03.アオイソラノシタ
当たり前の様に繰り返される日常が、かけがえの無い幸せだったのだと気付くのは、いつも失ってからだ。
慣れない土の匂いと鳥の声にまぶたを押し上げると、モスグリーンの傾斜した天井にちょっと驚いてすぐに思い出す。既に日差しが強いのか天井は生い茂る葉の影を濃く象っていた。
「……キャンプに来たんだっけ」
夏休みも終盤に差し掛かった暑い日に、避暑も兼ねて、あたしはお姉ちゃんとシンディ、その友達八人でキャンプに来ていた。
うん、妙齢の男女の集団にジュニアスクール通ってるお子様とか、明らかにお邪魔である事は分かっている。だけど夏休みに家に一人残る事になるのは危険すぎると、お姉ちゃんに半ば無理矢理連れて来られたのだ。
けれど、意外……って言ったら失礼なんだけど、それなりに楽しく過ごしている。
多分、家によく遊びに来るメンバーが大半で顔見知りだって言うのも大きいんだと思うけど、人見知りのあたしに必要以上に気を遣ったり構ったりして来なくて、居心地は良い。
「ねむ……」
けれど、目覚めたばかりでまだだるい。
寝返りを打とうとして、その窮屈さに諦めて手探りで胸の辺りにあるチャックを下げた。上半身を起こして、慣れない寝袋に固まった身体を伸ばした所で、入り口が捲り上げられる。
人影と一緒にテントの中に伸びた日差しに目を眇めた。
「あ、おはよ奈菜、眩しかったわね」
ごめんねー、と謝りながら、人影は膝立ちになってあたしの寝袋に近付いて来た。
「おはよ。思いっきり寝坊したみたいでごめん、みんな起きてる?」
昨日遅かったしねーと、くすくす笑って寝起きでぼさぼさなのであろう、あたしの頭を撫でる。
化粧どころか日焼け止めしか塗ってないだろうに、お姉ちゃんは今日も綺麗だ。
「顔洗いに行こう。もうすぐパン焼けるし」
「パン?」
「ん、鉄板で食パン焼いてるの。ヒロとリックスが張り切って作ったバームクーヘンもどきもあるけど、真ん中チョコレートじゃなくて焦げ目だから、食べない方がいいわよ」
味見したのか、お姉ちゃんは眉間に皺を寄せて手を振ってみせた。
キャンプでバームクーヘンとか本格的だ。味見は遠慮したいけど、一度は見てみたい。
お姉ちゃんは、端っこに寄せてあったリュックを漁ると、「奈菜」と、あたしの名前を呼んだ。手の中にあったのは日焼け止め。
「今日は日差しがきついわ。ちゃんと日焼け止め塗っていきなさいね」
まるで母親みたいな言い方に、ちょっとムッとする。
「真っ赤になるわよ」
でもそんなあたしの不満はお姉ちゃんには筒抜けらしい、笑いの混じった言い方で分かる。頬を膨らませば、お姉ちゃんは、唇の端を吊り上げてほっぺたをつっついて来た。
まぁでも確かに日差しがきついのは分かる。あたしは日焼け止めを受け取ると、枕元に置いていたジーンズとTシャツに着替えて、リュックからタオルを取り出し顔を洗いに行った。
* * *
「ナナカが寝坊なんて珍しいわね。やっぱり眠れなかった?」
キャンプの炊事場に顔を出せば、挨拶する前にシンディが手を振って来た。
「奈菜、水飲む?」
お姉ちゃんは、あたしが返事をする前に洗い場の方に駆け出して、そこにいた赤いパーカー……誰だっけ……? まぁいいや、その人に、何か一言、二言言って駆け戻って来た。手にはミネラルウォーター。
赤いパーカーの人は残念そうに溜め息をついてお姉ちゃんの背中を視線で追っている。
なんか姉が期待させてスミマセン、と心の中だけで謝ってお姉ちゃんに、ありがとう、とお礼を言ってペットボトルを受け取る。
「そうね。奈菜は場所が変わると眠れない方だし。朝食は取れそう? コーヒーじゃなくて、ホットミルクにする?」
お砂糖もちゃんとあるわよ、と付け加えて頬と首に触れたお姉ちゃんの手はひんやりと冷たくて気持ち良い。
でもホットミルクは余計だ。いくら七つ離れてるからって、そこまで子供扱いはしないで欲しい。
何だか微笑ましいものを見る様な周囲の視線に、あたしはげんなりして、大丈夫、と繰り返してその手を避けた。
「イチカはほんっと、ナナちゃん大好きだなぁ」
「もうシスコンもここまで来たら病気よね」
紙コップにコーヒーを入れていた、このグループ唯一のカップルがくすくす笑いながらそう声を掛けてくる。
ほんわかした雰囲気がよく似た二人は、卒業後に結婚するらしい。
「別に病気でもいいわよ。奈菜は可愛い! 胸を張って言うわ」
あたしを抱き込んで……って言ってもあたしの方が身長が高いから、抱き付いてる様に見える。
「あははっあんたその調子でナナカに彼氏出来たらどうするのよ!」
「……凄腕の暗殺者雇うかもしれないわ……」
真面目な顔でそう呟いたお姉ちゃんに、周囲から笑い声が上がった。
「一華、ほら。奈菜ちゃんもおはよう」
いつの間にか近付いていたヒロさんが、お姉ちゃんに紙コップを差し出した。
「おはようございます」
ヒロさんのお姉ちゃんを見る熱の籠もった視線に、あたしはさり気なくシンディの隣に移動する。
「モテる姉を持つと苦労するわねー」
はい、とカフェオレを差し出されて受け取る。
――そう、お姉ちゃんは老若男女問わず昔からモテる。
目鼻立ちは整ってて、でもいっつもにこにこしてるから、近寄り難さは無く、天真爛漫と言うか、……違うな、明るい癒し系と言うか人を和ませる何かを持っている。何と言うか話上手以上に聞き上手で、こう、そのとき言って欲しい事をピンポイントで言葉にしてくれる。そんな感じでお姉ちゃんには恋人希望の男の人以上にファンが多い。
引っ込み思案で人見知り。明らかなインドア派であまり表情が変わらないせいか、二言目には「怒ってるの?」と聞かれるあたしとは正反対だ。
「って言うか、シンディもモテるじゃない」
「いや、あたしは策略巡らせてるだけで、イチカみたいな天然じゃないし」
すっかり冷めたコーヒーを啜りながら、シンディは、そう笑い飛ばす。
「もうホントにさーナナカが先に彼氏作った方がいいんじゃない? イチカの妹離れの為にも」
「学校に男の子いないし」
あたしが通っているのはカトリック系のスクールだ。こっちでは珍しい女子校。
「じゃ紹介したげよっか。どういう系統がいい?」
「え」
思っても見ない言葉に思わず、シンディの顔を見る。シンディは艶々したグロスたっぷりの唇の端を釣り上げた。
「ちょっと、シンディ、また奈菜に余計な事教えないでよーぉ」
いつの間にかすぐ近くにいたお姉ちゃんが、あたしとシンディの肩を抱え込んだ。
「出たわねシスコン。ナナカの彼氏作り邪魔しないでよ」
「っちょ……っ彼氏作りってどういうこと! 奈菜にはまだ早いわよ!」
笑い声がこだまして、青い空の下で響き渡る。
お姉ちゃんもシンディも、ヒロさんも、あたしも、みんな笑顔。
……ねぇ、楽しかったね。
また行きたいね、お姉ちゃん。