後日談2⑤
サダリさんはあたしにとって多分、あの四人の中でも一番会いたくて、でも会いたくない人だった。
一番素を見せて、感情的に振る舞った相手だからかもしれない。みっともなく触れたぎこちない口付けの相手でもあり、――最後まであたしを追い掛けようとしてくれた人。その意味を聞けば彼はどんな風に答えてくれるだろうか。
思い返せば温かな胸の中で、熱に浮かされながら感じた優しさは『イチカ』に向けられたものか『ナナカ』に与えられたものなのか、判断がつかなかった。
やだな。
自分は自分らしくあろうと決意したのに、そんな些細な事で揺らいで不安になる。
あたしは気持ちを切り替えるべく小さく首を振り、顔を上げた。
ぴくり、とこめかみが動いた気がしたのは見間違いだろうか。サダリさんの無表情は初めて出逢った時から変わらないものの一つだ。仕事柄感情を表に出さないようにしているのもあるだろうけど、本来のサダリさんも口数は少ないように思える。だからこそ余計に僅かに浮かぶ感情が見たくて、子供っぽいちょっかいを仕掛けては反応を確かめた。
髪が少し伸びたような気がするけれど、王子よりも疲れた感じはなくてほっとした。見つめあったその目があたしを捉えると眇められたのが分かった。
一瞬、王子や神官長と同じ事を考えたのだと思ったけれど、サダリさんの反応はそれだけで気のせいと言われれば、そうとも思えるくらい僅かなものだった。
……自意識過剰、だ。
今更ながらそう気付いて恥ずかしくなる。座っていたソファの位置が窓を背にしているせいで、ただ眩しかったのかもしれないのに。
居心地が悪くなって、真っ直ぐな視線から逃れる様に俯くと、躊躇うような間の後、名前を呼ばれた。
「ナナカ様」
部屋の空気に沈む様な、サダリさんの低い声を普段は心地良いと思っていた。けれど今は緊張を増長させるものでしかない。
「……こんにちは」
一週間で『お久しぶりです』はおかしい気がして、ようやく言葉に出来たのは、呟くような小さな挨拶。ああ、これも今更だ。神官長の時も王子の時も、戸惑ってはいたけれど、それ程深く考え込む事なんてなかったのに、どうしてサダリさん相手だとこんなに緊張してしまうのだろう。
「熱は下がったと聞きましたが」
少し間を置いて、問いらしき言葉が続く。語尾が上がらないので、咄嗟にそれが質問なのか理解できなかった。たっぷり数秒してから慌ててもう大丈夫です、と答えた所で、サリーさんが苦笑混じりに口を開いた。
「お二人共、座られたらいかがですか」
「え? ……あ」
いつの間にか立ち上がっていたらしい。お客さんが来たからその行動に間違いはないけれど、完全に座り直すタイミングを外してしまった。自然と助けを求める様にサリーさんに視線を向ければ、小さく肩を竦ませて今度こそ呆れたような顔をした。
「まだ時間があるでしょうし、やはりお茶を淹れましょう。食堂からお湯を分けて貰ってきますわね」
心得たような微笑みは、どんな勘違いか。違う、そういう意味じゃ……っと、心の中でぶんぶん首を振る。
呼び止める言葉を探している間にサリーさんは素早く身を翻して部屋を出て行ってしまった。
後に残ったのは、静寂。
あたしは覚悟を決めて、サダリさんと視線を合わさないようにしつつ、再び席を勧めた。
護衛中ならばきっと了承しなかっただろうが、今はそうではないらしい。それに自分が座らないとあたしも落ち着かないと判断したのだろう。近い場所にゆっくりと腰を下ろしたので、自分もそれに倣う。
「あの……わざわざ顔を見せに来てくれて、有り難うございます」
元護衛として挨拶に来てくれたのか、それとも神官長様が気を遣ってくれたのか分らないけれど、話を始める前にお礼を言う。
恐らく今は王子の護衛であろう彼はそれなりに忙しいはずだと思う。
それを裏付ける様に屋敷の中は今も騒がしいから。
「神官長様に出発の時間の言付けを頼まれました。あと一時間程で出発ですので、心積もりをお願い致します」
思っていたより早くて、少し驚く。
「……あの、休憩とか、そんなに短くて大丈夫なんですか」
「明日の朝に王子の予定がありまして、それまでには戻らなくてはならないと聞いております」
「随分予定が詰まっているんですね」
鯱張った言い方も健在。馬に乗せてくれた時は、もう少し砕けていたような気がしたけれど。
「元々王子は迎えの人数には入っておりませんでしたから」
「……そうですか、王子が」
それならこの慌ただしさも納得出来る。
しかし、片道だけの自分達はともかく、往復になる王子達はかなりの強行軍では無いだろうか。
妹姫が心配だったと言うならそれは良い。しかしそれに自分が絡むとなると、いささか問題がある。
……あたしはもう王子が好きだった『イチカ』じゃない。
そこまで考えて、先程の王子とのやりとりの違和感がふと蘇った。ああそうか。……納得がいった。『怒っているの?』なんて、元の世界でよく聞かれた質問なのに。
いつも明るく微笑みを絶やさなかったのは、『イチカ』。
そして、感情が表情に出る事は少なくて、いつも周囲に気を遣わせていたのは、『ナナカ』。
王子は、無意識にあたしの中の『イチカ』を探そうとした。もう、どこにもないそれを。
「……」
重くて飲み込めない、自業自得の感情をもてあまし、小さく溜息をつく。
……でも、あたしは『ナナカ』で。
王子の『それ』が続くようなら、自分の口で彼に告げなければならないだろう。あたしは『イチカ』ではないともう一度。……仕方がないのかもしれない。そんな事では秤にかけられない事を、あたしは彼にしたのだから。
ぐっと膝の上の手を握り締める。
――『お前はよく泣くのだな』
迎えに来てくれた時にそう言ってくれたから、『イチカ』と『ナナカ』を別人として考えようとしてくれていると、楽観的に考え過ぎていたのかもしれない。大事な『人間』は、そう簡単に心から消えない、なんて誰よりも分かっていたのに。
「……王子がどうかしましたか」
サダリさんに声を掛けられて、はっと我に返り反射的に首を振った。見つめたサダリさんの眉間には皺が寄っていて、心配させているのが分かる。
「いいえ、なんでもないです」
反射的に首を振った。これはあたしの問題だ。相談なんてすれば面倒見の良い彼の事、きっと煩わせてしまうだろう。それに彼と王子との間には確固たる身分差がある。
改めてサダリさんに見つめられている、と思うと自然と背筋が伸びた。やっぱり緊張する。だけど、どうして今更サダリさんをこんなに意識してしまうのだろう。最後に言葉を交わした時はあんなに安心して身を任せる事が出来たのに――そうだ。
そこまで考えてあたしはどうして彼に会いたかったのか、ようやく思い出した。
先程の自分の発言が気になっているらしい、考え込む様に視線を落としていたサダリさんに話題を変えるべく話しかけた。
「あの、サダリさん。ここに来る時、馬に乗せて貰っていたのに、眠ってしまってすみませんでした」
きっと意識の無い身体は、不安定で重かっただろう。
けれど彼は、「いえ」と、短い言葉で否定して首を振った。
「でも、二時間以上掛かったんですよね。王都から休みなしだったと聞きました。大変だったでしょう」
再び謝罪すると、サダリさんの眉間の皺がぐっと深くなって、それからまた言葉が続いた。
「こちらこそ、意識を失われる前に気付くべきでした。……――今更ですが、申し訳ありませんでした」
違う。逆に謝罪してもらうなんて望んでいない。
「え、……えっと、部屋まで運んで下さったのもサダリさんですか」
はい、とまた短い返事。あまり喋る人では無い事は知っているけれど、もう少しだけ会話をしたい。
『イチカ』だった頃のあたしなら、きっと素直にそう口にしただろう。
ああ、まただ。自分らしく生きていくと決めたのに、『イチカ』みたいになりたいと、また後ろ向きな事を考えている。
あんな辛い思い、二度としたくないのに。
サダリさんとは、少し距離を置いた方が良いかもしれない。
ごちゃごちゃ悩む思考を放棄して、とりあえずそう結論付ける。そしてサダリさんに向かって頭を下げた。
「お手数お掛けしました」
「……ナナカ様、私に対して謝るべきことなどありません」
予想していた言葉に、もう溜息しか出ない。謝らせてもくれないのだろうか、この人は。
それからサリーさんに呼ばれた時から思ったけれど、自分の名前に『様』を付けられるのは、イチカの時以上に居心地が悪い。
無駄かな、と思いながらも、少し足掻いてみることにした。
「結果的に神子ではありませんでしたし、知っている人達の前では様付けしてくれなくても大丈夫かな、って思うんですけど、呼び捨てで呼んでくれませんか」
「……自分は、あまり器用ではないのです」
もしかしなくとも、遠回しの拒否なのだろう。
少しがっかりした気持ちが表情に出ていたのか、サダリさんは膝に置いていた手を少しだけ持ち上げた。
「ナナカ、様」
呼びかけた名前の最後に、少しだけ苦いものが混じり、眉間に皺が寄った。
それからまた少しの静寂の後、「なるべく努力します」と固い声が降って来た。
……何だかわがままを押し付けているみたいだ。『イチカ』だった時に同じような事を言ったのに、どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
自分の子供っぽさを自覚して後悔が押し寄せる。
「では、準備がありますので私はこれで失礼します」
「そうですか。……あの、有り難うございました」
立ち上がり扉まで送ろうとしたあたしを、サダリさんが片手で制する。そして自分はすくっと立ち上がると、あたしを見下ろしやや迷ったように口を開いた。
「……あまり自分は女性の装飾物に聡くはないのですが。――そのドレス」
「……え?」
ドレス?
目の前の寡黙な彼からはあまり出てこない名称に、少し驚いて首を傾げる。
「『あなた』によく似合っている」
ふっと笑った表情に、急速に自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
――どうして。
こんなにタイミングが良いのだろう。さっき王子の事を思ったあたしは、比べられた事で、自分を見てもらえないと思って『寂しい』と感じた。
所詮『ナナカ』なんて『イチカ』に比べるまでも無いから。
だけど、サダリさんは、今、『ナナカ』を見てくれている。
純粋に恥ずかしくて――嬉しかった。
「あ、りがとうございます……」
慌てて両手で顔を隠すけど、それもばっちり見られてしまったらしい。
ちょっと驚いたように目を見張った後、口元に拳を置いた。続いた静寂に耐えきれなくなってあたしは口を開く。
「……な、なんですか」
「いいえ。では失礼します」
素早く立ち去る背中を、ただ呆然と見送る。言葉がなかなか出てこなくて、我に返ったのは扉が閉まる音が部屋に響いてからだった。
「あ……お茶」
そういえばサリーさんは未だ、戻っていない。
もういいから、と伝えにいかなきゃと思ったけど、どうにも身体から力が抜けていた。
……ちょっと落ち着こう、うん。
先程のサダリさんの行動と言動を思い返し悩みに悩んでいると、サリーさんが戻ってきて小さめのカップにお茶を淹れてくれた。
サダリさんとは廊下で行き当たったらしく、なんだか笑顔であたし一人分のお茶を淹れてくれた。目が笑っているのは気のせいではないだろう。
居心地の悪い空気をお茶と共に飲み込んで、ようやく出発の時間となった。馬車に乗ってもついつい考え込んでぼうっとしてしまう。そのおかしな様子にアマリ様は何度もあたしに詰め寄って来たけれど、自分だってよく分からない。
ドレスを誉められた事なんて何度もあるのに、どうして、こんなに。
サリーさんが鼻息荒いアマリ様を何故か機嫌よく宥めている内に、馬車は王都へ到着した。行きとはまた別の意味で景色を楽しむ余裕なんてなかった。
そして、手探りで始まった神殿での生活に慣れ、心身ともに落ち着いた頃には、季節はまた二度目の夏へと移り変わっていた。
2013.7.19
ちょっと修正したいところが見つかってしまって、明日の更新はお休みになります…っ




