後日談2⑩
連れてこられたのは、図書室にほど近い客室の一つだった。
正式に神官長様が宿泊する部屋ではなく、場所から察するに調べものをする時に使う部屋なのだろう。積み重ねられた本の数々がそれを証明していた。
無言のままソファに下ろされて、視線の置き所に困って同じく黙り込んだまま俯いた。
客室にあるような揃えられたものではなくて、大人二人が座れば一杯になるような小さなカウチ。そのせいかサダリさんは隣には座らず、後ろに下がった。
スカートの上で重ねた手の甲に伸びる太陽の光に気付いて、顔を上げる。
窓から覗く空は薄い雲がかかっているものの、まだ明るい。図書館が暗かったせいか、妙にその部屋が明るく眩しく感じて、縦に長く取られた空しか見えないその窓へと視線を流した。
頭は嫌に冴えているのに、身体が重い。
「お茶でも飲みますか」
落ち着いた頃合を計っていたのか、サダリさんがようやく声を掛けてきた。
お茶……?
侍女さんを呼ぶのだろうか。誰にも会いたくなくてただ首を振れば、理由を察してくれたらしいサダリさんが、私が淹れます、とすぐに返してきた。
その意外な返事に目を瞬いて、思わず問い返す。
「サダリさんが淹れてくれるんですか?」
彼の大きな手が繊細なカップにお茶を淹れる作業をするのが想像出来ない。
「ええ。侍女殿と同じ様にとは言いませんが、従騎士の時に一通り仕込まれますので、淹れるくらいなら出来ます」
「そうなんですか……」
そうか、従騎士。
今は偉い騎士さんだったとしてもサダリさんは元平民だし、そういう下積み時代があるのは当然だろう。
「……じゃあ、お願いします」
いつもならきっと頼まない。むしろ自分が淹れる、とでも申し出ていただろう。
けれど、なんだか身体中が重くてそのまま寝転んでしまいたいと思えるほど、身体を動かすのが億劫だった。こんなドレスじゃなければ膝を抱えて丸まってしまいたいほど。
「分かりました」
サダリさんは扉近くまで戻ると、入ってきた時には気づかなかったその脇にあったワゴンへと手を伸ばす。
白い布を外せば湯気を立てたポットが既に用意されていて、きっと遅れてやってきた神官長さんが手配しておいてくれたのだろう。
アマリ様から聞いていたのかな。
ぼんやりそう思う。
最初から誰にも言わないで欲しい、とか約束していた訳じゃないから、怒っている訳じゃない。
それこそ鬱屈した暗い気持ちに引っ張られて暴言を吐いたあたしを最後の最後で止めてくれたのだ。きっとあんな事を言えば、王子はもっと傷ついていた。むしろ感謝するべきだろう。
――本当は分かってる。
王子はあたしが死ねば良かった、なんて思っていない。
あたしが勝手に被害者意識にとり憑かれて思い込んで決め付けて、王子自身の自覚していない部分を抉り出し、勝手にその感情に悪辣な名前を付けて責め立てた。
かちゃ、と食器同士が擦れる音がして、視線を向ける。
上手くはない、なんて言っていたけど、お茶を淹れる手付きは様になっている。
騎士さんって何でも出来るんだなぁ、なんて思っていたら動いていた手が止まった。
「あまり見ないで頂けますか」
小さく上がった非難の言葉。
ついつい珍しさにじっと見つめてしまっていたらしい。
確かに慣れない事をしてる時に、興味本位で観察されれば誰だって緊張する。
慌てて視線を外したけれど、擦れ合う食器の音が余計に気になって、結局背中越しに気配を窺う事になってしまった。
暫くして、少し甘い花のような紅茶の香りが部屋を満たす。
銀のトレイで運ばれたのは、あたしの分だけでサダリさんの紅茶はなかった。
残念に思いながらも、仕事中だとしたら仕方ないのかな、と思う。
「有難うございます」
行儀が悪いと思いながらも両手でカップを持って一口含む。
あまり馴染みのない味だけれど、緊張で冷えていたらしい体が暖かくなるのが分かった。落とした溜息と共に気持ちも解れて、さっきの王子とのやりとりがふっと頭に浮かぶ。後悔が波のように押し寄せて耐えるようにカップを持つ手に力を込めた。
「……サダリさん、どうしてあそこにいたんですか」
カップを持ったまま、波打った表面に視線を落としそう尋ねる。
思っていたよりも落ち着いた声が出てほっとした。
「先週異動がありまして私は王女様の護衛になりました。王城にいる間あなたを護衛し、神殿へと送るように命令されています」
「アマリ様の?」
驚きに思わず聞き返す。初耳だ。
先週なら何度もアマリ様と手紙を交換していたのに、そんな事一言たりとも書いていなかった。それに今日のお茶会でもそんな話題は出なかった。
余計な事に気を取られないように、というアマリ様の気遣いだったのかもしれないけれど、さすがに人が悪い、と思う。
ああ、でも。
「……昇進したんですね」
王女の護衛という事は近衛に入ったという事で、一般的には名誉な事なのだろう。
おめでとうございます、とでも言うべきか迷っていると、サダリさんは首を振った。
「後々の事を考えての異動ですから、そうではないと思います。アマリ様が輿入れされる日までの話ですし」
「後々の事、ですか……」
よく分からなくて首を傾げると、いえこちらの話です、と、サダリさんは話を切り上げて、もう一杯どうですか、と尋ねてきた。
首を振ってから深呼吸して核心に触れた。
「アマリ様の命令で見張ってたんですか」
まどろっこしくなったせいか自分でも意地の悪い聞き方だと思った。それでもサダリさんは表情を変えることもなく、沈黙する。きっとそれは肯定だろう。
本当は違う。分かってる。アマリ様はあたしの事が心配だったからこそ、気心も事情も知っているサダリさんに着いて行く様に頼んでくれたのだ。
「最初から聞いていたんでしょうね」
俯いたまま、返事も待たずに言葉を続ける。
「意地の悪い所を見せちゃいましたね。でも止めてくれて有難うございました。……あー……どうしてあそこまで言っちゃんたんだろう。嫌われるだろうなぁ」
最後は独り言のように呟く。
ううん。本当に嫌われて、憎まれるならいい。
けれど王子は優しいからきっと反省してしまうだろう。その時必要以上に自分を責めなければいいと思う。口を塞がれ言えなかった最後の一言。今思えば止めてくれた事を感謝せずにはいられない。
カップから顔を上げてお礼を言うと、サダリさんはあたしを真正面からじっと見つめていた。いつからだろう。重く熱い、いつか見た時と同じ居た堪れなくなるような視線だった。
まるで何も分かっていない――とでも言うような。
「私は王子の為に止めたのではありません」
静かにそう告げてから、間を置きサダリさんは言葉を続けた。
「今回の事に関しては私も神官長も……アマリ様も同意見です。王子は無意識に貴方の存在を否定して傷つけ続けた。例え今回の事で傷ついたとしても自業自得です」
自業自得?
違う、そんなんじゃない。
「……だって、あたしが、最初に言えば良かったんです。迎えに来てくれた時に、『イチカ』に重ねられている事に気付いてたのに」
自分勝手な復讐の果てに向き合うのが嫌で、避け続けて何もしないまま、ぎりぎりまで王子に期待した。
「あなたは、王子と話していた時、自分がどんな表情をされていたか分からないのですね」
「……え?」
「王子以上にあなたは傷ついている。自分で放った言葉によって」
「なに、言ってるんですか……」
王子に告げた言葉の後半は、八つ当たりでしかない。
それも元を正せば自分がしでかした事。
「何故周囲に頼ろうとしないのですか」
「……あたしと王子の問題ですから。それに、ずっと先送りにして言わなかったのはあたしですし、責任は取らないといけません」
そう、もし最初の違和感で伝えていたら、ここまで引っ張る事も無かった。
「立派な心かけですね」
「……サダリさん、怒ってますか」
いつにない放り投げるようなサダリさんの言葉に不安になって尋ねて、後悔した。当たり前だ。結局こんな風に迷惑を掛けている。何の為に距離を置こうと思ったのかそれすらも忘れて。
「いいえ。頼って頂けない自分が不甲斐なくて腹立たしいのです」
「……これ以上迷惑掛ける訳にはいきませんよ」
力なく笑ってその情けないだろう表情を隠すために顔を覆う。
どうしてこんなに色んな人達に迷惑を掛けてしまうのだろう。
もうあたしの事なんかほうっておいてくれればいいのに、こうして無条件に甘やかしてくれるサダリさんや神官長。ナナカはそんなに強くない。甘ったれで、弱い。すぐに誰かに頼りたくなるのに。
「迷惑なら迷惑と言います。あなたが私を避けている事は気付いています。不本意ですが――神官長でもいい。相談して下さい。なんでも一人で解決しようとして一人で傷付かないで下さい」
「そんな事は」
「あなたが傷つくのが何より許せない事に今回の事で気付きました。あなたの為ではなく私の自己満足と思って下さい。一人で抱えこむのは止めて下さい。どんなにつまらない事でもこれから必ず話してくださると約束してください」
「無理……です。これ以上幻滅してほしくないんです」
――誰でもないあなたに。
そう付け足して小さく首を振る。
もし王子がサダリさんだったら、あたしはあれほど強く言えただろうか。
きっと望むようにまた――『イチカ』になった。今度は壊れるまで、きっと。
その意味は。
あたしの告白にサダリさんは、大きな溜息をついた。
びくり、と震える肩。今度こそ呆れられるかもしれない。
「ナナカ様。あなたは勘違いをしている。私がいつ幻滅しましたか。私は最初から人を振り回しては、こちらの顔を窺う臆病で優しいあなたが好きでした。それは『イチカ』ではなく『ナナカ』でしょう?」
驚きに目を見開いてサダリさんを見る。
真面目で、どこか不貞腐れたサダリさんの表情。彼がこんな表情をするのは珍しい。
違う、そうじゃなくて。今、サダリさんは何を言ったのか。
サダリさんの言葉が頭の中をぐるぐる回る。
期待に似た何かが込み上げて、でもそれを認めるのが怖くて、単語だけ拾って「酷い……」と呟いた。
サダリさんそんな小さな呟きを拾って、片方の眉を器用に持ち上げる。
「ナナカ様の方が酷いと思いますが」
どういう意味。
そう聞き返そうとすると、サダリさんがカップを避けあたしの方に身を寄せた。ぎしっと重い音を立てたカウチの背もたれがサダリさんの体重によって軋む。
「私はナナカが好きです」
――何度目の告白だろうか。
言われる度に胸がくすぐったくて、でも臆病な自分が深く考える事を拒否する。
だけど今日はすとんと心の深い場所に落ちて、ずっと聞けなかった問いを口にした。
「……お姉ちゃんじゃなくて……?」
「はい」
あたしの言葉に、サダリさんは肩の上で大袈裟な程大きな溜息をついた。
くすぐったくさに身を捩ると、頬にそっと手を当てられ至近距離にサダリさんの顔。騎士らしく顔に細かい傷跡がたくさんある、精悍な男の人。
「ナナカを愛しています」
ゆっくりと手を伸ばして、首に腕を回す。
ほぼ無意識にしがみつけば、サダリさんは一瞬だけ驚いたように身体を強張らせた後、背中に手を回しそっと抱き返してくれた。
――そして。
それから二年間、あたしは王子に避けられ続け、顔を合わせる事はなかった。
2013.10.11




