28.柔らかな抱擁
ふわふわと、空を飛んでるみたい。
懐かしい香りがする、柔らかな何かに頬をこすりつければ、真上から声が降って来た。
「……な、奈菜」
夢?
懐かしい声に死んでからも見るのだろうか、とぼんやり思ってゆっくり瞼を押し上げる。
いつか見た朝焼けの様なぼんやりとした境界線。次いで視界に入ったのは、――ずっとずっと会いたかった人だった。
胸元まである真っ直ぐの癖の無い艶やかな黒髪。少しだけ茶色い大きな目はほんの少しだけ垂れていて、密に揃った長い睫毛が忙しなく瞬く。
頬に触れる手は柔らかくて、温かい。
「お姉ちゃん……!」
目覚めたばかりだと言うのに、驚く程身体は軽くてバネの様に跳ね起きた。
咄嗟に両手を伸ばして抱き付く。
だって今まで夢にも出て来てくれなかったから、すぐに消えてしまいそうで必死でしがみついた。
「お姉……っちゃっ」
以前と変わらない細い身体に手を回して力を込める。
「奈菜、大丈夫」
背中を撫でる優しい手も落ち着いた柔らかな声も、間違いなくお姉ちゃんのものだ。
とんとん、とあやす様に甘やかす様に撫でる手の温かさに、くぅ、と変な風に喉が鳴った。涙が溢れて視界を滲ませる。大好きで、懐かしい優しい匂い。
お姉ちゃん、お姉ちゃん。
ごめんね、ごめんなさい。突然いなくなったからびっくりしたよね。それとも気付かなかったかな。痛かった? 怖かった? ごめん、あたし肝心な時に、一番大事な時に、お姉ちゃんの役に立てなかった。ごめんね、ごめんなさい―――
「大丈夫、大丈夫だから、ね?」
優しい許諾に凍りついていた心が溶け出して、言わなくていい事まで溢れ出す。浅はかで拙くて馬鹿な行いも、全部。だって、真っ暗な想いを抱えた身体は重くて辛くて、こんな綺麗なふわふわした場所じゃ、足元から沈んで落ちてしまいそうで怖かった。そう、怖い。
ずっと怖かったの。訳の分からない世界に一人ぼっちで怖くて、気を張り詰めてなきゃ、時間が経てば経つ程込み上げる『何か』に呑み込まれそうで、怖かった。気付かない振りをして、避けて、逃げて、もう疲れた。疲れたの。
息継ぎする暇も惜しい位、話し続けて、でも手の中の温もりがそこに存在する事に、安堵する。なんて幸せな夢。
夢?
違う、夢じゃなかった。
あたしも――死んだから、会えたんだよね?
じゃあ、これからずっと一緒にいられるよね?
「それは不可能だ」
居心地の良い思考に浸る前に、低く深い声に呼び戻された。
お姉ちゃんの腰に手を回したままのろのろと視線を上げれば、神官長が身に着けていたような裾の長いローブを着た男の人が、あたしを見下ろしていた。
目鼻立ちの整った生気の無い硬質な美形。どこか不機嫌にも見えるその表情が無ければ整い過ぎて精巧な人形か彫刻の様に見えただろう。艶やかに銀の輪を纏った長い髪はあたしより長く腰まであり、その一本一本が輝いている様に見えた。
そして驚く事に彼の身体を覆う様に、金色の粒子が光っている。
あたしが力を使う時とよく似たそれは、だけど比べようも無い程澄んでいた。
……?
心臓が不意に鼓動を早めて、何かに掴まれた様にきゅうっと痛む。
明らかに人間では無いオーラを持っているのに、何故だか奇妙な親しみを感じた。最近もどこかで感じたその得体の知れない感情に違和感を覚えていると、あたしを抱えていたお姉ちゃんの身体が揺れた。
「ちょっと! アルっしばらく出てこないでって言ったのに!」
慣れた様に返したお姉ちゃんの遠慮のなさに驚く。お姉ちゃんが目上らしき人にこんな風に怒鳴る所なんて見た事なかったから。
「……そうつれない事を申すな」
ちょっと怯んだ様に間を置いて、男の人が呟く。
どこか拗ねた様な口調に、お姉ちゃんは、もう、と困った様に溜息をついてから、あたしを見下ろし笑ってみせた。
だれ? と、呟いた声は言葉にはならなかったけど、口の動きで察したらしい。
お姉ちゃんはあたしを抱き締める力を少し緩め、手をしっかり握り締め直してから、そっと身体を離した。繋がれたままの手はあたしの不安を見越したものだろう。
それから真っ直ぐあたしに向き直り、安心させるように頷いた後ゆっくりと口を開いた。
「アルジフリーフ。奈菜も神官長から聞いたでしょう? この世界の神様よ」
……彼がアルジフリーフである事は何となく分かっていた。だってその面差しが神殿の奥にあった像とよく似ていたし、何よりここはきっと天国だから、神様だって存在してもおかしくない。
でも、それよりも驚いたのは。
「それでね、私の旦那様でもあるの」
少しの躊躇いの後、おまけのように付け足された言葉だった。
――旦那様?
理解出来なくて反芻した言葉に、お姉ちゃんは、うん、と肯定してから苦い表情を作った。
「奈菜はね、私に巻き込まれただけなのよ。選ばれたのは私だった」
それは。
「お姉ちゃん、が神子?」
思ってもみなかった言葉に反射的に繰り返したけど――不思議と納得した。
神官長からそう説明され、周囲から『神子様』と呼ばれてからは、疑う事すらしなかった。
だけど最初に思ったじゃない。
あたしが神子なんてミスキャストもいいとこ。明るく誰からも愛されていたお姉ちゃんの方がその名に相応しいって。
でもそうなら。
「じゃあ、お姉ちゃんも、あの時どこかに召喚されたの?」
もしかしたら生きてるかもしれない、と仄かに灯った希望にそう尋ねたけれど『ここ』にいる時点で、ありえない事だとすぐに気付いた。
……でもいい。今あたしの隣にいてくれているのだから。
そう思って、ごめん、と謝ろうとした言葉を遮ったのは、それまで黙っていた神様、アルジフリーフだった。
「そうだ、私が召喚した」
彼に流した自分の視線が自然と険しくなる。
だって『召喚』って事は、お姉ちゃんを殺したのも同じ。……そもそもアルジフリーフなんて存在さえいなければ、こんな茶番が起こるはずもなかったのに。
「奈菜、違うの。奈菜が消えずにあの世界に残っていて手術が成功したとしても、私はすぐに死ぬ運命だったのよ」
「……そんなの分かんないじゃない!」
噛み付く様に吠える。お姉ちゃんが、アルジフリーフを庇ったのが、無性に癪に触った。だって、この人が、この『存在』があったから。
「神の世に人の肉体はいらぬからな。イチカがあの病で死ぬのは決まっていた」
あたしの苛立ちなど気にする様子もなく、淡々と告げるアルジフリーフに余計苛立ちが増す。
「意味が分かんない。じゃあ、あたしがあの国に召喚されたのはお姉ちゃんの代わり? 間違い? それならあたしだってここに直接呼んでくれれば良かったじゃない!」
「お前は神子ではないし、肉体を持って召喚されたからそれは出来ぬ。本来神の世に来るには、祖が作った世界の理に暮らし馴染ませねばならない。代々我々はそうして伴侶を得て来た。しかし今回は違った」
「……違った?」
「時が満ち伴侶を得る時期に近づいたせいか、私はお前達が住む異なる世界を覗く事が出来るようになった。神子――イチカの存在はすぐに分かったが、あの状態でお前が過ごしたあの城にイチカが召喚されたとしても儀式まではもたず、痛みを伴う日々を過ごしただろう。
肉体の過度な苦痛は魂にまで傷を与える事もある。……伴侶の最後を苦痛に満ちたものにはしたくなかった。だから私は、儀式を待たず直接神子を喚ぶ事にした」
「直接?」
「ああ。しかし大きな誤算が二つ。王国もまた太古からの約定に従い神子を召喚した。神子は既に私の手の中にいる以上、召喚は成功しない筈だった。しかし予想に反して――神子は召喚された」
「……それが、あたし? 神子が二人って事?」
召喚された時から、神子としての力は使えた。
「いいや、神子はいつも一人だ。お前が召喚されたのは――イチカがお前に執着し、お前もまたイチカに執着していたからだ。魂の一部が結び合う程に」
――執着。
目の前のお姉ちゃんからは想像出来ない単語だった。仲が良いとは言われていたけど、明るくサバサバとした印象のお姉ちゃんには相応しくない。
お姉ちゃんを見ると、今にも泣きそうな顔をしていた。唇を噛み締めて、「ごめんね」と何度も呟いて俯いたお姉ちゃんに、訳が分からないまま慌てて首を振る。
あたしがお姉ちゃんに執着しているのは理解出来る。だけど逆はない。だってお姉ちゃんは、誰からも好かれていて、血が繋がってるだけのあたしなんかに執着する意味なんてないのに。
「その事をイチカを召喚した時に、私は気付く事が出来なかった。結果、召喚した事で強引に引き剥がした事になり、イチカの魂の欠片がお前に、お前の魂の欠片がイチカに残った。お前の中のイチカの魂の一部に、召喚陣は反応し作動し、お前はこの世界に召喚された。お前が発現させた癒しの力もイチカの能力だ」
「私の中に……」
呟いた声に胸の奥が返事をするように、温かくなった気がした。
確かにお姉ちゃんの仕草や記憶ははっきり思い出せたし、不思議な夢を見る事はあった。
「しかし所詮違う魂。綻びはいつか支障をきたす。元に戻すには、お前がこちらに来る必要があった。肉体を伴っている以上、それにはあの王国で儀式を行い途を開く他手段がなかった」
確かに一年をこの世界で過ごし、馴染ませ行う儀式は神の国の途を開く為の儀式だと聞いていた。そしてあたしは、今、ここにいる。
「しかしお前は、執着していたイチカが死んだ事で、生きる気力をなくしていた。何しろ『イチカ』が死んだ事は事実で、お前が召喚当初に絶望し自殺でもしようものなら、お前の魂はこの世界には定着しておらず元の世界に戻ってしまう。どうしてもあの王国で一年間『生きて』過ごして貰わねばならなかった。またイチカもお前が生きる事を強く望んだ。だからキイチに頼んだ」
「キイチ……?」
「奈菜が『賢者』って呼んでた人よ。先代の神子、アルジフリーフのお母さんの弟なの。彼もまた巻き込まれてこの世界にやってきたらしいわ」
粗雑で口が悪くて、どこかお節介で、多分――優しかった。
あたしは彼の正体を聞こうともしなかった。その事を初めて後悔した。
同じ世界から来た男は、あたしの事をどんな風に思っていたのか。
そんな事をぼんやり思っていると、アルジフリーフはゆっくりと歩み寄り、じっ……とお姉ちゃんを見つめた。物言いた気な視線に、お姉ちゃんの眉間に皺が寄る。
「何よ」
「……そろそろ離れぬか。先程から私はとても気分が悪い」
「嫌よ。妹にまで嫉妬しないで」
気持ち悪いわね、と付け足したお姉ちゃんに、アルジフリーフは目を見開き、固まった。ぱしぱし、と長い睫毛が忙しなく動く。
「……っそんな事だからお前は独り立ち出来ぬのだ」
威厳のある神様の口から出たとは思えない程、子供染みた負け惜しみに聞こえるのは何故か。
だけど、アルジフリーフが何か言う度に、鈴が鳴る様に胸が温かくなる事に気付いた。
そこから伝わって来るのは、呆れと信頼、どこか覚えるのある甘やかな恋情。
ああ、これがお姉ちゃんの一部なのだろう。
先程感じた怒りが、すうっと引いて、代わりに面映ゆい感情がそこに居座った。
……これは確かにあたしの『もの』じゃない。
「お姉ちゃん幸せ?」
友人より近い距離で、ガミガミと神様にお説教するお姉ちゃんに尋ねる。
もう痛くない?
もう苦しくない?
お姉ちゃんは一瞬びっくりした様に目を見開いて、動きを止めると、困った様に眉尻を下げ柔らかく微笑んだ。
「ええ幸せよ。私の事が大好きな旦那様もいるし。それに私ね、この世界なら赤ちゃんが産めるの」
「……赤ちゃん?」
お姉ちゃんの口から出た意外な言葉に、あたしは目を瞬いた。
骨髄移植の為の前処置で、大量の抗がん剤投与と放射線照射を繰り返しているせいで、元気になったとしても子供が出来る可能性は極めて低い。
子供が大好きなお姉ちゃんが、その事を悲しんでいるのは、分かっていた。
――そうか、子供を産むのか。
「うん、奈菜によく似た女の子が欲しいわ」
「……お姉ちゃんに、似た子がいいよ」
少しだけ止まっていた涙が、また溢れ出してくる。胸に赤ちゃんを抱いたお姉ちゃんの姿を思い浮かべたら、ボロボロと涙が溢れた。
うん、幸せだね。あたしも見たい。
「あたしにも抱っこさせてね」
しゃくりあげながらそう言うと、お姉ちゃんは私の髪を梳いていた手を止めた。あたしの顔を覗き込んで少し困った様に笑った。
「それは無理だと思うわ。奈菜はまだ生きているもの」
「嘘。だってあたし、崖から飛び降りたんだよ」
あの高さで生きていられる訳が無い。薬のせいか途中で意識は失ったけど、身体全部で風を切る様に落ちた事は覚えている。
「キイチに頼んで助けて貰ったの。入り口であるあそこを通ると魂はここに、身体は谷の底に落ちるから歴代の神子は結果的に……転落死してる。だけど今回はキイチがちゃんとナナカの身体を回収してくれているの。身体が無事ならこれ以上奥にさえ行かなければ戻る事が出来る。ここはまだ『入り口』だから」
――え……?
「じゃあ……あたし、は、死んでないの……?」
戦慄く唇でそう尋ねる。
そうよ、と静かに頷いたお姉ちゃんに、あたしは思いきり首を振った。
「嫌だ! 離れたくない!」
握り合った手に力を込めて、またしがみつく。
お姉ちゃんはそんな私の背中を撫でながら、あやすように呟いた。
「ねぇ奈菜、あなたこの世界に大事な人たくさん出来たでしょう」
その言葉に思い浮かんだ影が四つ。
「っいない、そんなの……っ」
首を振って打ち消そうとするけれど、最後の――崖を飛び降りた瞬間に見たあの表情が消えない。
「うそ。私の中にあった菜奈の欠片はずっと罪悪感と後悔を抱えてた」
ふわ、と身体が浮いて、お姉ちゃんの手が離れた。周囲も、お姉ちゃんも靄がかった様に薄くなる。
え、と戸惑っていると、アルジフリーフが静かに告げた。
「――時間だ」
「いやだっ」
「これ以上、魂が離れると戻れなくなる」
神様がお姉ちゃんに寄り添う。支える様にしっかりと腰に回し何か呟くと、あたしとお姉ちゃんの胸から何か小さな光が飛び出した。
さまよっていた光は、やがて行き先を決めた様に交差してそれぞれあたしとお姉ちゃんの胸に飛び込んだ。胸が熱くなって、それに耐える様にぎゅっと自分の身体を抱き込む。同じように崩れそうなお姉ちゃんの身体を神様はしっかりと支えていた。
光の壁が二人の間に立ちはだかる。
いつかの夢の様に空の色が、かくん、と音を立ててひっくり返った。
慌てて視線を戻したお姉ちゃんの顔は、涙に塗れてぐしゃぐしゃに歪んでいた。
子供みたいに嗚咽を上げて泣くお姉ちゃんなんて、多分生まれて初めて見た。驚きにその顔を凝視する。涙が一瞬止まって目の前にいるのは誰だったのか一瞬分からなくなる。
だけど。
「奈菜、奈菜香」
必死に伸ばされた手。
二人の指先は確実に離れていく。
「……お姉ちゃん! いや!」
止めて。どこにも行かないで。
嫌なの。あそこに戻りたくないの。
怖い。だってあそこには、あたしが傷付けたあの人達がいる。
何か言いたそうに一瞬だけ、空いた間。けれどお姉ちゃんは流れる涙もそのままに無理矢理笑顔を作った。
「大丈夫、自信を持って。だって奈菜は私の自慢の妹なんだから。どんなに私の真似をしたって奈菜香は奈菜香よ」
「お姉ちゃん!」
「奈菜香、大好き。だから」
嫌、そばにいたい。
ここにいたい。一緒にいたい。
一人にしないで、そばにいて。
それを最後に、目の前でぱちん、と白い何かが弾けて意識が黒く落ちた。
――幸せになって。




