26.落ちた杯
「――ねぇ、王子」
囁くように呟いた声は、彼の耳に届いたらしい。王子は怒り出す一歩手前の様な表情をして私に視線を向けた。
「イチカ様! 馬鹿な事はお止め下さい!」
サダリさんの言葉にふっと笑みが溢れた。その馬鹿な事を強いているのは、この世界の人間なのに、その一員であるあなたがそれを言うの。
「サダリさん、私本当は『イチカ』じゃないんだよ。誰からも愛される優しい『イチカ』はね、もういないんだよ」
雨だと言うのに遠く鳥が鳴く声がする。サダリさんは押さえつけられた地面に近い場所で、眉間に皺を寄せた。乾いた唇が、何を、と疑問の言葉をかたどる。
「イチカはね、死んだの。あたしが召喚されたあの日に」
吹き上げていた風が、タイミングを図った様に止み、さほど大きくも無い声でも、よく響いた。
「……一体何なんだイチカ! お前までどうしてしまったんだ!?」
「『気狂い』ってまた蔑むの? 王子」
怒鳴った王子の言葉尻を拾う様に遮りそう呟くと、王子は凍りついた様に固まり、誰かに酷く殴られた様な顔をした。
掠れた吐息を零して見る見る内に蒼白になった唇が戦慄く。……よく覚えていないから、と私自ら謝罪を遮ったのはもう一年も前だ。まさかこんな所で蒸し返されるなんて夢にも思わなかったのだろう。でもね、王子。残酷に放った言葉は向けた相手の中で歪んで返ってくるんだよ。
「王子、私の事好きって言ってくれたよね?」
恐らく彼が安堵感を親しみを共感を覚えたであろう優しい微笑みを浮かべて首を傾げる。
「何故今、そんな事を……」
「ねぇ、優しくて自分の気持ち分かってくれる『イチカ』の事好きだった?」
呆然としたまま王子は私の問いには答えない。いい、それで。返事なんて欲しくない。
「でもあんたは、その大事な人を『大事の前の小事』だって切り捨てたんだよ」
だらり、と落ちた腕に視線を流して私は四人を見渡す。
王子とお姫様は酷く真っ青で、神官長はただ呆然と私を見ていた。サダリさんは一人厳しい視線を向けていて、怒ってるのかな、と苦笑が漏れた。
汗で濡れた身体が冷えて、身体も口まで重くなってくる。
じくじくと膿んだように痛む胸を押さえて、足に力を入れて堪える。これで最後だから。もう終わる、終わりたい。
「……ねぇ悲しい? 私達仲良しだったよね? 親友みたいに、恋人みたいに、肉親みたいに。でも私は死ぬ。ううん、もう『イチカ』は死んでる。あんた達を助ける為に、全く関係ないあんた達が生きる世界の為に」
視線を流して手の中の白い器を煽る。喉が焼ける様な熱を感じて、そっとまぶたを閉じた。
本当はもっと言いたい事があった。でもいい。もういいや。十分。
『愛しています』
『好きだ』
『大好きです!』
『あなたの――お心のままに』
手から滑り落ちた空っぽの杯が固い石の上に落ちて、足元で粉々に砕ける。
避けるように後ろに足を引けば、もう後はない。
不思議だね。やっぱり死ぬの、怖くないんだ。
だって恐怖より何より胸が、痛くて、壊れそうで。早くここから逃げだしたいその一心で、
崖に一歩踏み出した。
「……イチカ」
「イチカ……っ!」
「イチカ様!!」
「――っ!」
――ねぇ、生まれ変わる事が出来たなら、きっといい友達になれたと思うんだ。
その時は返せなかった言葉をちゃんと、言うよ。




