後日談2①
すっかり日も落ち始めていた事もあり、結果的に迎えに来てくれた場所から、一番近いらしいあの台座のある神殿へと身を寄せる事となった。
馬に慣れないあたしを、サダリさんが後ろから支えてくれる。規則正しいリズムで揺れる馬の上は、思っていた以上に高かったけれど、背中に触れる固い胸の感触が恐怖を和らげてくれた。
「身体の力を抜いて寄りかかって下さい」
暫くしてから頭の上から降って来た言葉に迷う。
馬に乗る時の姿勢は真っ直ぐが良い、と聞いた事があったし、周囲の人達もそうしている。意図を図りかねて僅かに首を傾けると、サダリさんはその動きから疑問を察したらしい。
「どうかそうして下さい。あまり顔色が宜しくありません。――それに」
お腹に回された腕に、力が籠もる。引き寄せられたせいで彼の声が近い。
「触れている方が安心しますから」
普段の彼らしく固い口調なのにそぐわない単語。
少し引っかかって、安心? と繰り返した言葉に、苦笑したような気配がした。
「私が、です」
同時に抱き込むようにして、やんわりと身体を倒された。宙を仰いだ拍子に男性らしい顎のラインが視界に入る。何故かいたたまれなくなって、すぐに視線を逸らしてしまった。
けれど一瞬だけ強張った身体は、確かに彼の言葉通り。触れた途端その温かさを求めて力が抜ける。不安定な姿勢も相俟って、結局元の位置に戻れなくなってしまった。
獣除けに灯された松明が道の先を照らして、蹄の音が響く。前にいる王子が誰かと話す声に、お姫様の明るい、だけどこちらを気遣うような抑えた声が被る。
ふいに王子と目が合った。怒っているような困っているような複雑な表情をしていた。まだ幼さの残る血色の良い唇が何か言葉を紡ぐ、けど、よく分からない。
聞き取れなかった事に気付いたらしい王子は、また何か言いかけたけど、少し視線を上げて――多分、サダリさんを見た。その後、また何か呟いて前に向き直る。
何を、言いたかったのかな……?
泣きつかれたのだろうか、頭がぼんやりする。虫の声も遠ざかり、規則正しく揺れる身体にまぶたが重くなる。あんな場所で眠っていたからだろうか。急に寒気を感じてそれを意識してしまえば、まぶた同様身体全体が鉛の様に重くなっていく。
眠い。けれど体格差があるといっても意識の無い人間程重く厄介なものは無い。進んで馬に乗せてくれた優しい彼にこれ以上の迷惑を掛けたくなかった。
自分にそう言い聞かせながら、眠気覚ましに目に力を込めて上を向く。しかしそれも無駄な抵抗だったらしい。
――赤い月が、今日は薄雲に隠れている。
輪郭がぼやけて柔らかな藍色を放ち、あれだけ嫌いだった『赤』から、何故か今は逃げたいとは思わない。
そう思ったのが最後で、そこからぷっつりと糸が切れた様に記憶が途切れた。
* * *
「……ん、……」
汗で張り付いた髪をかきあげる途中で気付いて、慌てて目を開けた。どこかで見た、けれど馴染みの無い天井に、身体が強ばる。
身体全体、特に背中辺りが重くて鈍い痛みを感じる。けれど、どこかすっきりしたような倦怠感は、熱が下がった時特有のものだ。
え……っと……。
状況が分からず自然と手に触れたシーツを固く握り締める。跳ねた心臓の音を自覚する前に、視界に入って来たのはサリーさんだった。
「お目覚めですか」
それは儀式までの一年間、毎朝繰り返された挨拶。
――夢?
一瞬、呼吸が止まった。
全部、夢?
お姉ちゃんとの再会も四人が迎えに来てくれた事も、何もかも。
まだ『終わっていなかった』のだと思って、ぞわりと粟立った肌。とっさにシーツの中に震える手を隠そうとして、途中で止めた。否、止まった。頬に落ちたサリーさんの涙に気付いたから。
そして。
「ナナカ様」
――え………
驚きに開いた口は、返事をしょうとしたのか自分でも分からない。結局返事は乾いた吐息にしかならなかった。
今、確かに―――
サリーさんは、あたしを『ナナカ』と呼んだ。
急速に眠気が遠ざかる。頭を巡らせてようやく思い出した。
……ああ、違う。夢じゃないんだ。 サリーさんはきっと、誰かに聞いたのだろう。賢者以外知らなかったあたしの本当の名前を。
だから、これは夢じゃなくて『現実』。
改めて確認すれば見慣れぬ天井は、確かに一度だけ見たあの台座がある神殿のものだ。
「発音はこれで合っていますか」
微かに震える声は気遣うように優しい。そう尋ねるサリーさんに、あたしははっと我に返り、少し躊躇しながら頷いた。
落ち着け。
もう一度、今度はゆっくりと記憶を攫う。
そう。間違いない。視界一杯に緑が萌ゆるあの場所も、お姉ちゃんに会ったのも『現実』。そして、ここは一時身を寄せようと話をしていた台座のある神殿なのだろう。
「サリーさ、ん」
寝起きの掠れた呼び掛けだったけど、しっかりと彼女に届いたらしい。
少し驚いた様な顔を一瞬だけして、すぐに「はい」と、大きく頷く。
サリーさんは、あたしを見つめてぐっと唇を噛み締めた。堪えきれなかったらしい涙が新たに膜を張り、それを隠す様に俯く。指先で目元を拭う仕草に、胸が痛んだ。
「……『儀式』から何日経っていますか」
拭った指先が止まる。ああ、違う。失敗した。彼女がこんな風に気に病む必要なんて無い。
彼女の涙から感じている罪悪感の理由は分かる。衣装を着付けて台座に送り出してくれたのは彼女だ。その『終わり』を知れば、きっと彼女は悲しんだだろう。誰も何も言わなければいい。神官長辺りなら「ただ元の世界に還ったのだ」とか適当な理由を考えてくれるような気がして、敢えて何も言わなかった。けれど、それも確かな事では無くて。
もし彼女が真実を知ることがあれば気に病まない筈が無い事は分かりきっていたのに。後の事なんて全て放り出してあたしは逃げた。
あの四人に、四人だけに、消えない傷を。復讐を。
なんて一人よがりな思い込み。
結局選んだはずの四人以外の人間だってたくさん傷つけたのだ。サリーさんも、あの小さなテトすら。
ややあってからサリーさんは涙を拭う。そして気持ちを切り替えるように微笑んで答えてくれた。
「今日でちょうど七日目になります。ナナカ様をサダリ様達がお迎えに行ったのが三日前で、深夜お戻りになられました。その時には既に高い熱を出されて意識も無かったですから覚えていらっしゃらないのではないですか?」
サリーさんの言葉に頷く。全く覚えていないので、ある意味予想通り、サダリさんに抱えられたまま馬
上で眠ってしまったのだろう。
ここまで運んでくれたのも、きっと彼だ。結局迷惑を掛けてしまった。
……それにしても三日間なんて。ずいぶん長い間寝込んだものである。
確かに体調は悪かったが、風邪を引いていた訳でもない。心労? いやむしろ知恵熱の類では無いかと思う。全てが終ったあの日、あたしは念願だったお姉ちゃんと再会し、色んな事があって、そして同じだけ色んな事を知った。
けれど自分が呑気に眠っていた間、事態はどう動いたのだろう。賢者が王様と話をつけに言ってくる、と言っていたが死ぬ予定だった神子なんて、面倒な人間をこれからどう扱っていくのだろうか。
ああでも。
アマリ様は友人になって、って言ってくれたっけ……。
ふわり、と胸の奥が温かくなる。そして同時に思い出した彼らは今どこにいるのか気になった。
次々と質問を重ねるあたしにサリーさんは苦笑しつつもきちんと答えてくれた。
「残念ながら王子と神官長、サダリ様は報告と護衛の為に城に戻られましたが、アマリ様がどうしてもナナカ様が目覚めるまで側にいたい、と仰ってこの神殿に留まっていらっしゃいます」
「アマリ様が……」
次々と彼らの顔が脳裏に浮かぶ。……そう、彼等は忙しい。アマリ様だってこの神殿に三日も残っている事自体、かなり無理を通しているのだろう。彼女も公式行事以外にもやるべき事はたくさんあって、その一部には自分も一緒に参加していたからよく分かる。
「アマリ様は、毎日こちらに顔を覗かせては声を掛けて下さっていましたよ。ただ今医師が参りますので、きちんと診て頂いて少し落ち着いてから、アマリ様にもご報告致しますね。……お水は、飲めそうですか」
改めて口を開く前に、そう問われて異常に喉が渇いている事に気付く。
「……お願いします」
すっかりサリーさんのペースに巻き込まれてしまったらしい。聞きたかった事も先回りするように話をしてくれる。
眠り過ぎたのか痛む頭で思い出してみると、断片的な記憶が映像になって蘇る。うつらうつらしつつも、時々は意識は戻っていたのだろう、入れ代わり立ち代わりで誰かが枕元で話していた。あれは誰だったのか。
「失礼します」
サリーさんは力の入らない背中を支えて起こしてくれた。慣れた手付きでクッションをずらして腰の下へと敷いてくれる。
それから杯を口元へと運ばれて、慌てて首を振った。
「大丈夫です。自分で」
一旦手のひらをぎゅっと握り締めて開く。身体は重いけれど他に問題は無いし、熱は下がっている。杯を受け取ろうとするとサリーさんは何故かふいっとそれを持ち上げてあたしの手を避けた。
「え……?」
「駄目です。病人は甘えて下さい。それにナナカ様は私より七歳も年下なんですよ」
そう言ったサリーさんの口調が今までとは違った。何だか、そう、気安い口調がお姉ちゃんみたいで。
有無を言わせないにこやかな笑顔で差し出されて、躊躇いつつも口をつける。
少し冷ましたお湯に絞られた爽やかな果実の香りが鼻から抜けた。
おいしい。
一気に飲み干したいけれど、サリーさんに「ゆっくりとですよ」と念を押される。きっと咽せてしまうからだろう。だけどその優しさが少し辛かった。
――この人は、どこまで知っているのだろう。ナナカと呼んだ以上、ある程度の事情は神官長辺りから聞いたかもしれない。でもどちらにせよ、あたしはこの人にも謝らなければならない。
ずっと気にとめて、大事にしてくれた。きっとサリーさんくらい優しい人じゃなければ、付き合いでも孤児院の手伝いなんてしてくれなかった。
食事が喉を通らなかった時は、手自ら未知の料理を作ってくれたのだ。
サリーさんにお姉ちゃんを重ねた事も何度かある。
その度に記憶を色濃く刻みつけていた。けっして忘れないように。避けられないならば、と意識的に復讐に彼女を利用していた。
なんて愚か。
穴だらけの復讐。結局他人の力を借りてしか果たす事は出来なかった。
「……サリーさんは儀式が終わった後、どうしてたんですか」
「神官の一人に、神子は元の世界に『還った』のだと説明を受けました。けれど……そんな話はナナカ様から聞いておりませんでしたし信じられなくて、失礼ながらアマリ様を訪ねたのです。けれどアマリ様も儀式から戻るなり部屋に籠もってしまわれて、ますますおかしいと思いました」
ああ、やっぱり。
アマリ様の天真爛漫な笑顔と、傷ついた泣き顔が交互に頭に浮かんで、溜息をつく。
「一度、城に戻ったんですか?」
「いえ、アマリ様の侍女と同じ馬車で共に戻るように言われましたので、ここにいましたが……そのアマリ様のご様子といい、サダリ様が地下牢に繋がれた事といい、本当にイチカ……いえ、ナナカ様が元の世界に戻ったとは思えなくて」
「地下牢に?」
思わずそう聞き返していた。あのサダリさんが地下牢に繋がれていた、なんて聞いていない。どうして。
「ええ、後から聞いた話ですとナナカ様を追い掛けて、崖に飛び降りようとしたそうです」
少し迷ったような間は、気を遣ったのだろう。確かに衝撃を受けた。
……あんな場所から落ちれば、間違いなく死ぬ。なんて馬鹿な話だろう。あんな酷い裏切り方をして逃げたのに。忠義心の固まりなのか、それとも前の日に交わした言葉の証明だったのか。最後に見たサダリさんの絶望に歪んだ表情。その少し前は酷く怒っていた。
ぎゅっとシーツを掴む。迎えに来てくれた時の彼は――ただただ優しかった。
自分の馬に乗せてくれて、感じたのは温かな気遣い。逆に居心地が悪い程に彼は『あたし』を大事に扱ってくれた。あの時怒鳴りつけてくれた方が楽だったのかもしれない。でも誰もそれをしなかった。
今更サダリさんに――否、あの四人にどんな表情をして会えばいいのだろう。
「ナナカ様?」
黙り込んでしまったあたしの顔を、サリーさんが不安そうに覗き込む。脳裏に浮かんだサダリさんの顔を緩く首を振って掻き消した。
違う、とりあえず今、あたしに出来ることは。
「……ごめんなさい」
サリーさんは空っぽになった杯に、水を注いでいた手を止めた。あたしを見つめて、一旦それを置いて寝台の傍まで歩み寄る。シーツから出ていた手に、少しかさついた指先が触れた。
「ナナカ様が私に謝る事なんて何も無いのです」
緩く握り締めてそう呟く。
でも、と続けようとした言葉を、サリーさんは首を振って遮った。近いせいで俯いたその表情は見えない。
「いいえ。……どこかで気付いていたんです。ずっと一緒にいましたから。でも、それを聞いてしまったら取り返しのつかない事になってしまう気がして、――儀式さえ終わればきっと何もかも上手くいく、なんて自分で自分に言い聞かせて逃げていました」
穏やかな笑みが消えて、苦く表情が曇る。
確かに『そう』だった。儀式が終われば『私』の復讐も何もかもうまくいくはずだった。
『イチカ』を保てなくなってから、部屋に籠もりがちになった。そんなあたしを一番近くで見ていたサリーさんなら、何かに気付いてもおかしくはない。あの時、張り詰めた糸は今にも切れてしまいそうで、ただただ怖くてこれ以上綻びを出さないように会話すら出来なかった日もある。
予想していた通り、ある程度事情は神官長から聞いていたらしい。それに補足するように出来るだけ素直に自分の気持ちを話す。そうする事でむしろ、あの夢のような出来事を自分自身に『現実』なのだと言い聞かせているようだった。
話終えて沈黙が部屋に横たわる。それを破ったのはサリーさんだった。
「ナナカ様は、お姉様に再会されたのでしょう? 何と仰っていましたか?」
意外な言葉に少し、考える。時間の流れが違うのか、とても短い時間だったようにも、見える。ずっと泣きそうな顔をしていた。彼女は最後に。
「……幸せになって、と言われました」
「では、幸せにならなくてはいけませんね」
はい、と素直に答えるには自分がしでかした事が大きすぎで素直には頷けない。
その後はサリーさんが作ってくれたおかゆを食べ、また横になるように勧められた。どうやらまだ回復しきっていなかったらしい身体は、すぐに深い眠りに落ちた。
2013.06.07




