23.子守唄
それから私は最後の舞の確認の為と称して、お姫様との勉強もお茶会も断り部屋に籠もりがちになった。
そして深夜、サリーさんが部屋に戻ってしばらくしてから一人こっそりとテラスから部屋を抜け出して、夜の庭園に向かう。
サリーさんの代わりに控えてくれている侍女さんには気付かれなかったけど、サダリさんがついて来てくれているのは分かっている。今日で三回目になるだろうか、だけど以前の様に咎める訳でもなく、私が中庭を散策し部屋に戻るまで声を掛ける事なく、ただ影の様に着いて回ってくれているのだ。
でも、そろそろ何か言われるかな。
季節は花冷え。肩にショールを掛けていても足元が冷える。
後ろにいるであろうサダリさんには構わず指先に意識を集中させて、なるべく目立たないように糸の様に細く力を放出させ、遊歩道の右に並ぶ葉を撫でる様に触れて歩いていく。視線は前に置いたまま。そうすると十分程で中庭の一番奥に突き当たり、東屋らしき建物がある拓かれた場所に出る。いつもならそのまま折り返して行きとは反対側の植物に触れながら部屋に戻るのだが、今日は風も温かく過ごしやすい。
少し迷って東屋に入り、壁にもたれかかって外へと手を伸ばした。指先からきらきら金の粒子が零れ落ち、薄い葉先を揺らす。
しばらくそうしていると、繁みの向こうで微かに音がして大きな影が現れた。木枠に頭を預けたままでは、その表情は見えなかったけど珍しく歩幅が大きいように思える。あっという間に私がいる東屋の入り口まで近づいてきて、その勢いに少し驚いたものの、彼――サダリさんは中に入って来なかった。
「びっくりした」
そう言って外に投げ出していた手を膝の上に戻すと光の残滓が東屋の中を仄かに照らして、ようやくサダリさんの表情が見えた。
「……何をなさっているのですか」
視線は微かな光を纏う指先に注がれ、眉間の皺はかなり深く、夜中だと言う事を差し引いても声音はかなり低い。怒っているようにも思えた。
――力を使えば身体は疲弊し、眠る事が出来る。
けれど役に立てそうな場所には行く事は許されず、使える相手は王子にお姫様、時々サダリさん、と限られており、大きな疲労や怪我をしない彼ら相手ではあまり減る事もない。
「……力を使わなきゃ眠れないの」
だからこうして庭の草や花に力を注いで夜を過ごす。まだ三日だと言うのに、庭は季節を忘れ咲き乱る花で溢れ、一種異様な光景を見せている。
動かないサダリさんの表情に少し焦れて言葉を重ねてみる。
「また膝枕してくれる?」
小さく呟くとサダリさんはしばらくの間私を見つめた後、顎を引いた。失礼します、とその大きな身体を縮こませて入ってくると私の足元に跪く。東屋はそれほど広くないせいか、途端に窮屈になってしまった気がした。
「あなたは子供なのか大人なのか分かりません」
……どうやらここでは膝枕してくれないらしい。
やっぱり感情を見せない静かな口調で吐き出された言葉に、今は素直に同意した。
『イチカ』は大人。
『ナナカ』は子供。
「そうね」
皮肉にもそれは的を射ている。そしてつぎはぎだらけの『イチカ』も今になって繋いだ細い糸が切れかけている。
きっとお姉ちゃんはここまで他人を困らせたりしない。困らせたいと思う気持ちは、きっと。
小さく笑えばサダリさんはゆっくりと私を見上げた。
まるでお姫様にでもなったみたい。手を下ろし真っ直ぐに向き直るとサダリさんの瞳は、夜の闇に溶け込む様だった。緩やかな風が吹いて東屋に入ってきた花びらがひらひらと目の前で踊る。季節を忘れ咲いた花は色が濃く花弁も大きくて本来の自然な美しさを失い、派手なだけでどこか歪だ。まるで『イチカ』の様に。
花びらが膝に落ちかけたその刹那、サダリさんの手が肌に触れるか触れないかのぎりぎりの位置で花びらを掴んだ。
「――あなたを愛しています」
低く掠れた声。
夜の静寂に溶ける様な囁かな告白だった。少し驚いて、でも、ゆっくりと目を瞬く。しばらくして。
「……サダリさんはそういう事言わないと思ってました」
正直な気持ちを告げる。
「ええ。言うつもりはありませんでした。……聞かなかった事にして下さい。返答も必要ありません。しかし」
「なに?」
「いえ。……ただ覚えていて下さい。私がそばにいる事を」
膝の上に置いていた手を、サダリさんの大きな手が覆う。握り込まれて掴まれた手が痛い程に強い。まるで逃がさないとでもいう様に。
ああ、早く夜が明けて朝が来て。
「……眠れないのは、儀式に緊張されてるのですか」
「違う。多分、待ち遠しいの」
子供みたいにね、と続けて笑って見せる。きっと引きつっているだろうけど、もう今は取り繕う気力もない。
一旦目を閉じて気持ちを立て直し、立ち上がる。
「戻ります」と言えばサダリさんはやはり無言のまま影の様に後に続いた。
そして夜が空けてその日の晩に、私は熱を出した。
流行り病のそれではなく、心労からくる熱らしい。次の日の朝になっても熱は下がらず儀式まで城に詰めている神官長との打ち合わせは取り止めになった。
熱い身体を持て余して瞼を閉じていると、影が差して額に冷たい何かが触れた。華奢な指、記憶が交錯して、ふ、と頬が緩んだ。
――気持ちいい。
ごめん。また迷惑かけ――
はっとして安堵感に遠ざかっていこうとした意識を掴む。
「っお姉ちゃ……っ」
勢いよく起き上がって目眩を感じながらもまぶたを押し上げる。その先にいたのは。
「……サリー、さ」
「申し訳ありません。起こしてしまいましたね」
驚いた様に中途半端に手を浮かせたんだサリーさんに、俯く。それから小さく息を吐き出してゆっくりと顔を上げて首を振った。
「――すみません、寝ぼけてたみたいで」
はにかむような笑顔を作ってそう言うと、サリーさんは「こちらこそ」と表情を緩めてくれてほっとする。
……何をしてるんだろう、こんな所にお姉ちゃんがいるはずも無いのに。
今更、だ。もうここに来て一年がたとうとしてる。
「少し熱は下がったかもしれませんね……少しでもお腹に入れられた方が良いと思いまして」
そう言いながらベッドの脇にテーブルをセットしていく。最後に出されたのは湯気も熱そうな白いスープ皿だった。
何だか懐かしい匂いに覗き込んで、驚く。
「これ、どうかと思いまして……あの、私が作ったものでお口に合わないかもしれませんが」
お皿の中には、真っ白な、
「お粥……」
「ええ、神殿で神子様のお国の料理だと話して下さいましたでしょう」
確かに一度だけ出てきたお粥に、ハーブ類で味付けされたお粥を見て、私の国は何も入れず炊いて塩で食べるんですよ、と話した事があった。
……お米はどちらかと言うと平民が食べるもので、王城で出てきた事はこれまで無かった。きっとサリーさんがわざわざ街に下りて市場に赴き買ってきてくれたのだろう。 自ら作る事になったのは、位の高いらしい料理長が拒否したのかもしれない。
木匙で掬って、口に運ぶ。懐かしい味に咀嚼出来なくて息が詰まる。
動きを止めた私に、サリーさんが心配そうに覗き込む。
「お口に合いませんでしたか」
「いえ美味しいです。すごく。……ありがとう」
私の言葉にほっとした様に笑ったサリーさんは、お粥を冷ます為にまた別の器に移していく。
「殿下とアマリ様がお見舞いに来たいと仰っている様ですがお断り致しましょうか」
「ううん、大丈夫」
ここしばらく顔を見ていないから、余計に心配をかけたのだろう。
それからしばらくして、公務が思ったよりも早く終わったと言う王子がやってきたのは、まだお粥を食べ終えていない早い時間だった、サリーさんは先触れもないなんて、と少し怒っていたけれど私の食器を片付けるのとお茶の支度に部屋から出て行った。あれから寝込んでしまったので顔を見ていないけれど、おそらくサダリさんも扉の向こうにいるだろう。
神子とは言え妙齢の女性の寝室になど入った事が無いのか、視線が定まらず明らかに挙動不審である。熱でぼんやりとしながら、私は不意打ちで尋ねてみた。
「ねぇ王子、私の事好き?」
サダリさんの告白のせいだったかもしれない。王子の好意が私に向いている事なんて分かっていたのに何となく確認したくなった。
じっと見つめれば、寝台脇の椅子に腰掛けていた王子は真っ赤な顔で私を見つめ返してきた。目の縁まで赤い。
「な……っ」
狼狽する王子に言葉は重ねず敢えて首を傾げるだけに留める。むず痒い沈黙が落ち、ややあってから周囲を見渡して掠れた小さな声で呟いた。
「……す、き…だ……」
耳を澄ませても聞こえない。けれど唇が気持ちを、想い、をかたどった。けれど。
え? と、首を傾げて聞こえなかったふりをする。不自然では無い。それ程王子の声は小さかった。
「っそれは……儀式の後だっ」
私の言葉にほっとした様ながっかりした様な複雑な表情を浮かべた王子は、勢いを失ったのかそう怒鳴って視線を逸らす。けれどすぐに私が病人である事を思い出したらしくはっとして居心地悪そうに俯いた。
黙ったままお見舞いに貰った薔薇の花に触れる。棘は綺麗に抜かれ、未だ朝露を含んだ瑞々しい花弁が揺れていた。
「綺麗ですね」
柔らかな薄い黄色の薔薇のつぼみ。花言葉は嫉妬だったか。ここでは違うのだろうか。花とは別につぼみにもまた意味があった気がするが思い出せない。
そう声を掛ければ、王子も釣られた様に胸元の花に視線を落としたものの、それについての感想は口にする事なくそろりと上目がちに私を見た。
「……お前は……その、」
「神子様!」
王子の言葉を遮り、高く響いたのは侍女を連れたお姫様だった。いつの間にか寝室に入って来たのか、今日はいつも一緒にいる侍女の姿はない。彼女がいたならさすがに窘められただろう。
「私も神子様の事大好きです! いいえ、尊敬しておりますわ」
聞き耳でも立てていたのだろうか。一体どこから聞いていたのか。明らかに張り合うお姫様に王子はまた顔を赤くさせて怒鳴った。
「お前どこから聞いていたんだ……っ」
仲の良い兄妹喧嘩に発展しそうな雰囲気に苦笑する。
神官長が来る少し前から、この二人は仲が悪い。
最初は態度の悪い兄を心配してフォローを入れていたお姫様だったが、王子が色々な場所に私を誘う様になってからは、自分を差し置いて、と、こうして二人でいると邪魔に入るようになっていた。
最初は仲の良い兄に近付く私の存在を気に入らないのかと思ったが、その逆でそうではなく姉の様に慕っている友人を兄に盗られるのが面白くないらしい。
「ありがとう、アマリ様にそう言って頂けると嬉しいです」
笑顔でそう返して同じ言葉を返さない不自然さをごまかす。お姫様ははしゃいで王子様に勝ち誇る様に微笑み、王子が言い返し一層騒がしくなり、戻ってきたサリーさんはこめかみに青筋を浮かべ、そんな二人を臣下らしからぬ慇懃さで追い出した。
* * *
身体は酷く重いのに妙に目は冴えていた。
薄赤い夜の中寝台に横になったまま視線を流すと、いつの間に来ていたのかすぐ近くで闇よりも深い黒が瞬いた。
「大丈夫か」
――賢者。
あたし、おかしいの。
「何が」
いつもの様に寝台に腰掛けて、私の身体ごと沈む。熱があるからか賢者の声はいつもより遠く、低く穏やかに響く。
――早く朝が来て明日になってくれればいいのにって思う。
早く儀式の日が来れば、あたし死んじゃうのにね。
「そうか」
うん。
今日の賢者は病人相手に気を遣ったのか寡黙だった。相槌だけを打ち、汗の滲んだ額に手を当てる。
さっきのサリーさんと同じ動きだけど、マメでもありそうな固く大きな手の平はサリーさんよりも冷たかった。
「なぁ、何であの四人を選んだんだ」
気持ち良くて、うつらうつらとしていたら、不意に尋ねられた。
サダリさん、神官長、王子、お姫様。
閉じたまままのまぶたの裏に四人の顔を思い浮かべて声に出さずに笑う。
一番恨みがあったから、それに、
――優しかったから。
「優しい?」
続けた言葉は音にはならず吐息だけだったけど、賢者には聞こえたらしい。
――だから、あたしの浅はかな策に引っかかって、傷付けられるだろうって。
「悪い奴らじゃないんだろう?」
うん。
いっそ血も涙もない正しく悪人なら良かったと思うほど。
賢者が大きな溜息をつくのが気配で分かった。
「……今は何にも考えないで眠れ」
低く掠れたのは遠く昔に聞いた子守歌。
どうして知ってるの、と尋ねたかったけれどその穏やかで優しい声が抗い難い眠気を呼んでそのまま意識は深く沈んでいった。




