05.闇色の賢者
何の反応も返さないあたしに飽きたらしい王子は、早々に妹姫を連れて部屋を出た。
神官長は、固まったあたしに辛抱強く何か話していたけど、声は聞こえない。
日が沈んだ頃に誰かが呼びに来て、彼もまた部屋を出て行った。
入れ替わりに入って来た女の人が、身の回りの世話をしてくれて、最後にまた寝かせられた。
ふっと明かりが落ちて、静かな闇が訪れる。暗くて、うっすらと赤い夜。とろりとした密な夜の空気に溶けて朝焼けの様な不自然な色が部屋を満たす。
カチカチ、と時計の針の音が耳障り。幾らか動く様になった身体を起こして、壁伝いに手をつき唯一の光源である窓へと身体を引きずる様に歩いた。
夢、これはきっと悪い夢。いつ覚めるの。
少し高い所にある窓には鉄格子が嵌っていて、赤い月が罪人の様に真ん中に佇んでいた。
鉄格子に手を掛けて引っ張ってみる。
緩む気配すら無く、更に手に力を籠めようとした瞬間、背後から声が掛かった。
「よォ」
振り返れば、今までいたベッドの上に、星の無い夜を纏った様な黒づくめの男が腰掛けていた。
無言のまま、男の言葉を待つ。
何故、煙の様に現れる事が出来たのか、何者なのか、
もうすべてがどうでも良い。
こんな全てがおかしい世界に、疑問も答えもいらない。もう思考する事すら煩わしい。
けれど。
「――ナナカ」
黒づくめの男が発したのは、この世界で誰も知る筈もない、あたしの名前だった。
空っぽになっていた心が、呼び掛けに揺らいで傾いてその隙間から見た男の目もまた深い藍色だった。
「、どうして……?」
昼間叫んだせいで喉が酷く痛んだ。
サイドテーブルに、水差しらしきものはあるけど、口をつけたくない。
「俺は賢者だ。人の世の叡智を知り極めた者」
言葉足らずの質問は通じなかったのか、男は、長い足を放り出して顔を傾けた。黒いフードの下は乱雑な言葉が似つかわしく、日に焼けた野性的な顔立ちをしていた。
「賢者……?」
その名前のイメージとかけ離れた外見に首を傾げれば、男は大袈裟に肩をそびやかした。
「人を外見で判断しちゃぁいけないって、母ちゃんに、いやいや姉ちゃんに習っただろうが、ナナカ」
――知ってる。
あたしの事だけじゃなく、お姉ちゃんの事も。
この怪しい人物が何者かなんて、どうでもいい。
「お姉ちゃん、は……っお姉ちゃんは、どうなったの!?」
フードの影、猫の様に目を眇めて、賢者はゆっくりと唇を開いた。
「いい子だなぁナナカ。優しいナナカ。お前だって本当は気付いてるんだろ」
優しく吐き出されたその言葉。
――ああ、やっぱり、『そう』なんだ。
悲しみとか、そういうのは思い浮かばなくて、ただ失ったのだと、喪失感に涙さえ出なかった。
「可哀想になァ、姉ちゃんと離されてひとりぼっちでこんなとこ来てよ。それに加えて」
男は妙に間延びした口調で、言葉を途切れらせる。 ふっと息を吐き出して男は、睦言の様に甘く囁いた。
「この世界の神子の役目は―――」
死ぬ事だ。
告げられた言葉に、痛みも衝撃も感じなかった。むしろ望んでいた言葉。
「ひっでぇよなぁ。全然関係無い世界の子供に自分らの事情押し付けてよ、一年掛けて世界に馴染ませてから、殺すとかありえねぇよな? ……復讐すんなら手伝ってやんよ?」
「復讐……?」
「ああ、お前にはその資格がある。ギリギリまで逃げちまえばいい。なら、お前は最後の日にこの世界の人間全てを道連れに出来る」
道連れ?
何百万人の人を?
ぎしり、とベッドを軋ませて立ち上がった男は、ゆっくりとあたしの前へ歩み寄る。翻ったマントが広がって赤い部屋を浸食する。他人よりは近く家族より遠い距離を空けて男は立ち止まった。
「嘘だよ」
右腕が上がり、大きな手の甲が頬に触れる。慈しむ様な優しい手付きだった。
「お前には出来ねぇよ。ナナカは臆病だから」
「……分からない、出来るかも、しれない」
「無理だって。今はそりゃあ腑煮えくり返ってんだから、出来るって思うかもしんねぇけどよ。一年あるんだぞ? 土壇場になったらビビって結局お前は、一人で死ぬよ。大抵の人間はな? 百人の命と自分の命、どっちかしか助からねぇっていたら、自分の命捨てちまうんだよ。優しさなんかじゃなく、百人の命の重さ背負って生きる後の人生が恐ろしくなる。
百万人の、お前の事を豊穣の神子だと信じて祈りを捧げてる『無関係』な人間の人生、そのちっちゃな背中に背負って逃げ切る根性なんてねぇだろうが」
嫌な言い方だと思った。
わざとらしく『無関係』なんて言葉を使って、あたしの弱さを責めて、罪悪感を煽ろうとしている。
逃げれば世界は終わる。
この世界の人間全部巻き添えにして、復讐する?
――深く考えずとも答えは分かる。
男の言う通り、私はきっと土壇場で躊躇して結局一人で死ぬのだろう。結局あいつらの思惑通り、それだけを果たして。
――そんなの、嫌だ。
別に死んだって良い。でも彼等の思惑通り動くのは嫌だ。
涼し気なあの表情を、
疎んじる冷たい目を
帰還を阻んだ大きな手を、
天真爛漫なあの笑顔を、
憎しみと絶望で塗りつぶして、
大事な人を理不尽に奪われる苦しみを味わわせてやりたい。
お姉ちゃん。
ねぇ、どうすればいい?
お姉ちゃんを失った苦しみをどうやって、彼らに与えればいい?
どうやって――復讐を、果たせばいい?
彼等が大事にしている人間は誰だ。両親? 兄弟? 友人? それとも恋人? この国の偉い人? そんなの分かる訳も無い。そもそもそんな存在がいるのかすらも。
この世界に生きる私は、ただ一人。情報をくれる人も協力してくれれる人も無く、使えるのは私自身。それならば。
「……召喚された人間が死ぬ事は、誰が知ってるの?」
「神官長と王だけだ。それ以外には伏せられている」
「神官長……」
先程までいた穏やかな面差しを思い浮かべれば、自然と笑いが込み上げた。
――いい事を思いついた。
きつく閉じた瞼の裏に、お姉ちゃんを思い浮かべる。人気者で誰からも好かれていたお姉ちゃん、綺麗で優しくて温かくて、誰もが愛した『一華』。
既に失われたその名前を呼ぶだけで、声音も仕草も不思議な程容易に思い浮かぶ。
それを強く強く、焼き付けて。
どんな風に喋っていた?
どんな感じに笑っていた?
誰からも愛されたお姉ちゃんなら、きっと彼等も、いや、どんな人間だって魅了しただろう。
お姉ちゃんを演じて、恋人の様に肉親の様に友人の様に振る舞って、大事に大切に想われて心の中の深い所に住み着いて、
最後に「イチカ」なんていないのだと、
お前達が一年前に殺したのだと、
そう蔑んで目の前で死んでみせれば、彼等に深い傷を負わせる事が出来るだろうか。
この胸の喪失感を、一生忘れられない痛みを。
道連れは四人の心。
何百万と四人なら、彼が言った通り、『比べようも無い』程、小さな犠牲だろう。
胸の奥で小さく鈴が鳴る。最後の罪悪感か愚かな行為に対しての警鐘か。聞かなかった振りをして首を振った。
「いいよ、お前がそれで――なら」
男は何もかも分かった様に、そう言って頭を撫でた。髪を梳く様に撫でるその仕草はお姉ちゃんとよく似ていて、涙が一筋だけ流れた。
こうして、窓から差し込む血の様な赤い月光を浴びて、あたしは、――私は『イチカ』になった。