後日談2⑪
『最後まで面倒を掛ける兄でごめんなさい。意地を張っているだけなのよ。国を離れる可愛い妹のお願いも聞けないなんて兄失格だわ』
『顔も見たくないと思われるほど傷つけてしまったのはこちらですから』
『ナナカ。あなたは私の姉であり一番仲の良いお友達よ。きっと離れてもずっと』
『アマリ様。お元気でいてくださいね』
『ええ、もちろん。ナナカも私と同じ位幸せになるのよ』
自信と愛嬌に溢れた最後の言葉に、懐かしい人の顔が頭を過ぎった。
潤んで滲む目に微笑む目の前の人を焼き付ける。おそらく彼女とこうして顔を合わせるのは最後になるだろう。
この世界で初めて『友達』になって欲しいと言ってくれた、大切な、同い年の女の子。
緩く編んだ緋色の髪に白いヴェールを被り、微笑んだアマリ様は世界で一番綺麗な花嫁だった。
* * *
「お姫様綺麗だったねー」
「そうねぇ」
輿入れから二週間が過ぎても、女の子達は華やかに旅立ったアマリ様の話題で持ちきりだった。けれど、ほうっと夢見がちに溜息をついては洗濯物を干す手が止まり、他の子供達にも伝染して仕事そっちのけで盛り上がり始めるのは勘弁して貰いたい。
「リラ、皺になるわよ」
興奮に洗濯物を握り締めていたリラに注意して、ひょいっと取り上げると、「わっ!」と驚いたように飛び上がる。
うっかり握り締めていた洗濯物が院長の服だという事にようやく気付いたのだろう。
干してから念入りに皺を伸ばしているあたしに、リラはごめんなさい、と袖を引いて素直に謝ってきたので軽く頭を撫でる。他の子供達もそんなやりとりを見て我に返り、自分のノルマである手持ちの籠の洗濯物を干し始めた。
確かに彼女達が事あるごとに花嫁行列を思い出すのも無理はない、と思う。
それほどあのパレードは素敵なものだったのだ。一足先に干し終わり空になった洗濯籠を重ねながら思い返して、寂しいような誇らしいような複雑な気持ちになった。
久しぶりの慶事だった事もあり、アマリ様のお輿入れは祭りのような賑やかさの中で行われ、最後には異例とも言える、城からまっすぐ伸びた街道を花嫁姿のアマリ様が乗った馬車が通るという演出が行われた。道に詰め駆けた民衆からもよく見えるように屋根の無い馬車の上でにこやかに手を振るアマリ様は初々しく可憐で、色とりどりの花弁が舞うその光景は、まさに年頃の女の子の憧れそのものだった。
ふと視界の端にこちらに上がってくる赤茶色い頭を見つけて、踵を上げて目を凝らす。
そんな仕草に気付いたのか、そこから駆け上がってきたらしい人物――テトは丘を登りきるとくるりと周囲を見渡して、大きな溜息をついた。
「お前らまだ洗濯物干してんのかよ。こっちの薪割りは終ったぞ」
孤児院では、ある程度仕事は割り振られていて、薪割りは少し大きい男の子の仕事だった。そして一番大きなテトはやっぱりそんな子供達の監督役である。
少し前に十五歳になったテトはすっかりたくましい青年へと変貌を遂げ、半年程前から街にある鍛冶屋の見習いになった。外仕事も多いせいで焼けた髪色を初めとする派手な見た目に反して真面目なテトを親方も気に入り、あと一ヶ月もすれば正式に弟子として住み込みで働けるらしい。
そうなれば毎月きちんとした額の給金も出ることになり、いわゆる一人立ちとなる。
テトはあたしが孤児院で働く事になってから、里子以外で初めて出て行く子供なので色々感慨深い。しかもお世話したと言うより、確実にお世話して貰った感が強い彼には、何か餞別を贈りたいと思っている。
「それで、お前の方も出発の準備は終わったのか」
「うーん。それがなかなか荷物が多くて進まないんだよね」
聞くたびに低く掠れて不安定な声をしているテトは、声変わりを気にしているのか、ぼそぼそ話す。それでも近い距離にいるのでかろうじて聞き取る事が出来た。けれどその内容には曖昧に笑って誤魔化してしまう。
そう。テトの言葉の通り、あたしも来月の十八歳の誕生日を迎えてから、王都から離れる予定だった。
兼ねての希望通り、喧騒から離れた田舎への移住。
儀式が終ってから元神子として公式行事には一斉出席せず露出を避け続けた二年半。その内にアマリ様のお腰入れの話が一般市民まで流れたせいかそちらに関心が集まり、ほとんど神子の事を口にする人もいなくなった。
そしてアマリ様の正式な輿入れまで一年を切った辺りで、神官長様を通して王様の許可を求めたのだった。
けれど懸念していた通りそれほど簡単に通る訳もなく、元神子であるあたしを利用するつもりであろう一部の貴族や高位神官達は大反対した。
確かにこの二年の間、あたしの事を『神子』として利用するべく、近づいてきた人間は一人や二人ではない。その度にサダリさんや賢者が先回りし潰してくれたけれど、このまま国の中心である王都にいれば、それはずっと続く。
そうなれば今の王様、そしていずれは王位を継ぐ王子の為にもならない。不穏な芽になんてなりたくない。一刻も早く誰も知らない僻地へ赴き存在を消してしまうべきだろう。
……本当は死んでしまえば一番手っ取り早い。だけどそんな事を口にすれば、周囲の優しい人達はきっと悲しむ。だから冗談でも言えないし思わないようにしている。
そして肝心の王子がこの事をどう思っているのかは分からない。
二年前、王子と話し合い、いや、話し合いなんてものでは無い、一方的に責めたあの日から毎週の様に届いていた王子の手紙や贈り物はぱたりと止んだ。それどころかあたしはあれ以来王子と一切顔も合わせておらず、神殿の公式行事にすら王子は何かしら理由をつけて顔を出さなかった。
そもそも神殿での行事は年に一度。ただそれが二度続けば明らかに避けられているのは分かる。
アマリ様や神官長様に頼めばきっと会う事は出来ただろうけど、正直合わせる顔がなかった。それに多忙な二人にこれ以上迷惑をかけるのも憚れた。
けれど謝りたい気持ちはずっと心の中にあった。もちろん許してくれるとは思ってはいないけれど。
「――ナナカ?」
「え?」
ふっと名前を呼ばれて我に返る。
いつの間にか隣に移動していたらしいテトが、不満気に眉を顰めつつも、高い鼻先を掻いてぶっきらぼうに吐き出した。
「何ぼうっとしてんだよ。あー……もう、ちゃんと聞けよ、引越しの日馬車に荷物積むくらいなら手伝ってやるって言ったんだよ」
「あ……ごめん、ありがとう。でも大丈夫だよ。サリーさんがあらかた荷物纏めてくれているし、運ぶのも護衛についてくれる人が手伝いに来てくれるみたい」
ちなみに二年経った今でもあたしの侍女をしてくれているサリーさんは、新しい土地にも着いて来てくれる事になった。……と言うか半ば無理矢理そう仕向けた。
サリーさんが以前話してくれた本当の実家は、あたしが住む事になる村から一時間ほどの場所にある街で商売をしているのだ。
馬車や馬を使えば毎日でも通える距離になるので、どうせなら実家から通い、今までと同じ様に働いて貰えませんか、と頼んでみたのだ。結果は前述通りだけど少しだけ予定はズレて『心配なので住み込みにさせて下さい』と真面目な顔で訴えられ了承した。
もちろん正直に言えばそちらの方が心強い。だけどきっと家族の方はサリーさんとまた一緒に暮らしたいと思うんじゃないだろうか。だからこの辺りは曖昧なまま現地についてからゆっくり相談する予定だ。
もちろんサリーさんとあたしの隠居先の田舎が偶然近所だった――なんて事はなく。
早い時期からあたしに着いて来てくれると宣言してくれていたサリーさんに、それならば、と、サリーさんの生家がある街かそれに近い所に静かに暮らせる場所がないか、神官長様に探して貰ったのだ。
そして最大の難解である、サリーさんの実父――サリーさんを有力な貴族に嫁がせようとしていた伯爵との交渉に対しては、実はかなりの他力本願で、あたしと同じように賢者に頼んで話をつけてもらった。
どういった方法をとったのかは敢えて聞かなかったけれども、今後一切サリーさんに関わらないという念書まで取ってきてくれた賢者には感謝してもしきれない。
サリーさんもその旨を賢者に告げられ、一瞬唖然としたものの、すぐに賢者に向かって『有難うございます』と、頭を下げた。
その肩は少し震えていて何か声を掛けようか迷ったけれど、震える声で退室を願い出た彼女に許可を出すだけに留めた。年下のあたしの前では泣かない、泣けない気がして。
呆気なく切れた血の繋がった父親との縁。
色々あるのだろうと、心配していたけれど次の日は憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしていてほっとした。そして開口一番あたしにお礼の言葉をくれたので慌てて否定した。
そもそもサリーさんに相談すれば遠慮される気がして、何も言わないまま勝手に先回りして賢者に頼んだ事だ。余計なお世話だった事は重々理解している。しかも実際頼んだだけ、なんていう情けなさ。賢者には、本当にお世話になりっぱなしでいつか何か返せる日がくるだろうか。
『本当にただ頼んだだけなんです。むしろ何も出来なくて』
そう言うとサリーさんは普段の、侍女と主人の距離を越えてそっと抱き締めてくれた。
『でもナナカ様が、そう頼んでくれたのではないですか』
身体を包む柔らかな感触。すっかり馴染んだサリーさんの優しい香りに、お節介では無かったのだとほっとする。二年前サリーさんの事情を聞いた時から、ずっと何とかしたかった。
賢者に頼るとしてもあたしについて王都から離れるという表向きの理由が必要だったから、こんなに遅れてしまった事を申し訳ないと思う。
その後はこれからの事を話し合い、『もうすっかり嫁き遅れですから』と言わせてしまったサリーさんの年齢からすれば、定職があり毎月決まった給料が貰える、というのが一番いいのではないか、という結論に至った。つまり、これまで通りあたしの――元神子の侍女として僻地に派遣という形で今まで通り働くという事になる。
もちろんその仕事内容は少し変わって実質的には、異世界人であるあたしが田舎生活に慣れるまでの間、お手伝いさんとしてそばにいて貰う。
と言うか、サリーさんは事あるごとに『嫁き遅れ』なんて言うけれど、元々美女揃いの貴族令嬢ばかりの侍女さんの中にいても浮かないくらい美人で礼儀作法もしっかりしている。加えて性格も良くて面倒見の良い彼女なら引く手数多だと思う。王都ならともかく万年嫁不足らしい田舎なら年齢なんて気にせず自由に恋愛出来るのではないだろうか。
そもそも二十五で嫁き遅れ、なんて自分の常識からしたら時代錯誤も甚だしい。
そして肝心なあたし自身の生活については、神子の時の報奨金と支度金がそのまま残っているけれど、この先どうなるかは分からない以上、しばらくはそれに手を付けるつもりはなかった。そうなると困るのが収入を得る方法だった。
村で働き口はありそうですか? とその地を知っているらしい神官長に相談すれば、心当たりがあります、と言ってくれてほっと胸を撫で下ろしたのは半年前。しかし彼が用意してくれた仕事は予想の斜め上をいっていた。
「ナナカー! 終ったよー!」
元気なリラの言葉に顔を上げて、終っていた籠を回収していく。
「じゃあ、院長に洗濯物終ったって伝えて。他に仕事がないか聞いてきてくれる?」
「分かったー!」
本当の事を言えば、洗濯物を干すお手伝いが終ればもう午前中はほぼ自由時間だ。活発な子供は外に出て元気に遊ぶし、そうでない子は孤児院の中で本を読んだり絵を書いたりする。今日は特に急ぎの用事は無いし、子供達も報告の後は早々に開放されるだろう。
「ねぇナナカ。何もお手伝いなかったら一緒に遊ぼうよ!」
「あ、ずるい! 今日はあたしと編み物するのよ」
ぐぃ、とエプロンを引っ張った女の子に、リラが負けずと言い返す。
じゃあみんなでやろうか――そう言おうとした所で、そんなやりとりを見ていたテトが、軽く咳払いをして、口を開いた。
「悪い。お前ら。ナナカと話があるんだ、後でちゃんと返すからちょっと貸してくれ」
その生意気な物言いに、なんだかすっかり大人の男の人の喋り方だなぁ、となんとなく微妙な気持ちになる。ぎゅっと抱き締められてくれたのは、最初の頃のほんの一時だけ。
……女の子の成長は確かに早いけど、男の子の成長も侮れないと思う。
え~! と不満の声を上げたリラに、もう少し上の女の子がリラの腕を掴んで「行こう」と引っ張ると、唇を尖らせながらも「後で絶対来てね!」と、建物の方へと駆け出していった。
……リラも少しお姉さんになって、引き際を覚えて来たなぁなんて感慨深く思う。
けれどテトはそう思わなかったらしい。
クソガキ、と毒がないものの乱暴な口調で呟いたので、一応年長者として言葉遣いを窘める。最近では珍しい少し拗ねた様な顔をして、軽く舌打ちしたテトは、その場にしゃがみこむと胡坐をかいた。
「お前も座れよ」
「うん」
素直に腰を下ろして指先に当たったのは、洗濯籠。
うっかり回収だけして渡しそこねてしまった。
まぁ後は水分を乾かすだけだしいいか、と引っ繰り返して地面に置くと、膝を抱えて少しテトの方に身体を寄せた。座ると小さくなる身長差。さっきよりも近い距離にあるテトの表情は俯いていてよく分からない。
話って何だろう、少し間を空けてテトは口を開いた。
「あのさ。今更だとは思うけど、わざわざ田舎の学校の先生なんかやる必要あるのか? 別に今のままここで生活していけばいいじゃん」
飛び出した言葉は少し意外なもの。
反芻してみると、テトなりに引き止めてくれているのだと分って不謹慎ながら嬉しくなった。もしかして少しでも寂しいと感じてくれているのだろうか。
緩む頬を隠すために俯いて、でもゆっくりと首を振る。
「……先生とかそんな大それた仕事じゃないよ。小さい子相手に計算や読み書き教えるだけだもの」
そう、神官長がお世話をしてくれたのは、村の学校の先生という、あたしには不相応なものだった。
勿論最初はとんでもないと断った。
何しろ異世界の人間でこの世界の常識だって危ういのだ。そんな人物が教師だなんて笑い話にもならない。
けれどテトに説明した通り、街の学校に通う前に、簡単な読み書きを教える程度でいいのだと重ねて説得された。一応聞くだけは、と確認してみれば大体小学校一年生レベルの内容でさして難しいものでは無い。子供達も毎日来る訳でもなく、年によって違うけれど全員でも大体五、六人前後で、勉強を教える場所も祈り所、と呼ばれる簡易的な神殿のような場所らしい。
そして結局の所、他の村人の様に畑を耕す事も牛や羊を飼えるだけの知識も経験もないあたしに、他の仕事の当ては無く頷く事しか出来なかったのだ。
もちろん村には教師らしい人はいる。けれどそれは中央から派遣された神官が、神官業の傍ら読み書きを教えていたらしい。けれど数年前から子供達が増えた事に加え高齢になり兼任は難しくなってきたのだという。そんな老神官と昔からの知り合いだという神官長は、それならばとあたしを推薦してくれたのだった。
『何度か子供達に勉強を教えているのを見ましたが、とても分かりやすくて、ナナカにぴったりだと思ったのですよ』
……自分には取り柄らしきものはない。
ただ本が好きなせいか勉強はそこそこ出来たし、知識を得る事は誰よりも好きで、神官長さんのその一言が少しの自信に繋がった。
何かと甘い神官長様だけでは心もとなかったので、似たような田舎の出だというサダリさんに相談すれば『向いていると思います』と賛成してくれたのも背中を押した。
そして意外な話まで聞かせてくれて、それは神官長からは聞けなかったサダリさんの子供時代の体験談だ。
曰く、辺境の村の子供は街の学校に行くまで、家業を手伝う傍ら家で勉強する事になるらしく文字や算数の習得率は各自ばらばらの状態で街の学校へ入学するらしい。
しかしそのせいで授業についていけずにそのまま来なくなったり、本人にやる気があっても繁忙期には入れば働き手として村から離れられずに通えなくなり、結局辞めてしまう子供も多いそうだ。
昔を思い出しているのかそう説明しながら、珍しく浮かんだ懐かしそうな表情が印象に残った。
サダリさんの子ども時代かぁ……。
そう言えば騎士になる前の事はあまり聞いた事が無かったな、と、失礼にならない程度に色々尋ねれば、サダリさんの村にはそんな施設はなかったらしい。
『きっとそんな子供達を見兼ねて、その神官が個人的に始めた事なのでしょう』
そして最後にサダリさんはそう締めくくった。
人格者の周囲にはやっぱり人格者が集まるのだろうか。
さすが神官長さんの友達だなぁ、なんて素直に思った。
けれど目標が出来ると、モチベーションも上がる。
孤児院で子供達の世話をした後の時間は、本腰を入れて必死に勉強をしてこの世界について学んだ。簡単な読み書きと計算と言っていたからそこまで期待はされていないと思うけれど、紹介してくれた神官長の顔に泥を塗る訳にはいかないし、どんな子供がいるか分からない。知識は多ければ多いほどいいと思うし。
「新しい世界を見たいんだよ」
本当は色々あるけれど。元神子を担ぎ出そうとする新興勢力や、未だ王子との仲を邪推する貴族達だとか。だけどそんな事情を話す訳には行かない。
聡いテトなら気付いているかもしれないけれど、あたしは敢えて軽い口調で笑って見せた。別に嘘をついている訳じゃない、今思えば、この世界に来る前から落ち着いて静かに本を読んで過ごす事が好きで、おばあちゃんになったら田舎暮らししたいな、なんてお姉ちゃんに話した事もある。
あの時は、随分年寄り臭いわね、なんて笑われたっけ?
そう、お姉ちゃんとの思い出も、少しずつ痛みを伴わずに笑って浸れるようになった。
――なんだかんだと神殿と孤児院で過ごした二年、いや儀式をする前を合わせて四捨五入すれば、この世界に来て四年にもなる。儀式の後ここで過ごした時間は概ね平穏で楽しかった。
旅立つのを躊躇う程に周囲はあたしに優しくて居心地良く、毎日が満たされていた。
目の前のテトだって、そんな平穏と楽しさをくれた内の一人で、遠慮のない物言いは、あたしの世間知らずを随分矯正してくれたと思う。ただ成長したと思う現在も健在で時々言い負かされるけれど、それくらい遠慮のいらない関係になれた。
テトも元気でね、と付け足すと、テトは急に真面目な顔になった。どうやら他にも言いたい事があるらしい。
そして――。
「お前、結婚するのか?」
「……え?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、眉を顰め――そしてぷっと吹き出した。
「どうしたのいきなり。そんな訳ないじゃない。そもそも相手がいないよ」
一瞬脳裏を掠った人はいたけれど、急いでかき消し笑い続ける。
定期的に会っている異性なら、いる。――サダリさんだ。
そんなあたし達は、他人から見れば付き合っているように見えるのかもしれない。いや、きっとサリーさんや院長の態度から察するにそう思われているだろう。
だけど、恋人同士かと聞かれれば首を傾げてしまう。
何故ならサダリさんは王城で王子と話した時以来、一切「好き」とか「愛」だとかそういう事を口にしなくなり、あの時の返事を求めてくるような事もなかった。
正直次に顔を合わせた時は心臓がうるさくて顔も見られなかったのに、サダリさんはいつも通り淡々としていて、随分拍子抜けしたものだ。だからこのまま会う機会も減っていくんだろうなぁと思っていたけれど、予想に反してそうはならなかった。
アマリ様は必ず一月に一度は神殿に祈祷しにくる。
それ以外にも忙しいだろうにちょこちょこと遊びに来るのでその護衛であるサダリさんも勿論ついて来た。
つまり特に約束をしていなくても顔を合わせる機会は多かったのである。けれどずっと変わらないサダリさんの態度に、どうすればいいのか分らなくなって、結局あの告白はあたしを慰める為のものだったのだと思うようになっていった。
しかしただ、それだけでもない。休みが合えば市場や遠掛けに誘ってくれて出掛けたりする事もある。そして必ず神官長と賢者が決めた門限を守り、日が落ちる前には送ってくれる。それが二年続いていて、自分達がどんな関係なのか未だ掴めずに――これが俗に言う友達以上恋人未満という状態なのかとつい最近気付いた。
共通の秘密を持つ仲の良い友人。
だから周囲にも親密に見えるのかもしれない。
しかも最近になって発覚したのだが、サダリさんはアマリ様の護衛を最後に騎士を辞めようとしていたらしい。……結局色んな人が反対して却下された今は休職扱いで、何かとこちらに顔を出すようになった。
しかしそれに対してあたしは何の相談をされる事もなく、それを聞いたのも人伝で、これにはかなり戸惑った。
騎士を辞めた彼が何をするつもりだったのか――聞きたいけど聞けない。
だけど私は王都を出て行く事が決まっているし、これまでの様に会えなくなるのは確かで。
サダリさんはそれを見送った後、新しい部署へと配属されるのだろう。
サダリさんはあたしと離れる事に何の躊躇もないのだ。
そう気付いた時には、目の前が真っ暗になるような心地になった。処理できない寂しさが胸いっぱいに膨らんで苦しくて、それは今も続いている。
溜息をついたあたしを、テトはそれこそ意味が分からない、とでも言うように眉を顰めて見せた。それからやや戸惑ったようにあたしの顔を窺いながら言葉を続けた。
「だってよ、サダリはそのまま護衛として留まるんだろ? サリーもいるけど、使用人とか雇うような広い屋敷じゃねぇって言ってたし、サリーが実家戻って泊まる、なんて事になったら一つの家に男女二人きりだぞ」
「……は?」
思わずそう呟いてテトの顔をまじまじと見る。
今、何て言ったの? サダリさんが護衛として留まる?
「……嘘……聞いてない……」
「嘘じゃねぇよ。大体お前の護衛としてあいつの名前入ってたじゃないか」
確かに先日渡された行程表にサダリさんの名前は入っていた。
けれど、それはあくまで仕事で、無事村まで送り届けてくれたら他の騎士さん達と一緒に王都に戻るのだとばかり思っていた。それなのに。
「ごめんテト。これお願い!」
「あ? おい!」
脇に置いてあった籠をテトに放るように預けて、建物の方へ駆け出す。
さっきテトに話した通り今日はサリーさんはこちらには来ず、神殿で荷造りをしているのだ。
もし本当にそうだとしたらサリーさんが、それを知らない訳がない。
通りすがった子供に一旦神殿に戻る事を伝えてから、神殿への近道である裏木戸を抜けて自分の部屋に戻ると、サリーさんはこの二年間ですっかり仲良くなった神官達と共に荷造りをしていた。
「あら、ナナカ様。どうなさいましたか」
「サリーさん! サダリさんがあたしの護衛としてずっと逗留するって本当ですか!?」
挨拶もなく部屋に飛び込んだあたしの勢いに驚き手を止めたサリーさんは、少し間を置いて苦笑した。
「気付かれるの遅かったですわねぇ」
その表情に虚を突かれて、もう一度信じられない気持ちで尋ねる。
「本当なんですか?」
「ええ勿論。けれどサダリ様も人が悪いですわね。こんなにぎりぎりまで言わずにいるなんて」
少し呆れた様に溜息をついて、サリーさんは荷造りを再開する。
ちょっと待って欲しい。
と言う事は、だ。
「それって左遷ですよね……あたしの護衛なんて」
あたしの問いに、サリーさんは一瞬きょとんとしてから、荷物を放り出すとすごい勢いで首を振った。
「そんな事ありませんわ!」
だってサダリさんは元々騎士団長に養子にと望まれるくらい優秀な人で、王女の護衛という地位まで上り詰めていた。まだまだ年齢も若く、これから出世していくところなのに、辺境の地に飛ばされるなんて。
あたしが危険人物だからだろうか。
違う、きっと唯一過去の事情を知っているからだ。その上での配属ならきっと交代なんてものはない。
さっきも言った通り未だ『元神子』というあたしの立場を狙い近づいてくる輩もいる。王都から離れたなら、国外からの人間にも注意しなければならない。
自分の立場を知らない静かな場所で暮らしたい、というあたしの我侭のせいで、サダリさんに迷惑を掛けてしまっている。
……王様に掛け合って撤回して貰わなければ。
まずは神官長に相談して繋ぎをつけて貰うべきだろう。今なら部屋にいるだろうか、と踵を返して振り返った瞬間、今まさに話題になっていたその人が、開け放たれたままだった扉の向こうに立っていた。
「サダリさん!」
「……何かお手伝い出来る事はないかと伺ったのですが」
そう言いながら、忙しなく荷物を運んでいく神官の為に大柄な身体を脇に寄せる。扉を押さえて神官さんを通してあげたサダリさんはいつも通りの表情だ。
扉は開け放たれたままだった。きっと今のあたしとサリーさんのやりとりも聞こえたに違いない。
何故だか怒りが沸いてきて、あたしはサダリさんに詰め寄った。
「サダリさん。どうしてあたしの護衛としてずっと留まるって言ってくれなかったんですか!」
アマリ様がいなくなってからも何かと会っていたのに。
そういえば、休職していると言っても次の配属先位ある程度は予想出来た筈なのに、話題に上がる事もなかった。あたしもどうして聞かなかったのだろう。
「……どうして教えてくれなかったんですか」
今度は気持ちを抑えて問いかける。
だって、本当は分っている。きっとサダリさんは、またあたしが気に病むとでも思ったのだろう。
でも早い内に言ってくれていれば、王様に直談判してでも止める事は出来た。
もう正式に護衛部隊は決まってしまって、今更そこから外されれば王都にいるサダリさんが妙な勘ぐりを受けるかもしれない。
「本当は何の柵も無くあなたに着いていきたかったので除隊するつもりだったのですが、届けを受け取って頂けませんでした。それならば、と騎士隊に籍を置いたままになりますが、あなたの護衛を自ら希望したのです」
まさかまだあたしに対して贖罪めいた事をするつもりなのか。もう十分に良くして貰ったのに、またこの優しい人は他人の為に自分の人生を棒に振ろうとしている。
やりきれなさにサダリさんの制服の裾を掴むと、その手をサダリさんは上から握ってきた。あたしの表情から言いたい事が分かったのか静かに首を振る。
「元々、私は騎士になりたかった訳ではありません。王都へは身銭を稼ぐ為にやってきたのです。ある程度金が貯まれば田舎に帰るつもりだったのですが、騎士団長に目を掛けて頂いて――ずるずると辞めそこなっていただけですから」
「でも」
サダリさんが何度も騎士団長さんから養子に来ないか、って誘われていたのは知っている。この世界に来たばかりの頃にサダリさんの事情は賢者に聞いて知っていた。またそれを本人は少し迷惑に思っているという事も。
だけど――人の気持ちはいくらでも変わる。
騎士団長は表舞台から去ったあたしとの結婚は諦めたようだけど、二年間アマリ様の近衛を勤めた事で彼には実績が出来た。そして養子の件を受けさえすれば、彼は貴族の一員になる事が出来る。そしていつかは彼が所属する騎士団の頂点――騎士団長にだってなれるかもしれないのに。
身分というのはこの世界では絶対だ。羨んでも簡単に手に入るものではない。ましてや平民なら特に。
「勿体無いじゃないですか。……あたしに気を遣っているなら」
止めて欲しい。
いつまでも贖罪の為に側にいられる事は耐えられない。
ましてやそれが――好きな人なら、尚更。
「私は私のしたいようにしています。それにこれ以上役職が上がっても困りますし、そもそも貴族になるつもりは全くありません」
微かに眉を寄せて嘆息する。
「アマリ様にあなたに会えるようにとお気遣い頂いた近衛の役目も私には不相応なもので、随分骨を折りました。それにナナカ様が選んだあの地は、有難い事に私の出身地からも近いのです」
出身地が近い?
「護衛としての録も前払いで頂きましたから生活に困る事はありませんが、一応怪しまれないように村の自警団にでも入ろうと思っています。動く時は有事の際に限定しますが」
彼にしては嫌に饒舌な説明に違和感を覚えて、その原因を見つけるようにじっとサダリさんの表情を窺う、けれど、相変わらず読めない。
しかも随分きっちりとした計画を立てているらしい。それが彼らしいようなそうでもないような妙な気持ちになる。
サダリさんの言葉は正論だし、納得も出来る。
けれど心の奥にもやもやしたものが消えない。当たり前だ。平民出身の騎士さんが近衛まで上り詰める事が、どんなに大変かなんて想像に難くない。
それをこうも簡単に手放して――いや、手放させてしまっていいのだろうか。
そんなあたしの複雑な表情に気付いたのだろう。それまで無言であたし達のやりとりを見守っていたサリーさんがぽつりと呟いた。
「私はサダリ様の気持ちは分かりますわ。だって団長の養子になって貴族になるなんて……あの独特な風習は庶民にはとうてい馴染めませんもの。所詮平民風情が、なんて口さがない事を仰る方々が多いですから、田舎暮らしの方がよほど楽しいですわ。だからこそナナカ様も王都から離れようとしているのですよね?」
経験の上での言葉なのだろう。
淡々としながらも、その言葉にはかなりの棘が含まれていて重い。
それに最後の言葉には、肯定するしかなかった。だってそれはあたしが一番よく知る事実だったから。
贅沢なドレスも、装飾品も、華やかな庭園も、広く豪奢な部屋も、貴族同士の腹の探りあいも、煩わしいだけ。
「そう、ですね……」
サダリさんもあたしと同じ感覚なんだろうか。
それなら、もう何も言わなくてもいい? 素直にお願いします、って言ってもいい?
サダリさんとは、これでお別れだと思っていた。
だけどこれが本当なら――いや本当なのだ。これからも側にいてくれる。
怒りと驚きと戸惑いで絡まっていた心に、じんわりとした温かいものが満たされる。どうやら思っていた以上に嬉しいらしい。
それでも信じられなくてしつこい位に尋ねてしまう。
「……いいんですか」
それはサダリさんの、というよりは明らかに自分の為だった。
本当はここに残って養子になり貴族になる事を勧める方が正しいのかもしれない。
だけど、どうしてもそんな風に説得するような言葉なんて口から出なくて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。けれどそんな罪悪感ごと受け止めるように、サダリさんはあたしをまっすぐに見つめて、しっかりと頷いてくれた。
その後――、サリーさんがお茶を淹れてくれてようやく落ち着きを取り戻す。
向かい合わせではなく、斜め向かいに座ったサダリさんに、あたしは気になっていた事を聞いた。
「あの、でもどうしてぎりぎりになるまで黙っていたんですか」
そう。考えれば考えるほど不思議でならない。
サダリさんの控えめな性格を考えて一応は納得したけれど、きちんと理由があるのなら早い内に全てを話してくれれば良かったのに。
こんな風に喧嘩腰に話さずに済んだし、それに何より、――お別れだと思っていたから、出発の日が近づく度に気分が落ち込んで、もういいと言われていた孤児院のお手伝いすら朝から押しかけて、わざと考え事をしないように忙しく働いていたくらいに。
それを考えると、少し、いやかなり悔しい。
「……ナナカ様の行き先は重要機密なので、後見も無い守りの薄い私から情報を取ろうとする者がいるかもしれませんから」
少し考えるような間を置いてサダリさんがそう応える。
サダリさんの守りが薄い?
ピンとこなくて首を傾げると、小さく金属がぶつかる軽い音がした。驚いて顔を上げると、どうやらカップを落としかけたらしい。結局一口も口につけずにテーブルに戻した。表情は変わらないけれど、明らかに様子がおかしい。
奇妙な間が空いて、それを破ったのはサリーさんだった。
「まぁ。苦しい言い訳ですわねぇ」
「……サリー殿」
諌めるような低い声に臆する事無く、サリーさんは大きく肩を竦めた。
「正直に仰れば宜しいのではないですか。正式に決まったのは随分前ですから、そんな時から教えてしまったら、ナナカ様が自分を護衛から外してしまうかもしれない、と心配されていたのですわ。……まぁ実際その通りでしたけど」
呆れ交じりにそう説明したサリーさんは何故か不穏な雰囲気を醸しだしていて、戸惑った視線を投げれば、「ナナカ様を不安にさせた罰ですわ」と、明らかに作った笑顔をサダリさんに向けた。
「不安になんて……」
なってない、とは言えないけれど。
そうか。サリーさんには気付かれていたのか。
でもいい機会かもしれない。
サダリさんはサリーさんの言葉を受けて、何か考えるように深い皺を刻んで口元に拳を握って当てていた。
ついてきてくれるのは自分の希望だと言ってくれた。
だから……思い切って聞いてみる。
「あの、サダリさんはどうして一緒に行ってくれるんですか」
一世一代の問いかけだった。
だってずっと不安だったから。サダリさんもこの二年間そういう話題は避けていたように思えるし、自分から聞く勇気も持てなかった。
恐る恐る見上げたサダリさんは珍しくあからさまに困った表情をしていた。すぐに後悔して唇を噛む。
言わなきゃ良かった?
やっぱりサダリさんはあたしの事なんて。
すみません、忘れてください――と、言おうとした言葉の途中。
サダリさんはいつのまにかテーブルを超えてあたしの手を握っていた。膝の上で固く握り締めていた両手を包み込むように手を重ねている。
「サダリさん……」
突然の行動に驚いて名前を呼べば、サダリさんは何か迷うように口をぎゅっと真一文字に結んだ。
なんだろう。
短いような長いような沈黙の後、サダリさんは観念したように一度ゆっくりと息を吐き出した。そしてようやく口を開く。
「王子と王城で会ったあの日に、成人するまで賢者からあなたを口説かないように、と釘を刺されているのです。先程のナナカ様の問いの答えもそれに当たると思います」
「……は」
「察してください」
二年前……賢者?
予想外の言葉に思わず、戸惑いがそのまま口に出た。
どういう事?
成人するっていうのは、勿論あたしの事だろう。けれど口説くな、って……それを賢者がサダリさんに?
――余計なお世話だ、と思うのは恩知らずにあたるのだろうか。
だけどあたしだっていつまでも子供じゃない。もうすぐ十八で大人、とは言えないかもしれないけれどいちいち付き合いに口を出されるほど子供ではない。だけど庇護されているのは確かで。
過保護な賢者にもやもやする一方で、一つの希望が浮かんで、確かめずにはいられなくなった。散々迷ってからサダリさんを見つめて屈むように身体を寄せる。そして、耳元で出来るだけ小さな声で尋ねた。さすがにこんな事をサリーさんに聞かれるのは恥ずかしいから。
「……サダリさんの、気持ちって……その、二年前に、言ってくれた時のままですか……っ」
最後の方は恥ずかしくて、どうしても上擦った声になった。
少しの間の後、同じように屈んでくれていたサダリさんの身体が離れて、その顔を窺う。サダリさんの目元が柔らかくなっているのが分かった。ほんの少し綻んだ薄い唇は確かに嬉しそうで、きゅうっと胸の奥が締め付けられる。
顔が熱い。
聞いておきながら返事も待てずに俯いて、サリーさんがいる方向とは逆を向いて片手で頬を覆って隠した。けれど。
「耳が赤い」
小さく笑う気配がして、指摘された耳に言葉通り硬くて大きな手の甲が当てられた。
ひゃっと、悲鳴を上げそうになって慌てて口を塞ぐ。
冷たくて気持ちいい、けど……どうしようもなく恥ずかしい。
「変わりません」
きっぱりと吐き出されたその言葉に、何故か、叫びたくなる。なんだか、嬉しすぎて。サリーさんがいなければもしかして思いきり抱きついてしまったかもしれない。
自然と緩む頬にはサダリさんの手。火照った頬には冷たくて気持ちよくて、つい――引かれようとした手を引き留めるように、すり、と猫のように頬ずりしてしまってた。
しまった、と思うのと同時にサダリさんの目が見開かれて、また眇められる。少し空いた隙間を縮めて伸びた親指が唇に触れた所で――こほん、と咳払いが部屋に響いた。
「そこまでにしておいて下さいませ。私はともかく神官達には目に毒ですわ」
淡々と諌めるサリーさんの声に、はっと我に返る。
見渡せばサリーさんはもちろん、荷造りを手伝ってくれている神官達だってこの部屋にはいる訳で……ものすごく興味津々という感じでこちらを見ていた。
「――っ!!」
さっきの比じゃないくらいに熱くなった頬を両手で押さえて、慌ててサダリさんを距離を取る。
あああ! どうして気付かなかったの!?
サダリさんの返事に舞い上がって、完全に自分の世界に入っていた。さぞ痛々しいだろうさっきの甘えるような自分を思い返して駆け出してしまいたくなる。
助けを求めるようにサダリさんを見れば当事者だと言うのに、いつもの無表情。さっきまでの確かに甘い――と言ってもいいだろう表情は欠片さえも見つけられない。
ずるい――。せめて少しくらいバツの悪い顔をしてもいいじゃない。
そんなあたしの八つ当たりの視線すらもろともせず、サダリさんは残っていた紅茶を飲み干すと、すっと立ち上がった。そして「サリー殿」と振り返る様に彼女を見た。
「もう荷造りも終わるようですね。手伝いどころかお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」
そう断りを入れると、あたしに頭を下げる。
「ではまた明日、お会い致しましょう」
「え、あ……はい」
その一連の動きがあまりに淡々としていて、きちんとした挨拶すら返せないまま、その背中は扉の向こうへと消えていった。
あれ……?
「サダリ様、分りやすく逃げましたわね」
逃げた……?
そうだよね。あの不自然な退場は明らかにおかしい。
違和感の正体をびしっと言い当てられて、やっぱり、と納得する。
サダリさんも表に出ないだけで恥ずかしかったという事だろうか。
そう。確かにサダリさんだって頬と言っても、人前であたしに触れた事なんて今までに無かった。
「まぁあんな可愛らしい表情をされてつい手が伸びてしまったんでしょう。道中これを話の種にサダリ様をからかう楽しみが出来ましたわ」
空っぽになったカップを片付けながらサリーさんはサダリさんが出て行った扉に視線を流して、楽しそうに笑う。
……それはぜひ止めてあげて欲しい。サダリさん以上にあたしの方がいたたまれなくなる。
そうか、でも照れてたんだ。
「……なんだかサダリさんが可愛く見えました」
思わずそう呟いてしまったあたしに、サリーさんが「ナナカ様も大概ですわね」と呆れた溜息をついた。
2013.10.24




