24.熱の籠もった唇
儀式当日、その日は朝から慌ただしかった。
夜明けと同時に軽く身支度を整え馬車に乗せられ、二時間程掛けて儀式の台座があるという神々の谷にある神殿に向かう。通り抜けてきた城下街はまだ早い時間だと言うのに活気に溢れ、人の姿も多かった。
きっと後一時間もすれば大通りに出店が連なり、人が溢れ一層賑やかになるのだろう。
馬車の窓には分厚いカーテンが引かれ、揺れる隙間から伺った街の姿。それを捲って外を伺おうとすれば、目の前に座る迎えに来た神官に嗜められた。
今乗っている馬車に王家の紋はなく神殿から用意されたもので、神官が街に降りる時に使っていた小回りの利く小さなものだ。身の安全の為に神子様が乗っている事は伏せます、と説明された言葉を右から左に流し頷いたのは、昨日の朝だったか。
すぐ近くで聞こえる蹄の音はきっとサダリさん。乗り込む時差し出された手は、手袋越しだと言うのにひやりと冷たく、最後に顔を合わせた時間から考えてもきっと眠っていないのだろう。
護衛も大変だよね……。
規則正しく聞こえる馬の蹄の音を聞きながらそう思う。
サダリさんとはあれから寝込んでしまったせいもあり私自身が避けていた事もあってあの告白以来、二人で話す機会もなかった。
けれど熱が下がった日に、もう大丈夫だと報告すれば、私の身体全体を伺う様に視線を動かして「心配しました」と、一言だけ噛み締める様に呟いたその仕草が妙に胸に染み息が詰まった。
外套の上から渡された毛布を抱いてまぶたを閉じる。
儀式の日が来たらやっぱり怖くなるかと思っていたけど、それ以前に実感が湧かない。ただ身体だけがひどく重くて、早く終わればいいと思った。
だるい、なぁ……。
二日前にようやく下がった熱のせいで、まだ本調子では無かったが、幸いな事に街を抜ければ悪路だったにも関わらず、うとうとしていたおかげで車酔いはせずに済んだ。
以前身を寄せていた神殿とは違いこじんまりとした白い建物は、森の奥にひっそりと建ち、私はぼんやりしたまま小さな個室へと案内された。待ち構えていた初めて見た女性の神官さんに座る様に促され、三十分程身を任せる。
「終わりました」
そう言われたのと同時に差し出された手鏡を覗き込むと、そこにはひどく顔の白い女がいた。それなのに唇と目尻が毒々しい程赤く滑稽にすら思えた姿は、こちらの世界では『美しい』と称されるらしい。
普段の化粧とは勝手が違うらしく、今日は補助に徹していたサリーさんは化粧道具を丁寧に直していくその手を止めて、「お綺麗ですわ」と感心したように吐息を吐き出した。
身に付けているのは、まっ白な神官服……と言うよりはドレスに近い。胸元は大きく空いて薄いレースが腕に掛かっていた。お腹の真ん中をきつく絞ったベルトも細かなレースで後ろで結んでいる。頭は複雑に編み込まれ耳の横には真っ白な百合。ベールの様な薄い布は足元まであるが捌きやすいよう軽いがそれが幾重にも重なっている、スカートの裾には何本も切れ込みが入っていた。バレエ、いや踊り子の衣装に近いかもしれない。遠目からなら幾分裾が短いウエディングドレスに見えるだろうか。
少し冷えますね、とサリーさんが窓に近付き、化粧品の匂いを逃がす為に開けていた窓を締め、ふと顔を上げて眉間に皺を寄せた。
「雨が降りそうですわね」
視線を追い掛ければ窓の向こうに広がる空には重い雲が掛かっている。確かに朝だというのに部屋は暗く、明かりが入れられていた。
「雨でも儀式は続けられるのですよね……終わるまでもてばいいのですが」
頬に手を当て溜息まじりに呟いたサリーさんにそうですね、と頷く。そもそも雨くらいで中止になられても困る。
――だってようやく、終われるのだから。
「どちらにせよ今日は少し冷えますから湯殿の準備はしておきますね。外套と、……毛布ももう一枚持っていこうかしら」
最後は悩む様に口の中で一人ごちたサリーさんは、また空を見て溜息をつく。その横顔に、無駄になると思いますよ、と声を掛けてみたくなった。
この優しい人は私が戻らなければきっと心配するだろう。彼女に対して神官長は一体どんな説明をするのだろうか。何にせよ悲しむ事がなければいい。
「……」
首を振って考える事をやめる。これ以上はきっと私の枷になって、決意を揺るがせる。だけど。
「――んなさい」
「え? 何か仰いましたか?」
「……ううん、なんでもないです」
髪に挿した花を気にする振りをしながら視線を逸らして、私はゆっくりと首を振った。
身支度を整えた所で、城で王と共に祭りの開幕の宣言をする為に遅れて向かうと聞いていたと王子とお姫様が到着したとの知らせが入った。
迎えは行かなくてもいいと言うのでソファに移動しサリーさんが淹れてくれたお茶を飲み一息ついていると、知らせがあってから十分も経たない内にお姫様と王子が訪ねて来た。
どちらも公式用らしき煌びやかな正装で、きっちりと結い上げた髪がいつもより彼女を大人っぽく見せており、王子も華やかさこそないものの気品に満ちていた。
「まぁ、とってもお似合いです……!」
長い裾を綺麗に捌いて私に近付くアマリ様は、両手で手を組み潤んだ目で私を見つめていた。
そこから視線を上げると、アマリ様の向こうにいた王子は、私の顔を見て驚いた様に目を瞬いていた。
「……見違えた」
思わず、と言った様にそんな呟きを漏らす。まぁ、と声を立てずに口元を押さえたサリーさんが微笑ましそうに王子を見た。
しかしそれも数秒。アマリ様が私の横を陣取る様に身体をずらすと、全身が見えたらしい。大きく空いた太ももに視線が釘付けになり、瞬時に顔が赤くなった。
「っなんだ! その衣装は……っ」
口元を押さえて呻くと、首がもげそうな勢いで視線を逸らした。
以前話した元の世界の服――それに比べれば少々胸元が開き、踊りやすいように太ももに切れ込みが入っているだけの可愛いものだ。
「仕方ないですよ。これが儀式の衣装なんですから」
露出狂でも見る様な視線は甚だ遺憾である。溜息をついて私の意志ではない事を伝えておくと、アマリ様は呆れた様に兄を見た。
そしてこれ見よがしに溜息をついて見せると、私と同じソファに腰を下ろしその柔らかな唇を扇で隠す。
「まぁお兄様ったら。芸術を分かっていませんねぇ。邪な目で見てらっしゃるんじゃないですか。……それにしても本当にお綺麗です。儀式は結婚式。神子は神の花嫁と呼ばれるのが分かりますわ。白の光沢がとても綺麗。神子様のクリームの様な肌によくお似合いですわ」
改めて誉められると、どこかむず痒い。
「……ありがとうございます。アマリ様も今日の衣装いつにも増してお似合いですね。春の妖精みたいです」
嘘では無い。空を移した湖の様な柔らかな水色のドレスに、結い上げた髪に挿した薄桃色の花の飾りはふんわりとしたアマリ様の雰囲気によく似合っていた。
「本当ですか。神子様に誉めて頂けて嬉しいですわ……あら?」
コンコン、とノックが響いて返事をすると神官長が入ってきた。彼もまた正装で白い神官服の裾や袖の縁には金糸で刺繍が入っている。たすきの様な布も同様に細かな文字が縫われていて銀の髪と合わされば神々しい程だった。
神官長はこの神殿に前日入りしており、私が来た時も早朝にも限らず出迎えてくれていた。
「ああ、殿下方もこちらに来ていらっしゃいましたか。儀式の最終確認をさせて頂こうかと思ったのですが」
部屋に入るなり二人の姿を見とめた神官長は口元に手を当て苦笑する。それをからかわれたと思ったのか、バツが悪そうに神官長から視線を逸らした王子は座っているアマリ様に視線を流した。
「……では私達は邪魔にならない様に部屋に戻ろう。アマリ行くぞ」
「仕方ありませんわね」
もう少し話したかったらしいアマリ様が不満そうにむっと眉を寄せつつも素直に立ち上がり兄王子の後ろに続く。
「では儀式の時に。楽しみにしておりますわ」
ご機嫌よう、と淑女の挨拶をしたアマリ様に同じように礼を返して立ち上がる。
お姫様らしく芸事に興味があるらしい彼女は、この余興をとても楽しみにしていると言って、練習時間を狙いよく押し掛けて来た。
頑張ります、と頷くとお姫様は満足そうな笑みを作って扉の向こうに消えた。
足音が遠ざかると、サリーさんが冷めたお茶を淹れ直してくれた。
それが済むと、神官長はサリーさんに神官への簡単な伝言を頼む。
恐らく人避けしたかったのであろう神官長は、誰もいなくなった部屋で緊張した面持ちで静かに口を開いた。
「神の台座はご覧になりましたか?」
問われた問いに頷く。窓からも見える円く置かれた演舞場の様な台座。寄り添うような神殿の真逆は切り立った崖である。下は恐らく川だろうか吹き上げる風と共に激しい水音が窓越しだというのに聞こえていた。
「舞が終われば、神の国の途が開かれます」
紅茶には手をつけず、神官長は私を見つめて静かに続けた。一呼吸置いて、一度口を閉じる。神長の顔が苦し気に歪んだ。
「あなたは祝酒を飲み――」
「神官長」
絞り出す様に続けられた言葉を遮る。どうすればいいかなんて、あの舞台を見れば一目で分かる。切り刻まれないだけマシだと思うべきか。
ふと、本当に神の国の途とやらが開いて神様とまみえる事にでもなったらどうしようかと考えてみた。おもいきり罵って張りぼての神様だと馬鹿にしてみせれば、この世界は終わるのだろうか。
けれど、ここからが本番。
濡れた唇の紅の苦さを我慢してゆっくりと口を開く。
「――お願いがあるんです」
「お願いですか?」
新官長の表情が微かに強張る。その表情に苦笑いして首を振った。こんな土壇場で逃がして、なん言うつもりはない。
「舞が終わった後、サダリさんと王子とアマリ様、それからあなたとも少し話をしたいんです。その場で少しだけ時間を取って頂けますか」
神官長は薄く目を眇めて少し考える様に間を置き、ゆっくりと口を開いた。
「祝杯を渡すのは私ですから。……サダリも恐らくは大丈夫でしょう、しかし殿下方は陛下のお許しを頂けないと」
ああ、そうか。生贄の神子の最期など、可愛い子供に見せたくないと普通の親なら思うかもしれない。
「神子としての最後のお願いだと言っても駄目ですか。……お別れを言いたいだけなんです」
哀れに思える程、声を震わせて真っ直ぐ神官長を見つめる。
何も言わない神官長に焦れて、また言葉を重ねて『お願い』する。
もしかして、王は元々王子達をその場――『その時』に立ち会わせるつもりはなかったのだろうか。そう尋ねると、神官長はゆっくりと首を振った。
「直系王族は、これらの儀式を最後まで見届ける義務があります」
「――ではお願いします」
無言のままの神官長に深く頭を下げる。
長いような、短い様な間が空いて。
「分かりました。あなたのお心のままに」
神官長は静かにそう言うと、胸に手を当てソファから降りるとその場で跪いた。
神に対する礼の形に、私はただ静かにその背中に流れる銀の髪を見下ろしていた。
* * *
儀式の一時間前。
控え室に向かうべく廊下を渡る。近くの村の賑やかな音楽と喧騒が微かに耳に届いてその軽快な音楽に自然と笑みが零れた。
個室に入り、神官が去った後は私とサダリさん二人きりになる。窓の向こう、木々の合間に見える台座を見つめてからくるりと背中を向けて、扉の真横に控えていたサダリさんに声を掛けてみた。
「サダリさん、似合いますか?」
両手を広げて、その場でくるりと一周してみせる。
裾が花びらの様にふわりと風を含み膨らんで萎む。サダリさんは一度瞬きをして、ええ、と短く頷いた。
さすがにサダリさんは王子と違って反応は薄い。もう少し私が肉感的な美女だったなら動揺させる事が出来ただろうか、と一瞬考えたもののきっと態度は変わらないだろうな、と思う。
一番はっきりと私への想いを口にしたのに、一番態度に出ないのも彼である。
ここまで揺らがないとやはりあの告白には、何か他の意図があったのではないかと勘ぐってしまう。
「……サダリさん、今まで有り難うございました」
そう言って改めて頭を下げた私に、サダリさんは微かに目を眇めた。
「儀式が終われば、神殿に身を寄せるのですか」
「そういう訳じゃないけれど」
曖昧な言葉にも動かない表情。
結局、私は最後までこの人の感情を大きく揺らがせる事は出来なかった。
ゆっくりと近づき、その正面に立つ。
ぐいっと胸元を掴むのに、びくともしない身体に焦れる。
「屈んで」と不遜に言い放つと、少し不思議そうな顔をして屈んでくれた。その隙を逃さず、その唇に自分と同じもの押し当てた。
カサついた少し厚い唇。
すぐに離して息が掛かる程至近距離で、微笑んで見せる。
驚いたように目を見張ったサダリさんは、その体勢のまま呻くように「何を」と呟いた。
「一度してみたかったんです」
そう言って笑みを深めると、ぐい、っと大きな手が後ろから私の後頭部を掴んだ。
「――イチカ様」
腰に手が回り引き寄せられる。
ああそういえば彼が『イチカ』と名前を読んだのは初めてだった気がする。
「あなたは男を甘く見ている」
噛み付くように合わせられた唇。
私が仕掛けたものとは全く違う、性急に唇を割り進入した舌が器用に動いて、上顎の辺りをねっとりと舐め上げられる。そのまま、歯の裏や舌の根元まで扱く様に舐められて、ぞくぞくっと腰から背中にかけて甘い痺れが駆け上がって。まるで身体の細胞全てが侵食される様なキスだった。
『男はみんな狼だからな? 遊び半分でからかったらガブッといかれちまうぜ?』
賢者の助言が蘇って、そっとサダリさんの顔を盗み見る。
乱した吐息に怒った様な苦し気な表情。胸に充足感と後ろめたい何かが広がってその熱に逃げるように目を閉じると、次の瞬間には、ぐいっと身体を離された。
しばらく睨み合う様に見つめ合い、先に逸らしたのはサダリさんの方。
「……申し訳ありませんでした」
奇妙な間があって囁く様にそう呟き身体を引く。
賢者、忠告してくれたのにごめんね。
でも私は満足なの。
だってようやく感情を露にしたサダリさんの表情を、最後に見る事が出来たから。




