27.たねあかし
赤い月の光も届かない、どことはつかぬ夜の闇と世界の狭間で、賢者は迷っていた。
その長い外套で覆い隠す様に胸に抱いているのは、華奢な身体。いつかより随分軽くなっている事に気付いて、賢者は眉を顰めた。
だらりと落ちた腕に力はなく、胸の鼓動はとうに失われ、紛う事なき命を失った空っぽの身体である。
彼女の魂は既にこの世界の神――アルジムリーフの元に送られており、人の世界で言えばナナカが崖から飛び降りてから数時間が経過していた。
「……さて、どーっすかねぇ」
溜息をついて、精巧な人形の様なナナカの顔を見下ろし溜息をつく。
今からやろうとしている事は、明らかに『余計なお世話』であり、干渉を良しとしない自分の信念から酷く道を外した行動である。
「俺こんな柄じゃねぇんだけどなぁ」
片手でナナカを抱え直し、後ろ頭を掻くと、賢者は闇の薄い場所に無造作に手を突っ込み、引き寄せる様に何かを広げた。
するとゆらりと水面に波紋が広がる様に空気が揺れ、そこに映ったのは神殿の貴賓室だった。
豪奢な一室であるにも関わらず、酷く荒れており、その中心で身を投げ出し何もない壁を睨み付ける王子の目は赤く手負いの獣の様な剣呑な光を帯びていた。
「おー若い若い」
憤りを物にぶつけずにはいられない愚かさは幼さ故か。
あれからすぐに城へと戻った王とは逆に、王子と王女はこの場所から離れる事を拒否し神官長と共に残った。
ナナカの護衛であった騎士は、あの直後羽交い締めにしていた騎士を振り飛ばし、崖から飛ぼうとしたぎりぎりの所で、親衛隊長であるネストリに押さえ込まれた。強制的に意識を落とされ、今は落ち着くまでと神殿の地下牢に繋がれている。
神子の尊い犠牲によって救われた幸せな童話の世界の住人達。
勇敢な王子様は自ら荒らした部屋の真ん中で身を投げ出し、
愛らしいお姫様は未だに尽きない涙を落として膝を抱え、
頼もしい騎士はがんじからめに拘束された牢の中、
敬虔な神職者は微動だにせず己が信じた神の像の前で祈るでもなく、ただ立ち尽くしていた。
心は後悔と罪悪感、失望と喪失感に占められて、えぐり取られた我が身の肉にも等しい存在を切望して、血を流している。
「なぁナナカ満足か?」
お前はこんなモノが本当に見たかったのか。
賢者は胸の中の少女に視線を戻し、額に落ちた髪を後ろに撫でつけ、届く筈も無い問いを投げる。けれどその答えは聞かなくとも分かる気がした。
彼女はきっと満足だと綺麗に微笑んで心の中で泣くのだろう。本来人を傷付ける事に喜びを見出すタイプの人間では無い。真面目で優しく愚かで幼い一途なナナカ。
「しゃーねぇなぁ……」
なんだかんだと最期まで頑固な――同郷の少女に、自分は少なからず親愛を抱いたのであろう。後処理とお節介を引き受けてやろうと思う程に。
ふと指先に髪に挿した花が触れる。既に萎れて花弁が僅かに残るのみで、哀れな姿を見せていた。髪を引っぱらない様に丁寧に引き抜いて後ろに放り投げると、寂しくなった髪を撫でて、ああ、と何か思いついた様に頷いた。
「あそこにするか。イイ子で待ってろよ。ナナカ」
そう呟いた賢者は屈み込み、そっとナナカを地面に下ろすと先程と同じ様に何もない空間に波紋が広がった。
底の無い沼の様に、少しずつ静かにナナカの身体が沈んでいく。
やがて髪の一筋まで全て消えるまで見届けた後、賢者は静かに立ち上がった。
「ぼちぼち行きますか、っと」
場所は神殿。アルジムリーフの像がある祈りの間、空間を切って賢者はいつものように瞬き一つで移動した。
背後の壁から音もなく『現れた』にも関わらず、足が床に着いたのと同時に、神官長は長い銀糸の髪を翻した。驚いた様に目を見張った神官長に、賢者はゆっくりと唇の端を釣り上げた。
「よぉ」
「……あなたは」
呟いた神官長は、その新緑色の瞳に真っ黒な賢者の姿を映した。
「お前には見えんだろ。神力っつうの」
『姉』の達ての願いで、一応神の末席を頂く身である。胡散臭さを差し引く事が出来る位のものは、身の内から溢れている筈だ。――そしてこれが神殿に入ったナナカを訪ねられなかった大きな理由。聡い人間には察せられる神力。王城位人が多い場所ならともかく、ナナカの私室が置かれた神殿の最深部の様に人の出入りがないような静かな場所だと、神官長に感じ取られる可能性があった。
「今は『賢者』って名乗ってるがな。――千年前の、『神子』の弟って言った方が分かりやすいか? 確か神殿に残ってるだろ、その時の記録」
神官長は軽く顎を引き、膨大な記憶をさらう様に、唇に指を置いた。
「……確かに、異世界より召喚した時に巻き込まれた、と記録にあります」
「で、神子と一緒に殉死したとか書いてんだろうよ。まぁ、自分でも生きてんのか死んでんのか分かんねぇけどな」
「……そのような方が、今更」
「あいつみたいにお前らに復讐しようなんざ思ってねぇよ」
今更、の言葉に少し意地の悪い気分になって嘯けば、そこで初めて、神官長の表情が動いた。痛みをこらえる様に眉間に皺を寄せ、ゆっくりと瞼を伏せる。長い睫が深い影を作った。
「あの方は、そちらにいきましたか」
「……お前はあいつを憎んでないのか?」
意外な質問に、賢者は答えず器用に片眉だけを上げて問い返した。
そんな賢者に神官長はゆるりと自嘲気味に笑って、首を振る。
「私にはそのような資格はありません」
「随分心が広い事で結構。さすが心優しき神官長だな」
くくっと笑って最後は一人ごちると、神官長はゆっくりと唇を開いた。
「……全く関係のない世界の犠牲になるのを普通は受け入れられる筈がないのです。ましてや私は召喚当初どれだけ彼女が帰還を望んでいたのかこの目で見ていたのに、ただ受け入れて下さったのだと安易に納得してしまった」
胸の前で握り締められた拳は、顔同様に白い。
「ま、今更だよな。……なぁここ今から借りていいか」
振っておいて何だが辛気くさいのは性に合わない。
空気を重くさせた責任を取って、敢えて軽い口調で尋ねる。
何をなさるおつもりですか、と、問いかけてきた神官長に、賢者はナナカに散々胡散臭いと言われた笑顔を浮かべた。
「ただの種明かしだよ」
パチンと軽く指を鳴らすと、しゅ、っと微かに空気を切る音がした。
次の瞬間には王子とサダリ、お姫様が、不自然な体勢のまま忽然と現れた。
もう一つ指が鳴るとサダリの身体を拘束していた鎖が切れる。瞬時に王子とお姫様を背に構える辺りさすが腐っても騎士らしい。
「ここは、……」
「よぉ。初めまして、か?」
ふざけた様にも見える賢者の態度に、一番早く口を開いたのは、王子だった。まだ半日だと言うのに憔悴し血走った目が賢者を睨みつける。
「誰だ、貴様は」
「お前らが言う神様の関係者、だ」
血気盛んな問いに、にやりと笑ってそう自己紹介すると、王子は大きく目を見開いた。
「ッイチカを返せ……っっ!」
吠える様に怒鳴った王子に、瞳に大粒の涙を浮かべたまま戸惑っていたお姫様も、賢者を食い入る様に見つめる。四人の視線を一身に受けながらも、賢者は飄々とした態度を崩さなかった。
「お子様は熱いねぇ」
「賢者様。ふざけるのはもうお止め下さい。種明かしをして下さるのでしょう」
神官長がそう言って静かな眼差しを向けると、賢者はひょいと肩を竦めてようやく本題に入った。
「……種明かし?」
「お前らの言う所の『イチカ』の事情を教えてやろうと思ってな。あいつは自分の言いたい事だけ言っていっちまったが、その意味を知りたいだろう?」
賢者の言葉に四人の表情が歪む。
恐らくは聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちと半々と言った所だろう。
『イチカ』が、本来の自分を消してまで、彼らに復讐をしたのは事実。
その理由などと彼らにしてみれば罪悪感を煽るものにしかならず、心を軽くさせるようなものでは無い。
現に一番表情の出やすい王子は拳を握り締めて賢者を睨んだ。
「今更そんな事を聞かせてどうする。私達が『イチカ』に疎まれ憎まれていた事は事実だろうが」
自嘲気味に笑みを浮かべてそう吐き出した王子に、お姫様の肩も小刻みに揺れた。
「憎まれて、ねぇ……まぁそんな単純な言葉だけで済むならアイツも気が楽だったろうに」
「賢者!」
賢者の言葉を遮ったのは、抵抗し殴られ腫れた口元が痛々しい騎士だった。
「なんだよ騎士」
「……俺は、知りたい」
は、と吐き出した息に血が混じった。
ゆるりと落ちた視線、そのまま片膝をついた騎士は賢者に向かって礼を取る。
「教えて頂きたい」
「っ私も知りたいです!」
倣う様に続いたお姫様は立ち上がり、賢者を見つめる。
賢者は先程とは違う、酷く満足気な笑みを浮かべると、王子に視線を流した。
「聞かねぇなら元の場所に送ってやんよ王子」
「……聞かないとは言っていない」
王子は憮然と吐き捨てると、賢者は笑みを深めた。
「そうかよ。じゃあ黙って聞いてろクソガキ」
「何だと!」
「王子!」
今は堪えて下さい、と諫める神官長に王子は、賢者を睨みながらも唇をきつく引き結んだ。
「――なぁ騎士。あいつが召喚された時の事覚えてるか。あいつは死に物狂いで何度も元の世界に帰してくれって訴えてただろう」
「……ええ」
王子とお姫様の瞳が戸惑いに揺れる。その場にいなかった二人には初耳なのだろう。綺麗で優しく穏やかなイチカの印象しかないはずだ。
「まぁアイツが言った通り、あの時あの瞬間、召喚された事であいつの姉は結果的に死んだ」
「……どういう状態だったんだ」
その意味を掴み兼ねた騎士がそう尋ねる。確かにそんな特殊な事情があまりあるとは思えない。
「あーこの世界じゃ説明は難しいんだよなぁ。まぁお前らがアイツが握ってた姉の命綱を無理矢理切った様な状態っつうか」
「では……あの時」
ぽつりと呟く。
薬をかがされても、無理矢理落とされても、必死で懇願していた彼女。
闇の狭間から見ていた自分も目を覆いたくなる程の、痛ましさだった。
「命綱の端を握っていたあいつが途中で消えたせいで、手術は行われる事なく結局あいつの姉ちゃんは、死んじまった」
しん、と静まり返った部屋。賢者以外誰も口を開こうとはしなかった。
「だからあいつはお前らに復讐する事を決めたんだ。自分にとっての姉と同じ存在になって、自分が死ぬ時にお前達が自分と同じ様に苦しめばいいと。そうして一年かけてお前達の大事な存在になるべく、日々を過ごした」
「……何故そのような」
誰が聞いても愚かで回りくどい復讐。刃物を持ち襲いかかる方が、まだ素直に納得出来るかもしれない。
「それこそ、その場で死にかねない勢いだったしな。俺がそうそそのかした。
召喚した術者、大事な姉を一言で切り捨てたこの国の王子、何も知らないお姫様、召喚陣に戻ろうとしたのを止めた騎士。まぁ順当だろうよ」
恨まれるのも、な?
「けど、だんだん耐えられなくなって来たんだろうなァ、アイツは、姉ちゃんみたいに人好きのするタイプじゃねぇし、どっちかって言うと部屋で一人で本読んでるのが好きな大人しい奴なんだ。至って平凡な、な。お前らを傷付ける罪の意識にこの一年苦しみ続けた。でも復讐をやり遂げなければ姉の無念は晴らされない」
「もしかしてその名前が」
「そう、お前らが言う所の『イチカ』で――」
もったいぶる様に間を置いて四人の顔を見る。
聞かないと言っていた王子も結局こちらを見ていて、ナナカに肩入れしすぎたな、と思いながらも意地の悪い気分で、薄く口を開いた。
「本物の神子だ」
実は巻き込まれ系トリップ




