。あるのは困惑と戸惑い。
とりあえずは今日はここまで。
これ以上踏み込めばまた警戒されるだろう。
「お引き留めしてすみませんでした。改めて宜しくお願いしますね、サダリさん」
何か言いたそうにサダリさんの薄い唇が少し開く。窺うように眇められた視線に、気遣いを見てにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。もう落ち着きましたから」
私の言葉に、サダリさんはきつく口を引き結ぶと深く頭を下げた。
「宜しくお願い致します」
幾分和らいだ空気にほっとして、扉の外で待機するらしいサダリさんを見送った。