後日談2⑨
思っていたよりも早くアマリ様はお願いを叶えてくれ、王子との話し合いの場を設けてくれた。
何度か手紙のやりとりをし打ち合わせをして、表向きはごく内輪のアマリ様主催のお茶会に参加する名目で王城に入る事になった。
怪しまれないように他にも仲の良い――口の固い信頼出来るご令嬢も二人招待し、あたしはその途中で体調を崩した振りをして退室し、王子と落ち合う計画を立てた。
場所は人目につかない場所が良いと言われて、真っ先に思い付いたのは城の図書室だった。王子は勤勉家であるし、もし誰かに二人で会っているのを見られたとしても『偶然顔を合わせた』という言い訳が通ると思ったからだ。
サリーさんに尋ねた所によると、勿論司書は常時詰めているが、たくさんの蔵書にも関わらず一人だけしかおらず、常時整理の為に奥の書庫に籠もっているらしい。
世俗や城内の噂にも興味がない研究一筋の老人で、詳しく調べてもらうと高齢で耳も遠いらしく盗み聞きされる心配も少ないだろうとの事だった。
そして当日。
計画は順調に進み、あらかじめ打ち合わせしていた時間になり、体調が悪くなった振りをして、あたしはお茶会から一人外れた。
頑張って、と扇の陰でアマリ様の唇が動いたのが分かって、小さく頷いて部屋を出る。
アマリ様の人払いのおかげで、廊下はしんと静まり返っていた。
広すぎる廊下には自分ただ一人。
まるで過去に遡った様な焦燥感に手をぎゅっと握り締める。居心地の悪さと今から会う王子との会話を思うと、自然と足が重くなった。
嫌だなぁ……。
けれどもこんな所でぐずぐずしてしていたら、アマリ様に迷惑を掛ける事になるだろう。それに余計な輩に絡まれたくない。
一年前通った道を思い出しながら、足早に図書室へ向かう。目印だった大きな彫刻を確認して少しほっとした。
たしかここ、と呟いた声が思っていたよりも大きく響いて、慌てて口を押さえた。
図書館へ続く曲がり角にそっと身体を寄せ、扉の前に誰もいない事を確かめると、急ぎ足で向かい重い扉を開けた。
少しだけ湿った古い本の独特な匂いが、鼻を掠める。
予想通り司書は出て来ず、嫌いではないその匂いに誘われるように、棚が並んだその奥へと進んでいった。
そして、本棚と本棚の隙間。小さく取られた窓の前で立ったまま、静かに本を読む王子の姿を見つける。
一度深呼吸してから、そっと名前を呼んだ。
「王子」
どうやら呼び掛けるよりも先に気付いていたらしい。とくに焦った様子もなく、読んでいた分厚い本を閉じると、王子は顔を上げて少し照れたような笑顔を見せた。アマリ様を通したものの突然だったであろう呼び出しに気を悪くしている様子は無い。
むしろ――嬉しそう、そう気付けば、胃の痛みがいっそう酷くなった気がした。
「久しぶりだな」
窓から射し込む薄い光を遮るように、王子は一歩足を進める。
本棚と本棚の隙間はそれほど広くなく、ドレスの裾に影が重なった所で王子の動きが止まった。近い距離のせいか、少しだけ王子が緊張しているのが固い表情で分かった。
彼はどういう用件で呼び出されたと思っているのだろう。
伝え方はアマリ様に任せたけれど、『そういう』期待をしていなければいい。
傷つけたいとは思っていない。だけどきっとあたしが今から話す事に王子はショックを受けるだろう。いっそ怒って顔も見たくない程嫌ってくれればいい――なんて投げ出したくなるのは、あたしの悪い癖だ。
空を映したような青い瞳は、図書室が暗いせいで群青色に近い。それが既に頭一つ分上にあって驚いた。一ヶ月程会わなかっただけなのに、また身長が伸びたらしい。
「話があるとアマリから聞いたが……」
何も言い出さないあたしに焦れたのか王子の方から沈黙を破った。微かに眉を寄せた所を見ると、あまり良い話ではないと察したのかもしれない。
落ち着きどころを探して彷徨うあたしの視線に王子はますます不思議そうに首を傾け、眉間の皺を深めた。
そして不意に視線を下へと落とすと、唇に拳を当てて考え込むような仕草をしてみせた。そして不躾と言っても差し支えないほどに、頭のてっぺんからドレスで見えないだろう爪先まで視線を流して微妙な顔をしたのが分かった。
――ああ、やっぱり。
王子の行動が予想通りすぎて笑ってしまう。
けれどそんなあたしの表情に気付かないまま、かなりの時間あたしを――正確には、格好を観察していた王子は、少し時間を置いて戸惑うようにゆっくりと口を開いた。
「趣味が変わったのか?」
きっと純粋に放っただろう問いは、思っていた以上に、心に刺さった。
「どうでしょうね……」
乾いた喉で返した言葉は少し掠れていた。
今、あたしが身につけているのは、華やかな薄紅色のドレス。王子から召喚された次の日にお詫びとして贈られたものだった。
あの時は、きっと『イチカ』なら彼女らしく拒否すると思って別のドレスを用意して貰った。
それからずっとクローゼットの奥に仕舞われていたけれど、サリーさんが王城から運んでくれた私物の中にきちんと保管されていたのだ。
王子と会うと決めた日にクローゼットから出して貰って、鏡の前で合わせていると、何か察したらしいサリーさんは、何も聞かずに少しでも似合うようにとレースとリボンを外してくれた。
中に重ねられたレースを目立たせるように高い位置で抓まれて止められていた裾を落としてリボンを外し、そのレースを間引いてシンプルなものにした。
それだけでも随分落ち着いた印象になり、素直に素敵だな、とサリーさんのセンスに感心した。
けれどアマリ様のイメージそのままの光沢のある可愛らしい色合いはそのままで幼く見える。けれどもその分装飾がシンプルにしてあったので年上に見えるあたしの顔にもおかしくないくらいに馴染んで、鏡の中の自分はストレートに年相応に見えた。
本当はそのまま着ていくはずだったドレス。
だけどサリーさんはあたしの意図を察した上で、あたしの狙いを外さずに、こんな風に素敵なドレスにしてくれた。
何故わざわざ似合わないドレスを着てきたか。
答えは簡単。このドレスは豪奢で華やか過ぎて逆に幼く見える。『イチカ』なら絶対に選ばないものだ。だからこそ、皮肉にも王子がくれたこのドレスは偶然にも手持ちの中で一番今日の話し合いにぴったりだった。
「贈ったドレスは着てみたか」
あたしがずっと黙り込んで返事をしない事に、王子は焦れたらしい。
ただそんな事を聞く自体、今身に付けているドレスは似合っていないと遠回しに言っているようなものなのに。
一国を継ぐべき人が、女性の扱いすらままならないなんて、大丈夫かな、と余計な事まで考えてしまう。
「これも王子が贈ってくれたものですよ」
微笑みを貼り付けてそう答えたあたしは、相当意地が悪いだろう。
「… …? 違うだろう? 私がお前に送ったのは濃い緋色の」
そう、ごく最近送ってくれたドレスは、濃い緋色の襟ぐりが大きく空いた夜会用の大人っぽいドレスだった。
きちんと化粧をし、コルセットをつけて身に着ける成人した女性が着るドレスで本来の自分の年齢では身に着ければ失笑を買うだろう。随分大人ぶったドレスだと。
そこまで言って王子は言葉を途切らせた。
どうやらようやく、あたしが身に付けているドレスは王子が気狂いと称したお詫びとして、記憶に残らない程――おそらくは【適当】に、選んだものだと気付いたらしい。
「そうですね。これは、あたしには似合わないですね」
「……そんなつもりはなかったんだ。……悪かった。ただ、先日送ったドレスの方がお前らしくて良いと思って」
『らしく』――。
反芻すれば、心の裡で溜まっていた澱のような暗い『感情』がこみ上げて、息苦しさに胸を押さえて俯いた。
「……あたしもあの緋色のドレスは好きですよ」
黒髪が映えるつるりとした手触りの良い生地に、小さな宝石が縫い付けられた艶やかだけれど上品に輝く深紅のドレス。
きっと今度は自ら一番似合うドレスを、と考えてくれたんだろう。
仕立て屋か職人を前に照れながらも一生懸命、ドレスを選ぶ王子の姿が思い浮かんで、自然と笑みが浮かんだ。
おかしな物言いだったのに、大好きな『イチカ』の包容力を感じさせる優しい微笑みを浮かべると、王子が安心した様に無防備に笑った。
――ああ、駄目だ、前と同じ。分かる。
ゆっくりと心と身体が無理矢理剥がされていく痛みが全身に回って、王子との距離がどんどん広がっていく感覚に囚われる。
そうなれば、もう前と一緒。
『イチカ』を演じていた頃に戻って、予め用意していたセリフは勝手に口から放たれた。
「『イチカ』に、とても似合うと思います」
あたしの言葉に、それまで照れたような顔で何か話していた王子は、口を噤んだ。そして訝し気に片方の眉を吊り上げる。
「何を言っているんだ?」
言葉の意味が分からない、そう言いた気な王子の視線を受け止めて、固まったままの笑顔を向ける。
「王子、あたしはナナカです」
「……そんな事は知っている」
不思議な、ともすれば不気味にも見えたかもしれない。
いつになく表情を動かさないあたしの様子に、王子はやや怯んだのか、微かに顎を引いた。
不安をそのまま映した王子の顔を、真っ直ぐ見る事が出来なくなって俯く。
――言え。
せっかくアマリ様にお膳立てして貰ったのに、ここまで来て躊躇してどうする。
ぐっと握り締めた拳に力を込めて、あたしは口を開いた。
「いいえ。何も分かってません。もともとこれっぽちも似ていない姉妹なのです。あたしはイチカの身代わりにはなれません。だから、あたしに『イチカ』である事を求めないで下さい」
本当はきっと探せば、似ている何か、はあるだろうけど。
微動だにせずあたしを見つめていた王子は、しばらく経ってからようやくあたしの言葉の意味を理解したらしく、顔を強張らせた。
何か重たいものを飲み込むように、口元を手で覆ってあたしを恐れるように一歩下がる。
薄暗い部屋の中でも分かる位、顔色が悪くなっていくのが分かった。だけど、それでもあたしを見つめる目に、『イチカ』を探して縋る光があった。
冗談だよ、と彼の求める『イチカ』の柔らかい表情を浮かべて笑い飛ばせば、きっとほっとして元の状態に戻るのだろう。でもごめんね。やっぱりあたしは『イチカ』じゃない。
明るく穏やかで優しい『イチカ』。
そこにあたしが入る隙間なんてどこにも無い。
誰にも求められない『ナナカ』はここにいては駄目なのだと、ずっとずっと不安だった。
――自業自得。
王子ではなく自嘲するように自分自身にそう言った。
自己満足でしかない馬鹿な復讐のツケは、今ここに来たのかもしれない。
「ねぇ、王子――
華やかで明るくも優しくもない『ナナカ』は、必要ありませんか」
ああ、駄目だ。止まらない。止められない。
王子から感じる視線が顕著になるほどに、ゆっくりと積み上げてきた生活が全部、全部壊れて、いつか足元からぐらぐらと揺れて崩れていくような気持ちにとり憑かれていった。
だから、あたしは、今、ここに。――違う、今ここに来てあたしはようやく自分の気持ちに気付いた。
あたしは王子を、ここまで言っても『ナナカ』を認めてくれない彼を、同じ位『傷つけたい』のだ。
王子は黙ったまま、指先すら動かない。
ただ真っ青な顔であたしを凝視していた。
何か言ってくれれば、自分勝手にもそう思う。
傷つける言葉が止まらなくて、でも言わないと胸の奥で抱えていた重たいものに引きずられて自分が消えてしまいそうで。――吐き出したく、なる。
「何も言ってくれないんですね。王子にとってあたしは必要のない存在ですか? じゃあやっぱり、あたしがイチカの代わりに――」
死ねば良かったですね。
そう告げようとした瞬間、後ろから伸びてきた大きな手があたしの口を塞いだ。
「そこまでにして下さい」
久しぶりに聞く低く掠れた声。
太い腕があたしの腰に回り、後ろから抱きすくめられるような格好になった。
視界の端に太い腕の袖に縫い付けられた銀色の釦が映り、肌にあたる感触にその正体を知った。
――サダリさ、ん。
口の中で呟いた声は、塞がれた手によって音にならなかった。
けれど手に掛かった吐息で分かったのだろう。子供のように上を向いたあたしをまっすぐ見下ろす強い意志の篭った瞳。
サダリさん。
さっきまでどこか遠くで彷徨っていた心がすとんと元の位置に収まって、微かに身体が震えた。
何か言おうとしたけれど、今の王子とのやりとりを見られていた恥ずかしさが先に立って言葉にならない。
ただ醜悪な自分を見られた事だけは確かで、覚悟していた筈なのに惨めな気持ちに泣きたくなった。
避けていた事もあり、彼とこうして顔を合わせるのは二ヶ月振りだ。
けれどなぜあたしの護衛から外れ騎士団に戻った彼が、こんな場所にいるのだろうか。休みだとしてもここは王族のプライベートスペースであり、一般の騎士は入れず、勤務中だとしても演習場で鍛錬もしくは街への見回りがあるはずだ。
「ナナカ様」
以前と変わらぬ口調で名前を呼ばれて、状況を把握出来ないまま、瞼を忙しなく上下させると、サダリさんは口からそっと手を離してくれた。
慌てて視線を逸らし、身体を離す。
「……どうしてここに……」
「話は後にしましょう。顔色が悪い。王子、御前を失礼致します」
「サダリさん、待って、あたし」
腕を取られいつにない強さで引っ張られて、忙しなくサダリさんと王子を見る。
王子の顔は俯いていてよく見えない。遠ざかる程に長い髪が王子の表情を隠した。
「これ以上の話し合いは無意味だと思います」
「あ……」
縫いとめられたように動かない王子の身体。
今頃になって言い過ぎた、と苦い後悔が身体の奥から込み上げて、何か掛けるべき言葉を探すけれど、頭の中は空っぽで言葉にならない。
――どうして、あそこまで言ってしまったんだろう。
ただ最初は『ナナカ』の存在を認めて欲しかっただけだったのに、話している内に心の中に秘めていた鬱屈した不満と不安がぐちゃぐちゃになって、八つ当たりのように吐き出していた。
あんな事言うつもりはなかった。ここまで傷付ける必要はなかったのに。
「ご、……ごめん。王子、ごめんなさい。いくらなんでも言い過ぎた。言わなくていい事まで」
引きずられるように、向かった扉の前に、また違う気配を感じて、振り向く。
そこには驚く事に、神官長が立っていた。
「いいえ、ナナカ。これでいいのです」
「神官長様……」
何が? 何がいいの。
違う、それよりもどうした神官長までここにいるの。まるで申し合わせたみたいに。
「サダリ、この廊下の先の客室に部屋を借りています。ナナカが落ち着くまで使ってください」
「分かりました」
「いえ! 帰ります!」
頭が混乱して二人の会話も頭に入らない。
けれどこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかないと、駄々を捏ねる子供のようにただ首を振ると、頭の上にそっと誰かの手が乗った。
宥めるように撫でられて、じわりと視界が滲む。
「駄目です。ご自分の顔色を自覚した方が良い。日暮れにもまだ時間はあります。サダリからも話があるでしょうから聞いてあげて下さい」
サダリさんも、話?
ずっと避けていたのだ。何か言いたい事もあるだろう。恐る恐る顔を上げると、目が合ったサダリさんは微かに目を眇めて無言のまま屈み、あたしの膝裏に腕を回して抱き上げた。
「失礼します」
「っ……え」
「神官長、部屋をお借りします」
「ええ。ゆっくり過ごしてくださって結構ですよ。――王子は私と少し話をしましょうか」
王子に向けられた慰めるような穏やかな声に何故かあたしが泣きたくなった。どうして、……どうしてあたしはこんな風に人と接する事が出来ないんだろう。
馬鹿だ。加害者が泣いてどうする。
「……分かった」
くぐもった声の返事を背中越しに聞いて、サダリさんは「行きましょう」と、開け放たれたままの扉から廊下に出た。
扉が閉まる瞬間、首を伸ばして王子を見たけれど、ずっと俯いたままでどんな表情をしているのか知る事は出来なかった。
2013.10.11




